幻の航空通信聯隊

1 第七航空通信聯隊の沿革                    、
 
 昭和17年4月、陸軍は、在内地陸軍航空部隊の再編成を行い、第1航空軍司令部を編成し、その隷下の第51教育飛行師団司令部管理下に「第七航空通信聯隊」を編成した。 しかし、その後昭和19年の再編成で第1航空軍に第2航空教育団司令部が編成され、6月30日第七航空通信聯隊は、第2航空教育団司令部隷下の第2航空教育団に編合される。

 そして又、昭和20年4月陸軍航空部隊の再編成で、
「航空総軍」が編成されたことにより、第七航空通信聯隊は、この航空総軍隷下に第2航空教育団司令部とともに編成替えが行われたのである。

 又この当時「第七航空通信聯隊」という聯隊名は「秘匿」とされており。部隊名(通称号)で「中部第128部隊」と称していた。航空総軍隷下になり航空総軍の通称号を使い帥第550部隊とも言われたが、一般には最後まで128部隊と呼ばれており、航空通信将兵を養成することを主とする教育部隊であった。
 
 聯隊の基地は、平安王朝時代の国史に遺る斎宮の遺跡で有名な三重県多気郡斎宮村(現明和町)の一角約60ヘクタールの土地に、昭和12年に着工、5年間の工期を経て昭和17年に完成、当時の最新鋭通信機材、設備の完備した航空通信聯隊基地であった。
 
 第七航空通信聯隊編成が完了したのは昭和17年12月15日であり、本部、練成3個中隊、教育4個中隊、材料廠をもって定員1715人で編成、その後昭和19年2月の編制改正で中隊編制が有線、無線各1個中隊、教育6個中隊となり、定員は2,033人、定員外で陸軍航空通信学校などに分遣されている253人を加えると,総員2,286人となる。
 また昭和19年4月に編成替えが行われ、1中隊以外の7個中隊はすべて教育中隊となった。
 
 しかし、此の聯隊は、終戦前の昭和20年4月15日 何故か復帰(解隊)命令が発令されている。そして終戦を迎えたのである。
 
 聯隊の歴史は僅かに3年であるが、この間多くの航空通信将兵の教育訓練を行い、国内は勿論、満州や支那(中国)大陸、南方戦線の航空通信部隊の将兵を養成すると共に、新しい航空通信部隊を編成して前線に送り出していた。
 
 一方、この聯隊の歴史が短かったことも原因でもあろうが、かってこの聯隊の隊員であった将兵や、軍関係者の残された記録が極めて希少であり、戦後60有余年を経過した現在、隊員であった方々も高齢で生存者も少なくなり、追憶も儘ならず、聯隊跡地に居住する人々は勿論、一般社会でもこの聯隊の内容についは幻の如くにして知ることが出来ない。
 
 終戦後は、基地の敷地、建物は大蔵省の所管となり敷地は入植地として開拓団員に払い下げられた。又大きな建物は戦災により焼却された公共用建物に配分され、小さな建物は入植者の住居に転用されたのである。
   
          第七航空通信聯隊位置図
 

2  第七航空通信聯隊の概要と所属航空部隊の改変      、

 第七航空通信聯隊の当時の状況は、この部隊を終戦除隊した人達で、戦後組織された戦友会「128友の会」が、昔の記憶をたどり平成2年に作成した見取り図に明細に記載がされている。この見取り図を元に聯隊内の配置図を作成添付いたしましたので御覧頂きたい。
 
 聯隊敷地は東側750m、西側550m、北側950m南側900mでこの4周は土手が築かれていた。
 
この聯隊の編成は、当初航空兵団司令部管理下に予定されていたが、昭和17年4月13日付け軍令陸甲第31号・陸機密第66号をもって発令された、在内地陸軍航空部隊の編成、編制改編、復帰要領、同細則に基づき、第1航空軍隷下の第51教育飛行師団司令部の管理下に編成が決り、編成に着手した。
 
