1  香取航空基地の建設   
              、
 海軍飛行場の建設が決まる

 昭和13年3月共和村に重大な出来事が降ってきた。
(共和村ー 合併して旭市、このページは共和村を対象に作ります。)
それは海軍の飛行場建設予定地に共和村の八軒町,谷町場が決められた事です。村長はじめ村民に取ってはまさに晴天の霹靂であった。
 
 共和村は千葉県下でも有数な農業のモデル的な農村で、南瓜、西瓜、落花生の名産地として知られ,各農家は豚などを飼育して総合的な有機農業が盛んであった。
 
 村民は国家権力の中心である軍隊が相手ではなすすべがなかった。地元では毎日のように相談会が開かれた。相談会が開かれると常に銚子の憲兵分隊から憲兵が派遣され、不穏な発言者を監視していたので自由な発言も許されなかった。
 
 当時は中国大陸では日中戦争(支那事変)が益々拡大されつつあり、軍国主義の日本では軍隊に対して意見などはとても言えなかったのである,当時は今の様に民主主義が保障された時代とは違い、自由に自分達の気持や要求などを話し合える雰囲気ではなかったのだ。
 
 相談の結果飛行場建設は、国防方針に基づくもので時節柄やむお得ないが、せめて用地の買収価額を参酌してもらえたいと言う事を、精一杯の気持を込めて海軍大臣に陳情を行った。
 その結果  田は1反(10アール) 300円
        畑は1反(10アール) 250円
 で買収される事に決定した。この価額は当時の通常売買価額の2倍だった。 しかし 宅地については記憶がない。

飛行場用地の買収が始められ15年に着工       、
 

 昭和14年春ごろから第1次買収地330ヘクタールの買収が始まった。
地域内農家は96戸その内40戸が川西三番、今の大規模農道の付近に移転、その他は隣村の椿海村,豊畑村、干潟駅付近に分散移転した。 我が家でもこの地域内に農地が70アール位あり買収された。 

 
 
 その後昭和17年飛行場施設用地として第2次買収があり、周囲が拡張され総面積は440ヘクタールとなり,地域内で移転された総戸数は146戸と聞いている。
 
 第3次買収計画の話もあったが、手続きはどのように進められたのかわからない。その後鎌数伊勢神宮の前の軍用道路を東へ、新川の香取橋を渡り300m位先の北側は、兵舎と病院が建てられていた

 これ等の用地は、お国のためだと強制的に地主を集め印を押させ、無料で土地を取り上げたという話もきいている。

 この飛行場は横須賀海軍建築部が設計し、昭和15年頃海軍設営隊が着工、太平洋戦争開戦当初(昭和16年)にはいまだ建設途上であったが、開戦と同時に戦略上から突貫工事で進められた。
 
 飛行場周辺の住民は各戸に勤労奉仕が割り当てられ学徒も動員された。場内の建築物などは設営隊の専門家が施工していたが、飛行場の滑走路などの土木工事に従事していたのは主として刑務所の受刑者だった。
 
 飛行場の東 外郭排水路から100mぐらい離れた新川沿いの場外地1ヘクタール余りが、雑草などで荒れないように地域の県立の中学校、実業学校、女学校の実習農場として割り当てられ、稗や蕎麦を栽培しており、農業実習で行たので工事の様子がよく見えた。先生からは他言無用の指示があり、人に話すと憲兵隊に連れて行かれるぞと脅かされていた。
 
 土木工事作業の囚人は何百人だったろう、青い作業服が刑期の軽い囚人、赤いのが刑期の重い囚人、皆で青ちゃん、赤ちゃんと呼んでいた。
 
 何処から運ばれてきたのか総武本線干潟駅の構内には砂,石材等が山の様に積まれていた、駅からレールが飛行場内に引かれ材料はトロッコ輸送で現場に運ばれる。建設機械が無かった時代なので総て人海作戦で進められていた。手近で見えるところは飛行場の周囲を取り巻く排水路等で、ゴロ石で見事に舗装され充分に材料を使い技術の高い工事だと素人にも感じられた。
 
