第三航空艦隊の編成と香取航空基地の配備                   、

第三航空艦隊が編成される。
 
 昭和19年(1944年)6月ともなるとマリアナ諸島における戦局は日増しに悪化してきており、国防要線強化のため離島の防備を促進し航空兵力を拡充するため6月15日 第二航空艦隊を編成し、本土西方南西諸島、台湾に配備をおこなった。
 
続いて7月10日 従来東号作戦部隊として作戦中の部隊を中核に第三航空艦隊の編成を発令、本土東方並びに南方諸島に配備を行った。司令部は横須賀海軍航空隊に置き、司令長官に吉良俊一中将が就任され、将旗が横須賀海軍航空隊に掲揚した。そして第三航空艦隊兵力部署を定める命令が発せられ、木更津、茂原、香取、横浜、館山、八丈、明治、第2鈴鹿、並びに硫黄島、南方諸島航空隊基地等に各航空部隊が配備された。そして、各隊は現任務を続行せよ、新編部隊は戦備を促進せよ。と矢継ぎ早に命令が出された。
 
司令部の陣容も司令長官吉良俊一中将を始め、参謀長三浦艦三大佐、主席参謀佐々木彰大佐は7月7日に着任していたが、他の参謀や部員も16日頃までには殆ど着任され、17日司令部を木更津航空基地に移転、将旗を木更津航空基地に掲揚した。
 
尚東号作戦は連合艦隊において処理されることになり、13日付軍令部総長の指示により、作戦中の各部隊は作戦解除となった。配置された部隊の中には編成中のものも多く完全配備が完了するには月末までかかったようだ。8月1日司令長官は、第七基地航空部隊作戦命令第1号として第七基地航空部隊兵力部署を通定した。
このときの人員は、司令部 220人、麾下部隊9524人合計 9744人が配備された。
 
第131航空隊の開隊。
 
 香取航空基地には7月10日新しく第131航空隊が開隊、司令は浜田武夫大佐が就任された。この航空隊は最新鋭偵察機「彩雲」10機を装備する偵察第11飛行隊と、夜間戦闘機「月光」10機を装備する戦闘第851飛行隊の2個飛行隊で編成された、
 
又7月10日17時発令の基地使用区分命令で第752航空隊(本部木更津航空基地)の攻撃第5飛行隊が香取航空基地の使用区分に入れられ、131空隷下に配属になった、この攻撃第5飛行隊は、艦上爆撃機25機を装備しており、香取航空基地では併せて3飛行隊45機が猛訓練を開始した。
 
香取航空基地も第一航空艦隊のマリアナ出撃以来、めっきりと機数が減り、普段は鳩部隊の定期便と第322航空隊の戦闘機だけの基地に、やっと昔の賑やかさが戻った。早朝朝日を浴びて疾風のごとく旋回して南の空に消えてゆく彩雲、硫黄島近海か南方諸島の偵察に出かけたのかもしれない。夕方夕日を背に滑走路を飛び立つ夜間戦闘機月光、思わずギョッとする。暗緑色の機体は暗闇に呑まれそう。目の前30mくらいの高度で通過するときの双発エンジンの音はドスが効いている。日中は九九艦爆の発着訓練や急降下爆撃訓練の爆音が轟く。
 
8月1日付発令の第七基地航空部隊兵力部署の規定により、偵察第11飛行隊は、木更津航空基地に配置換えになり、館山航空基地から752空所属の攻撃第256飛行隊が天山25機を装備して香取基地に入ってきた。偵察夜間戦闘部隊として誕生した131空も,主力が艦爆、艦攻の攻撃部隊に変身してきた。
 
靖国隊が編成される

  昭和19年9月ごろ香取航空基地に最新鋭の四式重爆撃機(飛龍)の編隊(20機)が到着した。キューンという金属音を引いて次々と舞い降りる飛龍は、新鋭機らしく機体もピカピカ、重爆とは思えないような速力で、軽やかに飛んでいる。そして急降下、雷撃の訓練が始まる。
 
 今までは陸海軍とも飛行機の開発、飛行場等ははっきりと分かれていたが、戦局の悪化と共に、テストケースとして双方の弱点を補い、戦力を高める手段として編成された靖国隊であった。この頃、海軍ではベテラン操縦士の不足、陸軍では海上の航法が弱点で、これを補うため、操縦と射撃手が陸軍、航法、通信、爆撃手を海軍が担当し、これで1機の乗員を編成したと言われている。
 