 防衛庁防衛研究所の資料で、昭和17年5月13日付けの第51教育飛行師団長安部定(中将)より東条陸軍大臣に提出された昭和17年4月の編成、改編完結報告書によると、このとき次の司令部,聯隊などが新しく編成されている。
 
 独立第104教育飛行団司令部(台湾第35部隊)
 第7航空通信聯隊……(中部第128部隊)
 第1航空情報聯隊……(中部第129部隊)
 第1航測聯隊…………(中部第130部隊)
 第1気象聯隊…………(中部第131部隊)
 第103教育飛行聯隊 (中部第115部隊)
 第108教育飛行聯隊 (台湾第37部隊)
 第109教育飛行聯隊 (台湾第38部隊)
 北部軍直協飛行隊   (北部第89部隊)
 
 新設の司令部、各聯隊等はそれぞれの担任部隊により4月18〜20日編成に着手され3〜6日間で完結しているが、第七航空通信聯隊は大刀洗に於いて、第5航空教育隊の担任により4月20日に着手され4月28日(聯隊本部のみは4月25日)聯隊の太部のみの編成が完結された。

 
しかし、第七航空通信聯隊は、編成に着手されたもののその後完全編成完了までは一気には進まなかったようである。なぜなれば、指揮命令系統の上層部である第一航空軍司令部も新編成であり、この編成が緊急課題であった。
 
 第一航空軍司令部編成後は、その隷下となる第51教育飛行師団司令部の手によって第一航空軍司令部の編成が進められた。自己の司令部の人員を割いて基幹人員として配置し、陸軍省、東部軍、航空本部等から参謀、将校、下士官の配属を受け、5月一杯かかり定員の過半数が整った。そして6月1日より編成に着手、5日軍司令官安田武雄中将の着任で第一航空軍司令部の編成を完了した。
 
 この第51教育飛行師団司令部も昭和17年4月の再編成で改編した司令部で、その前は第一飛行集団司令部と称していた。第一飛行集団司令部は、昭和13年6月軍令により東京で編成され、国内陸軍航空部隊の統括に当たった。その後昭和14年8月岐阜(加納城本丸跡)に司令部を移した。
 
 昭和17年4月の再編成で、国内陸軍航空部隊を統括する第一航空軍司令部編制の決定により、4月15日より第51教育飛行師団司令部と改称して、第一航空軍司令部を編成して、高等司令部の役目を引き継いだのである。第一航空軍司令部は2ヵ月後に東京に移る予定で編成されたが、同一庁舎敷地内に両司令部があったので引継ぎは順調に行われたとの事である。
 
 第51教育飛行師団司令部も6月1日から編成改変を行い、5日に完結した。6月5日付けの第一航空軍司令部の編成と第51教育飛行師団司令部の改変状況を報告した文章の中で、両司令部は、当面の運営に支障の無い程度の編成になっているが、隷下の聯隊編成に先立ち司令部の陣容を強化する必要があると結んでいる。
 
ここで両司令部の編成状況を見ると
 第一航空軍司令部
将校    
定員66 現員39(将、佐官21、尉官18)
准士官及士官
定員76 現員70(準尉18、曹長26、軍曹22、伍長4)
 
第51教育飛行師団司令部
将校 
定員67 現員38(将、佐官15、尉官23)
准士官及士官
定員64 現員63(准尉14、曹長30、軍曹16、伍長3)
 
このようなことから第七航空通信聯隊の編成は、第51教育飛行師団司令部の陣容がある程度整備された時点で、本格的編成に入ったようである。どのような経過で進められたのかは知ることが出来ないが、聯隊本部及び施設隊である材料廠を中心に聯隊の編成が進められたものと推定される。
  
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3  第七航空通信聯隊の編成と聯隊内の部署、施設等     
第七航空通信聯隊の第2次の聯隊編成は、昭和17年8月1日から着手した。
 
