幻の航空通信聯隊

7  内務斑の軍体生活                         、
 
 軍服に着替えた新兵は、これから厳しい軍隊生活が始まる。朝起床で飛び起き。寝具整理、掃除、点呼が終わり食事、後片づけをして日中の訓練、そして夜の点呼、就寝まで1分の余裕も無い!
 
 内務班での規律、いじめ等は過去に雑誌やテレビなどで報じられており御存知の方が多いので、一般的なことはスキップして、行きたい。
 
 入隊して間もなく健康診断が行われ、身体に異常のあるものは直ちに除隊命令が出されて帰宅した。平野班でも3人が除隊した。3人は結核患者だったのだ、この当時は未だ良い治療薬は開発されて居らず、隊員に感染の恐れがあるので直ちに帰宅となったのである。
 
食料や支給品の状況
  毎回の食事では驚いた、当時歩兵聯隊などは麦飯が高級なほうで、コウリャンなどを混ぜた食事が当たり前だったのだが、毎日出る食事は白米ご飯と味噌汁、豚汁が週に1回は必ず出る、副食も野菜の煮物、煮魚、沢庵大根(沢庵大根はこの地方の特産だと)と栄養を配慮したものが出た。これは最後まで同じだった。
 さすがは航空隊だ!と感じた。唯若い新兵には量が物足りなかったようである。
 
 1週間に1回無料でタバコ(誉)2個、酒1合ぐらいが配給される。軍隊は最初が肝心だ、いらないと断ると、以後絶対支給されないので、いらない人でも支給を受けて好きな人に上げなさいと、班長から注意があったので全員が支給を受けていた。しかし無償支給品は段々と少なくなり、有料支給品が多くなった。
 
 最初、現金は10円以上は持っていてはいけないと、余分に持参した人は預かられてしまう。そして金銭出納簿を記入して手持ち現金と出納簿が合うことが建前、有料の支給品(タバコは光、果物等)を買ったときは記入していた。初年兵は酒保には行くことが禁止されているのでこれ以外の支出は無い。月末に月給が10円余り支給されたが、段々有料支給品が多くなり、足りなくなくなった。糸巻きの芯にして隠していた10円札を出す。皆同じ事をしていた様だ。こんな事で出納簿は検査が無くなってしまった。
 
私物品の郵送が2度戻る
  10日ぐらいした夕方、人事係の准尉殿から呼び出しがあったので、おそるおそる1階の事務室に行くと。「お前の私物は返送されてきた、も一度送ってみるか」と言われたのでお願いすると、又10日ぐらいで返送されてきた。「お前の家はどんなところにあるのかと、」尋ねたので、「海軍航空基地の滑走路の2kmぐらい先です。」と言うと、「お前のうちは爆撃されて無いのかも知れないね」といわれた。
 
 入隊前我が家の付近はB29や艦載機の襲撃が毎日のようにあり、無差別爆撃がされていたので、そうかもしれない、俺はもう家も家族も無いんだ、何時死んでもかまわないと心に決めた。准尉殿は書類を見ながらお前は大分酒が好きなようだね、わしは酒は飲まんので配給がきたら上げようと言われ、何回か御馳走になった。ほんとに優しい准尉殿だった。
 
川で洗濯、水浴び
  中隊の洗面所は限られた時間に大勢が使用するので大混みになり、洗面と洗濯を同時にはなかなか出来ない。又お風呂も1週間に1回ぐらい、
 初年兵には日曜休みも何も無い、そこで日曜日の天気のよい日は、皆が外出した午後、上等兵殿が引率して3km位離れた川原に連れて行ってくれる。
 
 「初年兵は着替えを持って玄関前に集合!」が伝達されると、着替えの下着類と石鹸を雑嚢につめ整列、東の通用門から川辺に出かける。此の川は50mぐらいの川幅で綺麗な水、鮎も泳いでいた。あたりは田んぼで誰も居ない、
 
 そこで丸裸になり川に入り体をよく洗い、着替えをして洗濯をする。洗濯物は川原の石の上に干す。上等兵殿の話を聞いた後は、アンチョコを出してモールス信号や略号の暗記、みんな夢中で勉強をする。そしてさっぱりとして中隊に帰ると
間も無く「炊事当番集合!」の伝達がある。
 


