硫黄島特攻の命令
昭和20年2月16日夜、第601航空隊司令 杉山中佐は、各飛行隊長を司令部に集めた。杉山指令は沈痛な表情で口を開いた。
「2日前の14日、硫黄島特攻攻撃の準備命令を受けている。出撃機数は、戦闘機12機、艦爆12機、艦攻8機、出撃は20日の予定、人選を急いでほしい」
この時は岩国からの零戦隊の到着を待っていたのだ。
暫くして艦攻隊長である肥田大尉が猛烈な反対論を展開した。
@ 特攻は最後の手段として使用すべきである。
A 空母部隊の飛行隊には本来の使用方法があり、特攻隊として使用すべきでない。
B 我々は、敵を攻撃し、帰投するだけの技量がある。敵の本格的な本土上陸作戦を前にして特攻作戦に失敗すれば自滅である。通常の作戦で何回でも攻撃すべきだ。
C 直衛任務終了後の戦闘機、魚雷発射後の雷撃機の特攻は未だその例を見ず、また突入しても殆ど効果は無い。
D 遠距離で燃料が不足、基地への帰投は困難であるが、幸いにして父島が健在であり、不時着場もある。父島に帰投して再使用すべきだ。
E 全兵力で生々堂々の攻撃を行うべきだ。攻撃時期を日没直後、敵戦闘機の帰投後に選べば効果大である。
之を聞いた杉山指令の顔は苦渋に満ちていた。だが、上級司令部の命令であり、肥田隊長の反対論が通るはずもない。命令は絶対だった。
反対論が通らないので、肥田隊長は
「私は先任隊長であり、戦争経験も多いので、特攻隊指揮官に任命してください」と申し出て司令の前に座り込んだ。 すると今度は隣の村川艦爆隊長が身を乗り出し「先任隊長は残るべきだ。特攻隊は艦爆が中心であり、機数も艦攻隊より多い、当然、私が指揮官になるべきである。」
と言い、これまた座り込んだ。
村川弘大尉は、香取頴男戦闘機隊長とともに海軍兵学校70期。第1回の特攻隊長 関行男大尉と同期であり、肥田大尉が霞ヶ浦航空隊教官時代の学生でもあった。 肥田、村川の先輩、後輩は少しも譲る気配はなかった。これには杉山指令もほとほと困り「俺に任せろ、指揮官は俺が決める。君らの気持ちは分かった」とその場を収めるしか方法は無かった。
「指揮官が決定しなければ、人選はできません」と肥田大尉はなおも頑張っていたが、しかし、杉山指令の立場も考え、それぞれが指揮官になったつもりで、人選を進めることになった。
全員が特攻志願
昭和20年2月16日夜、特攻隊員の選出というつらい立場に立たされた肥田艦攻隊は、次の点に留意した。
1,志願させる。ただし海軍兵学校出身者は総員志願したものと認める。
2,家庭の事情を考慮する。
3,指揮官は先ず自分を指名してもらう
4,指揮官は必ず海軍兵学校出身者とする.