 防衛研究所の資料で、昭和17年9月21日付 一航軍編第99号(軍事機密)をもって第一航空軍司令官安田武雄(中将)より陸軍大臣東条英機宛の、第一航空軍管理下の各司令部、聯隊の改変、編成の完結報告書を見ると、改変、編成完結一覧表に人員一覧表150枚余りが添付されている。
 
 この中で第七航空通信聯隊は、8月1日に改変に着手して4日に完結とあり、人員一覧表は、将校、准士官及士官、兵の3部となっているが、この中の主要部分を1枚に編集して一覧表を作り添付しました。

       
 
 
 この人員表は8月10日現在の人員であるが、救急搬送入院の10人は定員から外されており、又この表の人員以外に、定員外として幹部候補生7人、修業兵が475人記載されている。
 
 この表を見て、定員とは何かと考えさせられるが、とも角 無線、有線の通信兵としてかなりの人員が他の部隊から転属して来たことが解る。聯隊の総隊員数は889人となった。
 
 将校は、現役8人、予備役19人、准士官及士官は、現役37人、予備役31人であるが、兵科の兵は、279人中現役115人、予備役43人、未教育補充兵125人となっており、この279人は殆ど1〜2年前に軍隊に入隊している一等兵以上の者で新兵の二等兵は一人もいない。ただし修業兵は新兵であろう。
 
 総体的に見て通信の訓練は始まったようだが、技術教育部門が全く手付かずで、上層部の人員編成すらも出来ていない。一方病人が多いのか衛生の医務室の人員がほぼ定員を満たしている。なお自動車はトラックであり、この聯隊では兵器、将兵の輸送であるが定員を超えている。
 
 この時、斎宮村の聯隊基地は、兵舎は総て建築が完了して、給水塔が工事中であった。各航空部隊から転属してきた隊員たちは、当初は聯隊周囲の土手や兵舎の回りに植樹するのが日課であったという。真夏の植樹は大変だったろう。
 
 しかし、これは一部の隊員の話で、教育中隊の内務班の教育係等は、隊員が通信講堂で教育を受けている時は、教官が教育を担当しており、中隊に残っているのでこの様な環境整備の仕事が回ってくる。
 
 防衛研究所の資料のなかで、なお又12月1日に編成替えがあり3日完結したという報告書がある。人員表などの資料が無いので詳しい事は知ることが出来ないが、このときは教育訓練体制も整備され、各中隊には現役の新兵が入隊して隊員も定員に達し、12月15日聯隊の編成が完了した。
 
 また最近のあるWebサイトで知ることができたのであるが、聯隊の編成が完了したとき第五航空通信聯隊の多くの修行兵が、聯隊名を教えてもらえず第五航空通信聯隊と思って入隊訓練され原隊に復帰したようである。第七航空通信聯隊(中部第128部隊)の編成が完了したとき、第五航空通信聯隊は、満州チチハルに在りラバウルに転戦準備中であった。12月5日,本部と2個中隊,材料廠の一部(聯隊の約半数)がラバウルに転戦、第六飛行師団司令部直属となりニューブリテン島、ソロモン諸島の航空通信網を担当した。
したがって軍は、当時第五航空通信聯隊の補充要員を修業兵として斎宮の中部第128部隊に招集し、6ヶ月間訓練をしてラバウルに送り出した。(2013/5/24追記)

                        第五航空通信聯隊とは こちら

 昭和18年12月27日「軍令陸甲第121号」在内地陸軍航空部隊の編成、復帰要領、同細則が発令され、昭和19年2月に第七航空通信聯隊の編制は次の様に改変された。

部   署  中隊数    人    員
聯隊本部    34
有線中隊  1  218
無線中隊  1  205
有線中隊(教育)  2  110+修行兵400
無線中隊(教育)  2  110+修行兵400
固定無線中隊(教育)  1  55+修業兵200
材料厰  本  部    16
 航技中隊(教育)  1  55+修行兵200
 合   計  8  803+修業兵1200=2003
 