8 満州に派遣部隊が出発、新航空通信部隊の編成                      、
 
 入隊したばかりの頃は隣を見る余裕も無かったが、慣れてくると隣の班が見えてくる。二階の西側の班の軍服が違うのに気がついた。東側の2ヶ班は綿の古い軍服が支給されたが、西側の班はウールの新品の軍服を着ている。洗面所で顔を洗いながら新品の軍服を着ている新兵に聞いたら満州に行くんだとの事だった。
 
 この班の新兵は、入隊前通信業務についていたものばかりで、既に無線通信士の免許を持っており、航空通信兵として少し訓練すれば、充分通信勤務の出来る人たちばかりだった。この新兵は中隊兵舎に収容しきれず、半数以上が通信講堂に宿泊して連日の練成教育を受けていた。
 
 入隊して10日ぐらいした朝、西側の班に出発命令が出た。慌しく準備が進められ中隊の前庭に集合した。二階の窓から見ると背嚢に防寒外套、飯盒等をつけ、小銃も新しい完全軍装の100人位の新編成隊である。中隊長より命令と訓辞を受け、西側の各中隊間の道路に出て行った、各中隊と材料廠から集まり1個部隊が編成されて聯隊を後にしたのである。
 
 古兵の話だと、これが満州派遣中部第128部隊と言われたが、その後の消息を知ることが出来ない。当時の派遣部隊に通上使用される部隊名「第7航空通信大隊」等で調べたが未だ見つからない。あるいは是は派遣ではなく、新しい航空通信隊の編成か,又は満州の航空通信部隊への補充部隊であったのかも知れない、この様な事は重大な秘密事項であり、兵隊には解らない。

 しかし、50人や100人位、または1個中隊位の派遣は度々あったようだが、その内の幾つかはWebサイトに体験記録等として出てきたことがあるが、年月を経るとともに消えていった。昭和203月末 高松に新しい飛行場が開設され林飛行場に中部第128部隊として1個中隊が派遣されたことを書かれた記事だけが残っている。

 昭和20410日頃こんな大部隊の出動したことが、何の記録もなく、何の話しも聞かない、何時かは公式なものが出てくるのか?出発をこの目で見ているので気懸りである。 

 この部隊が出て行った後の7中隊では、新兵が2ヶ班61人、古兵が4ヶ班120人位になった。新兵は通信講堂で通信教育を受けていたが、古兵は朝の点呼は一緒だったが、日中は、各班ともに分かれそれぞれの過程に従い通信講堂、無線講堂、学科講堂、航技講堂で訓練を受けていた。また航空技術の訓練の教官は明野航空隊の下士官が来ていた。 

 古兵の古い班はもう1年以上も訓練を受けている様で皆上等兵の階級章をつけている。しかしある時班長殿が、お前達はこの聯隊の兵隊だが、あれは他所の兵隊だと、一言聞いたことがある。所謂修業兵ということだったと思う。 

 最近アジア歴史資料センターで公開された航空通信部隊の略歴を見ることができる。この記録は昭和36年12月厚生省援護局が作成したもので、若干の誤記と,可なりの未収録部隊があり、第七航空通信聯隊も抜けているが、この中の記事の一部を紹介してみたい。この中で派遣されているのは、昭和20220日軍令陸甲第24号により、第23航空通信聯隊の臨時編成が下令、広東において第15航空通信聯隊長が担任となり編成に着手、この編成に228日第7航空通信聯隊より有線、無線各1中隊を広東に転出させている。 

又第7航空通信聯隊が新しい航空通信部隊を編成した記録は次のようになっている。

◎第11航空通信聯隊(司第15336部隊
  昭和1811日軍令陸甲第99号により編成下令、1129日第7航空通信聯隊において、第7航空通信聯隊及び第1航測聯隊よりの転入人員を基幹として編成,昭南(シンガポール)に転出、昭和19131日 第3.第10航空通信聯隊よりの転入人員を以て昭南において編成完結、昭南に本部と材料厰を置き,他の7個中隊を各地に分散配置、昭南、ジャワ、スマトラ、マレー等の南方方面の通信網を担当。昭和20815日各展開地において停戦

