香取航空基地は第一航空艦隊の錬成基地となる
  

第一航空艦隊(基地部隊)の編成
  太平洋戦争開戦から2年近くを経過したこの基地の完成時、日本海軍は多数の基地航空兵力を失いつつあったため、その穴埋めに便利な航空母艦搭載機を使用していたが、これも可也消耗していた。このため航空兵力の再編成を行なう事になり、新編成の 第一航空艦隊(基地部隊)を大本営直轄部隊として編成し、練成途中で戦闘に参加させずに訓練に精勤出来るようにした。
 
 この司令長官として、前第四航空戦隊(小型空母)司令官の角田覚治中将が任命され、将旗が新しく完成した香取航空基地に掲げられた。
 
 この第一航空艦隊は、用途別に編成し、固有の航空隊名の他に、次のような略称をつけ部隊名とした。(正式には部隊呼称隠語)と言われた。
  戦闘機隊  虎、 豹
  陸攻機隊  龍
  艦爆機隊  鳶
  偵察機隊  雉
  輸送機隊  鳩    等である。
最初は
第261航空隊 虎部隊 零戦(定数96機以下各隊同じ)
第761航空隊 龍部隊 一式陸攻96機
第521航空隊 鵬部隊 銀河24機 彗星艦爆24機
輸送機隊    鳩部隊 陸上輸送機、96式陸攻 24機(後19年1月1日第1021航空隊となる。)で編成したが、
 
続いて、10月1日
第121航空隊 雉部隊 二式艦上偵察機10機 彩雲偵察機2機
第263航空隊 豹部隊 零戦36機 
と編成後、天山艦攻、月光夜戦、二式陸偵と新しい機種で続々と編成した。
 
 この艦隊の、司令、飛行長、飛行隊長、分隊長は、ベテランの中佐から大尉級を第一線或いは練習航空隊より、戦闘や教育を犠牲にして引き抜き、あとは全員飛行練習生、飛行学生教程修了者のみで部隊を作ったもので、最終的には十数航空隊,1,500機の大部隊になる予定であった。各航空隊は、中部、関東の各基地を基点に猛訓練を開始した。 

航空戦隊の編成

 香取航空基地が完成してから4か月を過ぎた昭和19年(1944)1月、第1航空艦隊に於いてこれまでに編成された10ヶの航空隊を以て、第61航空戦隊が編成された。
 

第61航空戦隊編成表 
第61航空戦隊司令部 司令官 上野 敬三 少将(41) 
航空隊名  呼称  装 備  開 隊 地  開隊月日
第121航空隊  雉   陸偵、彩雲 香取航空基地  10月 1日 
第261航空隊  虎  零戦  鹿児島航空基地   6月 1日 
第263航空隊  豹  零戦  元山航空基地  10月 1日 
第321航空隊 鶏  夜戦月光  茂原航空基地  10月 1日 
第341航空隊  獅   紫電 松山航空基地  11月15日 
第343航空隊   隼  零戦 鹿児島航空隊   1月 1日 
第521航空隊 鵬  艦爆、陸爆  千歳航空基地    8月15日
第523航空隊  鷹 彗星艦爆  香取航空基地   11月 5日
第761航空隊  龍  一式陸攻、九六陸攻 鹿野航空基地    7月 1日
第1021航空隊  鳩 零式輸送機,九六陸攻  香取航空基地    1月 1日 
※1月1日開隊は昭和19年、他は昭和18年 


 第1航空艦隊は、続いて2月1日、香取基地に第62航空戦隊司令部を置き、司令官に松本 丑衛大佐 (44)を任命、今までに編成をした、第265、第221、第345航空隊を編入、2月15日第762航空隊、3月1日に第522航空隊を編入、更に3月15日に5個航空隊を編入し、10個航空隊で第62航空戦隊の編成を完結した。

 司令部も2月1日に置いたが、司令官杉本大佐は2月3日に着任、しかし幕僚などの司令部人事は進まず3月末まで掛かり編成を完結した。従って各航空隊には「各部隊は夫々各所在地に於いて戦備並びに単独訓練を実施すると共に訓練海面に於ける対潜哨戒に任ず」と命令し、司令官は、1日1航空隊づつ巡視を行い、准士官以上に訓示を行っている
その編成は次のとうりである。