5,人間関係を重視する。
出撃が20日なら、前日は準備に当て、特攻隊員の発表は18日で良かった。指名から出撃まで、あまり間隔があるのは良くない。この考えには艦爆隊長の村川大尉も同意見であった。
17日の午後、肥田大尉は艦攻隊総員集合を命じ状況を説明し、最後に特攻隊志願者は1人ひとり夕食後に隊長室に来るように話した、特攻隊指揮官には、自分が志願した旨を付け加えた。
夕食後、肥田隊長の部屋に現れたのは、なんと全員だった。20歳に満たない予科練出身者もいた。家庭を持った特務士官もいた。彼らの真剣な態度、まなざしに接した肥田隊長は、感謝の気持ちでいっぱいだった。
特攻隊員の人選は自分自身の責任において行わなければならない。肥田隊長はこの信念に基づき、一気に名簿を書き上げた。夜半眠れぬまま独り瞑想にふけっているとノックする者があった.某大学出身の予備中尉である。
彼の左手小指には包帯が巻かれている。血書をしたためたのがすぐわかった。彼は血書を差出しながら言った「隊長!お願いがあります。海兵出身者が無条件で特攻員となり、我々大学出の予備士官には、志願しろとは何事ですか。我々は絶対海兵出身者には負けません」
肥田隊長は「よし、俺が悪かった。ありがとう」と言って堅く手を握りしめた。同様の士官がほかにも3名いた。肥田隊長は翌18日、冒頭に自分の名を記した名簿を飛行長;武田少佐に提出した。名簿には「総員志願者」である旨が付記されていた。
昼ごろ肥田隊長と村川隊長は指令室に呼ばれた。「今回は村川大尉に行ってもらう。肥田大尉は最後の時、私を後席に乗せて行ってくれ」という杉山指令の目に涙が光る。村川隊長は「有難う御座います」とただ一言。肥田隊長はしっかり頼むぞ、と黙って両手を握りしめた。
作戦をめぐり激論
昭和20年2月18日、午後から601空の司令部で作戦会議が開かれた。”絶対に成功させねばならぬ“との悲願をこめ、激論が交わされた末、次の通り決定した。
1、行動が軽快で、機数も多い彗星艦爆隊を主力とする。(彗星艦爆隊長、村川大尉が指揮官に選出された理由もここにある−司令の強い意見であった。)
2、行動が軽快で自由なように、4機を以て1攻撃隊とし、これに直衛戦闘機をつける。所謂戦爆連合の小部隊編成とし、分散進撃する。たとえ1部が敵戦闘機の犠牲となっても他が成功するようにする。
3、攻撃時刻は日没前後で、敵戦闘機が母艦に着艦した直後が最適であるが、遠距離のため時間の調整が困難であり、日没後は降爆が困難なので、爆撃隊は午後4時から5時の間に強襲する。(20日の硫黄島の日没は午後5時30分)雷撃隊は直衛機は無いが夜間雷撃が可能なので敵戦闘機の行動しない日没後30分頃の5時45分から午後6時の間とする。
4、敵の空母を含む部隊が硫黄島の北西約80カイリに1群、南西約100カイリに2群あり、本土、沖縄及び台湾方面からの攻撃に備え、中間洋上に戦闘機の防衛線をつくって居る様である。そこで進撃進路は敵の裏をかいて、父島の東方を迂回し、硫黄島の東方及び南東方の最も手薄な方向から攻撃する。
5、彩雲偵察機を父島の西方120カイリに行動させ電探欺瞞紙を散布し、敵の戦闘機を引き付ける。
6、中継基地として八丈島で燃料を補給する。香取基地と硫黄島の直距離は750カイリあり、作戦行動上は約850カイリとなり、片道だけで限度に近い。
作戦会議での問題点
死なばもろとも・搭乗員は前機フル定員
攻撃計画で特に問題となり論議の的となったのは、特攻隊の本質に関することだった。つまり直衛戦闘機の任務終了後の行動と、魚雷投下後の雷撃機の行動についてである。
