幻の航空通信聯隊

13 転属命令が出る。                          、

 6月の下旬に1期の検閲が終わり、B29の爆撃と艦載機の襲撃に明け暮れているとき7月7日の七夕を迎えた。朝食がすむと班長殿から4人が呼ばれた。週番士官室に行くように命令されたので1階の士官室に行くと、入隊のとき引率してくれた上等兵殿と隣の班の二等兵と新兵3人が居た。
 
 週番仕官より名前が呼ばれ、上等兵以下8名の者に風第29669部隊に転属命令が出された。
 
 人事係りの准尉殿からは、皆とはこれでお別れだ、3ヶ月間良く訓練を受けてくれた、戦隊に行っても健康に注意して軍務に励んでくれ、と別れの挨拶を頂き、班に帰る。班長殿に報告して出発の準備をする。同級生の戦友は東京に行くんだ、家に近くなりよいね、と寂しそうに支度を手伝ってくれる。雑嚢に日用品の私物と弁当、水筒に水を入れ肩に掛け帯剣をつけ玄関前に整列、週番仕官と班長殿に挨拶して七中隊を後にする。
 
 営門を出て振り返れば、二度と見る事の出来ないであろう第七航空通信聯隊此の時点では幹部候補生の合格も未発表で聞かれず、ましてや4月15日聯隊の解散命令が出ている等とは夢にも知らず、東京の多摩陸軍技術研究所(風第29669部隊)へと向かった。
 

14 その後の第七航空通信聯隊、解散命令                    、
 
 戦後間もなく再会した同級生の戦友の話では、7月中旬、幹部候補生の合格発表があり、7中隊では受験者全員が合格して、直ちに2中隊に移った。しかし聯隊解散の話が流れ何事か理解が出来ずに動揺が見られ、訓練も余り無く終戦を迎えた。そして9月上旬に除隊となり帰郷したとの事
 
 聯隊の解散、小生も話を聞いて不思議に思っていた。
航空通信隊は航空部隊の目や耳、口と同じで。情報の収集、伝達、部隊間や航空機との連絡など重要な任務を持ち、通信機能が麻痺すると航空部隊は盲人と同様の部隊になってしまう。したがって前線では作戦上一番の攻撃目標にされて戦死者が多く航空通信兵は可也不足していた。このような時に解散とは?
 
しかし、今考えると合点が行く。此の聯隊が新設された当時は、空から攻撃された場合の防御が全く考えられずに設計建設されたもので、連日のように空襲、退避が繰り返されていたのでは、本来の教育訓練の機能を失ってしまうのだ、太平洋戦争の末期の此の聯隊はまさにこのような状況になっていた。
 
 昭和20年の春、既に日本軍の最前線と言われた硫黄島での決戦で破れ、2万余の将兵を失い、続いて本土防衛の最前線沖縄では大激戦が続いている。6月8日大本営は御前会議で本土決戦と基本方針を決定したが、6月23日遂に沖縄戦線は島民も巻き込み19万人の犠牲者を出し、日本軍第32軍の壊滅で終了した。
 
 次は本州か、四国か、九州かと言うとき、教育機能が無くなった訓練部隊は、本土決戦部隊に切変えなければと考えるのが当然だ、そこで6月25日解散命令が出たのかも、
 
 解散して0にすることは考えられない、航空通信実働部隊としても任務を遂行中であり、此の部門の充実を図らなければならない。したがって訓練部門で航空通信兵として使えるものは各航空部隊に転属させ、残りで編成替えをして決戦部隊とするのだが、間に合わず終戦になったのでは、とも考えている。
 
 だが、よく調べてみると全く違っていた軍は既に昭和20年2月に、第7航空通信聯隊の復帰(解隊)を決定していたのだ。

 軍令陸甲第27号、陸亜機密第92号(昭和20年2月13日)在内地陸軍航空教育部隊編成、復帰要領、同細則に第7航空通信聯隊の復帰が定められており、人員、資材を管理官(航空総軍司令官)の定める部隊に転出して復帰せよ、と命じている。復帰の理由については知ることができなかった。

 この軍令は昭和20年4月15日から施行する。となっているので4月15日になれば復帰命令は発令されたことになるのだが、施行後復帰(解隊)命令が改めて出されたものであろうか、それが明和町発刊、ふるさとの年輪154Pに記載されている6月25日であるかは、確認することができない。

 何れにしても人員、物資の転出命令が順調に出されなかったのか、現実には聯隊長は7月11日に転任して空席、一部の隊員は転属したようなものの、隊員の大部分は機動部隊の襲撃や、B29の爆撃を避難しながら終戦の日を迎えた。そして順次除隊手続きをして帰郷、以後は終戦処理隊により処理された。

参考
この軍令で復帰した航空部隊は次の通りである。
 第102教育飛行師団司令部
 第103教育飛行師団司令部
 第104教育飛行師団司令部
 第1航空教育団司令部
 第3航空教育隊
 第6航空教育隊
 第7航空教育隊
 第10航空教育隊
 第3練成飛行隊
 第8教育飛行隊
 第7航空通信聯隊
 第21航空情報隊
 
 (2014年5月15日追加更新)