第62航空戦隊編成表 
第62航空戦隊司令部 司令官 杉本 丑衛 大佐(44) 
航空隊名  呼称  装 備  開 隊 地  使用基地
第265航空隊  甲戦 松山航空基地  新竹航空基地
第221航空隊  甲戦 笠の原航空基地  笠の原航空基地
第345航空隊  乙戦 鳴尾航空基地  鳴尾航空基地
第762航空隊  陸攻 新竹航空基地  鹿屋航空基地
第522航空隊 陸爆 木更津航空基地  木更津航空基地
第361航空隊  乙戦 鹿児島航空基地  鹿児島航空基地
第541航空隊  艦爆 松山航空基地  松山航空基地 
第141航空隊 陸偵 三重航空基地  三重航空基地 
第322航空隊 丙戦 香取航空基地  香取航空基地 
第524航空隊 陸爆 豊橋航空基地  豊橋航空基地
 ※順序は編制月日順、3月末司令部40人、隷下総員7.884人

 ※ 第265航空隊は、5月5日第61航空戦隊の第341航空隊と入れ替えをされ、第265空はマリアナに進出、第341空は館山航空基地に配置された。

 第62航空戦隊は、南方には派遣されなかったが、昭和19年5月5日付で第1航空艦隊より除かれ、連合艦隊直属となり、5月20日第62航空戦隊司令官は第2訓練部隊の指揮官を命ぜられ、摂津,鳳翔、夕風を合わせて指揮し内海西部雷爆訓練の指導に任ぜられる。
 隷下各隊には、夫々各所在基地に於いて急速戦備並びに単独訓練を実施すると共に所在内戦部隊に協力すべしと命じている。

 なお、第62航空戦隊は、6月16日改変して独立艦隊となり、第2航空艦隊として、南西諸島、台湾方面の配備につく。

                  
香取海軍航空隊の開隊

 香取航空基地の完成とともに第1航空艦隊司令部がおかれ,隷下航空部隊の昼夜を問わない猛訓練が始まって間もなく、香取航空基地の西隣に横須賀鎮守府によって新しい航空隊の編成が準備されていた.。

 横須賀鎮守府長官の命を受け香取海軍航空隊(仮称)設立準備委員会が設けられ。この委員会により、準備が進められたようだが、具体的には設立準備委員会の準備内容は解らない。

 しかし、現実香取航空基地の西側に,兵舎や機体整備場、金工、木工工場の建築整備が急速に進み、昭和19年2月1日付内令第286号をもって千葉県匝瑳郡椿海村に香取海軍航空隊が開隊した。又内令第287号を以て練習航空隊と指定され、呼称も「カト」と定められたのである。

 そして今まで香取航空基地の管理を第1航空基地隊が行ってきたのであるが、昭和19年2月1日付内令第290号により、第1航空基地隊に替って香取海軍航空隊が管理するように定められた。

 この香取航空基地の管理とは、基地の諸施設、諸兵器の保管、整備並びに防衛に関することを掌り、香取航空基地を使用する航空部隊の諸作業及び通信に関する業務を補助するという重大な使命を帯びている。

先ず、通常において基地全体の警備をする衛兵や歩哨勤務から始まり、基地外の施設、弾薬庫、発電所、無線送受信所、病院等に隊員を配置して警備、管理運営を図った。特に大きなことは、基地の周囲4か所に設置されている砲台陣地や付属施設に大勢の隊員を配置し、敵機の来襲に対応したことである。

 又香取航空基地には、多くの航空部隊が駐屯して訓練や戦闘配置についていた。この航空部隊の飛行機の整備や無線通信業務など訓練や戦闘に必要な諸作業の補助協力を行っていた。



第一航空艦隊出撃!
  訓練に訓練を重ねていた第一航空艦隊も昭和19年2月15日、中部太平洋の戦局が急を告げたため、練成は未完であったが連合艦隊(司令長官,豊田副武大将)に編入され、いよいよ出撃する事になったが,機数は一応揃ったものの、新しい部隊は未だ編成途中であった。
 
 各航空隊は、角田司令長官の訓示と見送りの為香取航空基地に集結した。第一航空艦隊、第61航空戦隊の先発隊、百数十機が次々と離陸、基地上空を旋回しながら大編隊を組み、南の空に出撃する姿は壮観であった。それから4〜5日は毎日数百機の離着陸があった。基地内の全機は次々に魚雷や爆雷を抱き補助ガソリンタンクまでつけて出撃、その後香取航空基地はひっそりと静かになった。
  