艦爆隊だけを突入させることは出来ない。戦闘機も全機が機関銃を敵の艦船に打ち込む。戦闘機の銃撃又は体当たりで誘爆させ、駆逐艦を撃沈した例もある-という意見もあった。
だが爆弾のない戦闘機が特攻で突入した例も無く。又効果も期待できない。戦果確認後は父島に帰投すべきだ。艦攻隊長・肥田大尉の反対意見である。戦闘機隊の特攻に反対した肥田大尉も艦攻隊については自分の部下であり強行には反対出来なかった。
魚雷投下後の空の飛行機が突入しても、効果は期待できないが雷装隊以外の爆装隊は突入するので雷装隊だけ帰れと言う事は出来なかったのだ。そこで、突入も止むお得ない、との意見を述べ杉山指令の決断に任せることにする。
次の問題は、偵察員と電信員をどうするかであった。艦爆は後席に偵察員、艦攻は偵察員と電信員を乗せている。これまでの特攻の例では、編隊で行動する場合、指揮官機だけに偵察員や電信員を乗せ、列機は操縦員だけの場合もあつたからだ。
ところが偵察員から猛烈な反対があった。日頃から死なばもろとも訓練を積んできたのに、操縦員だけを犠牲に出来ない。われあれは”1期胴体”であり、全機フル定員で行くべきである、との意見でつかみ合わんばかりの形相だった。肥田大尉は目頭の厚くなるのを覚えた。
結局杉山指令の決断が下り、次のように決まった。
直衛戦闘機は任務を終了し、戦果確認後に父島に帰投、状況を報告し、翌日、爆装後に再度突入する。特攻隊は全機突入。搭乗員はフル定員とする。従って、予定通り全機全員特攻隊を命ずる。との確定だった。かくして、ここに空前絶後、空母部隊の特攻隊が編成されたのである。特攻隊の名称は、神風特別攻撃隊・第二御楯隊。指揮官は村川弘海軍大尉。編成は次の通り。
神風特別攻撃隊・第二御楯隊編成表
第一攻撃隊=指揮官直率 大尉 村川 弘 ▽爆撃隊(彗星4機)500キロ爆装
1番機 大 尉 村川 弘 飛曹長 原田喜太男
2番機 一飛曹 田中 武夫 上飛曹 幸松 正則
3番機 上飛曹 青木 孝充 少 尉 木下 茂
4番機 上飛曹 小石 政雄 上飛曹 戸倉 勝二
直衛戦闘機隊=指揮官 中尉 岩下 泉蔵 ▽(零戦4機)
1番機 中 尉 岩下 泉蔵 (戦闘機隊総指揮官)
2番機 上飛曹 志村 勇作
3番機 二飛曹 長 輿走
4番機 一飛曹 森川 博
第二攻撃隊=指揮官 中尉 飯島 晃 ▽爆撃隊(彗星4機)500キロ爆装
1番機 一飛曹 大久保 勲 中 尉 飯島 晃
2番機 二飛曹 水畑 辰雄 上飛曹 下村千代吉
3番機 上飛曹 小松 武 上飛曹 石塚 元彦
4番機 一飛曹 三宅 重夫 一飛曹 伊藤 正一
直衛戦闘機隊=指揮官 中尉 茨木 速 ▽(零戦4機)
1番機 中 尉 茨木 速
2番機 一飛曹 松重 幸人
3番機 二飛曹 林 光男
4番機 二飛曹 岡田 金三
第三攻撃隊=指揮官 少尉 小平 義男 ▽爆撃隊(彗星4機)500キロ爆装
1番機 少 尉 小平 義男 上飛曹 新谷 淳滋
2番機 飛 長 河崎 亘 上飛曹 火林 善男
3番機 一飛曹 池田 芳一 上飛曹 小山 照夫
4番機 二飛曹 北爪 円三 上飛曹 牧 光廣
直衛戦闘機隊=指揮官 少尉 柳原 康男 ▽(零戦4機)
1番機 少 尉 柳原 康男
2番機 一飛曹 田辺 信行
3番機 一飛曹 長宝幸太郎
4番機 飛 長 古市 勝巳
第四攻撃隊=指揮官 中尉 定森 肇 ▽爆撃隊(天山艦攻4機)800キロ爆装
1番機 一飛曹 木須 奨 中 尉 定森 肇 二飛曹 岡本 秀一
