石見大田 西楽寺の歴史考

苦渋の軌跡を探訪 血と涙に彩られ 戦火の狭間に刻まれる

まず、当山 縁起歴史の一端を略述いたしてまいりましょう。

そもそも、当山は、四百十有余年前の群雄割拠の戦国乱世、1576年(天正4年)にまでさかのぼり、開基「釋教西」は俗名を「家次」といい、川本丸山城主(元石見国邑智郡三原村田窪)小笠原長旗公の第三男といわれております。

当時、石山本願寺と織田信長との十一年間の長きにわたる大坂石山本願寺法難合戦の際、わが丸山城へ、毛利陣営より執拗なまでに本願寺への加勢援軍の要請があり、「家次」は、本願寺法城を死守せんがため、後方支援として熾烈な戦闘に参戦いたしました。

いきおい、帰城の途についたものの本丸は、毛利輝元軍勢の非情なる調略戦のもと、既に落城の憂き目に遭遇し、城主一統は出雲方面に落ちのびたとの云い伝えあり。

しかして「家次」は、家臣団の安危を慮り、浮世転変の無常を抱き、再度上坂、本願寺第十一代顕如宗主にことの次第を上申した結果、ついには得度出家が認許され、法名を「釋教西」寺号を「西楽寺」と下賜されました。勇躍、帰途につき丸山城山麓川本田窪の地にて一族は、爾来耕農等に従事し、果敢にも一宇の堂舎を建立、お佛縁を拠りどころに居住いたしました。

その後百年を経て、因縁の催すところにより、時に元禄13年(1700年)大田の地に当山寺基を移転いたし、現在の本堂は、其の時より五十年をしての構築と寺伝にあり。

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尚、当時の世界史の動静は、中国は明王朝。大英帝国のアジア侵略が始まり、また、ポルトガル等の東アジア侵攻が宣教師を先兵に、展開される只中でもあり、まさしく激震奔る波乱に充ちた世情そのものでありました。

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【丁度時は寺基移転時期⇔聞いてミンサイや時に元禄14年(1701年)時は経巡りても今も日本人の魂をトコトン揺さぶる大江戸八百屋町元禄よもやま話イザご開帳!】

時は元禄15年(1702年)5代将軍は徳川綱吉の時代。

希代の悪法「生類憐みの令」に加えて、幕府はひっ迫した財政立て直しのために金銀を改鋳。インフレと物価高が庶民を直撃した。金銀は紀伊国屋や奈良屋など豪商に集中。側用人柳沢吉保ら高級役人はワイロで私腹を肥やした。市井には息苦しさとやりきれなさが、うっせきしていた。討ち取られた高家筆頭の吉良上野介は、かの勅旨接待の最高責任者で、紀伊徳川家とも親せきの名家。おごりたかぶった権威を向こうに回した浪士の義挙に庶民は留飲をさげた。そこには、刃傷事件の不公平な裁きに対する判官びいきに加え、ワイロ社会をぬくぬくと生きる高級役人へのやっかみも。「身より出るさびをおとさぬ上野と 名字のごとく キラレこそすれ」。市中に出た落書きに当時の江戸庶民の感情がよく現れている。

主君のあだを討つために家族を捨て窮乏に耐えた2年近く。日本人にとって最早とっくに死語になった「艱難辛苦」を年一回、心の中に取り出してみるのもいかが。

《忠臣蔵》300有余年幾星霜

時は来たれり丑三つ時 なへんより響き亘るや 山鹿流の陣太鼓

いざ主君のあだ討ちに 雪の中をサァ-クッサク サクッサクッサクッと

目指して向かうは本庄 松坂〝吉良屋敷〟!!

嗚呼!本懐を遂げばや桎梏の 耐えに耐えたる窮乏が二拾有余ケ月

淡然とイザや 静かに向こふは鎮魂の行列となりて

浅草泉岳寺へ 主君の墓前に吉良の打ち首をゾ!!

これぞ艱難辛苦の忠臣蔵

ホンに人生舞台の航路には表もあれば裏もあればこそすれ

さてしも華と散るらむ四十七士のモノノフ道是なーァり

ドォドンのドォーン

【世界史背景とは】

当時の世界史の動きは、大英帝国イギリスのアジア侵略-東インド会社設立への策動等が始まった時期であり、また、ポルトガル等の東方進出が宣教師を尖兵にして、動き出したまさに激震はしる波乱に充ちた世情のそのものでありました。

石見銀山史のひとこま

文字通りメイストーム

吹き荒れまくり

残念ながら!!イコモス

「登録延期」評価発表

欧州視点の評価っテかァ?