◎第22航空通信隊(威第15337部隊)
 昭和181110日 第7航空通信聯隊において動員下令。昭和19110日編成完了。47日門司出港、52日マニラに到着,「ルソン島」「クラークフィルド」に転戦、第二航空通信団隷下となり比島作戦に参加、一部は「ツゲカラオ」「ラオアグ」「パスコ」「サンマリセリナ」に展開、昭和20120日「クラーク」西方山岳地帯に転進、同地の警備、815日クラーク西方山中にて停戦

◎第16航空通信聯隊(誠第18499部隊
 昭和1968日軍令陸甲第61号をもって編成下令、第7航空通信聯隊において、第16航空通信隊臨時編成完結。810日台湾へ移駐のため斎宮を出発、825日台北着、台湾並びに南西諸島における防衛作戦に参加。昭和2028日軍令陸甲第24号により編成改正、第16航空通信隊を第16航空通信聯隊と改称
台湾における防衛勤務に参加815日終戦、 

◎第17航空通信隊(威第18915部隊)
 昭和19815日 三重県斎宮 第7航空通信聯隊に於いて編成完結 920日部隊本部の一部と無線中隊の主力は新田原空港より空路「クラーク」飛行場に到着、マニラ「マビニー」小学校に集結、104日部隊本部,有線中隊、材料厰、無線中隊の残余は、太祥丸,と泰洋丸に乗船,門司港を出港、26日敵潜水艦の攻撃を受け両船とも沈没したが、救助され112日「サンフェルナンド」に上陸し、ルソン島内の、「クラーク」「バンバン」の各飛行場に展開、一部は「バギオ」に派遣、パンパン地区通信隊となる。
村上中尉以下100名が補充され「エチャゲ」付近に展開、一部を「ツゲカラオ」に派遣、昭和20425日臨時集成通信隊が編成され、集成飛行隊長隷下に入る。(成瀬大尉以下140名)
20428日より連合軍の攻撃を受け,転進を続け東海岸「カシグラン」で終戦

◎第55対空無線隊(靖第19153部隊)
 昭和20年2月22日三重県斎宮の第七航空通信聯隊おいて編成完結 3月4日北支派遣のため出発、門司港を3月9日に出港、3月11日釜山港に上陸、3月14日北京郊外南苑飛行場に着任、同地付近の警備にあたる。5月20日朝鮮京城に移駐。同地付近の飛行場に展開する。昭和20年8月15日停戦、

2013年8月16日 追加更新)

 

 
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9  通信技術の教育訓練                       、
 
 入隊して間も無く新兵は既習者と未習者に分けられる。既習者とは入隊前に通信業務に関わっていたものでモールス通信の出来る者、未習者は何も出来ない者、小生は、モールスは学生時代から趣味で覚えていたが、何食わぬ顔をして未習者の仲に入った。これで随分助かり楽をした。
 
モールス信号の暗記
  既習者は数人で、殆どが未習者、先ず基本であるモールス信号の暗記から始まる。普通の通信隊では、イは伊藤 ・― 、ロは路上歩行 ・―・― と言う様に北条式合調音といわれる暗記方法をとるのが一般であるが、航空通信は早さが求められるので、イはトツー、ロはトツートツーと頭の中に直接叩き込み暗記する。トンツーはいけない「ン」が余計で時間がかかる。と言う事で暗記が始まる。
 
 イロハ48文字、長音、区切り点等と一から十までの数字10文字、これを最初に暗記するのだが大変、寝ても醒めてもトツー イ、トツートツー ロ、寝言にまで出てくる。就寝後毛布をかぶりやっていると「煩い」と古兵から怒鳴られる。夜厠(便所)に行くと大便所は満員、中でトツートツー ロ、おーい、用事を足すだけだから交代してくれ、と頼み用を足す。
 
 食事時でも古兵が ツートトト 何だと聞く、又内務班の中断ベッドの縁には板に略号が書いて貼り付けられている。常に見て暗記するようになっているのだ、略号は民間とほぼ変わらず、ウナ 至急、サラ 再送、ホネ 本文、などの略号である。皆略号までは手がつかない、小生は略号を暗記し始めたが少し油断していたので中々完璧とは行かなかった。
 
通信講堂で通信訓練
  入隊して10日余り過ぎた頃からいよいよ電鍵でモールス信号を打ち、レシーバーで信号を受ける訓練が通信講堂で始まった。朝中隊で受話器(レシーバー)が配られ、各自雑嚢に入れて肩にかけ玄関前に整列、班長の引率で通信講堂に向かう、どんな設備か興味深深で講堂に入る。既習者は更に先の無線講堂に行った。
 