2番機 一飛曹 原口 章雄 二飛曹 清水 茂 二飛曹 河原 茂
3番機 少 尉 中村吉太郎 上飛曹 小嶋 三良 二飛曹 叶 之人
4番機 二飛曹 和田 時次 二飛曹 信太 宏蔵 一飛曹 鈴木 辰蔵
第五攻撃隊=指揮官 中尉 桜庭 正雄 ▽爆撃隊(天山艦攻4機)航空魚雷
1番機 上飛曹 村井 明夫 中 尉 桜庭 正雄 上飛曹 窪田 高市
2番機 一飛曹 稗田 一幸 上飛曹 中村伊十郎 二飛曹 竹中 友男
3番機 少 尉 佐川 保男 上飛曹 岩田 俊夫 二飛曹 小山 良知
4番機 上飛曹 栗之 協直 上飛曹 吉田 春夫 上飛曹 吉本 静夫
※ 順序は操縦員・偵察員・電信員
写真、第二御楯隊隊員
緊迫の中にも冷静
2月18日夕刻、肥田大尉は、艦攻隊総員集合を命じ、特攻隊員の名簿を発表した。重苦しい空気が漂う。さすがに叔として声無く、緊張する中に呼ばれたものは1人ひとり前へ出る。平素から覚悟し、または志願はしていても、死刑の宣告にも等しい指名をすることは、肥田大尉にとってつらかった。
隊員の心情、又察するに余りあった。周囲が薄暗くて隊員の表情もよくわからないのが、わずかな救いとなった。「出撃は明後20日朝である。家庭通信を必ず行え。戦局は逼迫しており、いずれ総員特攻の時期がくる。俺たちも必ず後から行く……」などと訓示した肥田艦攻隊長は、気持ちの落ち着く今夜1晩が問題だ、と、ひそかに心配しながら士官室に入った。
村川隊長が1人でトランプ遊びをやっていた。特攻隊の指揮官を命ぜられた人とは思えないいつもの表情である。「村川君、準備しなくても良いのか」肥田大尉は思わず口走ってしまい、自分の浅はかさ、修養の足りなさに恥じ入った。
すると村川隊長はニッコリほほ笑み「肥田隊長、ブリッジをやりましょう」といつて普段と変わらず落ち着いている。士官室ではいつものように香取隊長等を加えてにぎやかにブリッジが始まった。
兵舎の方も賑やかになってきたころ、突然「パーン」と拳銃の発射音が1発聞こえた。みんなが一斉に手を休めた。傍らの飛行長がすくっと立ち上がったので「飛行長、先任搭乗員の領家上飛曹がいますから、大丈夫です。お任せください」と肥田大尉が言った。肥田大尉は一瞬迷ったが、今我々幹部が行くべきではないと判断した。下士官,兵の事は、総べて先任下士官が取り仕切る事になっているからだ。
領家上飛曹なら、この場をうまく収めてくれる、と、肥田大尉は信じていた。間もなく、様子を見にやった兵から「誰かが酔って、拳銃を天井に向けて撃ったらしいです。心配はいりません、と伝えてくれたとのことです」との報告があった。肥田大尉は思わずホッとした。そして「今回の事は知らなかったことにしてください」と飛行長に頼んだ。
最強・最大の特攻隊
昭和20年2月19日午前10時第3航空艦隊司令長官寺岡謹平中将が角田作戦参謀、三沢航空参謀を従え木更津から香取航空基地に飛来、特攻隊命名式に臨んだ。
川村大尉指揮する総員60名の攻撃隊は、「神風特別攻撃隊・第二御楯隊」と命名された.三航艦が編成する最初の特攻隊であり、しかも今までにない最強、最大の特攻隊の誕生である。
訓示が終わって、記念撮影、万歳三唱、乾杯で幕となった。そのあと隊員は揃って香取神宮に参拝した。隊員の気持ちはすっかり落ち着いているように見えた。
その日の夕食時、寺岡長官、幕僚を交えてささやかな宴が張られた。隊員は昨夜の件もあり、出発を明日に控えていたため、短時間で切り上げた。
