この作戦は,アメリカが真珠湾攻撃以来相次ぐ敗戦に打ちのめされた国民の士気を昂揚し、日本の真珠湾攻撃に一矢を報い、同時に日本人に戦争遂行への不安と動揺を与える事を目的にした大博打であった。
当時の日本は未だ開戦以来大勝利の興奮から覚めやらぬ状態の中で、いままでに実行した事も無い奇策を試みると言う破天荒な日本本土初空襲の作戦でもあった。
この作戦実施命令を受けたのは、米海軍第16機動部隊であり、その編成は
空母 エンタープライズ (旗艦)
艦長 ウイリアム、F,ハルゼー海軍少将
空母 ホーネット
艦長 マーク、A、ミッチャー海軍大佐
重巡洋艦 4隻
駆逐艦 7隻
油槽船 2隻
この機動部隊が日本攻撃のため太平洋を西に進行中、昭和17年4月18日午前6時30分東経155度線上、東京から1,200kmの地点で進行方向に日本海軍の監視艇をレーダーで発見、護衛の巡洋艦と上空を硝戒中の艦載機がこれを攻撃、巡洋艦の砲撃で監視艇を撃沈した。
この監視艇は日本海軍が東経155度線上、千島から南鳥島までの間に配置した監視艇の1隻で第23日東丸だった,日東丸が機動部隊を発見し東京の軍総司令部に
「米軍飛行機3機、更ニ、米空母3隻見ユ、北緯36度、東経152度10分」
と打電して午前7時ごろ撃沈された。
米第16機動部隊は、隠密裡の作戦が日本軍の監視艇に発見された事により、日本本土800kmまで近づいた時点で発進させる予定の爆撃機を400kmも遠い太平洋上から飛び立たさせる破目になった。
日本本土を襲うべく空母ホーネットから発進したのは、小型の艦載機ではなく、陸軍の双発中型爆撃機ノースアメリカンB25であった。午前7時25分指揮官ドウリットル陸軍中佐を先頭に爆撃機16機は、全速力で突っ走るホーネットの飛行甲板すれすれに飛び立ち、各機ごとに割り当てられた爆撃目標目指して、ばらばらに東京方面に向かって飛び去った。
この爆撃隊は、新しいアイデアにより初の日本本土爆撃を敢行するため陸軍より選抜された士官で、米国内で秘かに特別猛訓練を受けた部隊で、1機約1トンの爆弾と乗員5人、日本本土爆撃後、中国大陸の日本軍の非占領地域に退散するために必要な燃料を満載しての発進であった事は、日本軍部のみならず、全世界の軍事専門家でさえ、全く予想出来なかったと言う奇策の攻撃であった。
写真、空母ホーネット 上 ホーネット甲板より日本に向かって飛び立つB25 下
日本軍迎撃作戦の失態
「敵空母発見」を打電して間もなく消息を絶った日東丸の報告を受けた東京の軍司令部は、敵空母の速度と艦載機の航続距離から判断して。米軍機の空襲は19日午前8時頃と予想していた。航続距離が長い陸上爆撃機が空母から飛び立ち、日本本土を爆撃した後、中国大陸に退散する事などとは、到底考えが及ばなかった所に日本軍部の大きな誤算があった。
敵の機動部隊を日東丸が発見し、打電した位置と距離がかなり遠かったので、もっと日本本土に近づいてから艦載機を発進させるだろうとの判断から、海軍は木更津などの零戦12機と横須賀基地の第2艦隊に、翌日の敵部隊迎撃の準備を命じ待機させていた。
関東地区の防衛を担当する東部軍も敵機来襲の時期を19日朝になると判断していたが、一応18日午前8時30分、東部軍管区内全域に警戒警報を出し、万一に備えて午前10時、戦闘機隊の一部を発進させていたが,哨戒高度を4000mから5000mにとっていたため、超低空で進入してきた敵機とは遭遇する事も無く、又時間的にも正午前には着陸していた。この飛行機は旧式で最高時速470km、B25はそれを20k上回っていたので仮に上空で発見しても追撃することはできなかった。
一方ドウリットル爆撃隊を運んだ空母ホーネットを始め15隻の機動部隊は、B25爆撃隊を発進させた直後、反転して全速力を挙げて米本国に向けて退避した。
日本空軍は一刻の猶予もならずと12時40分頃、攻撃機29機が魚雷を装備して飛び立ち、これを援護する零戦隊18機も木更津基地を発進、東経155度付近を目指して機動部隊の追撃を開始した。追撃隊は太平洋上はるか1,300kmまで進出し、燃料の許す限り機動部隊の姿を求めて捜索したが、遂に敵影を発見する事が出来ず、完全に肩すかしを食って、夜になって木更津基地にむなしく帰投した。
この当時の軍部の口惜しさと、怒りと、切なさは想像以上のもので、誠に残念至極であった。
日米両軍の戦果
完全に日本軍の虚をつき1機ずつ分散して東京、横須賀、名古屋、神戸などを空襲したドウリットル爆撃隊は全機が低空を飛んで海上に離脱した後は中国に向かった。
中国浙紅省の麗水飛行場に夜間遅く到着したが交信の不備等も加わり4機が着陸に際して大破,7機の乗員は飛行機を放棄してパラシュートで降下,2機は海上と湖水に不時着して機体は水没,大破、1機はソ連領のウラジオストックに着陸したが、搭乗機はソ連官憲に押収され、塔乗員も抑留の憂目に遭い、残る2機は中国の日本占領地域(寧波と南省付近)に不時着し塔乗員は日本軍の捕虜となったという事である。
敵機B25による日本本土爆撃の被害そのものは軍部の極端な隠蔽工作によって明らかにはされなかったが、事後のB29による爆撃被害と比較すればそれ程大きなもでは無かった。
一方アメリカでは、彼らの狙い通り国民の志気の昂揚には大いに役立った。更にその反面、日本の軍部や一般国民には大きな精神的ショックを与えた点でも、この爆撃は一応成功であった。しかしながら日本爆撃後中国に退散して着陸の際全機を失い、搭乗員も7名が死亡、3名が重傷と言う結果を見れば、その評価はむずかしいものとなろう。
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