 現在の国道126号線旭駅北の袋交差点から西へ飛行場までは当時軍用道路として新しく専用道路がつくられ一般は進入禁止になっていた。又この軍用道路の5Km位東の台地(当時の瀧郷村)の崖下には隋道が2本掘られ、香取航空基地の航空燃料庫と魚雷格納庫が作られ、航空燃料と航空魚雷が分散格納されており、荷台に魚雷を2本積んで格納庫と基地の間を往復するトラックを町の中でよく見かけた。
  
                  香取航空基地位置図

  


                                                         
  米軍の日本初空襲で飛行場が爆撃される          、


 昭和17年4月18日土曜日お昼過ぎ何時もと違ったエンジンの音がする。庭先に居た私は思わず見上げると目の前を超低空で飛行場をめがけて飛んでゆく飛行機が目に入る。どす黒い胴体に星のマークが付いていた。思わず 「敵機だ!敵機だ!」と叫んで道路に飛び出した。飛行場を見ると黒煙が上がっている。しかしたいしたことは無さそうだ、これはほんとに一瞬の出来事だった。
 
 それから可也時間が経ってから空襲警報のサイレンがけたたましく鳴る。陸軍の戦闘機が1機後を追い駆けるように飛んでいった。日本軍の対空砲火は全然あがらない。
 
 しばし呆然とした.未だかって敵の空襲なんて考えても居なかった。土曜日の半休のこともあり、予期しない一瞬の出来事で対応出来なかったのだろうか、
 
 この敵機進入を最初に発見した旭防空監視硝は、直ちに銚子監視隊本部に『敵機発見』を報告したが、間違いではないかと何回も確認を取りながらも、何故か東部軍司令部には「見方機発見」と報告されたとのこと.このような事でまさかと言う観念があったので襲撃されるまで空襲警報が発令できなかったのか。

 
 後で休暇で遊びに来た海軍さんの話では、小さな建設作業小屋が爆撃され焼けたそうだ。香取航空基地の被害は軽かったので安心した。
 
 空襲があってから約1時間半以上も経過した1時57分東部軍司令部発表がラジオで放送された。明朝の各新聞にも各司令部の発表が掲載された、
 京浜地方に敵機空襲 九機撃墜我方損害軽微(読売新聞)
 名古屋、神戸で小被害 西部では侵襲に失敗機銃掃射にも損傷なし(東京日日新聞)
 この発表は当時の国民として盲目的に一応は信じられたものの疑問も残された。
 

 終戦後解った事だが銚子沖の太平洋上の米空母ホーネットから発進した、ドウリットル中佐の率いるB25爆撃機16機のうちの1機だったんだ。今の旭市の区域には太平洋上から屏風ヶ浦を経て、飯岡に時間を置いてばらばらに3機が超低空で侵入した様だが,そのうちの1機だったのだ。

                                                     

             米軍機日本本土初空襲の概要                  、
  
 この作戦は,アメリカが真珠湾攻撃以来相次ぐ敗戦に打ちのめされた国民の士気を昂揚し、日本の真珠湾攻撃に一矢を報い、同時に日本人に戦争遂行への不安と動揺を与える事を目的にした大博打であった。
 
 当時の日本は未だ開戦以来大勝利の興奮から覚めやらぬ状態の中で、いままでに実行した事も無い奇策を試みると言う破天荒な日本本土初空襲の作戦でもあった。
 
 この作戦実施命令を受けたのは、米海軍第16機動部隊であり、その編成は   
   空母  エンタープライズ (旗艦)
   艦長  ウイリアム、F,ハルゼー海軍少将
   空母  ホーネット
   艦長  マーク、A、ミッチャー海軍大佐
   重巡洋艦   4隻
   駆逐艦    7隻
   油槽船    2隻
 
 この機動部隊が日本攻撃のため太平洋を西に進行中、昭和17年4月18日午前6時30分東経155度線上、東京から1,200kmの地点で進行方向に日本海軍の監視艇をレーダーで発見、護衛の巡洋艦と上空を硝戒中の艦載機がこれを攻撃、巡洋艦の砲撃で監視艇を撃沈した。
 
 この監視艇は日本海軍が東経155度線上、千島から南鳥島までの間に配置した監視艇の1隻で第23日東丸だった,日東丸が機動部隊を発見し東京の軍総司令部に
 「米軍飛行機3機、更ニ、米空母3隻見ユ、北緯36度、東経152度10分」
と打電して午前7時ごろ撃沈された。
 