しかし、今夜は最後の晩である。肥田艦攻隊長ら数人で壮行会を行うことになり香取基地近くの料亭に繰り出した。村川隊長は余り酒は飲まず、皆も強いて進めなかった。やがて村川隊長はお手伝いさんに筆と硯を持ってこさせ襖に「いにしえの防人たちの行きしてふ道をたずねてわれはいで征く」と墨痕鮮やか記した。長官の訓示を体した立派な遺言である。
(この料亭は、当時の旭町銀座通りにある、昇月というお店で、終戦後飲みに来たお客に、女将は自慢話をしていたが1度も見せてはもらえなかった。)
特別攻撃隊・第二御楯隊出撃
写真 第二御楯隊の出撃 (毎日新聞 昭和20年2月23日号)
昭和20年2月20日香取航空基地上空は雲が多く、寒風は肌を裂かんばかりである。整備員たちの徹夜の作業で、搭乗機は見事なまでに磨き上げられていた。各機には、爆弾や魚雷が搭載されている。ピカピカの魚雷には真っ黒な実用弾頭が着けられ、見るからに不気味さが漂う。誰がつけたのだろうか、お守りがつけられている。
出 撃 命 令
午前8時、杉山司令の発声で万歳三唱、決別の杯がかわされた。指揮所前に集合した隊員に対して、杉山司令から出撃命令が下った。
「一機一機主義で行け、断じてぶつかれ。細心沈着に行動して果敢に命中せよ。雷撃隊は魚雷発射後、体当たりせよ。護衛隊戦闘機は、戦果確認後、父島帰着、報告後、再度爆装し突入せよ」
指揮官の村川大尉は挙手の礼をした後、隊員の方に向かって、ただ一言「出発、かかれ」と命令した。隊員は敬礼し,愛機の方に駆けて行く。平常の訓練と何ら変わるところはない。
渦巻く複雑な感情
(成功の喜びと悲しみ)
昭和20年2月21日午後4時15分一、第2御盾隊の指揮官・村川弘大尉が敵空母に対し壮烈な体当たりを刊行した時刻だ。
特攻機が突入するときには,先ず自分の符号を発信し、続いて突入する目標を示し、突入中はキーを押したまま、したがってこの符号が切れた時が突入の時間となる。成功してよかった、という喜びと、たった今散華した特攻隊員の命、身の上などに対する感情が渦巻く、誰1人として言葉を発する者はいない。杉山指令はレシーバーを外すと電信員に返し、目礼して静かに電信室から立ち去って行った。
「次は艦攻の出番だ」自分の直接の部下である雷撃隊は、どうなるだろうか、直衛戦闘機のいない裸の天山艦攻が敵戦闘機に遭遇しなければ良いのだが……肥田大尉は幸運を祈った。とにかく、敵艦船に無事到着し。魚雷を命中させれば、1発で輸送船なら沈没、空母でも大破させる威力があるのだ。肥田大尉は部下の技量を信じている。「ヒヒ…」が発信されれば「敵戦闘機見ゆ」で万事休すだが、幸いにしてまだ受信していない。
電信機は強力であり、連絡は確実に取れるはずだった。午後5時30分、いよいよ日没の時間を迎えた。もう戦闘機の心配はない。だが、あと1時間以内に敵を発見しないと暗くなり、攻撃が困難となる。次第に気が気でなくなってきた。
午後5時45分、第4攻撃隊より、待ちに待った「トト…」が耳に聞こえてきた。肥田大尉は思わずこぶしを握り締めた。各機とも800キロ爆弾を1発ずつ搭載している。彗星艦爆の様に急降下爆撃は出来ないので貫通力は少ないが、艦爆の500キロ爆弾より爆発力が大きいため、効果は相当期待できる。
2分後の5時47分、3番機から、同50分、4番機から「われ輸送船に体当たりす」と続けざまに入電した。撃沈は確実である。「有難う、成功だ」肥田大尉は思わず心の中で叫んだ。
