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伏見名水探訪 (坪井商店の井)
京町1丁目(京町通の一番南が1丁目、最北端が墨染24号線の11丁目です)のワイヤーやロープなど商っている坪井商店を訪ねました。店の表側、道路に面した端っこに水道蛇口があってその下に銭形の蝶番があります(写真)。これは水道水でなく地下約100bから汲み上げられているれっきとした伏見名水です。「月桂冠や菊正宗の井や御香宮などと同じ水脈なんですよ」と主人の坪井さんは説明します。さらに「この水脈は約80年前の雨水が地下深くたどってここに来ている」とのことです。この商店は街や風の建物で、庭には2箇所の井戸あって、昔はコンコント湧き出ていたとのことです。お茶やコーヒーなど抜群の香りと味。だから一般の人にもと7年前に表通りから汲めるようにと持っ
てきたとのこと。もちろん無料で、掃除も行き届いてキレイ。おまけに年に1回は保健所の検査をうけており、安心して飲めます。また関電が停電になっても自家発電装置付きでいつでも汲み出せるようになっています。だから、非常時の水源にと京都市の「災害時協力井戸の家」にも指定されています。でも、最近大きなタンクで持ち帰る人や車で乗りつけて近所に駐車して迷惑などマナーがちょっとの人あって、節電もあるし一定制限している。でも「喜んでくれる人がいるので、これからもつづけます」とのことです。寺社や酒蔵の井の提供はありますが個人で提供している井は初めてです。(ペトッボトル=3本、タンク=1本までです。毎日汲み上げていますのでどうぞ)
≪余話≫小町さん前回特集でしたので、今回はありません。橋立をテクテク歩く小町
さんはどうなるんでしょうか?次回お楽しみに。伏見の歴史シリーズが始まりました
ね。名水よりもこっちの方が面白そうですね。
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伏見名水探訪 稲葉水(Inaba-sui)の巻
淀城本丸と淀神社の間にぜんぜん目立たない小さな荒れはてた神社があります。この神社にも井戸(写真)があるんです。筆者が勝手に名付けて稲葉水。稲葉神社は淀藩主稲葉家の藩祖の正成を祀っています。淀神社に埋もれて無秩序な自転車置き場に隣接しているから良く注意をしなければわからないです。もう井の水は無さそうです。隣の淀神社の井の水は水道水かもしれませんが(失礼)あります。
淀城の井は淀城本丸下にあって(今はでっかいコンクリートの蓋がしてあって、真ん中の小さな穴から石ころを落とすと3秒ほどしてポチャンと言う音がするのでかなり深くて水があることがわかります(穴から覗いても真っ暗。名水シリーズの最初の方で紹介しました。思い出してください)。
ところで、藩祖の正成は美濃国(岐阜県)の一七条の城主である林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、稲葉と称した。ところが妻が亡くなり、明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎えて再建。これが後に有名な春日局(かすがのつぼね)で稲葉正勝(後に小田原城主)らを生み離別し大奥に入り家光の乳母となりやがて大奥を統率する絶大な権力者に。
藩祖正成は秀吉の信任厚かったが関ヶ原合戦では家康側について勲功あって感状を受け、後真岡城(栃木県)の城主となったんです。将軍吉宗時代に佐倉(千葉県)から5代目稲葉正知が入封し明治の廃藩まで、稲葉家12代148年間もの淀藩主でした。でも鳥羽伏見の戦いでは敗北した幕府軍の入城を無情にも断ったんです。いつの代も上手く生き抜く人あり。(筆者はそんな能力無くて単純に生きている)
【余話】@写真右は淀城の有名な水車(当時は巨大な水車)で。淀城の北側に流れる桂川と宇治川(今は西側に流る)の2カ所に巨大な水車があって場内に水を引き入れていたんです。たんです。Aさて天橋立にたどり着いて3.6qのも橋立をテクテクと歩くんです。宮津湾には北風が小町さんに容赦なく吹き付けてきます。今年のように豪雪ではなかったですが小町さんたびたび立ち往生です。1qほどのところに井があって真水がこんこんと湧いており(今もあるって美味であります:何という名前だったかな?)小町さんは冷たい清水でのどを潤します。これが暖かい湯であったらよかったですが。もう夕暮れ時です。寒さは一段と強く感じられ小町さん絶体絶命の危機に。そこに現れたのが・・・。(つづく)
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伏見名水探訪 神供水(ジングウスイ)の巻
伏見稲荷大社の本殿右横にある「神供水」(写真は今年正月元旦に撮影)を紹介しましょう。井戸には古い釣瓶(ツルベ)がぶら下がっているけれど、写真のように四方は囲いがしてあっておまけに蓋までしてあるので使用はできる状態ではありません。けれど、戦後しばらくは使われていたと思われます。地下水がどんどんくみ上げられて枯れたんでしょうね。本殿の横なのできっと謂われがあると思って、巫女さん(すごくきれいな人)にお聞きしました(彼女、分からないので「ちょっと聞いてきます」と奥の年輩の神官に聴きに)。もともとは神殿に添える聖水をくみ取っていたのでしょうとのことでした(いろいろ楽しくお話した内容は内緒)。手口を清める水は本殿下の大きな手水があるしね、やっぱり聖水でしたね。
この聖水はきっと、正月は早朝寅の刻に汲まれる若水として神に供され、5日の注連縄神事の大山祭など年中行事にはこの聖水が汲まれたと推測できます。
さて伏見稲荷の起源はものすごく古く古代の古代の文献にみえる。語る紙面がないのですが、水神に雷神竜神やお狐さまなど興味深くてとても面白い伝承の宝庫です。国際的な繋がりもあって古代渡来人の秦(古くはハダと発音)で大陸の技術者の一群であったのでしょう。それに太秦、欽明天皇、聖徳太子や弘法大師との結びつきなど話せばつきません。
【余話】さて天橋立の麓までようやくたどり着いた小町さん。今年の厳冬のように雪がいっぱい積もってる橋立。ところでこの天橋立は3.6qの湾口砂州で2万年前に宮津湾が陸地化し、氷河期が終わった約7千年前の縄文時代に海面上昇し急速に成長し、2〜3千年前の大地震で大量に流失した土砂で海上に姿をみせたと言われています。いまはちょっと痩せているし昨年末に訪れたときも8000本も松も怪しげになってきている。また余談になって小町さんの話はまた今度に。すみませんね。
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伏見の名水探訪 「白龍銭洗弁財天の巻」
2012年「新年おめでとうございます」と東洋では最大の祝いの正月(中国などほとんどの国は旧暦:今年は1月23日が元旦で春節祭)。なんで「めでたいの?」。昔は人生40年、特に幼くして亡くなる子がいっぱい。だから老若男女、いのちが年を越えて再び新しいいのちにつなぎ変わったんだから、こんなめでたいことはないんです。ところでお年玉。古来日本ではいのちや魂は玉(丸)型。餅も正月ぐらいしか食べられなかった貧乏な庶民の子にせめて正月ぐらい丸い餅をと。お雑煮に入れる餅も京では丸餅。神社の鏡も丸。だから鏡餅も丸。当然、お年玉も四角い紙でなく丸い硬貨が本当なんだけれど・・・。
さて本題。今年は辰・龍年。龍(ドラゴン)の水を紹介しましょう。伏見深草山(ジンソウザン)は瑞光寺(ズイコウジ)の門をくぐって右手に弁財天の祠がありその横に龍から湧き出る清水と大きい石鉢(写真)。これが昨今、TVなどに登場する「白龍銭洗弁財天」。硬貨でなく「ザルの中にお金(千円、五千円、一万円)を入れ、龍神の神体の中から出る水で願い事をお祈りし、お金を洗います」との説明の立て札。濡れたお札を乾かして神体袋(当寺院特製で500円)に納めて財布などに入れておくと幸運を授かるんだって(取材した時も一万円札を浸していた人がありました)。
さて、当寺院は元は極楽寺薬師堂の旧跡で応仁の乱で荒廃していたのを、1655年(明暦元年:四年前に由井正雪の乱、二年後に明暦の大火)に元政上人(彦根藩の武士。出家し、当寺院で父母孝養。学者・文人で知られる)が日蓮宗の寺として再興し瑞光寺と名付けたと伝えます。境内には大きな桜の木があって春にはみごとな花を咲かせるんですよ。
【余話】小町さんは村人たちに別れを告げ成相寺にむかいます。もちろん一人です。車も電車もない時代に女人の一人旅はそれはそれは苦難の一言。テクテク、テクテクとやっと宮津湾の浜辺に着きました。浜辺から長く伸びる橋立が見えます。「ああ、あれに見ゆるが天の橋立か・・・」と深く感動。もし、小町さんが小式部内侍の後の人であれば、『大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立』の一句を思い浮かべたでしょう。(つづく)
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伏見の名水探訪 「源空寺の井の巻」