 第1教室の中に入ると見事なもんだ!机は1人用で電鍵は切り替えスイッチがつけられ机に固定されており、70人ぐらいが勉強出来るようになっている。教官の席は1段高い中央の机で生徒の机とはスイッチで色々な接続となっている。
 
 教官は隣の班の班長殿、まずスイッチを指定の位置にセットして受話器をジャックに差込み耳に掛ける、両側の耳には掛けず片方だけ、片方は教官の話が聞こえる様に外して掛ける。電鍵をたたくと自分のたたいた信号が受話器に聞こえる、音量、音質も変えられるようになっている。
 
送信訓練
  あらかじめ作られた電信用紙が配られ、仲の電文を打つのだが、トは瞬間にツーは、トの3倍の長さ、これが慣れないうちは難しい。電鍵操作がぎこちない。途中間を置きすぎると1字が2字になってしまう。手首の反動をうまく利用しないと正しい符号が打てない、皆慣れるまで可也の日にちが掛かった。最初は1分間に30字ぐらいのスピード、
 
 小生は入隊前に電鍵を購入して自宅で練習していたのでさほど苦労はしない、むしろ出来るのを隠しているので、わざとゆっくりと送信を楽しんでいた。しかしわざと遅く打つのも難しい。
 
 ある時教官殿が小生の打ち出す信号をスピカーから出してじっと聞いているのに気がつき止めると、案の定小生の顔を見て「なぜ止める!」といったがその場はすんだが、中隊に帰り班長室に呼び出された。「お前は既習者か?」と言われた。「既習者ではありませんが、学生時代趣味で少しやったことがあります」と答えると、非常に満足そうに頷いていた。履歴も調べたらしいが前歴が無かったので不思議に思ったらしい。それから教官殿は非常に厚意的に教えて下さるようになった。
 
受信訓練
  教官の打つ電文を受け、電信用紙に鉛筆で書いて行く、トトトツート(終わり)の信号を聞いたら出来たものは挙手をする。小生は、家で受信訓練はレコードで習ったので、1分40字ぐらいまでのスピードしか自信はなかったが、ここの訓練は30字そこそこだったので楽に受信が出来た。しかし、終わって周りを見ると半分位の人しか出来ていない。
 
 実際の電文は暗号で送受信するので、算用数字だけで電文が作られる。これを略数字電文と言う。算用数字だけなら覚えも早い。たった10字だけだから。毎日略数字電文の送受信の訓練が続く。
 
電文の作成や解読は暗号兵の仕事だから、お前たち通信兵は、送受信を速く正確に出来ればよい。と。では暗号兵は何処の隊で訓練されているのだろうか?
とうとう聞くことが出来なかった。又暗号の解読方法はチョッとだけ話は聞いていた。
 
電信用紙には2行ずつ受信して1行あける。各行10コマになっており、各コマに4桁の数字が入る。この2行の数字は、上が電文、下が乱数で、コマ毎に加算、又は減算して其の答えを暗号簿で調べる。計算するとき加算は繰り上げた数字、減算は借した上位の数字は無視する。
 
電文±乱数の答えの4桁の数字が暗号で、固有名詞や用語になっている。これを暗号解読の非算術加法、非算術減法というのだそうだ。特定の航空部隊では3桁の数字を使っていた部隊もあったが、其れは其の部隊内だけの通信に使われ、他の部隊との交信には4桁数字の暗号電文が使われていた。
 
 5月の末頃、訓練中に突然中隊長殿が通信講堂に見えた。教官席に着くと「これから中隊長が打つので皆は受信しなさい!」と、数字の電報を打ち始めた。早い!1分間70〜80字ぐらいか、こんなに早い電文は始めて、しかし受けられる。夢中で受信。終わり。やった!ぱっと挙手をして周りを見ると誰も手を挙げていない、たった一人、しまった!と思った。中隊長殿は意外な顔で見渡していたが、「お前の名前は?」と尋ねられた。
 
 姓名を名乗ると中隊長殿は、教室の前に貼られている今までのテストの一覧表を見て、「いつも良い成績なんだ、これからも頑張りなさい!」とお褒めの言葉を頂く、これを契機に、名前も覚えられ、教官殿や班長殿の受けも良くなった。軍隊は運隊とも言われるがまさに其の通りと思った。
 