硫黄島に揚陸する敵兵を満載した輸送船を発見し、こちらの方が重要だと攻撃した第4攻撃隊指揮官の判断力は敬服に値した。残るは魚雷を搭載した第5攻撃隊の動向である。この攻撃隊こそ、本来の雷撃隊であった。香取基地から出撃する前、天山艦攻が魚雷を降下後に体当たりすべきか否かで、大論争を展開した場面があった。肥田大尉はそれを思い出しながらも、ひたすら連絡を待っていた。
突然、発信音が響いた。3番機(佐川保男少尉、岩田俊雄上飛曹、小山良知二飛曹)の符号だ。「航空母艦撃沈」 午後5時52分であった。続いて他の2機より、午後6時10分と同17分に「われ突入に成功せり」との入電があった。 大成功である。香取基地の電信室は活気に満ち、通信長は杉山指令に報告のため駆けてゆく。
第5攻撃隊(指揮官桜庭正雄中尉)天山艦攻3機は魚雷を抱き、夕やみ迫る海上を、最も大きな獲物を求めて飛び回り、ついに仕留めたのだ。魚雷を投下したのち空母の撃沈を見きわめ、落ち着いて報告を完了し、魚雷のない天山艦攻を敵艦に体当たりさせたのである。
特攻史上でも、まさに空前絶後の事だった。肥田大尉は戦場の情景を思い浮かべ、目頭が熱くなるのを覚えた。体内の力が1時に抜けたような気持ちになり、静かにレシーバーを耳からはずし、電信室を出た。
その夜半、硫黄島海軍部隊の指揮官 市丸利之助少将から次のような入電があった。「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う。又沖合に火柱19本を認む」
木更津基地からも出撃
一方、第2御盾隊の出撃に呼応した攻撃704空の一式陸攻6機は、同日午後1時25分ごろ木更津基地を出撃、うち5機が硫黄島に到着し、米軍陣地や艦船を爆撃した。また特攻隊の接敵時間に米戦闘機の注意をひきつけるため704空の一式陸攻4機が木更津基地を発進、うち2機が小笠原諸島付近で、電探欺瞞紙の散布を実施している。
翌22日午後4時大本営は次のように発表した。
「神風特別攻撃隊第二御楯隊数十機は、2月21日午後,硫黄島周辺の敵水上部隊を攻撃せり。戦果=空母(艦型不詳なるも特空母の算大)1隻撃沈、大型空母1隻大破炎上、撃沈ほぼ確実、戦艦(艦型不詳)2隻撃沈、巡洋艦2隻炎上、2隻爆破、輸送船4隻以上爆沈、船種不詳爆沈。他に硫黄島より火柱19本を認む」
大本営発表は、例によって水増しされていたが、実際にどの程度の戦果を上げていたのだろうか。
第601航空隊は次のような総合評価を下している。
第一攻撃隊(彗星4機、零戦4機。500キロ爆弾搭載)=午後4時15分硫黄島東30カイリ付近で護衛空母「ピスマルク・シー」に突入。
第二攻撃隊(彗星4機、零戦4機。500キロ爆弾搭載)=午後4時25分ごろ、硫黄島近海の輸送船に突入,うち1機は故障のため出発が遅れたが、硫黄島付近に進出、グラマンF6F(ヘルキャット)と交戦。
第三攻撃隊(彗星4機、零戦3機。500キロ爆弾搭載)=父島北方でF6F10機に邀撃され、2機が被弾して不時着。残る2機は硫黄島に向かった。
第四攻撃隊(天山4機、直衛零戦なし。800キロ爆弾搭載)=途中1機が故障して不時着大破、3機が午後5時50分ごろ輸送船に突入。
第五攻撃隊(天山3機直衛零戦なし。航空魚雷搭載)=八丈島に着陸時に1機が脚部故障のため3機で出発、午後6時ごろ、硫黄島東40カイリ付近で空母「サラトガ」に突入した。
なお、防衛研究所戦史室著の「本土決戦準備@関東の防衛」の記述によれば。2月21日。第二御楯特別攻撃隊が八丈島を中継して硫黄島周辺の敵艦船を攻撃。空母1撃沈、空母1大破、輸送船1損傷の戦果を報じた。しかし、未帰還21の損害を生じた……とある。