源空寺は瀬戸物町(新町通りの一筋西の通りで、南法律事務所がある山京桃山ビル前・イオン前の通りの大手筋通り少し北)にあります。なんでも、法然上人25霊場の大15番にあたる名刹で、正式名は宝海山法然院源空寺といい浄土宗に属しています。寺伝によると源頼朝が征夷大将軍になって3年後の1195年に天台宗の忍空上人が宇治郡炭山に創建したのが始まりとかでかなり古い。その後いろいろ変遷を経て徳川二代秀忠と三代家光将軍が現在地に移したことか。写真の井には釣瓶もある立派な井なんですが、木造の屋根形の蓋がしてあってちょっと重くて中を見られなかったので、水は? 井のすぐ横にりっぱな手洗鉢があるので、戦前まではさぞ美味しい清水がコンコンと湧き出でてたんでし
ょう。
さて、右の写真、伏見では珍しい二層の山門は伏見城から移築した遺構で門の両脇(仁王さんが立っているところ)には小さな即地蔵や愛染明王像や伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあった秀吉の持念仏や秀吉天下統一の大福を授けた大黒天像(だから一時このあたりを新大黒町と言われていたんだよ)などが薄暗く見えます。本堂内は荘厳で両サイドのふすま絵はすごいですね。ということで、城下町の伏見ではとても伝統的なお寺の井戸をご案内しました。門から入った左手の井戸についての説明は省略させて頂きます(どうして?)。
【余話】小町さんですが物語は次回にします。ただ、小町さんに関わるお話一つだけ・・・先日訪問した東福寺の塔頭寺院の退耕庵(たいこうあん)。ここの地蔵堂に安置されている背丈2bの地蔵菩薩像の体内には小町さん宛の艶書(今風ではラブレター)がいっぱい詰めてあったんです。小町さん一通一通お読みになったんでしょうか? 丸めてポイだったんでしょうか? 一度聞きたいですね。でも「玉章地蔵(たまずさ)地蔵」なんて呼ばれていたんだから、玉章(玉梓とも)は玉は美称。古代には使いの者が手紙持参して、ポスト、郵便受けなんてないものだから門前かどこかの梓の木なんかに結びつけたんですね。「玉梓の・・・」は「使」「妹(いも)」にかかる枕詞。「玉章結び 」は若い娘の間に流行したでっかくした帯結びで「吉弥結び」とも言い「腰元結び」とも。ついでに「玉章豆腐」は豆腐を封書のように薄く細長く切って鉢の水に浮かべたもので、貴族趣味かな? なお、当所は鳥羽伏見の戦いの際には長州藩の陣が置かれていて戦死者の菩提所でもあるんです。小町さん無事に天橋立を渡って成相山成相寺に着けるのでしょうか? 平成の大市町村合併でなくなった大宮町教育委員会発行の『小町ものがたり』(あまのはしだて出版製本)はいったいどのように展開してあるんでしょうか。
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伏見の名水探訪
寺田屋の井(Teradaya no I)の巻
江戸時代伏見の宇治川派流は京、大坂を結ぶ日本有数の港町でもありました。弁天浜から西浜、北浜、南浜界隈です。そして、北浜から京二条木屋町までは東高瀬川の水運も盛んで米、味噌、薪、炭、反物、タンス長持ち、野菜、魚そして旅人に罪人と万運搬でありました。さて、蓬莱橋(龍馬通の南側)付近にも船宿が立ち並んでいました。そ一つが薩摩藩の船宿である寺田屋(今の建物は明治以降に再建されたとかの有力説あり)。大名が乗る大型の過書船や三十石船が宿から直接出入りしていました。家康が過書船制度を定め過書船番所をもうけ運賃や税、運行認可などを厳しく取り締まっていました。三十船は小型船で大きい船は三百石積もありその数数百隻もあったと言います。小さな現在の十石舟(舟体は合成樹脂)は建長寺の門前である弁天浜から観光客を乗せて三栖閘門まで運行しています。三十石船(船体は木造)は蓬莱橋のすぐ下流の架かる京橋(日本最初の京都市と伏見町を結ぶ郊外電車の終点であったんです)が発着場になっています(運賃は両方とも同じ)。国鉄東海道線や京阪電車が開通して1871年(明治4年)に廃船。
さて、寺田屋の庭には江戸末期から明治時代にあった井戸がちゃんと保存されています。竹で作った覆いがしてあり、中を覗くとチョッピリ水も。龍馬と親しかった寺田屋の女将おりょうさんが風呂に入っていたときに襲撃にあい、真っ裸で敵陣に向かって走り出で、敵を驚かせ乱入をチョットだけ遅らせたとか。そのため龍馬は傷を負いながらも下板橋(伏見中学の西)の薩摩下屋敷に逃げたとか。そのお風呂の水もこの井戸からくみ上げたんですよ。もちろん宿場の食事一切に使われておりました。ところで、寺田屋騒動は薩摩藩内でのゴタゴタ(藩主をはじめとする穏健な公武合体派と有馬新七などの急進的な勤王倒幕派の争い)で穏健派が集結していた寺田屋で急進派とが激論になり乱闘になったのが騒動とか。今も生々しい刀の切り傷跡の柱があります(これを見たい方はチョッピリお金を払ってくださいね。「そんなの全部ウソ。傷もウソ」なんておっしゃるお方は素通りしてください)。
【余話】小町さんのお話です。右は小町さんのお顔です。知性と教養にあふれ、それに+温厚な人柄+品のある美しい顔立ちのお人でしょう。さて、お話→小町さんは村を去るんでしたね。「たいそう お世話になりました。旅の目的地の天橋立の文殊堂に立ち寄り、橋立を渡って成相山へお参りしたいと思います」とたくさんの村人が見送る中、別れを告げました。〈文章は大宮町教育委員会(当時)発行『小町ものがたり』から少し拝借しております〉
(次号につづきます。お話はボチボチとすすみますのでご期待を)
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妙榮水(Myoeisui)の巻
ふれあいユニオンの本部(?)がある伏見地区労の西隣3軒目は本成寺(ほんじょうじ)。ユニオンにもっとも身近なこのお寺の庭園にあるのが有名な妙榮水。龍の隣の竹筒から一条の水(写真)。本堂庫裏を再建した同寺院36世の日崇が祈念し唱題祈願して掘ればなんと清水がコンコンと湧き出ったとか。日崇は「われらはこの奇瑞(きずい)を讃仰し奉り『妙榮水』と名付けり。み仏の慈悲と自然の恵みに心より感謝の誠を捧げん」と言われたとか? 竹筒は前に池があって汲めないので横のほうに水道蛇口をつけてポンプで汲み上げている。近所の人がたくさん汲みにきます(無料)。飲料にも適してコクもあってとても美味しいです。ユニオン本部に寄ったさいにはペットボトル持参してくだ さい。極上のコーヒーやご飯がつくれます。ところで日蓮宗のこのお寺はとても由緒あるお寺で、関ヶ原戦から36年経た年(1636年)に伏見奉行水野石見守忠貞の協力で少し北にあった所(住吉児童公園あたり)からこの地に。本尊は創建当時のもの。本堂右手前の地蔵堂には大人等身大の真っ白なお顔の木造のきれいなお地蔵さんが安置されてます。以前登場した六地蔵は大善寺で紹介した小野篁(おののたかむら)作といわれています。篁は重病であの世に行き再びこの世に戻ってきた人物。また篁があの世とこの世を行き来した東山は六道珍皇寺の「冥土の井」も紹介しましたね。この地蔵は元々、大亀谷地蔵院にあったけれどたびたび移動し1870年(明治3年)に当地に引っ越しました。古来から「痰(たん)切り地蔵 」と呼ばれて信仰をあつめているとか。その地蔵堂の左横には一bはあるでっかい鬼瓦の対が置かれています。今のは丹波橋通りから本堂てっぺんの鬼瓦(写真)が見れます。筆者の小さい頃の丹波橋通りは竹田街道からフレスコあたりとここ本成寺前には夜店が出て賑わっていたんですよ。貧乏でお金も持たずにウロチョロしてた筆者であります。綿菓子や小細工飴がほしかったなぁっと指なめてた。紙芝居は「水飴買わへん只見の子は後ろから見!」と言われてたっけ。今は丹波橋商店街もだんだんお店が減って一般住宅が建つようになり昔の面影がなくなってきましたね。
(@文章が長くなって小町さんのお話はまた次号。それに夏の平和行進の終点東福寺東門の塔頭に世の男性どもから送られてきた数多くの艶文が納められているとか。あの随心院にもたくさんの恋文を捨てた文塚がありますね。ほんとに小町さん美貌と教養も持ち主でモテモテであったんですね。中国の楊貴妃は以前現地報告しましたので、今度はクレオパトラの足跡を取材したいですね。
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伏見名水(栄春寺の井の巻)
織田信長が初めて上洛した年、1568年に伏見最初の曹洞宗の寺院として開創されたお寺です。本堂前のよく手入れされた庭園に井戸(写真)があります。場所は京阪電車本線を国道24号線が大きくカーブしてまたぐところにあります。歴史的遺産としては総門は伏見城の遺構、釈迦如来座像が家康の家臣であった酒井重勝の寄進、本堂裏で墓地になっている高台は伏見城総惣構え(土塁で北野天満宮と同じ)で唯一現存【近鉄豪川鉄橋から北堀公園(伏見城の内堀)の北側まで高い土塁(写真の石垣)が築かれていました】、茶室指心庵(ししんあん)、秀吉が命じた孟宗竹の群、会津藩主の碑誌が刻まれた巨石(会津藩とは幕末まで交渉)、福山藩寄進の画像や兵緑6編、墓地には兵法の祖長沼宗敬、誰でも知っている浅野内匠頭、大石内蔵助など志士を祀っています。さて井戸には竹蓋がされて開けると埋めてしまって水なしで残念。
ところで、先の東日本大地震が影響したのか、日本名水百選の御香宮の名水も飲料は不可になり誰一人として汲みに来なくなったんです。また問題の乃木神社の勝水も濁る時があって飲料は控えたらとかで伏見の名水も地下の層が大分ずれたりして水脈もちょっと変わったのかもしれませんね。地質学者や市当局なんか調査したのかしら?