又備考として
1、修業兵の定員は、1期に於ける数を示す.又必要に応じて増減することを得
  修業兵は衛生兵を含むものとする。
2、本表の外 材料厰に技手(雇員)及び工員25名を増加する。
3、本表の外 動員業務の為、准士官、下士官又判任官(雇員)5名を増加する。

ということで材料厰の技手及び工員25、動員業務の将兵5を加えて定員総数を2033と認識した。
なお、改変着手順序の定めにより昭和19年2月に一部の人員と資材を第31航空通信聯隊に転出して編成改正をした。

 この編制表を見ると,他の部隊から教育を依頼される修業兵が多く、この聯隊の将兵の数の6割を占めており、この聯隊の本来の隊員は800名余に過ぎ無いことが理解される。このような事実を知らないで膨大な数字を並べている記事も町で見られる。


 またこの当時第七航空通信聯隊は、定員外として、第1航空軍司令部に49人、第1航空教育団司令部に22人、陸軍航空査察部に12人、陸軍航空通信学校に164人、陸軍航空士官学校に6人の計253人を分遣していた。

 この編制改変により、第七航空通信聯隊より転出された人員と資材を基幹として昭和19年2月25日、兵庫県多紀郡篠山町に第31航空通信聯隊(中部第110部隊)が編成された。この聯隊も教育聯隊で,本部、有線2、無線5、固定無線1の8個教育中隊、材料厰を以て定員2090人(内修業兵1600人)で編制、これから留守業務を分担することとなる。

 第7航空通信聯隊は、第1〜第4航空通信聯隊、第6航空通信聯隊及び第15航空通信聯隊の留守業務を、第31航空通信聯隊は第21〜第27対空無線隊の留守業務を担当し、これらの航空通信部隊の補充隊員の教育を行う事となる。


 この軍令陸甲第121号により、昭和19年6月第1航空軍に第2航空教育団司令部(中部第124部隊)が編成され、30日、第7航空通信聯隊及び第31航空通信聯隊はこの司令部隷下の第2航空教育団に編合される。

 第七航空通信聯隊は、留守部隊の隊員の補充だけではなく、多くの新しい航空通信部隊を編成し前線に送り出している。それは次ページで改めて紹介する。

 (軍令陸甲第121号関係、2014年6月5日追加更新



これから第七航空通信聯隊内の主要部署、建物などの説明を加えたい。
 
衛兵所
 表門(営門)を入ると左に衛兵所、出入者をチェック記録している。衛兵所勤務は24時間勤務の厳しいもので、各中隊が順番に担当している。衛兵勤務は表門のほかに、裏門、通用門の立哨、周囲3100m余の歩哨を行っており、天候により大変なこともある。したがって新兵には勤務させないし、登番下番の際は中隊でも前庭で厳粛に送迎をしていた。
 
聯隊本部
  兵営内に入ると正面が聯隊本部、聯隊の中枢部であり聯隊の指揮管理をする。各中隊長も定期に本部に集合して聯隊長の訓示、命令などを受け、又報告をしている。
 歴代聯隊長 
 初代聯隊長 田坂国三郎 大佐 28 
   昭和17年4月15日発令、4月25日着任して聯隊本部編成完結
   昭和19年1月15日発令で本職を免ぜられ,運輸通信省航空官に任じられる。

 二代聯隊長 平山彌市 中佐 33 
   昭和19年1月15日発令、
   昭和20年7月11日発令で、第18航空通信聯隊長に転任


第7航空通信聯隊の聯隊本部は軍令では次の様に編制されている。(昭和19年2月)

聯隊長   大佐  1                      
 副 官  大尉  1                      
本部付  中佐  1  少佐  1  大尉  1  准尉  1  曹長   3  軍曹(伍長)  3  
  航技少佐(大尉)   1  航技准尉  1 航技下士官   1  
  主計少佐(大尉)  1  主計尉官  2 主計下士官   4  
           経技下士官  2  
  軍医少佐(大尉)  1  軍医尉官  3  衛生下士官  6  