此の未帰還21の内訳は、彗星10、天山6、零戦5となり、敵機動部隊艦船に突入した機数である。機体の故障で八丈島に残留した天山1、零戦1、進撃中エンジン不調で父島に不時着大破した天山1、父島北方でF6F10機と交戦、被弾して父島に不時着した、第3攻撃隊の彗星2、零戦3を除くと、生還
は零戦3機だけとなる。
又、第3攻撃隊の父島に不時着した2番機(飛長 河崎 亘、上飛曹 火林 善男)は修理をして出撃可能となり3月1日16時、父島より特攻出撃した。敵艦船に突入したようであるが戦果は不明である。
又防衛研究所の資料の中で、この神風特攻隊第二御楯隊の天山艦攻に魚雷装備を担当した第41魚雷調整班(隊長赤星勝中尉)の戦時日誌の1ページに次のように記されている。
2月13日 601空指令、攻251の要求により25本(天山用)雷装準備
2月14日 攻251 10本は中止、601空用15本雷装準備
2月15日 601空15本 攻251 16本雷装準備
2月16日 12.00 攻251空攻撃中止 601空15本準備待機
6月17日 班員全員進出
6月20日 601空 天山5機雷装攻撃準備 07.30完了
、 08.00発進後 09.45中止
6月21日 601空6機雷装攻撃準備 06.30完了
4機発進08.20
となっており、第五攻撃隊は20日には5機準備し出撃したが9時45分に悪天候のため中止して引き返し、21日には6機準備したが4機出撃している。又第2御楯隊とは別の攻撃隊の出撃も計画されていたのか攻撃251飛行隊の雷装準備が目まぐるしく変っている。
16日の敵機動部隊の基地襲撃で破損されてしまったのか?16日午後無蓋掩体壕の中で炎上する数機の天山艦攻を目撃しているがこの飛行隊の天山艦攻であったのかも知れない。
一方数多くの米国側発表の資料を要約すると……。
「昭和20年2月21日午後4時半ごろ空母サラトガが硫黄島北西56キロの水域に達したとき、北西120キロに数点の機影をレーダーで捉えたので,艦長は6機のグラマンF6Fを発進させて警戒することにした。それから20分後の4時50分F6Fから「敵機発見…艦爆(彗星)2機撃墜」の報告が入る。当時1000メートルまで雲が垂れ込めて視界があまりきかないので、空母にとっては攻撃を受けやすい不利な状況におかれていた。
4時59分雲間から突如、6機の日本機が襲い掛かった。対空砲火が一斉に火を吹いた次の瞬間、先頭の2機が火に包まれる。それでも真っ直ぐにサラトガの艦橋めがけて突っ込んできた。機体は右舷喫水線スレスレに激突、搭載爆弾が大音響とともに炸裂した。
続いて3番機と5番機がデッキとカタパルトに激突して爆発。6番機は既に火を噴いていたが、右舷のクレーンに突っ込んだ。わずか3分間の出来事だった。
さらに6時46分5機の日本機のうち4機を撃墜しものの、残る1機が爆弾をサラトガの飛行甲板に投下、直径7,5メートルの大穴を明けた。航海には支障は無かったが、搭載機36機が焼け、3機は着艦できず、不時着を余儀なくされた。
サラトガは必死の消火作業と応急処置により、辛うじて沈没を免れたが、死者23名、負傷者192名を出して戦場から離脱。以後作戦には参加不能になった。
また同時刻ごろ、護衛空母ビスマルク・シーに特攻隊機1機が突入した。これが搭載機のガソリンに引火して火災を起こし、相次ぐ誘爆で火薬庫が爆発、3時間後に沈没した。戦死者は218名」。
このほか、第二御楯隊の攻撃を受けた艦艇で、防潜網敷設艦、戦車揚陸艦477号、同809号が大破されている。まさに特攻史上最大の戦果であった。