 飛龍は毎日南の方へ洋上訓練に飛んで行ったが、10月12日の台湾沖航空戦には、第131航空隊の一部と共に全機が出撃してゆき、再び香取航空基地には配属にならなかった。
 
 この台湾沖の航空戦に出撃する攻撃第256飛行隊の天山22機は、関東地区戦備魚雷調整管理を担当の第24魚雷調整班(班長堀江楠男中尉)の派遣隊により、11日に雷装準備がなされ、12日に雷装して発進したと記録が残されている。
 
新鋭機続々到着
 131空と靖国隊が出撃してから間もなく艦爆流星が十数機到着した、F4Uの様にカモメ型の主翼で、日本最初の型だった。此の頃新鋭機が続出して、雷電,紫電、紫電改と到着して訓練に励んでいた。
 
香取航空基地も台湾沖航空戦の時、今まで居た部隊が九州方面に移動し、代わって北方に居た部隊が来て、その時2~3日間大編隊の往来が有ったが、その後は機数も減り19年11月以降は、B29の空襲の合間を縫って訓練をしていたが、積極的な戦闘は無かった。



香取航空基地のスナップである。
(昭和20年1月)

エプロンに並んでいるのは、第762航空隊第11飛行隊の彩雲偵察機13号と20号機である。尾翼に書かれたZ旗は、海軍機としては珍しい派手なマーキングである。
又新年の初飛行であろう、日章旗が飾られている。
前方の戦闘指揮所には13号電探が設置されている










 
     



           防空砲台は役に立たない

昭和19年10月末にはサイパン島の米軍基地はB29爆撃機の発着が可能になり、日本本土の全域が空爆可能圏となった。11月1日昼頃B29 1機による東京の初空襲、7日にも高々度による偵察飛来があり、砲台も俄かに緊張度が見られる様になった。
 
 やがて24日昼頃B29の大編隊の空襲があった、高度10,000mを白い飛行機雲を引いて上空を飛ぶB29の群れに、砲台からは猛烈に砲弾が発射されるが射程距離が8000mぐらいなので届かない、砲弾の炸裂した煙の上を悠々と飛ぶB29にみんな歯ぎしりをして悔しがった。
 


  写真 高高度を飛来するB29

 その後度重なる大空襲があった。夜間の空襲、厚い雲の上からの空襲などにも砲台からは猛攻撃が行われるが、撃墜した様子は無かった。ただ何度か夜間爆撃を終わり火を噴きながら南方洋上に飛んでゆくB29を見たことがある。
 
 香取航空基地防衛以外でも陸軍の高射砲陣地(砲台)が屏風ヶ浦南端、現在の展望台辺りにあり、三川国民学校に部隊を駐留させ本土防衛に備えていた。
※陸軍は高射砲、(高射砲陣地)海軍は高角砲(防空砲台)と呼称
 
 砲台の事については記録が殆ど無いので詳しい事は解らない。香取航空基地は田圃越しに見えるので様子が解るが、東砲台は2kmぐらい自転車で見に行かないと見えない。道路で余り見ていると咎められるので見るのも気が咎めた。ましてや、20年の2月半ばからは太平洋上の米空母から飛び立ち、襲撃してくる艦載機グラマンF6Fやヒコールスキーが何時襲ってくるか解らない状況だったので見に行くどころではなかった。

  しかし、今でも記憶に残るのは、休日に遊びに来ていた砲台の海軍さんが、私の現役入隊を皆で砲台から見送るよ、といって、駅まで行く途中の東砲台の上から大きな日の丸を何本も振り送ってくださった光景は今でも瞼に焼き付いている


 村の対応など 

 香取航空隊と香取航空基地には、将兵と施設の整備に従事していた徴用工など合わせて約3万人くらいが居たので、休日などには町や付近の農家に出かけ、町も大分賑やかであった。
 
 一方付近の農家も戦争が激しくなると、農地にも作業に行けなくなり自家用の食料も事欠くほど困難な生活に遭遇するほどであった。そこで共和村農会では、村内約100戸の農家に対して基地用の食料野菜の作付けを奨励指導をして基地に納入し、又毎日3万人分の残飯を払い下げ、飼料として農家に配給し養豚経営を奨励した。