 それから2週間もすると、龍、虎他、各部隊は全滅したらしいとの話が伝わってきた,何としたことだ。全軍の期待を担って、あんなに大多数の飛行機がと、信じられない気持だ。

 各航空隊がマリアナに進出後、香取航空基地には、第61航空戦隊残留班が置かれ,班長には、第761航空隊の 中村洋一主計大尉が任命された.。

 また、香取航空基地には第61航空戦隊空輸班が置かれ、前線基地への補給の任務にあたっていた。3月7日第61航空戦隊司令部は、第261、第263、第761航空隊の内地残留基地員をそれぞれ鹿児島、松山、鹿屋基地より撤収、香取航空基地に集中、第61航空戦隊各空輸班に編入せしめ、第761航空隊の鹿屋派遣錬成員の基地任務を第762航空隊の担当とした。



       
        海軍の「あ」号作戦とマリアナ防衛

  
日本海軍がアメリカ海軍を仮想敵国として、多年にわたり営々として戦備を整え、演習を重ねて技を磨いてきた戦略は、マリアナ列島を中心とする海域に、アメリカ艦隊を引き入れ、そこをわが連合艦隊の全力を挙げて決戦を挑み、雌雄を一挙に決しようと言うのが多年にわたる日本海軍の根本の戦略であったのである。 名付けて遊撃決戦といった。
 
 この戦略思想が適当であったかどうかは別として、日本海軍のあらゆる戦備も教育も一切がこの思想に基づいていた。開戦にあたり長躯してアメリカ海軍の根拠地真珠湾をたたいたのも、又南方の資源地帯を攻略したのも、究極においては、この戦略を実現せしめるための手段に過ぎなかったといわれている。
 
 日本海軍はこの作戦を「あ」号作戦と名付け、この作戦のため動員した兵力は、最新鋭空母の大鳳を含む空母9隻、大和,武蔵を含む戦艦5隻、重巡10隻、軽巡3隻および駆逐艦29隻に達し、空母搭載機は450機,艦載水上機43機だった。
 
 この様な大艦隊兵力が集中することは,真珠湾のときにも、ミッドウエーのときも、又南太平洋海戦のときにも無かったし、この海戦の後にも勿論無かった。なおこのほかに、第一航空艦隊の基地航空部隊約600機が協力することになっていた。
 
 主戦闘兵力である母艦機の数はアメリカ側のほぼ半数であったが、基地航空部隊を入れれば、ほぼ同数か、あるいは日本側の方が若干上回っていた。
 
ミッドウェーの敗戦に引続いてソロモン方面の消耗戦で十分な再建の機会の無かった母艦機の術力は、多くを望めなかったが、
基地航空部隊の第一航空艦隊こそがこの期に備えて1年近くにわたり一剣を磨いてきた日本海軍の虎の子であった。最悪でも五分と五分の戦いを望みたいところであった。


 
 余りにもお粗末なマリアナ防衛
  マリアナ列島を中心とする海域で敵の艦隊を迎えて決戦を挑むという日本海軍多年の戦略思想にも拘わらず、当時のマリアナ方面の防備の状況は、サイパン、テニアン両島に飛行場が各一つあるのみで、防撃砲火としては高射砲が数門という惨めさであった。なお同方面の陸軍守備兵力は皆無だった。 
 
 日本海軍がマリアナ列島線の強化に本腰を入れだしたのは実に遅く、昭和19年になってからである。このころアメリカ軍の潜水艦の活躍は俄然として活発になり、日本軍のマリアナ増強計画の輸送船団を攻撃した、中でも安芸丸,三池丸,崎戸丸等の優秀船は、兵器と資材を満載したまま太平洋の底深く没した。7隻の船団のうち5隻が沈められたものすらあった。
 
 それでも6月までにマリアナ方面に送り込んだ兵力は3万に達していた。そして,日に夜をついでの懸命の努力で、防備も6月末から7月始めにはほぼ出来上がる予定あった。しかし、連合軍の進攻はそれより早かった。連合軍が上陸するまでには、新たな飛行場はついに完成されることは無かった.のみ成らず既成の基地に対しても警報、防空の施設も十分ではなかった。
 
 さらに防空火器に対する弾薬が不当と思われるほど少なかった。高射砲1門に対して供給されていた弾薬は約200発、25mm機銃については1500発にすぎなかった。
 
 日本海軍は昭和17年6月5日のミッドウェー海戦において、その当時の第1戦空母であった赤城、加賀、蒼竜,飛竜を一挙に失い、母艦の脆軟性をいやというほど思い知らされ、ついでソロモン方面で航空消耗戦に引き入れられて苦汁をなめさせられて、基地航空隊こそ頽勢を挽回する主力兵力であると確信していた。
 