【余話】小町さん。村の名前を「五十日」(いかが)の字を「五十河」に変えんですね。そして太鼓に踊りなど村人は祈ったんです。それ以降はすっかり火災はなくなったんです。だから乳飲み子も火災で焼け死ぬこともなくなりすくすくと元気に育ちました。
さて、柚木も解けた春先に小町はこの村を去ることにしました。だって、小町は天橋立にある文殊堂や向こう岸の成相山にお参りの旅をしていたんだからね。手習いやら都の話やらですっかり子どもたちは惜しみながらも小町先生とお別れしました。この村の案内してきた甚兵衛が峠まで見送った。ところが・・・(次回をお楽しみに))
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伏見名水番外(乙訓寺の井)
たびたび乙訓の里に取材しているので今日は伏見の地域ではない乙訓の里は長岡京市の乙訓寺名水。乙訓寺と言えば牡丹が有名で境内一面に咲く牡丹は圧巻。でも、本堂前庭の井戸には人々は目もくれない。乙訓寺の歴史は古い。桓武天皇の弟の早良親王が幽閉された寺で長岡京造営以前からの大寺院でありました。空海(弘法大師)もこの寺院の別当に任じられている。しかし平安京以降は紆余曲折、徳川綱吉時代に一時的に再興したが現在はちいさなお寺に。さて、「清浄水」と銘打つこの井戸(写真)は文久元年だからちょうど徳川最後の将軍の前の家茂時代のもの。参拝人の喉を潤したのでしょう。今は涸れ井戸。ちょっと掘削して清浄水が再び湧き出たらいいのにね。
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伏見名水(安楽寿院の井の巻)
近鉄竹田駅の南南西に歩いて5分。近鉄車窓西の方を見ているとごく近くに丸い三重の新御塔(しんみとう)が見えます。近衛天皇の遺骨が納められている安楽壽院南陵といって、御陵にしてはとても珍しい(現代の多宝塔は豊臣秀頼が再興したもの)。コンクリートづくりの明治天皇墓陵から見れば遙かに立派。さてこの北隣の安楽壽院は本堂や金堂がある古刹。1137年鳥羽離宮の東殿を寺に改められたのが始まり、白河上皇の時代から保元・平治の乱あたり、1167年に清盛が太政大臣になり、古代から武士の世に大きく変化する激動の時代に突入。思想界も法然<念仏宗>、日蓮<法華宗>、親鸞<一向宗>など庶民の宗教が台頭)。安楽壽院の位置。平安京のど真ん中の朱雀大路を南にズーとの ばした場所であり、京と大坂と結ぶ港(当時の中書島はまだド田舎で沼多数)があったんですよ。加茂川はこのあたりから城南宮の南側を流れていました。写真は本堂前の井戸で龍の口からコンコント流れる清水(飲めるかな?ちょっとやばいかな?)。さて、安楽壽院は鳥羽伏見の戦争では官軍(薩摩軍)の本営にもなったんですよ。ここから一気に幕府軍へ出撃。伏見全域が灰燼(かいじん)にと。
【余話】小野小町さんのこと。京から旅だった小町さん老の坂を越え、観音峠も越えて鬼の住む大江山も越えてテクテクと。途中で出会った行商人の道案内。男の村は五十日(いかが)の里。真冬で凍りつきそうな村であった。ここに逗留して一月。村人は小町さんを『都の人』と親しみをこめた呼び名をつけた。美しいだけでなく、どことなく溢れる知性と気品、そして村人に対してはやさしさと同時に気さくさもあるんだから。ある晩のこと村が火事。ワラ葺きの家々は見る間に炎につつまれた。この村はたびたび炎下に襲われていたんです。難儀を聞いた『都の人』はある提案を村人達にしました。「五十日の日の字は火の災いと夢枕でお告げがありました」、「京からここまでいくつもの河を渡ってこ ちらに着きました。日は火に通じます。日と言う字を河に、五十河に変えてはいかがでしょうか。読み方は今まで通りの「イカガ」です」と奇抜な提案でありました。その提案はたちまち村中に広まって、『都の人』の逗留している商人の家に集まってきたんです。(つづく)
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伏見の名水(神川の井の巻)
伏見区を流れる桂川の以西は合併までは乙訓郡でした。乙訓郡には大山崎町、長岡町、向日町、神川村、久我村、久世村、羽束師村などがありました。久世村のみ南区に編入され、神川、久我、羽束師は伏見区に編入しました。ちなみに伏見町は紀伊郡でした。
桂川の西沿いには菱妻神社、久我神社、羽束師神社などがあり、村人たちは産土神をまつり、桂川の氾濫を恐れ、五穀豊穣と無病息災を祈って日々の厳しい労働に打ち込んでいました。
さて、写真は焼き肉の網ではありせん。霊験あらたなれっきとした井戸であります。神川小学校の東の片隅に鎮座してますが、「神川小学校はこの神社の広い境内に建てられたんですよ」と古老は言います。このあたりの中学は伏見中学と乙訓中学に通学していました。すごく遠いですが、何とも思ってなかったとも昔話を語ります。
話変わって小町さんの余話。でも研究書みたいなのは面白くないので、丹後地方に遍歴した小町さんを紹介しましょう。語り部のお婆の話を聞いてくだされ。
昔々の事じゃ。美しいおなごが京の都からはるばる宮津の天橋立まで旅をしておった。ちょうど、五十日村の行商人の甚兵衛(じんべい)も都から帰る途中で偶然に出会ったのじゃ。女は一人旅で不安に思っていたので、甚兵衛に道案内を頼みおったと。夜中も歩きどうしで朝露が草木を濡らすころに二人は天津に着いた。橋立のある宮津と甚兵衛の郷の五十日との分かれ道。甚兵衛は女に「わしの家はすぐそこじゃ、ちょっと寄って疲れを癒したらどうかな」と。「ご親切に、京の都からテクテクと心細く思って、少々疲れ気味ですので、男場に甘えて一時ごやっかいになりましょう」と。真冬で雪も吹雪いて山々は真っ白。冷たい風が吹きつけるなか歩き歩いてようやく甚兵衛の家についたんじゃよ。
(今回も字数オーバーでこのつづきは7月号。どないなんのやろ、この先お楽しみ
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伏見の名水(国道1号線の伏水)
1号線と大手筋交差点から約200b北の1号線東側の「鉄板や本店」横に「天下の名水の伏水(ふしみず)は生きていた」と書いた看板があり湧き水がこんこんと流れています。京都市許可書や水質検査(データー=水温20°、ph:6.3、Fe:0、硬度:90、周辺地質:砂・れき・粘土などの堆積層)もされ、飲料可でコップも
おかれています(お金いるかな?)。おいしい天然水で「美容と健康・・・」と銘打っています石碑には誰が詠んだかわかりませんが「松風や鳥羽の祇温の伏水を むすぶこころは涼しかるらん」と刻まれています。
【余話=地名の伏見は伏流水から伏水とも言うともっともらしい話しもあり、江戸期に極一部に使用されていましたが、明治に陸軍第16師団の連中がしゃれっ気をだしてこれを用いたとのこと。歴史学者や郷土史家では名月などを「臥して見る」からで、古代以来「伏見」の荘園名(領主は伏見宮家)になったと言う説が 最有力です。24号線宇治川に架かる橋を「観月橋」(=豊後橋)なんていいますね。昔から巨椋池から眺める月はものすごくきれいであったと記録されています。最初の伏見城(4回築城)は伏見指月山ですね。ところで伏見の土民どもの生活、村の掟や闘いについていつか記述したいですね。深草・竹田・伏見・醍醐・淀などの 土民(百姓)の暮らしです】
【言い訳=「小野小町姫はいつあらわれるんですか?」という問い合わせがありました。水物はいろいろおもしろい話しいっぱいで、脱線ばかりしてごめんなさい。小町の資料はいっぱいもっていますのでそれを駆使して次号に掲載。お楽しみに】
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伏見の名水(圏外編)楊貴妃の湯井
今回は伏見から2000q離れた圏外特別編。日本では奈良時代のはじめ、中国は唐の都長安(現在西安=シーアン)に第6第皇帝の玄宗が溺愛した楊貴妃と日夜遊興にふけった華清池の宮殿。美しい橋が架かる大きな池は人工堀。土は宮殿の背後の小高い丘に。宮殿のまん中にあるのが写真の楊貴妃専用の湯の井(海棠の湯<カイドウ=バラ科リンゴ属。春の末に淡紅色の小さな房状の綺麗な華がいっぱい咲く。昔から美人の形容>・747年に青い石を用い精緻を極めた湯船で海棠の形)。とても大きくきれいで温泉を引いている。隣には楊貴妃専用の暖房完備の脱衣所も。おまけに湯上がりの髪を乾かす専用の豪華な塔まである。妃は世界三大美人(楊貴妃・クレオパトラとヘレネ<日本では小野小町>)の一人で写真のように豊満な女性(写真)で、音楽に舞踊など多大な才能を有していたとか。玄宗のあまりの寵愛しすぎで嫉妬、離反、そして有名な安史の乱を引き起こし傾国の美女とも呼ばれています。もちろん伝説は小町どころではなく無数。最後は悲運な縊死(首吊り)にさせられたとか自殺を命じられたとか。安禄山は嘆き悲しみ、白居易は長編漢詩『長恨歌』を作製し今日まで伝えます。なお、玄宗皇帝や女官達専用の湯船などたくさんの湯船があります。(2011.4.2撮影)
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伏見の名水(番外編ー桃山時代の井巻)
今回は特番です。今回は2年前に地中深く埋め戻された「桃山時代の井」(写真)で、現在はこの真上に伏見区の総合庁舎が建てられており、もう二度とお目にかからない井戸です。さて、桃山時代と言いましたが、秀吉が伏見城を造営するまでは久米村で、室町時代には板橋寺(今は跡形もありません )があり、また写真の北側には今もある金札宮が古くからありました。2007年11月から08年2月まで同所では大規模な発掘調査が行われ時に直径1m〜2mほどの井戸がたくさん発掘されました。写真はこのうちの3つです。井戸は素掘であったと推察されています。
分厚い調査報告書を読みますと古代から平安時代や室町時代などの地層が何十にも重なっていたようです。各時代の地層によって発掘された内容は違いますが、土師器・陶器(写真=お茶碗)・磁器・漆器・瓦・箸・籠・人形・木簡・下駄や中国製の磁器などたくさんの木製品、金属製品、石製品を発掘(多くの発掘品は京 都市伏見垂見水収蔵庫に展示されています。見学は要予約)。ところが墓地時代もあって、何百という人骨が重なるように発掘されました。幼児から子供、青年、成人など甕棺に入れたれたり、土葬されたりして、骸骨の形もリアルに報告されています。そして、お茶碗やお皿もたくさん発掘されています。だから、約1000年も 前の人々の生活が、生きている様が、今とかわらない子どもの遊び声や井戸端でお母さんたちが茶碗を洗い、洗濯をしている姿が、そんな情景が生き生きと目に浮かんできます。遺跡や史蹟を訪ねたときは、単に見学するだけでなく、一つ一つの遺物に、人々の悲しみ、子供たちの笑顔などそこで生活している姿を思い浮かべると、 今生きている私たちと重なり合う道標になって、10倍の学習になるんです。(にわか考古学者、Nさんの言)