 







中 隊
  聯隊本部の後は8個中隊の兵舎が並んでいる。兵舎とは分かりやすく言えば、宿泊所兼内務班生活で軍人としての規律などの躾け教室である。(いじめ教室?)
通信訓練は通信講堂、無線講堂等で、軍事訓練は練兵場で行われる。
 
 1中隊は無線中隊で航空通信の実働中隊、空軍中枢部、前線部隊、国内各部隊との連絡通信、情報収集を担当している。
 聯隊編成当初は2〜4中隊は練成中隊とのこと、これは各通信部隊から転属してきた通信兵を航空通信兵として専門的な訓練をしていたのでは、後には教育中隊の教育課程修了者を通信、暗号,機関等に分かれ更に高度の実戦訓練をしていたものと推定される。
 
 5〜8中隊は教育中隊という、これは新兵教育中隊であることには間違いは無いが1期の検閲迄であろう(約3ヶ月余り、)毎年4,8,12月に新兵を招集入隊させているようなので、4ヶ月ごとに更新していた様だ。

 昭和18年軍令陸甲第121号に定められている第7航空通信聯隊の各中隊の編制は次の様になっている。(様式は見やすいように書き換えてある。

 
 階  級 有  線
中  隊 
無  線
中  隊
 有線、無線
固定無線
各教育中隊
航   技
教育中隊 
 中隊長大尉  1  1  1  1
 中(少)尉  3  3  3  1
 准   尉  6  9  3  1
 曹   長  11  17  6  2
 軍曹(伍長)  14  22  9  
 航技尉官        2
 航技准尉        2
 航技下士官        13
 衛 生 兵  3  3  3  3
 兵  180  150  30  
 航 技 兵        30
 修 業 兵      200  200
 計
218

205 
55
修業兵200
 55
修業兵200


 昭和19年4月に編成替えがあり2〜8中隊の7個中隊は総て教育中隊になった。
そして定員も2174人に増員されたと言われているが。小生達が入隊した昭和20年4月の7中隊では、新兵が2個班で61人、班の指導係の二等兵、一等兵、上等兵が各1人ずついたので、教育中隊の何個中隊かが、兵30が65位に増加されたのかもしれない
 
 2中隊は幹部候補生の教育中隊で3〜8中隊において教育を受け、1期の検閲で幹部候補生に合格したものを集め、幹部教育をする中隊である。この中隊で6ヶ月間候補生として教育を受け、試験の結果、甲種と乙種に別れ、甲種は見習士官、乙種は見習下士官となり教育を受ける。
 
 また大学を卒業して、甲種幹部候補生の資格の有る者は、新兵としてこの中隊に入隊して、直ちに見習士官となり、航空通信将校としての教育を受ける。勿論2中隊にも多くの修業兵がいたことだろう
 
 新兵の教育をする3〜8中隊も部門別に分かれていたが、5中隊と7中隊が無線中隊、8中隊が有線中隊ということは確実だが、他の中隊のことは知ることが出来なかったが、概ね聯隊は 次の様な中隊編制ではなかったかと考えている。

 1中隊  無線中隊  2中隊  幹部候補生教育中隊
 3中隊  固定無線教育中隊  4中隊  航技教育中隊
 5中隊  無線教育中隊  6中隊  有線教育中隊
 7中隊  無線教育中隊  8中隊  有線教育中隊
 
1期の教育期間は、軍人としての基礎教育であり、この期間に規律やモールス通信の送受信の基礎教育があり、2期以後は通信兵としての専門分野である各種無線通信機、有線通信機器を使った通信教育、通信機器の整備、修理などの技術教育、暗号電文の作成、解読などの分野などに分かれた実戦教育が進められる。
 