 なお日本海軍が「あ」号作戦に多くの望みをかけていた最大の理由の1つは、マリアナ列島にある不沈の航空基地を土台とする基地航空部隊に期待するところが大きかった。しかし いかに不沈の陸上基地であっても、防備の薄弱な数少ない基地に、いかに強大であっても、多くの航空機を集中することは、かえって累卵の危を招くようなものだった。
 
 昭和19年になると戦局は日を追ってますます悪化した。東の要点であるマーシャル群島の陥落、中部太平洋随一の要害の地であるトラック島すら脅威にさらされた。北のアリューシャンで内線のキスカ島が攻略されたのを見ても、いまやマリアナの線も危ないことも明らかであった。しかし 事実において2月の初めマリアナ方面の防衛はまだ見るべきものは何も無かった。
 
事態は逼迫していた。第一航空艦隊の練成はまだ完了していなかった。だが、ついにマリアナに出動を命じられた。そして先発隊がまだ防衛の完成していないサイパン、テニアン及びガムの基地に翼を休めるやいなや、第一の不運が降りかかってきた。それは第一航空艦隊の進出を待ち伏せたかのように、敵の機動部隊の攻撃に見舞われたことである。
 
 昭和19年2月20日角田中将は第一航空艦隊司令部をテニアン島に移動開設した。だが同時に進出を予定していた航空部隊の内、攻撃勢力の中心である戦闘機部隊、第261航空隊(虎部隊)は 前日鹿児島から香取航空基地に移動後、司令部と共にマリアナに進出する予定であったが、悪天候のため不時着機が続出、結局第261部隊のマリアナ進出は遅れてしまった。
 
 2月22日、マリアナに進出した航空部隊の内、もう一つの攻撃主力(一式陸攻)の第761航空隊(龍部隊)は、司令部随行の偵察隊第121航空隊(雉部隊)と、早速偵察機による東方700海里の索敵哨戒を開始した。数日前に最大の根拠地トラック島が空襲を受けているため、いつ敵の機動部隊の攻撃を受けるか解らない状況であった。そして14:00「敵機動部隊見ゆ…」の第1報が届けられた。角田中将は、第761航空隊に発進準備を命ずる。

 だが戦闘機部隊の主力はまだ硫黄島までしか進出しておらず、サイパン到着は明日23日の予定だった。司令部の中には此の戦闘機隊を硫黄島に留めておくよう進言する者もおり、明日の進出では敵機来襲には間に合わず、もし来襲中に到着しても混乱が生ずるだけである。またマリアナに居る戦闘機戦力では数が足りず、また進出直後であり直ちに攻撃に向かっても太刀打ちが出来ないだろうと判断して退避を進言するものもあった。
 
結局司令部では揉めているうちに時間が過ぎ、翌日の来襲が確実なため進出している第761航空隊による夜間雷撃を決定し出撃を命じた。 第一航空艦隊の最新鋭攻撃部隊、龍部隊(一式陸攻)は、その日の夜3波にわたって夜間雷撃をかけた。その状況は761空戦闘行動調書によれば
第1次攻撃隊
 22日 17時15分 陸攻16機発進  内5機発動機不調で引き返す。
     20時10分 第2D敵防御砲火を受け機動部隊発見
             2D突撃(2015魚雷発射)

     21時10分 進撃接敵時及び退避中
             敵夜戦3以上と空戦
             1区隊2番機夜戦1撃墜
     21時15分 第1D突撃
             魚雷3本命中 火柱を認む
     未帰還 7機
第2次攻撃隊
      20時30分 陸攻5機発進
     22時00分 敵空母らしきものの火災発見
     22時15分 突撃(視界不良なるも空母と認む)
             進撃時及び退避時敵夜戦2以上と交戦
     未帰還 4機
第3次攻撃隊
 23日 03時20分 陸攻12機発進
     発進後1機不時着 搭乗員無事
     指揮官機戦機を逸するを慮し増速列機分離
     戦場に到達日の出1時間後となりたる為攻撃を断念帰投。
     列機は単機多大撃せるものと認む、
     (列機攻撃せるものの如くなれども列機1外全機未帰還なるため不詳)
     指揮官機外1機帰投後基地上空にてグラマン4機以上と空戦
     陸攻2機帰着
     未帰還 9機
総合的戦果として 母艦1撃沈、大型艦3撃沈、母艦1中破、夜間戦闘機1撃墜とあるが、
被害としては、 未帰還20機となっている
 