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伏見の名水(羽束師神社井の巻)
桂川の西側(昔は乙訓郡に所属。ちなみに伏見町や深草村は紀伊郡、醍醐村や石田村などは宇治郡、淀村は綴喜郡で競馬場南あたりは久世郡)の名水の紹介は初めて。ところは羽束師大橋を渡ってしばらく西に行くと、中ぐらいの川があります。ここを左に折れてちょっと南に入ったところに羽束師神社が鎮座してます。1500年前(477年)の創建といますからものすごく昔。生成霊力を持つ皇産霊神を奉斉していす。霊水は正面参道からら入った左手にあります(写真)。古札を燃やしていた宮司さとしばし懇談。なんでも昔はもっと深かくきれいだったので飲み水などに使ったけれど今の水はポンプで汲み上げて流している。このあたりの地下水は飲めますが、10mぐらいの深さなので鉄分が多くてあまり飲料に適しないということ。
神社の前を流れる川が羽束師川。この川は実はここの宮司さん(5代さかのぼった)が、洪水と悪水など低湿地を何とかしようと1809年(文化6年)から実に17年をかけて掘削された川です。古川、樋爪、水垂、大下津、山崎を経て桂川に注ぐ全長12km。2郡12村の水害や汚水などを防ぐことができの村人たちは永代
にわたり感謝感謝。しかもお上は一銭の官費を出さず、宮司の私財と村人の尽力で完成。川名はこの神社名である羽束師神社から命名。5月には祭で御輿2基がかつがれ賑わいます。
「幾千町羽束師川に水おちて 秋の田のもにみのるやつかほ」
(お詫び=今回は小野小町のお話を予告していたんですが、またまた小町の研究書が手に入り目下勉強中。今しばらくお待ちください(実は調べれば調べるほどレポートは書けないんです)。
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伏見の名水(松本酒造の巻)
濠川に架かる下板橋のたもとにある松本酒造の井を訪ねました。当地は明治までは薩摩島津家の伏見屋敷があったところ。参勤交代でも大名の入洛は禁止。伏見に入って六地蔵から山科に抜けたんです。伏見は西国大名にとって旅籠に変わる大名屋敷がずらりで町名が沢山残っていますね。島津斉彬(な
りあきら)の養女篤姫も江戸に向かう途中、1853年10月31日(旧暦9月29日)から一週間ほど滞在して東福寺、満福寺や近衛家などに訪問していて、私の自宅前の道(呉服通り)や地区労事務所がある丹波橋通り(丹波守屋敷)も何度か籠に乗って通ったかもね。それから13年後の1866年3月9日(旧暦1月23日)龍馬襲撃事件。龍馬
は深手を負いながらも濠川伝い逃げた、木挽町の材木問屋や毛利家家臣などの手引きでここ島津屋敷にかくまわれたんです。鳥羽伏見戦争で伏見は灰燼に。
余談話ばかりで、名水だ。松本酒造の門から入ったすぐ左に大きな丸い井戸(直径約2m)があります。蔵人さんに重たい鉄制のとんがり蓋を開けてもらいました(写真)。中を覗くと深くて真っ暗で底は見えません。今は、酒水は枯れて、10mほど離れたところ蔵側に深く掘った井戸から清水をポンプで汲み上げています
(伏見の寺社や酒造会社の井戸は今はいずれもポンプで汲み上げています)。仕込み最中でしょうか、蔵からは湯煙がもうもうと立ちこめて、甘酸っぱいにおいがプーンと。新酒しぼりたて生原酒をちょっといただきますと、まぁ、新鮮でフルーティな味が口中いっぱいに広がります。一切なにも手を加えていない無垢なお酒。加熱
殺菌処理や防腐剤などもなしなので生きた酵母の出す芳香かすかにあってこれまたなんともね・・・。ということで松本酒造「明君」をどうぞ。
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伏見の名水(小町化粧の井戸の巻)
今回は伏見区醍醐と山科区との境界線から10mほど山科に入った(だから伏見名水とは言えないかな?)隋心院にある小町化粧の井戸(写真=枯葉浮かぶ井)です。
随心院は真言宗善通寺派の大本山で弘法大師から8代目の弟子仁海が991年(正暦2年)に創建した古いお寺。仁海がある夜、夢を見た。亡き母が牛に生まれ変わってた。仁海は一生懸命世話をしたがすぐ死んでしまい、その皮に曼茶羅の像を描いて本尊としました。ですからこの寺の最初の名前は牛皮山曼茶羅寺(キュヒサンマンダラジ)と言ってたんです。
さて写真の小町の化粧井戸ですが、このあたりは小野一族が栄えた場所で、地下鉄も小野駅がありますね。小町というのは未婚の若き女性をいい、小野に住んでいる小町だから小野小町。本名は(小野良真=篁の子<以前、大善寺(六地蔵の井で紹介>の娘)。昔の女性は本名は夫にしか言わなかったんですね。紫式部、清少納言も官名。化粧の井戸は絶世の美女で柔軟艶麗な歌人出会ったことはよく知られています。小町を恋いこがれたの深草少将(墨染にある欣浄寺の涙の井)の百夜通(もももよかよ)いの悲恋伝説も以前紹介しましたね。少将は通うたびに随心院近くの榧(かや)の木の実を一個持って来たんですね。百日目に雪に埋まって凍死しますが手にはしっかりと100個目の実を握っていました。その榧の大木(今は朽ちていますが)今もあります。随心院には世の男どもが送った無数の恋文が埋められている「文塚」や供養の「文帳地蔵尊」もあります。本堂の間には百歳の小町像とかわいい十代の小町像(先月奉納された)があります。小町さんについては京都丹後にもきれいな美しいお話がありますので、またいつか紹介しましょうね。
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伏見の名水 (洗心水の巻)
伏見竹田にある北向山不動院にある「洗心水」を探訪しました。付近一帯は京の都平安京の東西中心の朱雀大路をづーと南に延長したところ鳥羽湊があったところ。鳥羽天皇を祀る安楽壽院(重文多数)や白河天皇院政の地であり3重の塔、西には以前紹介した城南宮の若水など、観光ルートではないの
で平安京時代の街はずれの風情を思わせます。
さて北向不動さんで知られている同寺は天台宗の単立寺院、1130年に鳥羽天皇の勅願によって鳥羽離宮内に創建された古いお寺で本尊不動明王は重要文化財。応仁の兵火に遭遇し、1712年東山天皇の旧殿を移して再建。元禄7年に鋳造された梵鐘も重文で美しい響きがあるとか。写真の洗心水は昔は自然に湧き出て
、行者修行を行う滝(同院東側)や参詣者の心身を清めるお水でした。その後、枯れてしまって深い井戸を掘っての水です。城南宮の若水とは水脈は同じ。護摩壇の「龍水泉」の清泉で心願を唱えてお供えすると多大な御利益(無病息災、学力向上、家内安全、就活や婚活成就ほかいっぱい)があるとか。坊守は「毎年水質検査して
ますさかいにきれいなお水ですよ。もちろん飲めます。どうぞお飲みになって心清めてくださいね」とのお言葉でいただきました。あまりの美味で願を立てる忘れていました。合掌。
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伏見の名水探訪 (勝水の巻)
今回は「伏水会」が選んだ「伏見名水スタンプラリー」11カ所の一つ「勝水」を紹介しましょう。実は2007年までのスタンプラリーにはこの勝水は入っていなかったんです。いつの間にかしら「勝水」の名で名水に。「勝水」は明治天皇陵(通称桃山御陵)参道入り口の乃木神社境内本殿の左脇前
にごく数年前に造られたんです(写真)。どうして「勝水」なんて造られたのでしょう。乃木神社は明治天皇大葬の当日に陸軍大将乃木希典(のぎ まれすけ)が殉死して、天皇の神の子として1915年(大正5年)に創建された神社です。境内には第3軍司令官として中国旅順を侵略した時の司令部の建物が記念館として移築されて
いたり、近年では写真のように日露戦争の日本海海戦で「活躍した軍艦吾妻の主錨」(顕彰会の説明文)の実物などがあります。今も、毎月一回例会があって正装し海軍帽子をかぶった退役兵士が集まって直立不動での異様な雰囲気の聖域の護持に務めているんです。境内を探訪すると勝栗の栗絵馬も販売(試合に勝つなら「試合」
と書く、出世なら「勝負」と書くなど説明してる看板や以前はなかった君が代に出てくる「さざれ石」も2組あります。平和祈念碑には歴代の保守政党国会議員らの記名入りの石柱も。
今は亡き池田一郎(府立高教祖桃山高校分会)さんが執筆した『京都の「戦争遺跡」をめぐる』という本(伏見中央図書館にあります)を引用しておきます。「伏見は伊勢・橿原と共に絶対主義的天皇制の三聖地の一つに」、「畏れおおくも伏見桃山では・・・」というように儀典脳ファシズムの用語の一つに」なって「
ファシズムの根拠地となっていった」、京都府立桃山中学(現桃山高校)や隣の菊花高等女学校創立者は御陵下教育と呼んで軍人づくりの教育、皇室教育や軍国教育の精神的支柱として明治天皇陵墓や乃木神社を最大限引き合いにして邁進したと述べます。
伏水会はどのような人々が入っているのか知りませんが(スタンプラリーの問い合わせ先には御香宮、後援は日本観光協会関西支部、京都市観光協会、京阪電車他が名を連ねている)。
名水として絶対案内しなかったんですが、地元でもじわじわと軍靴の音が聞こえるご時世ですので、紹介しました。そこまで考えなくてもいいのかも知れませんか? 単純に11カ所のスタンプを集めたらいいのかな? みなさんのご意見を聞かせてほしいいですね。伏見の銘酒の名前も月桂冠を始め戦争に纏わる名前が多
いですね。考えてたらお酒も飲めなくなりますね。
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伏見の名水探訪(招徳の井=Shyoutoku-well-waterの巻)
丹波橋と竹田街道北行き一方の交差点の北西にある招徳酒造を探訪しました。大正時代のレトロな事務所で親切に説明して頂きました。井戸は事務所入り口の右手にある写真のような石組のりっぱな井戸。「昭和20年代末頃まではコンコンと清水が湧き出ていたんですよ」と懐かしくお話し。しかし段
々と水質や湧き出る量から地下100m掘削し、一番水質の良い20mほどの水脈(御香水と同じ水脈で醍醐山が源水か)から仕込みの水として使用。「女酒」と昔から呼ばれるだけあって、柔らかい口当たりの清水です。