 しかし中隊長から声を掛けられたり、褒められたりすることは異例なことらしく中隊中に評判になり、廊下で会う他の班の古兵から、お前は中隊長の当番兵になったのか、などと聞かれる。余計なことは言えない!聞けない!話せない!という話題の少ない中隊内では、そうだろう位で話が広まってしまうらしい。中隊長の当番兵になったら、中隊長室の中で清掃、雑用などは勿論であるが、外部からの無線連絡通信を担当しなければならない。未だ基礎訓練も未完成な新兵に出来るわけが無い。
 
 毎日の通信訓練も2ヶ月を過ぎると大分上達してきた。送信する信号も綺麗に早くなる。中隊長からは、通信兵は右手が大切だから、大事に柔らかくして置く様に指示され、重いものは持たせないようにしていた。したがって軍事訓練は99式短銃で軽い銃である。
 炊事当番の際も重い食管は必ず2人で持つように指示されていた。たまに共同責任で体罰があるときも、絶対に右手には触れなかった。
 
 余り他の中隊の訓練を見たことが無いが、通信講堂に行くときは8中隊の前を通るので様子がわかる。大きな電線ドラムを4人で担ぎ電話線の架設、撤収の訓練に出かけるのだ、気合を掛けながら駆け足で出かける、有線中隊は大変だな!
又、たまたま錬兵場で2中隊の見習士官60人ぐらいが軍事訓練で隊を組んで行進していた。将校服で軍刀を下げた一集団の行進は威風を感じた。
 
満州の施設部隊に転属
  5月にはいると、毎週土曜日に送受信のテストが行われる、採点の結果が通信講堂の教室の壁に張り出されている。やがて成績のラストから何人かに転属命令が出る。通信兵の素質が無いと判定されたのか、満州の施設部隊に転属させられたのである。
 
横穴式防空壕の通信講堂
  6月にはいると、太平洋上の米軍機動部隊の艦載機による攻撃が激しくなり、通信講堂での訓練が危険になった。皆が集まり訓練中のところにロケット弾でも落とされたら全滅の危険性がある。そこで聯隊から3〜4km離れた山の裾に横穴式の防空壕が掘られて、中に通信練習器材が整備された教室で訓練が始められた。
 
 こんな防空壕、何時、誰が作ったのだろうか、10mぐらい奥に5m×10m位の部屋が3室位、大テーブルに電鍵などの器材がつき長椅子が置いてあった。頭上には裸電球がつけられ、狭苦しい感じであった。
 
 雑嚢にレシーバーと鉛筆入れをいれ、教官に引率されて、この教室に通ったのは数回だった。途中で艦載機の襲撃を受け危険になりこの教室にも行かなくなった。おそらくこれで横穴教室は廃墟になったものと思われる。
 この防空壕が何処にあったかは、地理不案内な新兵には解からない、唯、部落の中の大きな橋を渡り行った事だけが記憶に残っている。
 
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10   明野送信所の清掃点検                     、
 
 6月の晴れた日曜日、班長殿から明野送信所の清掃、点検に行くので玄関前に集合の命令があり、炊事当番などの用事のあるものを残して集合した。古兵2人に引率され通用門から出かける。3kmぐらい行った田圃の中、1ヘクタール位の敷地の中にぽつんと体育館と送信所が立っている。上には高いアンテナがそびえていた。


  送信所は、聯隊敷地、練兵場の東南に4か所あるが、ここにも送信所があったのだ。この送信所は7中隊専用の送信所なのか、或いは聯隊本部のものか、たった1回しか来なかったので知ることはできなかった。
 
体育館の蚤の山に驚く
  周囲は有刺鉄線で囲まれ、人気の無い建物、門を入ると直ぐそこで軍服と靴、下着を脱ぎ褌1本で体育館に入ると驚き、蚤が足に無数に這い上がってくる。体育館には寝台用の藁マット100枚ぐらいが積まれている。其処が発生元か?マットを叩いて蚤を落として庭の芝生の上に日光干しをする。
 
 当時、蚤取粉などは物資不足で無かったので、医務室から貰ってきたクレゾールを濃く割ったものを如雨露で館内に散布、暫らくしてから箒で掃き集めたら動きの鈍くなった蚤が何と1リットル集まる。蚤の山だ!、こんな蚤は見たことが無い、これからも無いだろう。これを焚き火で焼き処分する。藁マットを叩いて元の室内に入れたが、その後どうなったものか?
 
