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歴史の話 |
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木崎の地名由来をご存知ですか? |
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(私たちの街をもっと良く知ろう) |
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現在木崎1丁目から5丁目まで木崎という町名があります。これは住居表示実施でついた町名
で、以前は大字下木崎といい「下」の字がついていましたが、これを除いて町名とした訳です。
対比して上木崎という町名もあります。これは大字上木崎に由来することはいうまでもありま
せん。
ところで、この上・下木崎は江戸時代には上木崎村と下木崎村の二つの村になっており、ともに
幕府の直轄領(天領)でした。江戸時代の初めまでいくと今度は木崎村という広い村が出てき
てしまいます。その地域は、現在の瀬ヶ崎や駒場まで含める地域となっていました。分かれて
各々が村となったのは、元禄以前とされています。慶安2年(1649)8月徳川家光は、正樹院
(木崎3丁目)に寺領として14石寄進しましたが、その時の寄進状(朱印状)に「武蔵国足立郡
木崎村正樹院領同所之内拾四石事」とあります。江戸時代にはよく「領」を使いました。これは
郡と村の間の地名で、たとえば「武州足立郡木崎領上木崎村」というよに記載しました。郡内に
同じ村名がよくありますので大変便利です。例えば領家という村は、浦和市域にでさえ二つあり
ました。現在の領家と大久保領家がそれですが明治22年までは、足立郡木崎領領家村と安達
郡植田家領領家村と呼んでおりました。ところで木崎領の範囲は広く、上・下木崎村、領家村、
瀬ヶ崎村、駒場村針が谷村などはもちろん三室、尾間木から谷田まで及んでいました。
さて、木崎の地名が文書に初めて見られるのは、戦国時代の弘治年間(1555〜1558)のことで
梶原政景(岩付城主太田資正の子)は、木崎郷の内、細谷刑部左衛門拘りの地を三戸十郎に与
える旨が記された文書です。細谷氏は、正樹院の開基でもあります。そして永禄3年(1560)
12月太田資正はその子潮田資忠に大宮、浦和の宿、木崎、領家方までを与えるというもので
す。いずれにしても、木崎という地名が中世までさかのぼれる数少ない地名ということができ
ます。木崎は、山崎、瀬ヶ崎、大崎など台地先端を示す地名のひとつですが、「木」は、必ずし
も明らかではありません。一説に「木」には、「城」ではないかともいわれています。明治22年
在来の上・下木崎村、領家村、瀬ヶ崎村、駒場村、本太村、針が谷村、それに北袋村が合併し
て木崎村となり、昭和7年浦和町と合併しました。木崎小学校や木崎中学校はその名残です。
ある新聞の浦和の町名シリーズその12より
筆者:元浦和市教育委員会文化財保護課課長 青木義脩氏
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木崎周辺案内 【 正樹院 】 |
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見沼の斜面を背に本堂が建つ浄土宗正樹院は、成道山等覚寺と号します。小田原北条氏の
家人で守護職にあった細谷三河守が開基となり、大永元年(1521年)に創建、慶安2年(1649年)
には江戸幕府から寺領14石の御朱印状を拝領したといいます。本尊は阿弥陀如来。
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木崎周辺案内 【 御室神社 】 |
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10月には自治会恒例の「秋まつり」が開催されます
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現存する手水鉢 |
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御室神社の創建は不詳ですが、奇稲田姫を祭神としていることから、氷川女体神社を歓請して
創建したのではないかと考えられます。
『風土記稿』下木崎村の項に隣村領家村の鎮守として祀られ、明治期に村社に列格したといいます。
境内には天保2年(1831年)の手水鉢が現存します。
この付近で前窪遺跡が発掘されました。 |
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木崎周辺案内 【 御嶽神社 】 |
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毎年2月の節分明けの日曜日に大火渡り祭執り行われます
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三崎に鎮座します当社は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱をお祀りしています。この大神様
を称して御嶽大神と申します。知恵・才能を授け長寿を護り難病を癒す霊妙神です。 |
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木崎周辺案内 【 薬師様 】 |
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昔の皇山通りから住宅地の間を縫って細い路地を入った林の一角にあります
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薬師如来立像が彫られ村人たち元禄14年(1701年)に建立したと記されています。
当時この付近では眼病が流行したと伝えられ、その厄除けのために建立したものと思われます。
この付近で立葉遺跡が発掘されました。 |
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木崎周辺案内 【 木崎秋葉神社 】 |
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総本山は静岡県天竜区の山中
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創建されたのは天平2年(西暦862年)平安時代に祀られた地元では最も古い神社です。
主祭神は火之迦具土之大神様(ほのかぐつちのおおがみさま)で全国に1203社が祀られており
火伏の神様として奉られています。 |
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木崎周辺案内 【 前窪観音堂 】 |
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次回開催される御開帳は令和8年5月
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5丁目前窪観音堂は、新秩父三十四観世音の札所11番となっており、御開帳札所巡りは
12年に1度、干支の午年に行われております。
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木崎周辺案内 【 庚申塔 】 |
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この先の赤山街道との交差点付近にも二つの馬頭観音石仏があります
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木崎交差点から赤山街道に向かう県道沿いの住宅地の一角にある石仏です。
正徳4年(1714年)の唐破風笠付の大型の庚申塔で、手に法輪、弓、鉢、矢を持ち合掌する青面
金剛の立像を浮彫してあります。施主は善男善女・童男童女182名と記され、大人数であること
が注目されます。 |
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木崎周辺案内 【 木皇山不動堂 】 |
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県道さいたま幸手線のバス停「皇山道」の道沿いにあります
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”成田山”と彫られた石柱には安成6年(1859年)とあり、当時江戸周辺では成田山不動信仰に篤
かったことから、地区で不動信仰の講を結成し建立したものと思われます(現在、講は解散)。
また『足立百不動尊霊場』の8番本太の『光善院』が昭和40年代半ばに廃寺となった折、光善院の
お不動様をこの不動堂が引き取ったといわれています。
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木崎周辺案内 【 古代遺跡 】 |
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木崎には、文化財の遺跡が多く散見されます。
●木崎一丁目遺跡 ●木崎二丁目遺跡 ●立葉遺跡 ●前窪遺跡
多くの縄文土器が出土されています。木崎には、縄文時代から集落があったという証明であり、
それだけ人間の住まいには適切な地域であったといえます。
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