ところで、招徳酒造はアルコールなど一切加えずに「米と米麹と水だけでつくる純
米酒こそが日本酒本来の姿である」との考えを今も頑固に守っています。酒米は嵯峨越畑の棚田で京都だけの酒米「祝」や日本晴の契約栽培で綾部市の農場などでより品種改良に取り組んでいる伏見でもユニークな酒造会社です。
創業は関ヶ原の戦いから45年後の1645年(正保2年)。古いでしょう。やがて明
治になり大正末期の都市計画で名水の地伏見の現在地に移転し現在に至ります。酒蔵は街道筋に面してよく見えます。「招徳」の名は禅語の「福以徳招」(福は徳を以って招く)。
(余話)50数年前、招徳の前は中書島から京都までの市電が走っていて、丹波橋という停留所もあったんです。酒蔵の北側は小川が流れ田圃や池があったんですよ。そのつい近くで生まれ育った私は小学生の頃、近所のガキと一緒にザリガニやカエル、ドジョウにフナ、メダカそしてゲンゴロウにヤゴなんかドロンコにな
っていっぱい捕ったりして遊んだところ。
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伏見の名水探訪(番外編)
六道珍皇寺の井(Rokudochinno-tenple-well)
今回は伏見から脱出して東山区の六道珍皇寺の「迎えの鐘」の取材の副産物です。
題して「冥界の井」でこわ〜いお話し。
六道珍皇寺は東山五条坂の中腹にあって、死者をほかす鳥辺野(火葬場あたり)へ葬送する野辺送りの途上にあって「六道の辻」と呼ばれる冥界の境に位置します。
六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの冥界で生前の行為によって裁判官の閻魔大王が生前の行為によって判決します。
さて、同寺院本堂の横手に古びた井戸(写真)があります。
一千年誰も蓋を開けたことがないとか。それもそのはず、昼は嵯峨天皇に、夜は閻魔大王に仕えた小野篁(たかむら)が冥土へ通った出入り口。篁は遣唐副使で何度か渡航を試みたが遭難し、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐島に流刑。帰京して参議に。政治家であり古今集など編纂した文人でもあります。
最初に書いた「迎えの鐘」とは、四方が暑い壁に被われ釣り鐘が見えない珍しい釣り鐘堂。西面に10pほどの穴から手綱が出ています。
これを8月7日から10日の間に引っ張って撞くと「ゴ〜〜〜ン」と不気味な冥界の響き。
この響きは十万億土のあの世まで届き先祖の霊をこの世に呼び戻して(六道詣り)、これを篤く祈って16日(大文字の送り火)にあの世に送るんです(これがお盆。盂蘭盆=うら盆の略で古代インド語=ullambana(苦界)・古代イラン語=urvan(霊魂)。
鳥野辺、蓮台野、化野、紫野とかだいたい「野」が付くところは死者を葬る場所で土葬やそのまま捨てられてあたり一面骸骨。
夜はすごい人魂が行き交っていてこれを沈めるため卒塔婆がたてらました。千本あったので「千本通り」と言うんですって。化野念仏寺の何万もある朽ちた石仏群はローソクの火に揺られて何とも言えない魔界が見えて今も鮮明に覚えていまんですよ。こわ〜〜い。 伏見の六地蔵(大善寺)には大病で冥土に行った篁が彫ったと伝える地蔵(重文)が安置されています(8月22日から六地蔵めぐり)。
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伏見の名水探訪 墨染井<Sumizomenoi>の巻
京阪電車墨染駅から琵琶湖疎水の橋を渡ったすぐのところのあるお寺が墨染寺(ぼくせんじ)。りっぱな山門前に建っている石柱には「墨染桜寺(ぼくいせのうじ)」と彫られています。門に入って本堂手前に井戸の石手水(写真)があります。今はご覧のように空っぽです。女性の坊守に聞きますと境内の井戸は水も涸れて埋め
てしまったとか。この手水側面に墨染井と彫られ、願主(奉納者)を「中村哥右衛門」(歌舞伎で有名ですが何代目かわかりません)と彫られています。「今の歌右衛門さんもちょくちょくとお参りにこられるんですよ」と話します(でも歌右衛門と墨染寺との関わりは不明)。
このお寺は清和天皇勅創の貞観寺の旧跡で891年に藤原基経(もとつね)の死を悲しんだ上野峯雄(かんづけのみねお)が「深草の野辺の桜し心有らば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだ桜があります。今はその桜の3代目といいます。秀吉もあつく信仰したが、江戸期は荒廃し学妙が再興しました。
<余話>京阪の墨染駅はこの寺院の名前。実は現在の藤森駅は名神の下ですね。藤森ではありません。旧名は師団前という駅名。でも敵にばれるので名前を探して藤森と命名。藤森神社は南正門や鳥居はずっと南ですね。だから駅名は「墨染」でなく「藤森」の方が適切。もし初めから「墨染駅」でなく「藤森駅」だったら
現在の藤森駅はどのような駅名になっていたでしょうね? ところで、伏見の名水シリーズも長くつづきましたが、名水や井も深く掘削されたり、埋められたりですっかりかわってしましました。それに読者のみなさんよく辛抱強く読んでおられるのか、次号はどこの名水か?楽しみに・・・なんて。次号は小野小町のホッとする暖
かい丹後伊根に伝わる<余話>を紹介しましょう(小町さんも水とは「小町姿見の井」「小町産湯の井」「小町涙の井」などついてまわります)。
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伏見の名水探訪 月桂冠「さかみづ」=Sakamizu-Water の巻
伏見の蔵元で一番大きな酒造会社は大倉酒造(通称=月桂冠)でしょう。歴史も古くて江戸期寛永14年に笠置町(木津川市の東奥)の大倉治右衛門が宿場町として賑わう伏見に創業(屋号「笠置屋」、酒名「玉の泉」)したのが始まり。明治に入り最新の科学技術を導入し、樽詰全盛時代に防腐剤なしのビン詰を発売し大ヒット。さらに「コップ付き小ビン」が鉄道省で「駅売り酒」として採用されて、月桂冠(905年日露戦争勝利の勝者栄光記念として「月桂冠」と命名し登録商標。伏見の名手と言われる中には戦争時の名前がありますね)が全国的に躍進。研究所も設立しバイオ部門に進出中。これからの季節は暑い夏、ビールもいいけれど冷酒もまたいい。日本酒頑張れ!
さて肝心の名水「さかみづ」。創業時からの井戸で今写真のように清水がコンコンと湧き出ています。柄杓も用意されて効き水(美味でまろやかな冷たさが口中で広がります)。しかし、いずこの名水も同じで、今の井は1961年に掘削して地下50bから汲み上げています。ちなみに「さかみづ」とは「栄え水」で古くから伝わる酒の異名でもあるといいます。
飲みたい人は入場料を払ってください。でも、酒造の歴史館、酒蔵や大きな樽など見物ですし、何よりも無料で利き酒が振る舞われるんだよ(原酒・生・特製ワインの3種類も頂けるし、お帰りにはお土産に一本もらえて元以上に取り戻せまっせ)。
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伏見の名水探訪 醍醐3名水の獨鈷水の巻
前回紹介した赤間水から旧街道を小野小町で有名な随心院に行くまでのちょうど中間地点の上ノ山中腹(小町さん99歳にして色を求めてさまよっていたので「野色山」と古文の郡誌に書かれている)少し入ったところにあります。
周りは鬱蒼とした暗い湿っぽい林で古い墓場。その先ちょっと上がったところに大正時代に蜷川知事と親交深き清水寺貫首大西良慶がつくった京都府下で一番古い老人ホーム(特別養護老人ホーム同和園)があります。
墓場に朽ちたお堂の前にある井で、デッカイ老杉の根本に「獨鈷水」。獨鈷はインドの護身用の兵器。煩悩を破る仏具で両方から鋭い刃が3本づつでています。巡業中の弘法大使喉渇いて、3本足の白い亀あらわれて大師を大木の杉に案内。大師手にしていた獨鈷で杉の根元を掘ると清水がコンコンと湧き出た。「おこうずいさん」とも言われ、長く湧き出る。明治になってからは汲み人絶えず長〜い行列まででき、茶店も3軒ばかりあったとか。
醍醐新町裏町の旧街道入り口にも真新しい石碑もあるし、現場にも古石碑がありますね。ただ、明治維新前後に廃絶された極楽寺の跡に三界万霊なる苔むす石碑もあって薄ら寒い霊気がいっぱい。
一人でウロチョロしていたら杉の巨木の根元にあるこの井戸に吸い込まれそうに、小走りになって(アッ誰かが引っ張ってる・・・)必死で逃げた。足が震え心臓ドキドキ、顔面真っ青、おお怖ワー。
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伏見の名水探訪 醍醐3名水の巻
醍醐3名水の一つ有名な「醍醐味じゃ」という上醍醐に湧く醍醐水は以前紹介し、つづいてあとの2水を紹介すると言っていたのを忘れていました。
先日醍醐の桜取材でふっと思いだして日を改めて探検。
まず「赤間水」です。三宝院のある下醍醐寺の北側に長尾天満宮があります。小さくても醍醐寺守護するお宮さん。その北側に「赤間水」があります。
実は20bのところにあってどちらが本当なのかわかりません。写真は東。京都市指定有形文化財の平安時代の仏像があり、地域の古老たちは「赤間の薬師さん」と親しまれています。文献によると、源平合戦の戦乱をさけて山口県赤間から仏像とともに逃れてきた人々が定住したのに因んで赤間と言うとのこと。
共同の井戸を掘削したんでしょうね。古老のおばあさんがいろいろ語ってくれましたが、まったく忘れた。 by.N
(編)「醍醐3名水」の「獨鈷水」は、次号で掲載いたします。
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伏見の名水探訪 弘法大師杖の水の巻
桃山北堀から東にある京都老人ホーム前を通って山道は竹林に入ります。二股に分かれ道。
左は大岩神社を経て名神。右に入ると広大な竹林。麓は小栗栖。その手前が怨念の空気漂う例の明智の藪。天王山の戦いに敗れた光秀が少数の部下を従えて山科から坂本城に逃亡する山道だ。峠から小栗栖の中程、村人に襲われた付近に「弘法大師杖の水」の井と祠がある。