 米第16機動部隊は、隠密裡の作戦が日本軍の監視艇に発見された事により、日本本土800kmまで近づいた時点で発進させる予定の爆撃機を400kmも遠い太平洋上から飛び立たさせる破目になった。
 
 日本本土を襲うべく空母ホーネットから発進したのは、小型の艦載機ではなく、陸軍の双発中型爆撃機ノースアメリカンB25であった。午前7時25分指揮官ドウリットル陸軍中佐を先頭に爆撃機16機は、全速力で突っ走るホーネットの飛行甲板すれすれに飛び立ち、各機ごとに割り当てられた爆撃目標目指して、ばらばらに東京方面に向かって飛び去った。
 
 この爆撃隊は、新しいアイデアにより初の日本本土爆撃を敢行するため陸軍より選抜された士官で、米国内で秘かに特別猛訓練を受けた部隊で、1機約1トンの爆弾と乗員5人、日本本土爆撃後、中国大陸の日本軍の非占領地域に退散するために必要な燃料を満載しての発進であった事は、日本軍部のみならず、全世界の軍事専門家でさえ、全く予想出来なかったと言う奇策の攻撃であった。
 


真、空母ホーネット 上 ホーネット甲板より日本に向かって飛び立つB25 下




 日本軍迎撃作戦の失態
  「敵空母発見」を打電して間もなく消息を絶った日東丸の報告を受けた東京の軍司令部は、敵空母の速度と艦載機の航続距離から判断して。米軍機の空襲は19日午前8時頃と予想していた。航続距離が長い陸上爆撃機が空母から飛び立ち、日本本土を爆撃した後、中国大陸に退散する事などとは、到底考えが及ばなかった所に日本軍部の大きな誤算があった。
 
 敵の機動部隊を日東丸が発見し、打電した位置と距離がかなり遠かったので、もっと日本本土に近づいてから艦載機を発進させるだろうとの判断から、海軍は木更津などの零戦12機と横須賀基地の第2艦隊に、翌日の敵部隊迎撃の準備を命じ待機させていた。
 
 関東地区の防衛を担当する東部軍も敵機来襲の時期を19日朝になると判断していたが、一応18日午前8時30分、東部軍管区内全域に警戒警報を出し、万一に備えて午前10時、戦闘機隊の一部を発進させていたが,哨戒高度を4000mから5000mにとっていたため、超低空で進入してきた敵機とは遭遇する事も無く、又時間的にも正午前には着陸していた。この飛行機は旧式で最高時速470km、B25はそれを20k上回っていたので仮に上空で発見しても追撃することはできなかった。
 
 一方ドウリットル爆撃隊を運んだ空母ホーネットを始め15隻の機動部隊は、B25爆撃隊を発進させた直後、反転して全速力を挙げて米本国に向けて退避した。
 
 日本空軍は一刻の猶予もならずと12時40分頃、攻撃機29機が魚雷を装備して飛び立ち、これを援護する零戦隊18機も木更津基地を発進、東経155度付近を目指して機動部隊の追撃を開始した。追撃隊は太平洋上はるか1,300kmまで進出し、燃料の許す限り機動部隊の姿を求めて捜索したが、遂に敵影を発見する事が出来ず、完全に肩すかしを食って、夜になって木更津基地にむなしく帰投した。
 
 この当時の軍部の口惜しさと、怒りと、切なさは想像以上のもので、誠に残念至極であった。
 
日米両軍の戦果
  完全に日本軍の虚をつき1機ずつ分散して東京、横須賀、名古屋、神戸などを空襲したドウリットル爆撃隊は全機が低空を飛んで海上に離脱した後は中国に向かった。
 
  中国浙紅省の麗水飛行場に夜間遅く到着したが交信の不備等も加わり4機が着陸に際して大破,7機の乗員は飛行機を放棄してパラシュートで降下,2機は海上と湖水に不時着して機体は水没,大破、1機はソ連領のウラジオストックに着陸したが、搭乗機はソ連官憲に押収され、塔乗員も抑留の憂目に遭い、残る2機は中国の日本占領地域(寧波と南省付近)に不時着し塔乗員は日本軍の捕虜となったという事である。
 