抑制狙い審査年々厳しい中

大逆転劇延期勧告はねのける

『輝きふたたび石見銀山 遺跡とその文化的景観』

祝 世界遺産に登録決定

日本では14件目アジアの 産業遺産では初の登録遺産

緊急事態発生 07年5/12付

現下、鳴り物入りでかまびすしく世界遺産登録問題(現在登録数644件)がまさしく取り沙汰の最中。過般06年10月に国際記念物遺跡会議(イコモス)の大名行列たる現地調査が終了したのを受けながら、ナンとも期待とは裏腹に、既に一部では無理だろうとの観測も流布されたのも事実。

今般5/12付石見銀山遺跡の登録可否の意見を記した評価報告は、矢張り三番目の「登録延期」という赤信号の燈った厳しい勧告で、学術審査ながら価値基準の大幅な見直しを迫る結果に、関係者一同驚きを隠さずガックリ コックリ。

追って6月23日から、ニュージーランドで開催れるユネスコ世界遺産委員会では21カ国の専門家が会同して、機関決定されるようですが、本案合格採択のハードルは大変高いとの見方数多あり。ヤレヤレ知床と違って大きな暗雲垂れ込め中?

是まで日本での候補地はすべて登録されているのに、膨らんだ文化遺産を抑制したいユネスコの事情が窺えるものの、どこまでも欧米視点が判断材料としてあるのも頷ける。しかして、年々歳々審査基準が厳しくなっているのも事実のようで。ここに至ってはガアッツリと戦略の練り直しが不可欠なり。ところがですヨ、国の威信をかけた『希代の反論書』を掲げての巻き返しが、ものの見事に結果成就。

奇跡の大逆転《政府反論書》功を奏す

祝大金星07年本会議での一発大逆転

世界文化遺産登録 延期勧告はねのける

今、遅しと官民協働の高揚が叫ばれ、早イトコ県道の拡幅突貫事業等が先だと思うんですが、何しろ観光バスがスレ違い出来ないところがオマシテネ、高速路網のアクセス不備・駐車場・トイレ・宿泊所・ガイダンス施設の未整備を含めたインフラ問題やら、シャントした「ガイド要員養成」等々次々問題が山積みされておりその実大変。長じて、大旗を振り振り『遺跡保存の実に遠くの過去眺望』だけで数十年先のことがいきおい案じられます。

サァサァ転じて、石見銀山は、博多の豪商【神経寿貞】により発見されたとロ伝されております。石見路において、その利権に絡んだ戦国大名の大内、尼子、毛利による凄まじい争奪戦がくりひろげられました。その後、天下分け目の関ヶ原合戦に勝ちどきをあげた徳川家康は、当地を幕府天領直轄の地とした。そして時はへめぐり、人ロ約20万人余、しかも、寺院も百ヶ寺を数えるほどの江戸文化の華をさかせましたとサァ。

ソモソモ、この石見銀鉱山とは、かの戦国時代から近代まで約400余年の歴史をもつ世界有数の産業遺跡であり、全盛期の16世紀半ばから17世紀前半にかけては、ハイテク・灰吹き法の導入で大増産され、何たって世界の産出銀の3分の1をとめた日本銀の相当部分を産出したそうナァ。佐渡金銀山や生野銀山と並び、商取引や貿易の決済手段として、況や急速に銀の需要が拡大した。世界市場では主にポルトガル交易団が跋扈し、絹や陶磁器とともに、中国や東アジアやヨーロッパ諸国で流通したことは、世界の歴史が示しす通りです。

イヤハヤ、何故にそこまで銀製品が重宝されたのか・・・。

この秘話を皆さんお判りでしょうか。

勢いヨーロッパ列強の支配階層らは、一方では吾が身の生活防御のため、特に願ったり叶ったりでその銀製食器を使用しましたとサ。

ナァーンデか、その都度の検食もそれなりに限度がありましょうし、ついぞ有機リン系の毒を一服もられると、たちまち銀製食器はキッチリ変色するので、スワ大変~と多用しちゃったわけですトォー。

ホォッホー ナットク シットク!