この峠を抜けて伏見に入る旅人は多かった京道。その光秀ご一行が通った時よりさらに昔々、今からざっと1300年前の平安時代、弘法大師がここを通ったんです。ともかく峠といっても東西とも急な坂道。大師もほとほと疲れたんですね。また喉もカラカラ。大師何を思ったのか突然杖を地面にブスッと突いたんです。なんと、その穴から冷たい清水がコンコンと湧き出たんですね。スゴーイ!あの立命館大の安斎育朗大先生も脱帽だ。宗教家でもあるし政治家でもある大師さま、超ウルトラマジシャンでもあったんですね。スゴーイ!ともかくこの井、その後づーと枯れることなく旅人の喉を潤すことになったんです。いつしか村人らはここを「弘法大師の水」と呼ぶようになったとさ。
【余話】@今はちょっと飲むのはどうかと・・・どうしても飲みたい人はおなかの薬を。 A例の明智の藪ですが、戦闘員(武士)は上等な服、鎧、兜、刀、靴など身につけていますね。だから敗残兵は土民や夜盗に襲われやすいです。土民は竹槍で襲います。だから、明智の藪から小栗栖付近は光秀の怨念に呪われ残忍・不幸・凶作がつづいたんです。村人はこの土地を近くの日蓮宗本経寺に寄進し有難い法要をしてもらってやっと安穏な生活にもどったとか。 by
N
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伏見の名水探訪 牛頭水(Gozusui)の巻。
外環横大路交差点の北東100mのところにある田中神社の井(右写真)をご案内しましょう。
ざっと950年前、祇園感神院(ぎおんかんしんいん=今の八坂神社)から牛頭天王(ごずてんのう=インド祇園精舎の守護神で薬師如来の垂迹<すいじゃく>とも)を勧請し下鳥羽田中里に移されたのがはじまりとか。社伝によると天正年間(関ヶ原戦の10年ほど前)に京都は大洪水。ために田中里にあった当神社諸建物は全て流されます。
しかし本殿だけは倒壊せずに無傷で横大路の当地に流れ着きます。村人は奇跡じゃ!と総出で境内を造作し盛大なお祭りを行ったと伝えます。さて、下鳥羽から横大路にかけては京の玄関口。秀吉時代は宇治川・桂川・鴨川などの整備で魚市(羽束師橋の袂に祈念碑あり)や水運業が盛んになり江戸時代に入っても繁栄しました。ために田中神社は魚市、水運陸運の守護神として崇拝。
東海道線、京阪電車開通によって旧千本通り界隈に軒を並べていた魚市や水運業は跡形もなくなりました。
本殿は1816年(文化13年)に建立され、拝殿は1996年に建立。本殿左手に井戸があったのですが1995年に参道に移設されました。
井に設置された龍口からコンコンと清水が湧き流れ落ちています。by N
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伏見の名水探訪 今回は「延命水」「寒の水」「飛鳥田神社の井」の余話です。
<余話1>このシリーズ最初の城南宮の菊水の巻で若水、延命水を紹介しました。
若水とは元旦の初日に汲む水を言い古来から新しい生命が再生すると信じられる風習で井や清水流れる川へ我先に一番水を汲みにいきました。東大の偉い学者先生の研究では、若水に纏わる習俗は中国や朝鮮、ベトナムなど東南アジアの諸民族に太古から共通する民俗と言います(龍の口から流れる清水はまたいつかに)。
<余話2>「寒の水」=小寒(今年は1月5日)から大寒(1月20日)までの清水。
小寒も大寒も24節気。寒中の清水は腐らず酒にも醤油も寒造りをします。そして寒い中の紙漉(かみすき)もビシッと張りがあり上質の紙。
<余話3>写真は田中神社近くの飛鳥田神社の井(底に水あり)。
神代から綴った「日本紀略」に記すとの京都市の説明。でも、1600年代半ばまでに建立され、独特な工法の貴重な本殿が倒壊寸前。市長さん議員さんなんとかして欲しい。
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伏見の名水探訪 金湧水(Kin-yusui)の巻
深草大亀谷敦賀町(桃山北堀公園の北東)にある佛国寺境内の金湧水。
桃山城築城のおりに、秀吉は桃山城北東の鬼門の厄除けのために御香宮をこの寺の北側に移しました【家康が今の御香宮に戻したので、古御香宮〔ふるごこうぐう〕と言われ小さな祠があります】。
江戸時代初期の1678年(延宝6年)、高泉和尚がこの地にあった永光寺を復興して黄檗山萬福寺に属す「佛国寺」と名付けたのが起源と伝えます。
佛国寺と言えば韓国慶州の石窟庵のある世界文化遺産登録が有名ですが、高泉和尚は、中国の福清(フーチン)の人で宇治黄檗の隠元禅師の招きで来日し、萬福寺五世となった偉いお坊さん。重要文化財の中国風の銅板碑は有名で、近衛家熈【いえひろ=江戸中期の公家で摂政関白。江戸幕府との関係改善を尽くす】の撰文や小堀遠州【28歳で作沿奉行。江戸城、伏見城、大阪城ほか名造園家で茶人、文化人でもあり伏見奉行にも】の墓などもあります。肝心の名水の金湧水【名著『京都民俗誌』にも「茶によい」と紹介】ですが、写真のように瓦やら土やらで埋められてセメントでびっしりと塗り込められていました。和尚さんと先代の奥方に聞きますと。醍醐の方の地下鉄工事の頃から水が枯れ始め、また水質も悪くなったので埋めたとのこと。和尚さんとお母さんは「ちょっと前までは綺麗な水がコンコンと湧いていたんです。ものすごく美味しかったし、近所の人たち御飯を焚いたり、お茶を沸かすのにしょっちゅう汲みに来てました」と懐かしく語ります。また湧いてくるかも知れませんよと言えば「ホント。湧くでしょうか?」と。りっぱな納骨専用のお堂があり入り口両脇には写真のような中国風の観音さんが建っていました。ほんとに惜しいですね。伏見の名水は今や全てがポンプでしか汲めないんですね。ここもポンプで汲み上げたらと提案しておきました。今回はちょっと教科書的に書きました。 次回は余話「小町裏話」を・・・。N・R
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伏見の名水探訪 深草の滝(Fukakusanotaki)の巻
今回は、地下水でなく流れ落ちる水=滝の探訪。稲荷山南西麓から深草山一帯は広大な竹藪が鬱蒼とと繁っています(「くれたけ」と言われる説の一つ)。また、深草という名は鴨川までの一帯が深い竹林・森林にあったという有力な説もあります。(区役所深草支所管轄の町名は全て深草越後屋敷町、深草大亀谷**町、深草善導寺町、深草勧進橋町などと全て冠に深草があります。
古代は深草郷、中世は深草<天皇領や東寺領など>、江戸期から明治初期までに紀伊群伏見廻り8ケ村の一つ深草村、その後紀伊群深草町、そして伏見市、竹田村などとともに京都市に編入され伏見区に)。
さて、この深い森も秋も深まって紅葉がちらほら見えます。何と言っても青い竹林で圧倒されます。この竹林や森林にたくさんの滝があります。
名前がある滝だけでも大岩滝・末廣滝・七面滝・青木滝・弘法滝・命婦滝・白菊滝他が、観光ルートの壮大な滝でなくて、こちらは高さが30pたらずの滝もあれば、白菊滝(写真)などは約10mほどの高さから一条に流れ落ちる滝もあります。多くの滝には小さな祠や鳥居が置かれてゾクッとする霊験を漂わせています。ところで、これらの滝の水は飲めるのでしょうか?
きれいに見えていても・・・地元の方に聞いてくださいね。
余話=稲荷山中腹から南に道をとり、立命館高校方面からさらに東南に道をとると滝に遭遇します。また下ると、若沖で有名な石峯寺(以前この名水で「茶碗子井」で紹介)、七面宮、宝塔寺、完宗院、霊光寺、十二帝陵ほかたくさんの寺院、神社、御陵があります。またあたり一帯が自然風景保全地区に指定されており、カブトムシ、クワガタなどの昆虫や、ウグイス、シジュウガラ、ヤマガラ、モズ、ツグミ、ジョウビタキなど鳥たちの宝庫でもあります。
私たちの身近なところに最適なハイキングコースがありますね。(N・R)
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伏見の水探訪 伏水(Fushimizu)の巻
酒といえば灘と伏見。出荷量は灘。おいしさはどうでしょう。灘が好きな人もあれば伏見のお酒が好きな人も。どちらも甘口・辛口ありです。ということで今回はお酒の水。
月桂冠(大倉酒造)が有名ですが、ここ黄桜も有名。黄桜の源水名には伏水(ふしみず)という名前がつけられています(写真)。
この水はきめ細かでまろやかな口当たりと淡麗な風味が特徴との説明文ですがどんな風味か?ちょっと呑んでみましたが、ホントいい風味。
ところで全国各地には地酒がありますね。伏見も古くから地酒があったもよう。秀吉が築いた城下町の伏見はもちろん酒造りが盛んになりました。でも、徳川幕府になって各大名屋敷も衰微して最悪に。でも水運・宿場となって伏見は酒造りに活気が。しかし、鳥羽伏見の闘いで伏見は焼け野原。酒造会社も壊滅。水運・宿場も衰微し酒造りも大ピンチ。これを救った(?)のが陸軍第16師団の創設だ。
軍人さんや兵隊さんは大の酒飲みで、軍都伏見の登場。酒造会社も雨後のタケのように設立され繁盛。師団がなかったら伏見は一地方の地酒にすぎなかったでしょうね。
戦後派16師団もなくなり、また、ビールや洋酒が入ってきて多くの酒造会社がなくなり、その跡は巨大なマンションやスーパーが。それでも現在23の伏見の酒造会社があります。さて、伏見の地下水は名水で酒造りにピッタリといいますが、以前にも紹介したように、今はポンプで地価何百bの水を汲み上げているんですから、一昔の源水ではありません。
黄桜余話=大正14年(1924年)創業。1959年の清水崑の河童の漫画登場、「河童の歌」と芸者・三浦布美子のCMで一躍有名に。酒造工場の庭に黄桜(薄く緑かかった白い花:今もある)が社長が好きで命名したとか。読売グループと関係が深く後楽園球場・東京ドームのスポンサーとか。現在はさまざまな商品開発で売り上げも伸ばして従業員280名近い。西大手筋の高瀬川に架かる北東の写真などに載る酒蔵は松本酒造で黄桜はその分家です。直営のレストランで美味しい料理とお酒で・・ふれあいユニオンで一度いきたいですね。(N)
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伏見の名水探訪 不二の水(Fuji no mizu)の巻
平安遷都以前に創建された古社の藤森神社本殿右にある「不二の水」。不二とは二つとない良質で美味しい水の意で、コーヒーお茶、御飯にお汁など10倍美味しくなるとか。毎日ポットを持って汲みに来る人が絶えません(無料)。
写真の左手の看板に「水六訓」の高札。「一、水は尊し、水無くんば成らず育たず心ある者その加減を知り水を大切にせよ・二、水は美し、冷熱に応じて虹と化して氷と変わり水晶となる・・・五、水は恐ろし、人を呑み船を覆し山野を汲して地表をも変貌す・・・」三、四、五は何と書かれているでしょうか?