15 旧第七航空通信聯隊跡の処理                  、
 
 終戦処理が行われた後、旧第七航空通信聯隊の跡は、土地と建物が大蔵省の所管となった。大きな建物は、戦災で焼けた公共用建物の立替材料として配分され、残った建物は、入植者の居住用に当てることにした。
 
 終戦後1年ほど経過したとき、不足している食料の増産をはかるため、練兵場や兵舎の跡地を開拓して農地とすることなり、開拓団を作り入植者を募集した。開拓団には此の聯隊の隊員だった数名を含め35人が応募、1人あたり屋敷を含め1町歩(1ha)の土地が割り当てられ、残りは旧地主に払い下げられた。
 
 開拓団員は、残された兵舎などの建物に居住し、畑と田の開墾を始めたのだが、此の仕事は可也困難を極めた。普段の生活も芋ずるや葉っぱを食べながら、飲まず食わずの苦しい生活をされたようだ。長年歯を喰いしばり頑張った甲斐があり約20年後にはそれぞれ住家を立て、立派に農家として独立した。
 
 このようにして聯隊跡地に出来た北野部落は、戦後60余年を経過した平成19年2月現在、宅地化も進み世帯数500戸の明和町最大の自治会となっている。
 
真上は、昭和23年米極東空軍が撮影した聯隊(点線内)の跡地の写真です。○印は明和町役場,
     下の写真はその後約60年後の様子
 
目次へ

16 第七航空通信聯隊の遺跡                     、
 
終戦後、兵舎の一部は入植者の住居に転用されていたが、給水搭と炊事場、酒保、医務室、送信所、受信所,自動車燃料庫等の建物は平成の世まで残されていた。
夏草やつわもの共が夢のあと‥‥奥の細道)
といった虚しさを残して。
 現在では、此の聯隊の遺構は若干の建物の基礎、幹線地下排水路、給水地、聯隊本部防空壕等が残っている。その一部を写真で紹介しよう。.
 
  1 平成の頃にまで残されていた炊事場と給水塔




















     2.聯隊本部防空壕(御真影奉安所)

この防空壕は、20163月、町の史跡として指定文化財となりました。




















        3.聯隊本部防空壕(御真影奉安所)入口 


















         4..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)北の室 


















  

    5..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)南の室 

























                 






6..聯隊本部防空壕(御真影奉安所)中から入口を見る






















        7. 下士官集会所跡に残る基礎 



















             8. 1中隊兵舎跡に残る基礎 















               9、3中隊兵舎跡に残る基礎 
















              10、4中隊兵舎跡に残る基礎 




















             11、7中隊兵舎跡に残る基礎の一部



















            12、7中隊厠跡(2011年頃解体整理されたようである。)



















            13、8中隊兵舎跡の基礎の一部 


















      14、自動車燃料庫  




















            15、被服庫跡、コンクリート布基礎と柱を立てた束石が5個×2 














   
          16、此の竹林の中に給水池がある 

















   

 



、竹林の中の給水池 
























以上のカラー写真は、大阪市M,K氏より御提供頂いたものの一部です。
(撮影2009/7/16. 2013/4/20)

(2013年6月11日更新)





17シンボルタワーが消えた

明和町役場前の空き地に聳え立つていた、旧第七航空通信聯隊の使用していた給水塔、直径8m高さ28mの鉄筋コンクリート造りの巨大な搭は、

 「あの煙突のようなものがある町が明和町で、あの下あたりに役場があります」

とシンボルのように紹介され、田園地帯が広がる明和町では、ひときわ目立つ存在になっていた。

 此の給水搭は大蔵省が管理してきたのであるが、簡単に取り壊しも出来ず戦後50余年放置されていた。老朽化も激しく危険度がまして来たので、町では再三解体を要望した結果、平成13年総工費4500万円をもって解体され、完全に戦争の面影を残していた最後の基地建物は町から消えたのである。

 この給水塔には、此の部隊の隊員だった人、開拓団の人、又町の人と、それぞれの人々に違った数多くの思い出が秘められていたが、思い出の搭が消え、時代の推移と共に此の聯隊のことや、開拓団で苦労したことも忘れ去られてゆくことであろう。

 ほんとに忘れてしまったのか、今町の中心である役場の幾つかのサイトで、この聯隊の聯隊名を間違えている。中にはは部隊名と聯隊名を混同しているサイトもある。これは戦時中「第七航空通信聯隊」の聯隊名は「秘匿」とされ使用が許されなかったので、一般の人は知る由もなく、戦後は色々な聯隊名が記されたものがあり、迷っているものと思われる。

 


写真 平成13年給水塔の解体工事の様子(明和町の歴史から)

 幻の航空通信聯隊 最後まで御覧下さいまして有難う御座いました


 公開時点インターネットの世界には全く姿を見せなかった第七航空通信聯隊、僅かではあるが当時の姿を語り伝え、併せて60余年前の人生の1コマを此のページに記録できたことを幸せに思います。


< 終わり >


2007年 3月12日   公開
2021年 6月 4日 最終更新

参 考 資 料
明和町広報紙 平成13年ドキメント版
ふるさとの年輪 明和町発刊
防衛研究所資料 アジア歴史資料センター閲覧




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