送信所の清掃、点検
  蚤退治が終了してから送信所と送信機の清掃、始めて見る送信機、大きな物だ、幅1m、高さ1,5m位、扉を開けると、変電器の鈍い唸り声がする。ビール瓶ぐらいの太さの真空管が青い光を出している。地1号送信機と言う、「高圧電気が入っているので気をつけろ!」と注意される。古兵が中を点検する。この大きな真空管はUV-815と言われる送信管で、2本ダブルで取り付けられている。この送信管は電力増幅管とも言われる。

 周りを見ると、天井にはアンテナの切り替えスイッチが並んでいる。1,5m位の先端に金具のついた棒で切り替えるのだ。満州、支那、南方諸島と送信する方向により切り替えるのだ
 
 隣にも1台、半分くらいの送信機が並んでいる。地2号送信機だ。いずれも対空1〜2号無線機の改良型で最新式の送信機ということだった。又戸棚に収納されている受信機を出してテスト、気持ちのよい音でモールス信号が受話器に響く、送信所と言うから送信機だけかと思ったら受信機もあった。

 非常時に使用するエンジンつき発電機の試運転をするも異常なし、
 
 地1号送信機と地1号受信機を合わせて、地1号無線機と呼んでいる。地1号無線機は、遠距離用で(1000Km以上)周波数2500〜10000KHzの短波無線機で、電信1100W、電話400Wの出力を持っている。満州や支那(中国)大陸、南方戦線の部隊との連絡に使われていた。
 
 地2号無線機は、中距離用(500Km以上)の短波無線機で、電信180W、電話40Wの出力を持っている。
いずれも送受信電波は、A1,A2,A3である。
 
  現在では、IT技術の進化で、この程度の性能の無線機は、送受信機が一体になりデスクに載る程度の大きさとなっており、60年余の科学の進歩は目を見張るものがある。


 
                      写真は地1号無線機、送信機

 

地1号受信機

地1号受信機


非常用地1号発電機



地1号無線機配電盤



UV-815電力増幅管、小さいのが普通の真空管



11  幹部候補生いじめが始まる。明野航空隊まで夜の駆足  

 6月中旬幹部候補生の採用試験があった。軍事訓練は練兵場で中隊付きの少尉殿が行う。徒歩から小銃の扱い、分隊編成をして分隊の指揮、戦闘訓練まで、学生時代軍事訓練は県下1の猛訓練を5年間受けていたのでさほどの感じではなかった。唯実弾射撃の訓練経験者は小生を含め5人しかなかった。
 
 学科は通信講堂で1時間ほどで終わる。軍人勅語、歩兵操典から出題、通信は略号が出題された。受験者は新兵の約半数近くが該当しており受験した。合格発表は7月との事だったが、内務版ではこの該当者が解ったので、意地の悪い兵長2人が目をつけ幹部候補生と呼んでいじめを始めた。
 
 この兵長は、少年飛行兵上がりでいつも下士官室で飛行服を着て威張っている18歳ぐらいの兵長、も一人は下士志願出の意地の悪そうな顔をした兵長、この兵長が週番になったときは大変だ、お前たちは来月から2中隊に行き、半年で見習士官だ、今のうちに鍛えてやる。と宣言をした。
 
 夜就寝して10分位すると、「幹部候補生、武装して玄関前に集合!」の伝達をだす。帯剣を付け小銃を持って玄関前に集合すると、兵長が、これから駆け足訓練をする、と営門を出て、明野航空隊の滑走路を回り中隊に帰り、「訓練終わり解散!」夜中に武装しての駆け足、皆へとへとだ!
 