 23日偵察隊第121航空隊7番機の報告では
4時45分「第1群敵機動部隊(空母5隻以上、戦艦2、駆逐艦8、)を発見、觸接開始」
5時45分「第1群付近に大型空母3、小型空母3、戦艦4、駆逐艦多数より成れる第2群機動部隊発見、之が觸接を開始せり」と報告があり、その後5番機からも「敵戦闘機の追跡を受け觸接を確保できず」と又9番機からは6時50分「任務終了帰途につく、基地上空は敵戦闘機多数認められベガンに向かう」と
この時間にはテニアン上空は無数の敵戦闘機で、帰還できずガム等に向かった偵察機もある。
 
 23日は未明から戦闘機隊・艦爆隊による黎明攻撃を仕掛けたが効果は期待出来ず、彗星艦爆
2機が未帰還となる。321空はマリアナ沖を月光5機で哨戒索敵中4時15分から3回にわたりグラマンと交戦、4機を失い、また防空戦闘機隊も早朝から発進して警戒を続けていたが、米機動部隊の艦載機延べ350機がサイパンとテニアンに来襲し、同島に進出していた第一航空艦隊の先発隊は、猛烈な敵の攻撃にさらされた。
 
 第263航空隊の零戦(12機は迎撃戦で消滅)第761航空隊(龍部隊)の陸攻、第523航空隊の彗星艦爆、第321航空隊の月光等、実に83機が地上で破壊されており、残ったのは僅か十数機に過ぎなかった。761空も飛行隊長布留川泉大尉が戦死され部隊は壊滅に等しい状況だった。 第一航空艦隊は初出陣のたったT夜1日の戦闘で先発攻撃隊の殆どの戦力を失ってしまったのだ。
 このとき第11航空艦隊の第751,755航空隊(陸攻)がマリアナに於いて再建中を襲撃され戦力を消耗する。

第一航空艦隊先発隊の初陣の惨敗は余りにも酷過ぎた。彼我の兵力のバランスが余りにも比較にならなかった。23日、350機の敵機来襲に戦闘機が22機しかいなかった事がおもな原因でもあつたであろうが、その戦闘機の内10機までが地上で爆破された事、また敵機による基地に対する攻撃は一方的であり、基地にあった航空機のうち大部分が地上で補足され爆破されている事は、敵機来襲の十分な警報を受ける余裕が無かった事を示しているほか、航空機を分散格納する掩体壕などの整備不足等、基地の対空防衛施設設備の大きな不備と言わざるを得ない。
                        

            写真、テニアンに配備された零式戦闘機
 アメリカ側の損害は僅かに6機にすぎなかった。敵の機動部隊は第一航空艦隊のマリアナ進出を知って攻撃して来たのではなく、それより5日前のトラック空襲に引き続いて、マリアナ方面の写真偵察を主目的として来襲したものであった。
 
 日本海軍が多大の期待をかけて練成してきた決戦基地航空部隊の攻撃隊の大部隊が。まだ練成の途中であったとはいえ,その初陣で惨敗したことは、日本軍の作戦当局者を狼狽させずにはおかなかった。それは、その不幸な前途を暗示するかのようだった。

 が、それにもまして重大であったのは、写真偵察によって日本のマリアナ防衛がまだ出来上がっていない事を知った連合軍が10月1日に予定していたサイパン攻撃の予定を、大幅に繰り上げ6月15日と決定したことであった。この進攻期日の繰上げが、日本の決戦準備を大きく狂わすようになった。
 
 その意味では、第一航空艦隊の初陣の完敗は、5日前のトラック基地に対する敵の機動部隊の空襲によって、25万トンに達する艦艇及び船舶を沈められ,320機というおびただしい数の航空機を焼かれた大損害を上回るものであったと言えるほどであった
 


テニアンで米軍機動部隊に撃墜された海軍機

  ニューギニア、サイパンに於ける第一航空艦隊の戦い    、
 
 ラバウルを中核とする南方方面の防衛線が抜かれたあとの同方面の戦局は,日とともに急速に悪化していた。4月にはホルランジアが陥ち、5月には早くも西部ニューギニア随一の要害の地ビアク島に迫った。しかし 戦略上重要なこの島も、初め日本軍の作戦当事者の認めるところとならず、5月3日に発令された「あ」号作戦計画にも,同島に敵が上陸しても、守備隊の善戦にまつのみ……玉砕……にまかすのみというのであった。
 