さて、ここ藤森神社は古社なのでいろいろな伝説いっぱい。まず、熊襲(九州南部)や朝鮮征伐=侵略で勲をたてた日本武尊(やまとたけるのみこと)や神功(じんぐう)皇后などを祀る深草の産士神。5月5日藤森祭=貞観の祭が起源、石川五右衛門が盗んできた手洗鉢の基礎台石、近藤勇が額を外した鳥居、「菖蒲の節句」発祥地、駆馬神事は有名。日本最初の学者舎人(とねり)親王を祭神し学問の神でもある。本殿バックの祠二つは重要文化財。6月「紫陽花の宮」紫陽花は見事。
*余話。 名水探訪で何回となく登場した小野小町さん。その伝説や全国無数にありそうですね。特に東北地方はすごい。出羽国(秋田)生まれの采女(うねめ=群の小領以上の家族から選んで奉仕させた後宮の女官)との有名な伝説で小町の産湯を汲んだ古井戸も現存。9歳にして京に上がる。小町年頃になり帰郷して植えた芍薬(しゃくやく)も現存し枝をちょっとでも折るとたちまち雨が降り出し田植え(雨乞い小町)。もちろん小町墓もあれば深草少将墳墓もあります。人間と牡鹿が結婚して小町が生まれたとか父と契りを交わしたとか、もう伝説はロマンどころかとどまるところ知らずに広がって行きます。
*京都府北部の京丹後市(旧大宮町)に伝わる小町伝説。大宮町の絵本サークルが制作し、町教育委員会が2001年発行した『小町ものがたり』という優れた絵本があります。それはそれは美しい心暖まるお話。またの機会にお話ね。
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伏見名水探訪 金運清水(Kin'un Shimizu)の巻
伏見区役所の少し北にある大黒寺境内にある新しく2001年に掘られた井戸でコンコンと湧く「金運清水」。現世利益の大黒さんの霊験あらたかな水で金運バッチリ、資産倍増、厨房守護と子孫繁栄のご利益ありの有難い清水。この清水で世の格差と貧困が無くなったら苦労なし。
昔は空海(弘法大師)開基の長福寺と言いました。秀吉深く信仰し武家の信仰厚くなり江戸時代は近くの薩摩藩藩邸が置かれました。藩主島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が祀られて寺名も大黒寺に(1615年に薩摩藩祈祷所に定められて通称薩摩寺とも)。西郷や大久保利道などが国論を議論した寺院で、寺田屋事件での犠牲者や墓碑や伏見義民の文殊九助の遺髪塔、木曽川治水工事の責任をとった家老平田靱負の墓などもあります。
(余話)今回の余話は文中の伏見義民の文殊九助について触れてみましょう。伏見の労働運動も支えた中書島の作家西口克己執筆の『文殊九助』や『直訴』など小説化されたのがきっかけになって、年一度、御香宮神社正門の左側にある義民の碑で神式の義民祭がおこなわれるようになりました。義民の子孫や党派を超えて府市会議員など多数の人たちが参列します。
さて、九助。西日本の交通・情報結節点として幕府直轄地の伏見には伏見奉行所が置かれました。文人家でもある小堀遠州は有名。その子孫、小堀政方(まさみち)が奉行に赴任しました。この政方が問題。遊興三昧にどっぷり。癒着した一部商人と結託し町民にすさまじい過酷な負担を課します(TVドラマの黄門登場の悪代官や悪徳商人みたい)。町民達はやがて団結します。1785年、刃物鍛冶屋の文殊九助ら町人7名が苦心惨憺して江戸に行き幕府へ直訴。幕府は政方を追放するのですが、直訴は御法度。厳しい詮議のすえ全員が獄中死。義民として密かに語り継がれました。明治になって顕彰石碑(勝海舟文・三条実美揮亳)が建てられました。山宣も有名ですが、彼ら伏見の義民達の闘いを今日の私たちも受け継いで行かなければと思います。(余話が長くなってすみません)
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伏見名水探訪 大善寺の巻(六地蔵)
毎年8月22日23日は洛外6ケ寺【伏見六地蔵の大善寺(奈良街道)、上鳥羽浄禅寺(大阪街道)、桂地蔵寺(山陰街道)、常盤源光寺(周山街道)、出雲上善寺(鞍馬街道)と山科徳林庵(東海道)】の地蔵を巡って家内安全、無病息災、五穀豊穣を願う風習。各寺一色の計6色のお幡をいただくと疫病退散、福徳招来すると今も大勢の参拝者があります。写真は大善寺(JRと京阪六地蔵駅近く)で、東の門から入った右手にある井戸です。汲み上げた冷たい清水で猛暑の8月地蔵巡りの汗を拭い喉を潤したのでしょう。今は蓋がしてあって、若いお内儀に頼んで蓋をとって井の中をパチリ。水はありましたが今は飲料には適さないとのお話。
奈良街道へは五条大橋の本町一丁目から南下する本町通りを通って伏見から大善寺の六地蔵へと通じています。六地蔵からはJR奈良線添いが奈良街道。だから大善寺は古来より京、宇治、山科への分岐点で多くの旅人が往来していました。平安時代に小野篁(たかむら)地獄を垣間見た。なんと無数の人々が苦しみ喘いでいる。そこに僧姿の菩薩が出現して全ての人を救い、篁も病癒えて元気に。これにより木幡山の一本の桜を切り出し6躰の地蔵が刻まれ納めました。その後、平清盛の命によって街道口6カ所(前述)に六角堂を建て1体ずつ分置されました。(余談話=この付近には京都市内最大の前方後円墳の「黄金塚1号墳・2号墳」があります。伏見城時代には藤堂高虎や小堀遠州の屋敷もあり、伏見城築城に際して膨大な物資を運んだ「お舟入り」の跡も残存しています)
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伏見名水探訪 茶碗子(Chawanko)の水
北深草の石峰寺(Sekihouji)は、約300年前に宇治黄檗の万福寺の千呆(Segai)和尚が創建したと伝えます。江戸期の有名な画家伊藤若沖(Jyakutyo)が当寺院に住んでいた時に作成した石造釈迦如来像、十題弟子、五百羅漢など一台石仏群があります(若沖の墓もある)。
創建当時は諸堂が立ち並ぶ広大な伽藍でした。その西端(JR奈良線)辺りの境内(今は民家が建ち並ぶ)に井戸があります。写真のように地蔵堂の隣にゴッツイ鉄のフタが被せてあって風情も何もあったものではありません(鍵までしてある)。この古井戸が「茶碗子の水」。
この清冷な湧き水は伏見だけでなく京都の名水の一つでもあるんです。しばし耳を貸して下さいね。昔の昔、都の茶人たちは宇治川に架かる宇治橋から汲んだ水を運んでは茶の湯にしてたんです。ある日のこと。茶人の下男(使用人)が宇治で汲んだ水を大事に抱えてようやく稲荷あたりまで来たのですが、この水をこぼしてしまった。今さら宇治へなどいけません。偶然に近くに湧き水。この水を汲んで持ち帰った。主人は茶を点てて一口。いつもとは違うんです。バレちゃった。問い詰められて、泣きながら事実を話したんですね。もう追放になると思ったのに、逆にお褒めの言葉。「宇治の水より十倍もお茶にぴったりじゃ。香・味もとろけるようじゃ。よう見つけてくれた」と笑顔に。それからは遠い宇治ではなく都人はここの水を茶の湯に。(汲めるようにしてほしい)
(余話=先月号の小町さん。先日チャリンコで鞍馬街道市原の小町寺探訪。「小町姿見の井」を発見。百歳で朽木の如く亡くなり葬う人なく髑髏野ざらし。目穴から一本のススキが風にふるえていたとか。「穴目のススキ」と言う。当地は昔は死者を葬る霊城。おおこわ。霊感の風吹いたその時、一人のうら若い女性が訪ね、フッと消え去った。おおこわ、ゾクッ。マイチャリ必死で貴船神社へ逃げる)
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伏見名水探訪 産湯(Ubuyu)の井戸の巻
今日は六地蔵から東の方角の日野にある誕生院を訪問。800有余年前、親鸞が誕生したと伝えられる西本願寺の聖地。親鸞は1173年平安時代末期、日野一族の日野有範(Arinori)を父に、母は源治八幡太郎義孫娘吉光女(Kikkounyo)。幼名松若丸。9才にして比叡山に出家し堂僧になり勉強。1201年に下山し京都六角堂で聖徳太子の示現により法然の門に入りました。そのご弾圧されて越後に流され、赦免後結婚し妻と東国にて「悪人正義」などの思想を広め一向宗(=浄土真宗)の開祖となります。
さて、写真は誕生院(法界寺に隣接)産湯の井。同エリアには「ゑな塚」と呼ばれる松若丸のありがた〜い「へその緒」が埋められた跡もあり、「いく春も絶えぬ うぶ湯のながれ哉」と江戸期は女性俳人の田上菊舎(Tagami-Kikusya)の句碑もあります。同寺院は保育園でもあり園児の賑やかな声が聞こえます。近くの山間には『方丈記』を』執筆した鴨長明の隠居跡も。「恋しさの行方もなき大空に又みつ物はうらみ成りけり」と詠い、頂上から京や伏見の里を遠見してたんでしょうか。
余話=ところで、親鸞など新興の仏教宗派の祖がたくさん生まれた平安時代から鎌倉初期は長くつづいた奴隷制(天皇制)が崩壊し軍人が政権を担う封建社会への大きな激変の時代。教科書やNHKの大河ドラマにはいろいろ権力欲に燃えた有名人が歴史を創っていったように描かれていますね。でも、私は歴史は圧倒的多数の働く人々こそ新技術をあみ出し、田畑を開墾し生産力を発展させ時代を進歩させた主人公ではないかと思います。そして一向一揆など各地で圧政者との闘い(伏見や南山城も先鋭的)。貴族社会の源氏物語やNHK大河ドラマでの働く人々はみな片隅。でもね、庶民こそひとり一人がかけがえのない人生ドラマがあり主人公。蟹工船の労働者もね。私ら、ふれあいユニオンメンバーもひとり一人大切な人生があるんですね。そして仲間がいるんですね。
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伏見名水探訪 清和の井(Seiwanoi)の巻
西墨染め通にある料理旅館の玄関口にある井戸でいつも竹筒から清水が流れています。説明書きによると、昭和の初期に建てられた建物を料理旅館として営業を始めたとか。創業時にやく70mほど掘削してわき出たもようです。今では、「伏見名水スタンプラリー」(伏水会作成)に掲載されている11ヶ所の1つになっています。ちなみに江戸期の伏見7名水は、*常磐井、白菊井*、春日井、苔清水、竹中清水(山城志:*紹介済)や旧堀内村(万畳敷から桃山南口の丘陵地)の7井も有名でしたが今は不明(御香水はその内のいつかな?)。醍醐3名水なんでのもあり上醍醐の井は紹介しましたね(次号は醍醐赤間井の巻か?)