 飛行場が出来たことにより、村内には樹齢200年を越える松ノ木が沢山あったのですが、飛行妨害と防空壕の材料や松根油(飛行機の燃料、メチールアルコール)の原料として使用するため伐採されてしまった


                香取海軍航空隊の防衛作戦

香取航空基地には、X状滑走路の北と南に滑走路から誘導路が作られ、その誘導路の周囲に鉄筋コンクリート製の掩体壕が25基作られていた。昭和19年10月末から始まったB29の襲撃に伴い、基地を管理する香取海軍航空隊は、掩体壕を追加する必要に迫られ、その数を増設した。材料の欠乏から土砂を用いる物も多くなり、コの字型に5m位土砂を積み上げ、上に偽装網を掛け木の枝や草を載せて中に飛行機を格納した。鉄筋コンクリート製の物を有蓋掩体壕、土盛りの物を無蓋掩体壕と呼んでいた。

 その後制空権が危うくなるにつれ、基地場外の北部、北西部の農地の中にも掩体壕が増設されその数は100を上回った。(市の資料を見ると総数118基まで確認できる。)

 この増設工事に携わった人夫は、朝鮮人労働者であったと言われている。確か終戦後、基地労働者であった朝鮮人たちは、基地の南の山林の中に朝鮮人部落を創り密造酒を販売していたことがあった。

 香取海軍航空隊は練習航空隊であるが、間もなく戦時編成実施の部隊となり香取航空基地の管理を続けてゆくのであるが、昭和20年2月に入ると米機動部隊の攻撃を受けるようになり、高角砲防空砲台だけでは基地の安全が確保できず、北掩体壕群の中に2群、滑走路東側に2群、西の兵舎の間に2群、基地の南に2群の25ミリ機銃を装備した機銃陣地を設け来襲する敵機に対応した。機銃陣地は1群に25ミリ連装機銃3〜6門、群によっては更に25ミリ単装機銃が1〜2門が加えられていた。

 この25ミリ機銃について調べてみると、極めて評判は悪く、命中率の悪い機銃であったようだ。当時のことを考えると、あれほど物凄い数の艦載機の来襲に、命中して落ちたと言う話は数機に過ぎない。あまりにも情けない。

 米軍の艦載機の来襲が激しくなると格納庫も毎回襲撃されるので、すべての飛行機は格納庫には入れられず、全部掩体壕に手押しで入れたり出したりしていた。遠いところでは、飛行訓練のために40分〜50分も手で押して滑走路まで運び、また訓練が終わると掩体壕に戻していた.未だ舗装されていない砂利道で1機押すにも大変だったといわれている。そしてこの作業は整備員が主となり行わなければならなかった。

 飛行機の整備も、機体整備場や整備工場では攻撃されて使用できなくなり、電気のない掩体壕の中や伊勢神宮の裏山の中で整備をするようになる。


B29の爆撃と艦載機の襲撃
  昭和19年11月からB29の空襲が始まり、5〜6日おきに大編隊が白い飛行機雲を引いて10,000m位の高高度を悠々と通過する。しかし殆どが京浜地区の爆撃の帰りで。爆弾は積載されていなく、眼下に香取航空基地を見ながらも空爆は無かった。このB29に高射砲陣地からは猛射撃が始まる。頭上に来たときは高射砲砲弾の破片が降ってくるので、皆防空壕に入り通過を待っていた。私が現役入隊するまで香取航空基地がB29の空爆を受けた記憶は無い。
 
 昭和20年2月16日から波状的に来襲する艦載機は、香取航空基地を襲撃したが、周囲の民家も攻撃され死傷者もでた。来襲したときは上空は敵艦載機が群れを成して飛び回り恐ろしい思いをした。この頃からB29も無差別攻撃をするようになり、焼夷弾による被害はかなり多かった。
 
 


