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歴史・縁起 光明寺の薬師如来の由来 薬師如来は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)ともいいます。光明寺に薬師如来がまつられたのは、今から約1300年前のことです。そのとき、この地に流行していた疫病(今でいえば新型コロナ)を鎮めるために、徳の高い僧侶、行基菩薩(ぎょうきぼさつ=行基さま)が、久喜の地の一番の高台に薬師如来を安置し、疫病退散を祈願いたしました。 行基さまは、孫悟空が付き従った三蔵法師のモデル、中国の唐代の三蔵法師玄奘の愛弟子道昭の、そのまた愛弟子です。彼の安置した薬師如来の霊験(れいけん)によって、疫病は無事おさまった、と伝わっております。そこでこの地に光明寺が建てられました。 歴 史 光明寺と久喜のできごと(太字が光明寺関連)
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光明寺縁起 武州崎玉の郡、久喜町瑠璃光山光明寺の縁起 当院光明寺は行基菩薩の開山で白鳳辛巳(10年)の創建である。本尊は薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来であり、脇士は日光菩薩、月光菩薩、十二神将である。尊像の胸の後ろに彫刻の年月日を記した。行基菩薩は六十六州(日本全国)を巡錫し、各国分寺を参拝し、国家の安泰を祈り、仏法の興隆を祈った。当院光明寺もまた国分寺(武州領内)の随一と云われていたが、今では時代を経てかつての名声は伝わっていない。かつての隆盛を諮(たず)ねてみると、仏閣諸堂で残る建物はごくわずかで、金堂など数軒だけである。清瀧権現は寺院(光明寺)の寓(鬼門)の鎮守である。千勝明神は、本地は虚空蔵菩薩で、民家(人々)の氏神である。また小さい社が四つ有り、当院光明寺の司る(管理している)ところである。法流は松橋流の分派で謂われは浅くない。 さる建長四年(壬子、西暦1252年)八月に住職賢信(中興の祖)が盛んに光明寺を修復し、このことを記して尊像の胸に納め、後を嗣いだ隆昌(中興後第十三祖)が重ねて興建した。信者は十区(大勢のグループ)あり手足の如く動いた。領米(領主米津藩邸)や千勝明神も邸宅の如く京の如くにぎわった。灯籠を掲げ花を供えて絶えることがなかった。 朝廷が安泰であり、大樹が清らかで、人々が繁栄し、国法が長く続くようにと願う。これは延宝己未(西暦1679年)の新年(孟春)十一日に住持沙門隆尊が謹んで記す。 東武州の文苑法師(いみ名は隆尊)は私と親しい交流がある。ある日一冊の冊子を携えてきて云った。「これは私の寺の概略である。試みに記してみた。この冊子をもとにして清書して下さい」と頼まれた。新年にあたって暇がないとはいえ、これまでの付き合いの故もあって断る訳にも行かず、少し改めたり削ったりして諸の事を家の書留の中に書き写してお返しの餞とした。 光明寺概略 光明寺の概略 真言宗豊山派 瑠璃山 薬王院 光明寺 この地は瑠璃光浄土の地として薬師如来が祀られておりました。おそらくは久喜の在で最も高地で神聖な土地であることを修行僧等が感じ取っていたからと思われ、久喜薬師として信仰を集めておりました。 光明寺縁起によると白鳳十年の開山とありますが、今よりおよそ千二百年ほど前に行基菩薩が日本全国の国分寺を巡拝する道すがらこの地に立ち寄り、所願成就・当病平癒の祈りを込めて、人々の救済のために薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来を本尊として光明寺を創建したと伝えられています。創建当初よりしばらくは武州随一と云われる伽藍を誇っていたと伝えられますが、時代と共に変遷を重ね、鎌倉時代には金堂(薬師堂)など数軒を残すのみとなっていました。しかし薬師信仰が盛んとなり、建長四年(西暦1252年)に中興の祖賢信によって光明寺が再建され、さらに第十三祖隆昌によって隆盛となったと記録されております。 江戸時代に入り延宝六年(西暦1678年)に光明寺縁起を記した文苑(隆尊)が鬼門の鎮守に清瀧権現を拝し、人々の氏神、久喜総鎮守として千勝明神を祀ったとあります(平成になって駅前道路拡張のため移転)。その後享保十八年(西暦1733年)には現在の本堂が客殿として建立されております。現本堂のご本尊は不動明王で、これは室町様式の仏像です。 明治期の廃仏毀釈の中、第三十一祖秀誉代に豊山長谷寺の直末(じきまつ)となり、また成田不動尊を勧請し薬師堂内に安置するなど寺門の興隆をはかりました。 明治六年(西暦1873年)に近代的な学校制度の導入と共に「久喜学校」が光明寺に開設され、大正二年(西暦1913年)に小学校新築移転となるまで光明寺は久喜の人々の学び舎となっておりました。 |