さて清和についてもう少し説明。清和の水は料亭の命。同料亭の食材は旬のものを生かした京料理を利休箸でいただくのはちょっと贅沢かな。この広い庭園にある大きな池を潤す水は清和の井からコンコンと湧き出す水が流れ込んでいるのです。
説明によりますと、清和という名前は「世の中がおさまって穏やかなこと、空が晴れて清らかな様子」を表したこの屋号「清和」から名付けられたとあります。「ハケンギリ」や「ロケット発射」「海賊」なんで穏やかでない昨今ですね。憲法9条平和的生存権、25条豊かな教育権、27・28条労働基本権がほんとうに光り輝く世の中にしたいですね。
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伏見名水探訪 墨染井と遺愛井戸の巻
「名水」というより「迷水」のご案内。墨染めにある税務署(陸軍憲兵隊跡)の少し北の欣浄寺(Gonjoji)を探訪。鎌倉時代の1230年頃道元禅師がこの地で布教活動を行い創建。いろいろ改宗を経て現在は曹洞宗。この寺の境内の池(小町姿見の池)をはさんである二つの井戸。もともと当地は有名な深草少将の邸宅があったところ。邸宅内にコンコンと湧く「墨染井」と呼ばれる井戸。少将はこの水が大好きで日々の生活用水として愛用。ところで、深草少将はウルトラ美人で知的センス抜群のあの小野小町を恋いこがれ、裏山の大亀谷を越えて山科隋心院に通うんです。小町が「百日連夜尋ねたら」と言うもんだから少将は本気になるんです。ところが九九日通ってあと一日。目前だったのですが体力も尽き果て凍死します。最後の方は悲嘆にくれて涙いっぱい。この涙が溜まって「小町恋しの水」の井戸(写真/なんてロマンな呼び名。今も湧き出てます。しょっぱいかも)。その井戸から少将が通った道の一部が竹薮に残って「少将通いの道」(写真・井戸左の石道)と名付けられ、その後この道を歩くと恋いも逃げ、訴訟事件でも負ける(*)と伝えます。
裏話=隋心院には小町百歳のアッと驚く像や世の男どもの求愛のラブレターを破って捨てた「文塚」があります。ボロに身を包み髪で100歳の小町が毎夜、男を求めて小野付近の野山を彷徨い、遂に少将の霊に取り憑かれて発狂し地獄とか(通りかかった坊さんに説諭されて反省し、極楽浄土にとの説もあります)。
余話=@少将が小町の幻影を映した池が「小町姿身の池」。本道には「伏見の大仏」毘盧遮那仏と道元石像、小町塚もあります。ロマン満載のお寺。(文中の*は秀吉も出てくるややこしいお話でまたいつか)A深草の少将という人物は10冊ほどの著名な人名辞典などを調べても出てきません。広辞苑には伝説としてちょっと記述されているだけ。B小野小町も石田東南の小町という村の小町(=小娘)、全国各地に小町さんの伝説があります |
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伏見名水探訪 御香水
環境省の日本名水百選にも選ばれている御幸宮神社の御香水。御皇宮の主神は神功皇后(シングウコウゴウ=九州や朝鮮など攻略)で何度か引っ越して江戸期に現在地に鎮座。御香水は古く1100年前境内から香り高い水が噴き出し、これを飲むとたちまち病気が治ったとか。井戸は明治になって枯れてしまい、1982年に復元されました。伏見は酒造りの地場産業。酒造りは水が命。伏見の井(地下水)は酒造りにピッタリ。連日、ポットを何本も持ってきてくみ出す人多しで順番待ち。
御皇宮を訪れるならここもという余談話。@写真の手水鉢の左手に水かけ占いなるものがあります。この真っ白いお札を水に浸せば主神がポッカリ浮かび上がります。間をおかず願い事を。主神は消え去りその願いを叶えてくれるとか。A24号線の東の石の鳥居から入ってすぐ左手に、天から降りてきた白菊翁(太玉命)が住んだ後、翁は石になったと言われる白菊石があります。そのすぐ横には江戸時代、竹田街道の車道に敷かれた車石(棒鼻あたりの物)もあります。その裏側には伏見城の巨石が無秩序に積まれています。B社務所の前には京都市登録天然記念物に指定されている珍しいソテツがあります。なんでも1605年過ぎあたりに植えられたとか。C社務所でお金を払えば庭園に入れます。伏見奉行でありまた庭園などに造詣が深かった小堀遠州造作の庭園の一部が移管されています。D本殿右の暗い絵馬殿に行きますと絵馬に描かれた猿が抜け出して御香水を飲んだとかの絵馬が掛かっています。(古くて解らないかも)。
「仙人のむかしのあとは千代のかほりに残りけるかな」(通禧)
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伏見名水探訪 白菊水の巻
山本酒造は清酒「神聖」の仕込水と使われている白菊水。このあたり久米の里といっていた昔々、水枯れて干ばつに見舞われたとき「老翁の育みし白菊を振り振り給えば清冽な水、滝々に尽きず湧き稲豊に稔った」という。中硬水で伏見独特の芳醇な香りで仕込水として使われます。また、緑茶、炊飯、コーヒーなどにも抜群の美味しさが発揮されるので連日写真のように行列が出来る程の盛況です。
ところで、右の地図*印のところが白菊水の場所ですが、『印の角は「四ツ辻の四ッ当たり」と言われています。油掛通を東の方に行けば鳥せいに突き当たり、南浜通りを北進しても本願寺別院に突き当たりと城下町特有の「遠見遮断」(トオミシャダン)です。月桂冠の角もそうですね。でも伏見城よりかなり離れているのに不思議。多分京町の東側にあった伏見奉行所防御の構えであったのでは「鳥羽伏見の戦い」では別院は会津藩の本陣でした(ちなみに官軍の本陣は御香宮)。だから寺田屋も含めてあたり一面は火で焼き尽くされました。 |
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伏見名水探訪 醍醐水の巻
桃山丘陵西側の伏見とは水質は違いますが今回は上醍醐の水です。醍醐寺は三宝院や五重塔の下醍醐と、今夏、雷で消失した西国11番札所准胝堂など上醍醐があります。醍醐水は上醍醐。開祖の理源大師が山中で修行中、地主神が現れて湧き出る水を与えて「群生を利済せよ!」と言って消えた。飲んでみると「こりゃ美味しい、醍醐味じゃん」、「閼伽水(前号で説明)じゃ、笠取山を醍醐山に名前をかえたろ」と写真のように石組みを組んで醍醐水とか(会話は今風訳)。醍醐は乳を煮るとき、表面に浮き上がる酥(ソ)や糊のような液体で美味、滋養に富む(=仏教での最高真理でほんとうの深い味わいの意味。写真は普段見られない祠内部の石組みです。余話=秀吉伏見城内の時、家臣の面前で手紙を書いていたが醍醐の漢字がわからない。それを一人の家臣が見てニタッと笑った。即座にバッサリ斬り殺したとか
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伏見名水探訪 閼伽水の巻
中書島の30 船着き場にある長建寺の閼伽水(Akasui)は古代インドの水の神。日本では仏さん供える水。同寺は弁天さんとしてしたしまれていますが、弁財川は河川を神格化したものとも言われ京、大坂を往来する廻船の安全を守護神。境内には水の神、水天尊も祀られています。四季折々の木々の花、「花人の落合ふ駅や中書島」の虚子句を刻んだ句碑、1000年前の日本最初のおみくじもあり広くない境内は結構楽しいです。湧き出る水は大倉の名水と同じ良質の地下水で備え付けのひしゃくで飲めば市販されている六甲山の天然水などよりもおいしいことはもちろんです。大倉酒造は有料ですがここは無料。でもお賽銭ははずんで弁天さんを拝むと幸福になるとか。
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伏見名水探訪 板橋白菊の井
伏見板橋小学校校門を入ってすぐ左手の白菊水。
奈良時代の昔。伏見九郷の一つ久米村(旧伏見の中心部)でのこと。照りが続き稲が枯れた時に村の翁が「白菊に溜まった露を注ぐと、清水がわき出すんだよ。これホント」と言ったんです。村人達は「ほんまかいな」と思いながら、その通り注ぐとたちまち清水が湧き出て田圃には綺麗な水が入り飢饉を逃れ、この年は豊作にとか。時代は下り秀吉が伏見を天下の政治中心都市の町づくり。金札宮を少し南の今の場所に移転。ですから、板橋小学校は金札宮の旧跡と言われています。井戸の深さは約58b、20年前に掘られた。地元の人がポットなどで汲みにきています。写真の女性は「ご飯やお汁などほんまに美味しいですよ。近所の喫茶店の美味しいコーヒーもここの水」とニコニコと汲みながら話します。保存会が綺麗に保存していますので、薬代、水質検査代、ポンプ修理代などで年1000円のカンパにご協力くださいね。
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伏見名水探訪 菊水の巻
伏見は広くて、いたるところに名水あり。探訪も東西南北満遍なくマイチャリ探訪。今回は京の都の西南を守護する鳥羽の城南宮さん。
このお宮さん100種を超える「源氏物語」登場の花々たちが次々と四季を通して咲いています。特に2月のシダレザクラ、四月のベニシダレザクラ、圧巻は30種300株のツバキで広い苑庭を彩ります。
さて、ここの名水は「菊水」。「若水」「延命水」とも言われています。江戸期の随筆に、井の水を飲むとあらゆる病が治るとか、今も連日多くの人がポットを手に汲みにきています。お百度を踏めばより効き目があるとか。コーヒー、紅茶はもちろんお米の研ぎにも抜群。ところでこの水、水源は遠く若狭の国から潜り、奈良二月堂のお水に通じているんです(地質学的裏付けは何もありませんが)。
平安時代から庶民の熊野詣出立つの地でもあり白川上皇、後鳥羽上皇もここから何度も旅立ちました。難波天満橋駅前に熊野詣の石碑があります。どうですか、みんなで熊野詣しませんか。
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