松山基地から香取航空基地に移転

  昭和20年2月12日午前8時四国松山基地の海軍第601航空隊に新指令の杉山利一中佐が着任、601空の攻撃第254飛行隊長肥田真幸大尉に次の命令を下ろした。
 
 「艦上爆撃隊と艦上攻撃隊は、直ちに可動全力を挙げて関東地方の香取航空基地に移転せよ。在岩国の戦闘機隊は後日、令により移動、本職は輸送機で本日、香取に移動する。」
 
 午後1時肥田大尉は艦上攻撃機(天山)隊を率い、艦上爆撃隊(攻撃第1飛行隊・彗星)とともに松山基地を離れ午後5時全機無事香取基地に移動を完了した。そして到着した飛行機は直ちに掩体壕に入れられる。
 
 当時戦局は大きく傾き,間もなく米海兵師団が硫黄島上陸、日本軍守備隊と太平洋戦争でも最も激しい戦いが展開されようとしていた.従って、内地といえども、いつ敵襲を受けるかわからない緊迫した状況下にあった。
 
天山に哨戒命令、哨戒中の1,2番機が犠牲に

  昭和20年2月15日硫黄島の哨戒機から敵発見を報告してきた。
 「午後1時、敵水上艦艇見ゆ,大部隊にして、空母の在不明、位置硫黄島の160度、300カイリ」
 
 続いて第三航空艦隊(木更津基地)の司令長官 寺岡中将から
「601空は天山4機をもって、木更津より80度と110度の間300カイリの哨戒を行え」との命が下る。
 
 2月16日午前5時、攻撃254飛行隊長の肥田大尉は、天山艦攻に出発を命じた。1機また1機と、まだ明けやらぬ香取基地を飛び立ち、南方洋上に消えていった。
 
 この段階では、香取大尉の指揮する戦闘機(零戦)隊は未到着で、敵を迎撃するには不十分な態勢であった。肥田大尉は敵が来襲しないことを祈り、残りの飛行機は俺体壕に入れ、機銃をはずして対空砲火用とし、急いで電信室に飛び込んでレシーバーを耳に当てる。
 
 午前6時40分、最も恐れていた「ヒヒ……」の信号が耳に響いた。続いて「われ敵戦闘機の追跡を受る」を最後に連絡が途絶えてしまった。1番機である。
 
 肥田大尉は「電信員、他機あて『敵戦闘機に注意』急げ!」と命じ、杉山指令に報告する。香取基地には警戒警報が発令され騒然となった。2番機とも連絡が取れない。1番機と同じく撃墜された公算が強い。
 
 しかし、この1,2番機の犠牲により、敵は基地から100度。110度の方向にいることが判明した。80度、90度方向の3,4番機は直ちに了解『敵を見ず」と報告してきた。
 
 敵機約50機と銃撃戦

 午前7時少し前、あたりは明るくなりかけている。其の時『敵編隊東、高度7000、ちかずく!」と見張りが報告する。零戦隊のいないのが残念だ。零戦がいないのを見極めたのか、敵グラマンF6Fは降下して、地上の飛行機を攻撃した。
 
 敵はこの日午前中、3回にわたって約50機が来襲、銃撃とロケット弾攻撃を繰り返した。わが地上砲火で数機を撃墜破したが、地上の天山3機が被弾炎上した。午前9時から正午までに、彗星6機が2機ずつ出撃したものの護衛戦闘機なしとあって,2機が帰還しただけだった。
 
 一方、哨戒中の天山3,4番機には『香取基地に小型機来襲中,北方に避退し、松島基地に向かえ」と打電された。両機は無事に筑波と松島に着陸、夕方になって帰投した。
 
 また、待望していた戦闘機隊は香取隊長に率いられ、午後1時に香取基地に進出した。同戦闘機隊はこの日朝、岩国基地を離陸、敵機動部隊の来襲を避けて厚木基地に着陸、同基地で戦闘準備を整え、敵と空戦を交えながら香取基地に到着したのである。
 
 明2月17日も早朝から敵が来襲したが、今度は零戦隊がいる。香取大尉指揮する零戦隊が期待にこたえて、敵を見事に撃退したため、基地の被害はほとんどなかった。午後からの来襲はなく、敵はいよいよ硫黄島の攻略に向かったものと推定できた。

