戦後間もなく再会した同級生の戦友の話では、7月中旬、幹部候補生の合格発表があり、7中隊では受験者全員が合格して、直ちに2中隊に移った。しかし聯隊解散の話が流れ何事か理解が出来ずに動揺が見られ、訓練も余り無く終戦を迎えた。そして9月上旬に除隊となり帰郷したとの事
聯隊の解散、小生も話を聞いて不思議に思っていた。
航空通信隊は航空部隊の目や耳、口と同じで。情報の収集、伝達、部隊間や航空機との連絡など重要な任務を持ち、通信機能が麻痺すると航空部隊は盲人と同様の部隊になってしまう。したがって前線では作戦上一番の攻撃目標にされて戦死者が多く航空通信兵は可也不足していた。このような時に解散とは?
しかし、今考えると合点が行く。此の聯隊が新設された当時は、空から攻撃された場合の防御が全く考えられずに設計建設されたもので、連日のように空襲、退避が繰り返されていたのでは、本来の教育訓練の機能を失ってしまうのだ、太平洋戦争の末期の此の聯隊はまさにこのような状況になっていた。
昭和20年の春、既に日本軍の最前線と言われた硫黄島での決戦で破れ、2万余の将兵を失い、続いて本土防衛の最前線沖縄では大激戦が続いている。6月8日大本営は御前会議で本土決戦と基本方針を決定したが、6月23日遂に沖縄戦線は島民も巻き込み19万人の犠牲者を出し、日本軍第32軍の壊滅で終了した。
次は本州か、四国か、九州かと言うとき、教育機能が無くなった訓練部隊は、本土決戦部隊に切変えなければと考えるのが当然だ、そこで6月25日解散命令が出たのかも、
解散して0にすることは考えられない、航空通信実働部隊としても任務を遂行中であり、此の部門の充実を図らなければならない。したがって訓練部門で航空通信兵として使えるものは各航空部隊に転属させ、残りで編成替えをして決戦部隊とするのだが、間に合わず終戦になったのでは、とも考えている。
だが、よく調べてみると全く違っていた。軍は既に昭和20年2月に、第7航空通信聯隊の復帰(解隊)を決定していたのだ。
軍令陸甲第27号、陸亜機密第92号(昭和20年2月13日)在内地陸軍航空教育部隊編成、復帰要領、同細則に第7航空通信聯隊の復帰が定められており、人員、資材を管理官(航空総軍司令官)の定める部隊に転出して復帰せよ、と命じている。復帰の理由については知ることができなかった。
この軍令は昭和20年4月15日から施行する。となっているので4月15日になれば復帰命令は発令されたことになるのだが、施行後復帰(解隊)命令が改めて出されたものであろうか、それが明和町発刊、ふるさとの年輪154Pに記載されている6月25日であるかは、確認することができない。
何れにしても人員、物資の転出命令が順調に出されなかったのか、現実には聯隊長は7月11日に転任して空席、一部の隊員は転属したようなものの、隊員の大部分は機動部隊の襲撃や、B29の爆撃を避難しながら終戦の日を迎えた。そして順次除隊手続きをして帰郷、以後は終戦処理隊により処理された。
参考
この軍令で復帰した航空部隊は次の通りである。
第102教育飛行師団司令部
第103教育飛行師団司令部
第104教育飛行師団司令部
第1航空教育団司令部
第3航空教育隊
第6航空教育隊
第7航空教育隊
第10航空教育隊
第3練成飛行隊
第8教育飛行隊
第7航空通信聯隊
第21航空情報隊
(2014年5月15日追加更新)
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