 ある夜、就寝の直後平野班長殿より呼び出しがある。簡単な雑用が言い付かる。始めると「幹部候補生、武装して集合」の伝達、班長殿は[お前はいいんだ、仕事を続けて]と言われる。50分ぐらいして皆帰ってくると「帰って寝なさい」と言われる。班長殿は今夜幹部候補生を呼び出すのを知っていて、わざと用事を言いつけ外してくれたのだ、有り難い。その後、就寝時に何回か用事を言いつけられる度に駆け足があった。
 
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12  米軍の攻撃は激しくなり聯隊が爆撃を受ける。       、
 
 米軍は硫黄島攻撃に先立ち、太平洋上の機動部隊から関東上空の制空戦に出た、昭和20年2月12日早朝から関東上空は、米軍艦載機の猛攻撃が始まり、以後断続的な攻撃に悩まされ、一般住民も巻き添えになり被害が多く出ていた。この様なことから米軍艦載機の攻撃についての知識や経験は入隊前にかなり付いていた。
 
敵艦載機の攻撃を受ける。
  第七航空通信聯隊に入隊した4月には、ここ伊勢周辺は、B29の爆撃は何回も経験しているが艦載機の襲撃は未だ無かった。したがって聯隊の将兵の大部分は艦載機の襲撃の経験が無かった。硫黄島の攻撃を完了した米軍機動部隊はやがて関西、中部地区にも襲撃してきた。
 
 空襲警報が発令され艦載機の襲撃が知らされる!
 
 7中隊では、全員集合が係り、小銃弾が1人5発ずつ配られ邀撃体制に入った。中隊長が不在で、中隊付き少尉殿が指揮を執る、軍刀を抜いて「逃げたらぶった切るぞ」といった。皆小銃に銃弾を込め物陰に入り射撃命令を待つ。練兵場の東の空からグラマンF4U 3機が機銃掃射をしながら頭上を通過、少尉殿は「退避!退避!」と怒鳴りながら防空壕に飛び込んだ。
 
 小生は敵機が真正面に向かっていなければ安全と考えていたので、物陰から上空のグラマンの様子を報告していると「早く壕に入れ!」と怒鳴られる、射撃命令が出ず、銃撃できずに残念だと思いながら防空壕に入る。グラマンは旋回して機銃掃射を繰り返す。1時間ぐらいは防空壕に缶詰、この様な艦載機の襲撃が度重なってくる。
 
聯隊が爆撃される。
  6月下旬の朝、通信訓練に出かけようとすると、空襲警報が発令され退避命令が出る。防空壕に退避していると、やがてB29の爆音が頭上聞こえ、ドカーンと爆弾の炸裂する音が数発、地響きを立てる。B29の爆音が去るのを待って防空壕を飛び出して見ると、7中隊の兵舎が爆煙の中に木っ端微塵になっている。
 
 周りを見ると6中隊も木っ端微塵、炊事場と入浴場もやられた。炊事場は火災が発生したがすぐに消火された。練兵場には直径10mぐらいの大きな穴が2箇所開いている。8発の爆弾が落とされ6中隊と、7中隊に各2発、炊事場、浴場に1発ずつ命中したのだ。聯兵場に出て周囲を見ると、鈴鹿や伊勢神宮の山々に数箇所の黒煙が上がっている。この火災は夕方まで続いた。
 
聯隊長より復旧命令が出る。
  聯隊長より直ちに復旧工事をせよ、明日B29の偵察機が飛来するまでに、建物は外観を復旧、練兵場の爆撃跡は埋めたて芝を張り、爆撃の痕跡を残すな。と言う命令が出た。
 
 材料廠は航技中隊とトラックを総出動して、爆撃された兵舎は直ちに片付け始める。中隊員も総出動で夕方までには綺麗に片付いた。そして柱や梁などの材料がトラックでどんどん運び込まれる、もう既に切り込んである。
 
 7中隊隊員は、前の5中隊に間借りして夜を過ごしたが、炊事場が爆撃されて食事は出来ずに昼抜き、夜食に乾パンが支給される。乾パンと水で飢えを凌ぎ就寝する。明朝起床ラッパで目を覚まし、寝具を整理して外を見て驚いた、7中隊の兵舎は昨夜のうちに建てられ、屋根の瓦は葺かれ、外壁を取り付けて居る所だった。やがて窓枠が搬入されてはめられた。規格が決っているので在庫があったのだろうか?
 
 何時ものパターンで午前11時ごろB29が1機が偵察に飛来した。しかし上空から見る限り、爆撃の痕跡は見えない。偵察機が去った後、材料廠と航技中隊は総動員で兵舎内の床張りや総ての工事が急スピードで施工され、寝台、机なども搬入、破壊紛失した下着、靴、小銃、帯剣等総てが整う。何たる早業であろう、さすがは軍隊、神業のようだと驚いた事は未だに脳裏に刻み込まれている。
 

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