 又旭防空監視硝の記録、関東地区防空警報と関連記事年次表の中で2日間の記事は次のように記されている。
2月16日
7.09〜9.35 (空襲警報発令時間〜解除時間)
   旭硝上空F4U16機来襲、夜明けごろ発見報告。
   香取基地13機発進(全機やられる)硫黄島艦砲射撃受く。
10.47〜12.05
   艦載機自在に暴れまわる。
12.30〜13.23
   立硝交代できず握り飯で勤務する。
   第1〜7波来襲、旭市内1名機銃で死亡。
14.55〜16.00
   艦載機940機。1〜7波見渡す限り敵機となる。
   香取基地全然出撃せず、グラマン、カーチス。ダグラスの各機来襲
2月17日
7.23〜10.50
   寒さと緊張に震えて立硝にがんばる。降雪模様となる。
12.02〜12.17
   第1〜4波艦載機590機。茨城方面基地と工場攻撃。
        

暴れ放題の敵艦載機群

 (旭防空監視硝の記録、根本硝員の日誌より)
昭和20年2月16日
早朝6時ごろより、監視の重点を東方より南西方向とし、通信員以外は全員で立硝する。
 東方の山際が少し明るくなってきた。宮内正三硝員が、「あれは鳥かなあ?」とつぶやく。直ちに対空双眼鏡で見る。「飛行機だ」 逆カモメ翼のF4U(艦戦コルセア)だ。4機編隊で4っ、16機を発見、直ちに本部に報告する。
 

  この時点での発見報告は、銚子本部所属の監視硝中で一番早かった。前日香取海軍航空基地将兵に対する非常呼集の動静から、監視の目を光らせて、一晩中細心の注意を払っていたからだ。
 
 敵の艦載機群の編隊は、だんだん旭硝の方に向かって飛んできた。香取基地から零戦がつぎつぎと離陸し始め、編隊を組みながら急上昇する。F4Uもこれを発見したらしい、速力を増してくる。
 
 零戦隊13機は、まだこれに気がつかない。「危ない」、「逃げろ」,立硝台の上で思わず大きな声が出る。F4Uは巧みに背後にまわる。高度も有利だ。!!万事休す!!、急降下して一撃で5〜6機が墜される。残った零戦はバラバラになって逃げる。これを2機ずつに分かれたF4Uが後を追う。ゼロ戦は逃げるが,みんな捕らまって次々と墜されてしまう。搭乗者が落下傘で飛び出した。遂に13機がやられF4Uだけが残った。口惜しいがどうしようもない。
 
 そして今度は急降下で香取海軍航空基地を次々に攻撃、基地から十数条の黒煙が上がる。この艦載機群は、香取基地の制圧隊らしく、2時間くらい基地上空に滞空して南方海上に退去した。
 
 やがて交代者も勤務につく、非番となった我々も帰宅するどころではない。必ずまた敵空母から奴らが飛んで来ると感じているからだ。
 
 間もなく東北方からも、東南方からも艦載機の大編隊が現れた。西進するのもあれば北進するのもある。西進するのは帝都方面、北進するのは茨城県下の飛行場の攻撃らしい。味方機は全々姿を見せない、心細い感じだが仕方がない。朝食もニギリ飯を食べながらの立硝である。相変わらず交代も出来ず、上、下番の硝員一緒に勤務を続ける。見渡す限り敵機だ。グラマンF6F,F4U,カーチスSB2C(艦爆)、ダグラスSBD(艦攻アペンジャー)、の大編隊だ。…………略………夕方になると、敵機は遥か洋上に姿を消した。今日発見した敵艦載機は延べ1,000機位を数えた。今夜はとても底冷えのする寒い夜である。
 
2月17日
 今日も空襲が予想されるので、早朝から警戒を厳にする.みんな疲れと、不安を感じながらも頑張り続けている。7時ごろ敵の艦載機群が現れた。だが東総地区には侵入せず、編隊の群れは、どんどん西方や北方の奥地に飛んで行く。空は曇り凄く寒い日だ。
 
 昼ごろになると、とうとう雪が降ってきた。そのせいか敵機の数もだんだん少なくなり、かえる「敵さん」が多くなった。午後2時頃になると見渡す限り雪で真っ白になった。まだまだ積もりそうだ。…………以下略

        3第三航空艦隊の編成と香取航空基地の配備 終り   


      神風特攻・第二御楯隊の編成と出撃こちらから   
                



 
  
 
 
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