 この聯隊の定員は当初1,715人であり、昭和19年2月には2033人に、昭和19年4月には2,174人となったと言われている。この定員の増加に対しては、兵舎の増築は行わず、各教育中隊の新兵の内務班のベッドを2段ベッドにして、設備増加をはかり対応したものと思われる。
 
材料廠
  材料廠は、聯隊の南西部にあり、聯隊の建築物、兵器、機材、物資等の管理、いわゆる調達、保管、修理などを行っていた。したがって周囲にある工場や倉庫は材料廠のものであろう。
この聯隊の材料厰の編制は
材料厰長 少佐 1  
大尉 1   中(少)尉 1   曹長 2   軍曹(伍長) 3  
航技少佐(大尉) 1   航技准尉 2   航技下士官 5 
の16人に技師(雇員)2 工員25となっている。
  
通信施設
  通信施設は、1中隊の前に固定通信所、練兵場の東に6棟の受信所、南に4棟の送信所、その外に明野に送信所が1箇所あった。
練兵場東南には、電柱を3本くらい連結した高いアンテナ柱が何本も立てられて張られたアンテナ群は、如何にも通信聯隊といった感じがあった。
 
教育訓練施設
  中隊兵舎の西側一帯に施設が建設されている。
通信講堂が7棟、これは2中隊から8中隊の各中隊に割り当てられている通信の訓練教室で、通信兵としての基本であるトツー、トツーのモールス通信の打ち方、受け方の訓練から始まり、各分野に分かれた通信技術の練成教室である。
西側には無線講堂が3棟、学科講堂、航技講堂が各1棟整備されている。
 軍事訓練は練兵場だが余り軍事訓練は行われなかった。
 
付属施設
  営門を入り右手に将校集会所、剣道場。兵舎の北に下士官集会所、酒保があるが新兵には関係のないところであった。
 
 酒保の北が炊事場、ここは炊事当番で毎度お世話になる。
其の隣が入浴場、可也大きなものであるが1週間に1回ぐらいしか入浴の順番が回って来ない。後は、毎日中隊の洗面所で水洗いしかない。
 
練兵場の南に医務室が1棟ある、中には診察治療室、入院室などがある。
また 施設ではないが、珍しく梨畑が練兵場の東南にあった。
 
倉 庫
  弾薬庫が3棟、北の2棟は、小銃弾庫と小銃の莢窄実包庫
入浴場の北に、陣営具庫(テント等)練習用具庫、被服庫、暖炉庫(ボイラー室)
通信講堂の西に、有線器材庫2棟、無線器材庫3棟
工場の周りには、危険薬品庫、油貯蔵庫、車庫などがある。
 
工 場
 材料廠の周囲には精密器材工場、通信器材工場、発動機工場、鍛木機械工場、舵鍛工場、自動車修理工場、又聯隊北部に被服工場がある。
この工場には社会人の工員、被服工場には女性工員が働いていたのが見られた。
 
 次ページから、徴兵検査、現役召集と第七航空通信聯隊入隊、通信訓練などの頭の中に残っている昔の記録を断片的ながらも思い出して、書いてゆきます。
 
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4      昭和19年には徴兵検査、現役入隊も繰り上げとなる    、
 
 太平洋戦争も昭和18年の年末に入ると、日本軍の各戦線の状況が俄然と悪化してきた。11月当初のブーゲンビル島沖の激戦で大損害を出し、タワラ、マキン両島の守備隊も大激戦を展開した。 そして11月27日カイロ宣言(日本の無条件降伏の呼びかけ)が発せられたのである。
 
 12月27日にはタワラ。マキンの両島はついに玉砕の運命をたどった、日本軍は拡大した戦線の守備も危うくなり、軍の増強を図るため、徴兵適齢を20歳から19歳に引き下げを決定したのである。この様な事から昭和19年は、19歳の男子は、20歳の男子と共に徴兵検査を受けることに成った。これを繰り上げ検査といった。小生も繰り上げ検査組の1人であった。
 
