編成 ~ラバウル派遣 ~ ニューギニア転戦 ~ 終戦の略歴
第5航空通信聯隊の編成 第5航空通信聯隊は、昭和16年(1941年)7月20日飛行第5戦隊(千葉県柏)の担任により編成され、当初の聯隊名は「航空通信第五聯隊」と称し、聯隊長は高田 俊一大佐、聯隊の基本編成は、聯隊本部、有線中隊2個中隊、無線中隊2個中隊、材料廠で定員1.235名(含軍属5名)となっている。 7月24日軍輸送船にて大阪港を出港、釜山港に上陸し満州のチチハルに向かう、8月1日 チチハルに到着、第2航空軍の隷下に入り満州北部の航空通信網を担当した。 昭和17年 6月1日 軍令陸乙第14号により「第五航空通信聯隊」と改称する。この聯隊の部隊通称号を「雪第9941部隊」と称した。後第4航空軍隷下となり第4航空軍の兵団文字を使い「直第9941部隊」となる。 第6飛行師団に編合されラバウルに派遣 大陸命第721号(昭和17年11月27日)により第8方面軍直属飛行部隊を改変して第6飛行師団を編成、第8方面軍戦闘序列に編入された。中心となる戦力は満州方面から引き抜いた戦力でありこの中に第5航空通信聯隊が第6飛行師団司令部直属に編合される。 第6飛行師団の編成は次の通り 第六飛行師団長直属部隊 第一二飛行団 白城子陸軍飛行学校教導飛行団 12月29日ラバウルに到着、第6飛行師団司令部の指揮下に入り、聯隊本部をラバウルに置き、ニューブリテン島、ソロモン諸島の飛行場に展開。 昭和18(1943年)年4月ガダルカナル島放棄後、第6飛行師団司令部はニューギニア方面に専念すべく司令部をラバウルからウエクワに移動させる。戦力の消耗の激しい第12飛行団に変わって第14飛行団が配備される事となったが様々な問題から進出が遅れ6~7月になった。 6月30日、 宇品を6月5日出港の陸軍輸送船あきつ丸にて内地より補充隊員が到着をした。聯隊の編成改正を行い、有線、無線各1中隊を増し、聯隊本部、有線中隊2個中隊、無線中隊2個中隊、材料廠の約800名となる。 第6飛行師団司令部の戦力の消耗が激しく、増援の戦隊が到着したころへ、更に増援部隊として第7飛行師団が送られてきた。これを指揮するために7月18日 大陸令第818号により第4航空軍が編成され、第5航空通信聯隊は第4航空軍司令部直属となる。 8月3日 中山 直積中佐が新聯隊長に発令され、8月22日ラバウルの聯隊本部に着任 第6飛行師団は狭いウエワクで第7飛行師団及び第4航空軍司令部直属航空部隊と同居する形となり、同地に戦力が集結することとなった。米第5空軍はウエワクの陸軍航空部隊には基本方針として手を出さず、刺激しないようにしてきた。だがこの航空部隊が活発に動き出し各飛行場に爆撃を行うようになってくると、ウエワクに対して一大攻撃を仕掛けることに決定した。 8月17日、この日「ウエワクの悲劇」と呼ばれることとなる米軍機によるウエワク・ブーツ地区に対する一大空襲を行ってきた。 結果として第6、第7両飛行師団合わせて稼働30機程度にまで戦力を失い、且つ又翌日も米軍機による爆撃が続き、同地区の陸軍航空部隊は壊滅に等しい程の被害をこうむる。以後は細々と航空戦は継続される。 8月 第5航空通信聯隊は、ラバウルに聯隊本部を置き、有線中隊と無線中隊の一部を、ソロモン諸島、ニューブリテン島ツルブ、マヌス島ロレンガウ、東部ニューギニアのマダン、ラエー、クインシュハーフェンに派遣していた。 8月25日 第2航空通信聯隊の有線1個中隊、無線1個中隊が満州より到着、指揮下に入る。よって有線中隊 無線中隊各3個中隊となり 第5航空通信聯隊ニューギニアに転戦 昭和19年(1944年)2月 3月1日 電信第16連隊の有線中隊1個中隊を指揮下に入れる。 3月14日 ダンビール海峡の制空、制海権が完全に失われ、ラバウルからニューギニアを指揮することができなくなったので、大陸令第963号(昭和19年3月14日)により第二方面軍戦闘序列に編入 3月27日 大陸令第9777号(昭和19年3月27日)により南方軍戦闘序列に編入 4月22日 第24師団及び第41師団を主力とする米軍が、フンボルト湾およびタナメラ湾からホーランディアへ上陸した。主攻撃目標は、守備が特に手薄なのを見抜いてタナメラ湾を選んでいる。米軍の上陸部隊は多数の航空機などに援護され、22日のうちにホーランディアの東海岸と西海岸の地域をほぼ全域を占領することができた]。日本軍は多くが軍刀や銃剣を武器とするなど満足な装備が無く、有効な抵抗ができない間に大きな損害を受け、退却を余儀なくされた。第5航空通信聯隊も壊滅状態となる。 サルミに転進 米軍が上陸した5日後の1944年4月26日に、飛行場などは連合軍の制圧下に入り、以後、連合軍は6月6日まで掃討戦を続けた。同日、現地での先任指揮官であった第6飛行師団長心得稲田正純少将は、日本軍の残存兵力を西部ニューギニアのサルミ方面へ撤退させることを決断した。 しかし、サルミまでの400kmの道は非常に険しく、途中には100以上の川を越えなければならなかった。渡河の際、体力の低下が激しかった将兵たちは、豪雨の影響もあり激流に流され、そのまま死亡する者も多かった。さらに、食料が著しく不足していた上にマラリアの感染者も多く、発熱して道に倒れたまま死んでいく者も多かった。そのためホーランディアとサルミ間の道は白骨化した死体が続く惨状となった。
5月17日 連合軍はワクデ島、対岸のトル河口付近上陸。この頃から、デバブレ方面から海岸地区を後退してきた一部の労務者や兵員などが無秩序にサルミ方面で食料を捜し求め、第36師団は当惑していた。第36師団の第6飛行師団に対する態度は厳しいものだった。第36師団のトル河口方面攻勢は月末頃が最高潮に達していた。このとき多数の敗退部隊が無統制でサルミ地区に入ることは、第36師団の戦闘を妨害する處が大であった。
5月31日朝 稲田少将は第36師団通信所に到着、同日午後から6月1日まで第36師団首脳と会談し、以下の事に関し合意した。 この決定は、第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄少佐が6月2日以降、トル河畔に各部隊を捜し求めて伝達
飢餓と闘いながら終戦を迎える サルミ地区のマッフィン湾岸のローントリーヒル(入江山)では日本軍がアメリカ軍第158連隊戦闘団と激戦を繰り広げ、アメリカ軍に大きな出血を強いた。その後日本軍は後退して持久体制に入り、連合軍側も積極的な攻勢は行わずサルミ地区の兵力の配備を次第に縮小する中で飢えと闘いながら終戦を迎えた。 昭和20年10月15日 サルミに於いてオランダ軍により武装解除、オランダ軍はお金がなく収容所に入れる事もできず、そのまま自給自足で飢えとマラリアの生活を送った
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