 敵機B25による日本本土爆撃の被害そのものは軍部の極端な隠蔽工作によって明らかにはされなかったが、事後のB29による爆撃被害と比較すればそれ程大きなもでは無かった。
 
 一方アメリカでは、彼らの狙い通り国民の志気の昂揚には大いに役立った。更にその反面、日本の軍部や一般国民には大きな精神的ショックを与えた点でも、この爆撃は一応成功であった。しかしながら日本爆撃後中国に退散して着陸の際全機を失い、搭乗員も7名が死亡、3名が重傷と言う結果を見れば、その評価はむずかしいものとなろう。
 
 
海軍の大飛行場が完成
                             

 昭和18年9月6日香取航空基地は完成したと言われている。しかし 第3次用地買収計画の買収も行われず、飛行場内は工事中であったので,未完成で使用を開始したものと思われる。当日九九艦爆3機が初飛来した。
 
 現在の旭市鎌数の西部と隣接する匝瑳市春海の一部にまたがる 総面積446ヘクタールの敷地に 東西1,400m、南北1,500m、幅100mのコンクリート重舗装、全国でも珍しい中央で交差した2本の滑走路を持つ大飛行場の主要部分が完成した。滑走路東には機体整備場、南と北には掩体壕群、西には大きな格納庫、兵舎が立ち並んでいた。
 

 この飛行場は「香取航空基地」と命名された。それから5ヵ月後この基地の西側、南北に通る道路を隔て兵舎が建てられ、ここに「香取海軍航空隊」が開隊する。いずれも香取の名前は武人を祭った香取神宮にあやかったものらしい。 



完成した香取航空基地の略図



基地内の兵舎

防空砲台も完成
 
 香取航空基地の防衛に備え、4ケ所の防空砲台が整備された。基地の1km東、現在の袋公園の北、江ヶ崎に東砲台、基地の西2kmの椿に西砲台、基地の南3kmの神宮寺新田に南砲台、基地の北2kmの秋田に北砲台砲台が設置されていた。此れと同じ頃基地から南東3kmの十日市場、基地から南西3kmの平木に照空灯が設置された

 砲台には、それぞれ12cm高角砲が4門、13mm機銃は東砲台には1挺、他は2挺、東砲台には電波探信儀(射撃レーダー)が配備され、照空灯設置場所には、それぞれ2基の96式150cm照空灯と管制器が配備されていた。しかし、13mm機銃については終戦後の確認であり、当初から配備されたかは不明である。なぜなれば昭和20年に入り2月頃から、米軍機動部隊の艦載機の来襲が始まり100m位の低空で来襲する敵機の攻撃には高角砲では役に立たず、対空機銃が配備されたのではないかと考えている、しかし確かな資料は発見できない。

  工事は昭和16年2月頃着工されたと言われているが、何時完成されたかはわからない。基地を含むこの地帯は海抜数mの低湿地帯で壕を掘ることは出来ないので、電波探信儀(射撃レーダー)を中心に、それぞれ盛土で築かれた壕の中に12センチ高角砲、照空灯,二連装高射機関銃が据付られて居たが、これらを結ぶ太いケーブルの束が地上を転がし配線されていたのは意外であった。(東砲台終戦直後確認)

 
 この砲台には150〜200人位の海軍将兵が配属されていたといわれていた。昭和18年の年末あたりから訓練が開始されたようで、夜間飛行の訓練をする飛行機に照空灯の光の帯が夜空に交差するのをよく見ていた。

 そしてこの香取航空基地の管理に第一航空基地隊が任命された。

 香取航空基地の管理とは、基地の諸施設(防空砲台も含む)諸兵器の保管、整備及び警備を掌り、香取航空基地を使用する航空部隊の諸作業及び通信の業務を補助するという重大な任務である。勿論防空砲台に配属された将兵も第一航空基地隊の隊員であった。

 この様に完成した香取航空基地に、最初に駐屯したのは第一航空艦隊司令部と司令部直属の航空部隊である。それは次のページで御覧ください


                  「1香取航空基地の建設」終わり

       2香取航空基地は第一航空艦隊の錬成基地となる。こちらから

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