 だが、昭和19年5月27日連合軍がビアク島に上陸を開始すると、この作戦方針はたちまち変更されて、ビアク方面の作戦を強化するため合計150機余の航空兵力を取って置きの第一航空艦隊から引き抜いて前後3回にわたり西部ニューギニアの基地に投入をした。
 
 第一航空艦隊から増強された150機余の航空機は、ニューギニアの西端のソロン基地及びパポ基地から作戦したが、敵機との戦いよりも、不完全な基地の施設と悪疫との戦いであった。初めのうちこそビクア島の守備隊の善戦に呼応するようなイキの良い攻撃を加えることが出来たが、間もなく戦力は急速に衰えていった。
 
 「あ」号作戦決戦用意を下命されて原隊への復帰が命ぜられたとき、戦闘に使用できる機はいくらも残っていなかった。決戦を前にしてかけがえの無い150余機の戦力をニューギニアの悪飛行場と悪疫の中に消耗したことは第一航空艦隊の第二の不運と言わなければならなかった。
 
 活躍する第一航空艦隊の偵察隊
  平成19年5月末頃になると敵の次の攻撃が間近いと判断していた連合艦隊は、敵の動静を探ろうと躍起になっていた。敵の大部隊を収容できる根拠地は,泊地の広さなどから、ガダルカナル島、アドミラルティ諸島、及びマーシャル群島のメジュロ、クェゼリン環礁のいずれかであろうと考えられていた。これらの偵察は第一航空艦隊の第121、第151航空隊(ともに偵察専門)に担当させた。
 
 南東方面を担当する第151航空隊は彗星偵察機を孤立したブーゲンビル島のフイン基地に潜入させ、ガダルカナル島,次いでアドミナルティを偵察したが、敵の主力空母等は宿泊していないことが確認された。
 
 第121航空隊は、敵が在伯する公算の最も多いと思われるマーシャル群島を担当したがトラック基地からメジェロまでは直線で片道千浬、飛行そのものが問題であり、敵中に取り残された孤島ナフルに飛び同島で補給してメジュロに飛ぶコースを選び、最新鋭彩雲偵察機をもって偵察、
 
5月30日 メジュロに改造型空母を含め5隻在伯,正規空母2隻出航中を突き止め写真撮影に成功。
6月5日 メジュロに正規空母6隻在伯、出航の気配濃厚を確認。
6月9日 メジュロに敵はいなかった。
 
 敵は6月5日から9日の朝までに出撃したのだ。とすれば何処に現れるか、全軍の関心は其の点に集中した。連合艦隊は「あ」号作戦準備」を発令した。
 
開戦以来日本海軍が敵艦隊の動向をこの時ほど的確に捉えたことは無かった。第一航空艦隊のこの挺身偵察は、被害皆無で作戦計画実行中の最高のものだった。
 
 連合国軍の攻撃が始まる
  連合国軍がサイパン攻撃を決定したのは3月12日で使用兵力は4個師団半、上陸予定日は6月15日であった。
 
 6月11日サイパン、テニアン、及びグアムに対するミッチャー中将の指揮する部隊の攻撃が始まった、この時点において期待の第一航空艦隊のマリアナとカロリン諸島の各地に展開していた兵力は、それまでの敵の機動部隊との戦闘及び西ニューギニアへの転戦のために意外に少なく、約136機に過ぎなかった。当初の目標であった1,500機はおろか,この期待の航空艦隊が南方に進出前に整備し終わった約600機弱に比べても、其の3分の1にも達していなかった。
 
 この点からだけでも、「あ」号作戦は其の作戦の開始前から大きく計画と狂っていた。更に悪いことには、この重大な事実が作戦全体を指揮していた連合艦隊にも、又これから始まろうとしている作戦で大きな役割を演じようとしている部隊にも、十分に通報されていなかったことである。
 
 そして全作戦を指揮していた連合艦隊はこのミッチャーの攻撃に対しても慎重な態度をとり、第一航空艦隊に対しても積極的な攻撃を控えさせた。それでもこの日の航空艦隊の損害は、地上で爆破されたものが36機に及んだ。基地の防空設備の改善が依然として進まず、戦わずして36機もの航空機を失ったのである。
 