徴兵検査で甲種合格航空兵と決る。
 19年の秋に徴兵検査が、町の一角にある学校の武道場で行われた、近隣の村からも集まり300人位はいた。身体検査、健康診断を行い、最後に検査官の口頭試問が行われ結果が決る。
 
 会場での行動は軍隊式で、ぐずぐずしていると怒鳴られる。順番が来て検査官の前に座ると、検査書類を見ながら、家庭の状況など2〜3の質問があり甲種合格の版が押された。「何か特技はあるか?」と言われたので、「独学でモールス通信を勉強しています。」、と答えると「よーし、良くやった。」といって航空と言う大きな丸い版がボンと押された。瞬間ドキとした。
 帰宅して家族に報告したら。甲種合格おめでとう。と祝福されたが、航空兵かと何か一抹の不安も感じられたようだった。
 
現役召集令状が来る。
  やがて10月になると友人たちは次々と召集令状が来て。入隊していった。其の度に友人の送別会を開催していたが、小生は年末までには来なかった、翌20年の2月末、役場の小使さんが、入隊おめでとう御座いますと現役兵證書を持参した。
  
現役兵證書には、現役兵として徴集し、昭和20年4月1日中部第128部隊に入営を命ず。3月31日午後5時東京品川駅前集合とある 
 
  友人たちは召集令状が来て、入隊するまで10日程度であったが、なぜか小生は1ヶ月以上ある。航空兵であるから二度と帰れないのでゆっくり別れを惜しんで来いよ!と言われている様な感じがした。
 
 それから親戚、知人などに挨拶に回る。婦人会の会長さんは千人針を作ってくれる。入隊用の軍服の注文、日の丸の寄せ書きの作成など、入隊準備を家業の合間に行う。1ヶ月は、あっと言う間に過ぎ去った。
  

5      多くの人々に見送られ故郷を後にする。            、
 
 昭和20年3月31日、朝早くから自宅で送別の宴が開かれる。村長さんを初め親類縁者が集まり祝ってくれる。庭には祝入営の幟が何本も立ち、日の丸の小旗を持った部落の方々が集まっている。いよいよ出発!「皆さん、これから行きます。後を宜しくお願いします。」(行って参ります。と言う帰ることを意味する言葉は、この当時許されなかった。)と挨拶、村長さんの発声で万歳三唱、そして我が家を後にする。駅まで約5kmを歩いてゆくのだ。親戚や部落の人も一緒に軍歌を歌いながら
 
 途中の県道沿線では、皆門前に出て「元気で!」と見送ってくれる。小学校の前では高学年が2列横隊に並び万歳!万歳!と見送りをしてくれる。途中にある海軍航空基地の高角砲陣地では砲台の上で大きな日の丸が何本も振られ送ってくれた。
 
 駅に着くと、出征兵士が何人もおり、駅は大賑わい、万歳の声が溢れている。列車に乗り汽笛とともにホームを後にする。窓から半身乗り出して日の丸を振りお別れをする。ホームは見送りの人々の振る日の丸の旗で埋まり、やがて視界から消えていった。故郷はこれが最後の見納めか!窓の外を食い入る様に見ていた。
 
 お昼は、東京四谷の伯父の家でお祝いの御馳走を頂き、ゆっくりと休息をとり3時過ぎに集合場所の品川駅に向かう。2回目の戦時召集で横須賀重砲に居た父も、3日間の休暇を貰い帰宅していたので、空襲で家を焼かれ疎開していた神田の叔父と共に同伴して品川まで送ってくれる。
 
 品川駅前広場は、入隊兵士と見送りの人々で大混雑、やがて時間になると各府県別に集められる。千葉県は50人位集まる。周りを見ると農学校の同級生の顔が見える。お互いに駆け寄り硬く手を握り合い感無量、誰も知らない中に5年間学び舎で苦労を共にした学友は、戦友としても掛替えが無いことを痛感した。府県毎に2列縦隊に整列、点呼を行い順次列車に乗り込む、この列車には関東以北の入営兵で約800人位か。見送りの人は改札口までで、手を振りながら分かれて、ホームに出る。
 