 「あ」号作戦発動
  連合艦隊がサイパン方面に対する敵の攻撃がエンド・ランでなくて本格的なものと考えるようになったのは、13日になって敵艦隊が艦砲射撃を加えるようになってからである。この日になって初めて「あ」号作戦用意を下命するとともに、ビアク作戦に従事していた航空部隊及び水上部隊に対して原隊復帰を命じた。それでもまだ決戦部隊である第一航空艦隊に対しては攻撃開始を命じなかった。
 
 6月15日午前8時過ぎ、猛烈な艦砲射撃に引き続いて,100隻以上に及ぶ敵の上陸用舟艇がサイパン西海岸に殺到した。
 ここにおいて豊田連合艦隊司令長官は「あ」号作戦を下命し、第一航空艦隊に対しても攻撃開始を命じた。
 
 猛将角田中将の率いる基地航空部隊、第一航空艦隊は、同日の夕刻に2回にわたって、雷撃機十数機をもって攻撃を加えた。しかし、敵艦に命中を与えたものは一つも無かった。同隊の善戦に多くを期待した「あ」号作戦の根本の計画が、そのスタートにおいて大きくつまずいたのである。
 
 サイパン島では15日の連合軍の上陸以来、夜となく昼となく文字通り血みどろの戦闘が続けられていた。しかし、守備隊の死闘にかかわらず形勢は次第に我が軍に不利になっていた。15日の総攻撃に失敗した第一航空艦隊は17日にはトラック基地から魚雷攻撃を、またヤップ基地から約50機の戦爆連合の攻撃を加えた。
 
 サイパン戦が始まって以来の割合に規模の大きな攻撃であったが,1隻の護送空母に命中弾一を与え,1隻の上陸用舟艇を大破したのみであった。その翌日も小規模の攻撃を加えたが、効果はなかった。
 
 6月19日の朝、サイパン西方約150浬ぐらいにあったアメリカ艦隊は、17日以来日本艦隊を発見することが出来ず焦りを感じていたが、朝の窄敵で日本艦隊を発見できないときはグアム、ロタ島に対して航空制圧戦をかけることとし、爆弾が不足していることから戦闘機だけで制圧戦に出た。
 
 この悲劇はアメリカ側が朝早くグアム島に対して制空攻撃をかけた時に始まった。日本にとっては全く不運にも、たまたまグアム島に増援に来た第一航空艦隊の30機以上の戦闘機が、着陸しようとしている時に、敵に襲いかかられる事になったからである。

 不意を突かれた日本の戦闘機は反撃するいとまもなく、その大部分が地上または空中で破滅してしまった。第一航空艦隊が渾身の勇を振るって試みたマリアナ海戦への出撃も、攻撃をかける前に挫折したのは,かえすがえすも不運と言わなければならなかった。

 又この日の午後、敵の機動部隊の攻撃に向かっていた第一機動艦隊(小沢隊)の第4波の50余機が敵を発見できずグアム島に向かい、着陸しようとしたところ,同島の制空をしていた敵戦闘機の奇襲を受け壊滅した。これは同基地の通信が円滑を欠いていたことを示すものと言わなければならない。
 
 米ニミッツラインによるマリアナ侵攻が行われた6月、急きょマリアナに呼び戻した第一航空艦隊の戦力は、決戦「あ」号作戦(マリアナ海戦)において何ら寄与することなく消滅していったのである。
 
 マリアナ戦において角田中将の指揮した第一航空艦隊が,如何なる戦いをしたかについては、現在になっても解らない点が多い、其の原因はサイパン及びテニアン基地の航空部隊は勿論、地上部隊も殆どが戦死したためでもあるが、いまひとつは戦闘間における報告が極度に少なかったことによるものと思われる。
 
 特に「あ」号作戦に参加した同艦隊が保有していた航空機数については、種々な説があるが、旭防空監視硝の記録の中で、6月14日一式陸攻を主力とする三百数十機の大部隊が香取航空基地から出撃している。日にちから考えても、翌15日発令の「あ」号作戦に参加したもの以外には考えられない、しかし、この大部隊の戦闘や戦果については何も知ることが出来ない。
 
 司令長官、角田中将も香取航空基地よりテニヤンに移駐したが米軍のテニヤン上陸後、敢闘するも、8月2日同島に於いて、第一航空艦隊司令部全員とその運命を共にした。
 
 
破壊され全機能を失ったテニアン空港 上 とテニアン市街 下


                                         
      