 ホームには特別仕立ての軍用列車がおり、乗り込んだら憲兵が来て「よろい戸を全部閉めろ」と言われ、窓から見送りの家族に別れを告げることは許されなかった。
たまに窓から脱走するものがあるらしい、そんな事でよろい戸は到着するまでは開けることが許されなかった。家族とは改札口で別れたのがこの世の見納めかと諦める。
 
 軍用列車は、夜の東海道本線を直走りに走る。時々空襲警報が発令されると止まり、解除されると又走り出す。入り口の椅子には憲兵ががんとして座り込み便所に行くのもチェックする。名古屋、松坂では、何両かの列車が連結されたようだ、中部、関西方面の列車が連結されたのだろう。やがて4月1日の明け方近鉄山田線の斎宮駅に到着したのである。
 

6      第七航空通信聯隊に入隊
 
 早朝、軍用列車から降りた入営兵士は斎宮駅前を埋めた。品川を出たときの倍以上の人員だ。点呼を取り中隊毎に編成、順次聯隊に向かう。新入兵の隊列は続々と聯隊まで続いている。ざっと見て2,000人位か、1kmぐらい先に第七航空通信聯隊が見える。周囲は田圃で何も無く、くっきりと兵舎が立ち並んでいる、兵舎の東側には高いアンテナが立ち並び目立った存在だった。
 
7中隊に入隊
  小生らの隊は品川駅から引率してくれた上等兵の指揮で歩調をとって営門を入る。中に入るとこんなにも在ったのかと思われるほど兵舎がある。それぞれの兵舎に新入兵が入ってゆく、一番奥の兵舎の前庭に到着した。前庭には先輩の将兵が100人位整列して出迎えてくれた。ここが7中隊だったのだ。
 
 前庭に整列して待つ事しばし、7中隊長の訓示があった。7中隊長は航空士官学校出身のパリパリの井上大尉殿、行動も言葉もきりっとした軍人、素晴らしい人だと直感した。訓示が終わり新兵は4班に分けられる、これからは、中隊名を7中隊と言わずに井上隊と言うようにとの事だった。しかし聯隊内では7中隊と言わないと通じない事が解った。よその中隊長の名前など知らない人が大部分だからだろう
 
 後で古兵から家族や友人などに送る手紙に書く時の注意点が説明された。
部隊名は中部第128部隊と記して、第7航空通信聯隊名は使わないこと。
中隊名は中隊長の名前を使い、井上隊とし、7中隊名は使わないこと
班明も班長の名前を使い、第1班、第2班の班名はつかないこと。
これは航空通信聯隊であることや、聯隊内の中隊編成、班編成が外部に漏れることを防ぐためのものだそうだ。
 
平野班に所属
  班長は平野兵長殿、班長殿の引率で中隊内の内務班に入る。
新兵の内務班は中隊の二階にあり中央に廊下、各班は此の廊下を挟んで両側の2室が割り当て、各部屋は両側に二段ベット、中央に大テーブルと長椅子があり、廊下側に銃架に小銃、下に帯剣が下がっている。小銃は九九式短銃であった。
 
 平野班長殿は初年兵の教育係りで通信兵ではなく、ほかの兵科の出身らしく内務班と軍事訓練だけを指導していた。その下には上等兵、一等兵、二等兵、見習い下士官が各1名教育係りとして平野班に所属していた。先ず最初に長椅子に座り、班長殿の内務班の説明があり、軍服が支給される。郷里から着てきた軍服、下着、靴等一切は纏めて家に送る荷造りをして古兵に渡す。
 
         
          入隊記念撮影、1,2班 (略帽を被っているのが平野班長殿)
 


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