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          香取航空基地の周囲の状況

香取航空基地が出来て周囲の住民に一番関連のあった事は、騒音と墜落事故、それに加えて、昭和19年11月からのB29の空爆と、翌年2月からの米機動部隊の艦載機による航空基地への攻撃の巻き添えではなかったろうか。
 
  今では一言に騒音と言うが、当時の飛行機の発進コースの下の部落は、騒音どころではない物凄い爆音だった、雷が頭上を通過しているみたいで、頭上を通過するたびに、話は聞こえない、家畜は驚き鶏は卵を産まなくなる。寝かしつけた子供は目を覚まして泣き出す 等 等
 最初は機数も少なく、物珍しさも加わって興味深く見ていたが、やがて大部隊が編成されて、日夜を問わず猛訓練が始まると上空は爆音で渦を巻くようだ。 風向きによって滑走路も変わり、発進コースも変わると、嵐が過ぎ去ったような感じがした。
 
 しかし大きな魚雷や爆雷を抱いて重々しく何十機と発進するときは、皆手を振り「 頑張ってくれー」 と見送った。頭上を旋回しながら大編隊を組んで出撃する様子は実に壮観であった。
  
度重なる事故に脅える

 海軍機の不時着や墜落事故はかなり多く、これを見聞している人々は、飛行機の爆音が迫ると落ちるのではないかと言う恐怖が常にあった。頭上を通過して初めてほっとするのだ。
 
 訓練中の事故機は殆ど飛行場内か基地周辺の田圃、山林等に落ちたが、サイパン定期便が町の袋地区に不時着、民家2軒を直撃した事があった。朝7時ごろ東方から低空で飛んでくる96式輸送機がエンジンの片方が止まっている。香取航空基地まではまだ2kmぐらいはある、残りのエンジンも止まり、軍用道路に不時着しょうとしたらしいが、届かず道路手前の民家に突入した。幸い火は出なかったので近所の人たちが操縦席を壊して負傷している搭乗員を救出した。潰れた民家の1軒の家族は脱出して無事だったが、隣の1軒の家族2人は死亡した。丁度この時自転車で登佼途中の農学校の生徒が1人巻き添えで家屋と飛行機の下から油だらけで救出された、幸いにも負傷はしていなかった。

 又マリアナ進出の為香取航空基地を出撃した部隊の中でも天候不順で引き返す隊もあった。その中の銀河隊が編隊を解いて上空を旋回して着陸順を待っているとき、突然1機が真っ逆さまに大田宿の民家の中に墜落した。燃料も機銃弾も満載の銀河、ガソリンの強い火勢と、機銃弾の破裂で消防車も近寄れない,2軒の民家は燃えたが家族は無事だった。しかし搭乗員は全員が死亡した。

日夜の猛訓練が続く
  香取航空基地は飛行機の機数が増加し、格納庫前やエプロンにズラリ並んでいると頼もしい感じもする。発着訓練、急降下爆撃訓練など連日の猛訓練は日夜を問わず、その爆音は周囲に轟いていた。 滑走路の幅が広いので3機位編体を組んで発進すると雷が落ちたような物凄い爆音がする。
 
 しかし 搭乗員の技量が未熟な事と、エンジントラブルによる墜落事故が多く、訓練開始から2〜3ヶ月は事故の無い日は珍しい、と言いたい位だった。夜間などは家の中にいて、爆音が頭上を通過するとホットする。
 
 幸いな事に住民や民家には余り墜落事故の被害は少なく殆どが田や畑の中が多かった、特に事故は着陸コースに多かった。我が家は丁度発進コースの下で滑走路から2k近く、1度だけ発進してのエンジントラブルで近くに墜落した事がある。機体は炎上、搭乗員は死亡、この様子を近くで見たときは背中に寒気がした。
 
 発進した飛行機は新川に沿って上昇して20〜30mの高度で通過する。見上げていると素晴らしさが感じる。新鋭機が発進すると爆音が違うので思わず歓声がでる。休日の遊びに来た海軍さんに話を聞き、子供達でも爆音で機種がわかるようになった。


             
 2香取航空基地は第一航空艦隊の錬成基地となる、終わり

3第三航空艦隊の編成と香取航空基地の配備こちらから

第一航空艦隊の詳しい編成については、付録・第一航空艦隊の概要をご覧ください。 ↓
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