伏見の水

 
 伏見名水 三成の冥水(みつなりのめいすい)


 今回は前々回で予告しました、今までにない恐ろしい石田三成の冥水でございます。
写真は、薄暗くなると深い森の池に吸い込まれそうになる大樹や竹藪の奥深く見える三成の冥水の池です。 場所は伏見桃山城入口と明治天皇陵参道との間にある整備された小路で、両側は森林地帯で交差点からその小路を南に少し下って北側を覗き込んだところです。 森林浴やウォーキングで通過する人はのぞき込んだりしない場所ですが、木立の間をよーくのぞき込むと大きな池or沼があるんです。これが三成の名水(=冥水)、 怨念の池、幽霊が出る池とも言われる水です。 筆者はいつもここを通過する時には何故かのぞき込んでいます。写真は半月前に筆者が撮影。
 
            写真①
この非科学的な語りは、小生が60年前に通っていた高校で冬場に学校の横門からこの小路を通って校門にゴールする持久走の時間があり、 先輩や教師から「あの三成の池に近づくと引きずられるから絶対近づくな。底なし沼になっているといわれているからな」と聞かされ、 子供だましの冗談だと笑いながら上り坂がきつく歩いてしまう場所なので全力で走れと言うことだねと聞き流していました。でもその言葉は今も覚えています。

 さて伏見城は、四度建設されている。 最初は観月橋(豊後橋)北東の指月山にあったが、朝鮮通信使が渡来する直前に伏見大地震で崩壊し数年後に現在の明治天皇陵(上円下方墳)付近にまた築城した。 本丸、天守閣、名護屋丸、西丸御殿なども内堀、その周りは大大名らの大きな屋敷や庭園(北の堀が現在の北堀公園。外堀は今の濠川)の確固とした豪華絢爛たる伏見城でした。 内堀城内で唯一建設が認められた大きな屋敷が治部少丸(石田三成)でその池も治部池と言われていた写真の池です。

 この城も関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍に破壊され関ヶ原で勝利した家康が同じ場所に建設したのが三代目の伏見城。 これも数年後の一国一城令制定により数年で廃城され、各地に移築された(東西本願寺御門、二条城本丸や伏見御香宮の大手門ほか各地の寺社、城)。 四代目が少し天守閣の場所が北西にずれて建設された鉄筋コンクリート造りの現在の城で「伏見桃山城」という名前ですね。 第一代から三代目までは伏見城(指月城)と言われていたが、地名に桃山と冠が付くのはすべて第三代目の天守閣や各藩の上屋敷など廃止された後に「桃」が植えられ、 全山「桃の花」に覆われ見事な景観でしたので、いつとはなしに「桃山」と呼ばれるようになったのです。

 現在の伏見の町名に「桃山」が付くのは、合併以前は「堀内村」です。深草地方も「深草村」などが合体して伏見区深草の町名に冠されています。
 さて敗軍の将三成は琵琶湖東の旧東海道を厳重に護送され京三条河原で処刑されました(六条河原という説もある。)三条河原は罪人,反逆者?や敗北の将にその一族の公開処刑の場所。 三成の一族もすべて斬首になったと思われがちですが、石田家は没落しましたが子や親族は生きながらえ、子孫には藩家老や大名になった子孫もいるのです。 三成の冥水、近くを通られる時があれば覗いてくださいね。一生、忘れないでしょう。(NAKANO)
             
 
   
 来迎寺独鈷水


 今回は伏見区と東山区の境目にある泉涌寺塔頭の一つ来迎寺にある「独鈷水」を探訪です。
 伏見最北端(来迎寺は正確には東山区の最南端)。 5月下旬、伏見稲荷の中腹の四ツ辻にある休憩茶屋を左に折れ、東海自然歩道をてくてくと仲間たちと散策。 5年ぶりに、泉涌寺を探訪。御寺と言われ天皇家直結の墓所です。境内は広大で塔頭もたくさんあります。
 泉涌寺の参道を少し外れ、小さな下道に降り、石の小橋を渡ると、来迎院の山門です。偶然に「独鈷水」の安愛石碑を見つけて探索。
           

寺院の左端の奥にあり写真のようにちょっと不気味。 鉄の扉をこわごわ開くと真っ暗な洞穴・カメラのフラッシュでみると底にきれいな水が溜まっています。 弘法大師は四国88か所だけでなく全国いたるところ足跡があり、 桃山から醍醐に抜ける明智の藪の手前峠にもありますね。たいがい「独鈷水」といわれますが、「独鈷」とは悪霊をはらう両端が槍先のような武器です。


           
 
 まぁ、お釈迦様や高僧もわが身は武器で守っていたり、槍や剣など持った四天王で守られていたりと地獄絵図は残忍極まりないですね。 名だたる宗教の開祖も武器や処刑など暴力と無縁でないのですね。エッ、それは間違った見方ですって?皆さんのご判断にお任せします。

さて、来迎寺の井戸ですが、言い伝えがあります。
霊元天皇に仕えていた女官、小少将の局(つぼね=特に、宮中や貴人の邸宅に仕える女性に与えられる、仕切られた部屋。 また宮中や公家に仕えて重要な立場にある女性への敬称です)の娘は生まれつき目が不自由でしたが、この独鈷水で目を洗えばよいと いう霊告を聞き、そのようにしたところた ちまちにして見えるようになったと伝えられています。すごいですね。小生だったら眼科医を開院して、 たちどころに億万長者。最後は地獄へまっさかさまかな? 今なお、眼だけでなく様々な病の治癒を祈願しに、この清泉をいただきに来る人が絶えないとのことです。 なお御大師様(弘法大師)の銅像はこのすぐ傍に建てられています。

           

 もう字数オーバーですので来迎院の歴史や建造物などはまたいつか。 ただ、あの大石内蔵助が居を山科に定めて来迎院の檀家となって身分証明をして、 境内に茶室含翠軒を建てて、桃山を超えてよく、討ち入りの密儀など交わしたと伝えられています。 今も本堂に安置されている勝軍地蔵を念持仏として祈願し見事に討ち入りを成就することとなったとか、 当時の泉涌寺の住職であった卓厳和尚は大石内蔵助の親族で京都で頼りにした和尚とか、いろいろな伝説があります。

=お詫び= 前回の最後に次回は桃山の呪われた清水についてです。と予告したんですがいくら読み物でも全くの空想ではあきませ 研究がまだ不足していますのでお詫びします。少しずれますけれどご期待くださいね?)
            (Y.Nakano)  
 
 

伏見の水

 
 伏見名水 御手洗井


 先日、予約していた烏丸四条にある医院受診後に一筋東の東洞院通りを北上し、錦、蛸薬師、六角通りから三条通りまでを久しぶりに散策。 町屋と明治時代の煉瓦造りなどの洋館や、烏丸通には、銀行や商社や大きな総合ビル群などの真ん中の谷間に京都のヘソと言われる六角堂がある。

 今回は、烏丸通を四条まで南下している途中、鳥居の前には柵がありその向こう側には立派なでっかい石組の井戸を偶然に発見。その「御手洗井」を紹介します(井戸の写真筆者) さて、この御手洗井からこのあたりの町名は手洗水町と言う名がついています。 
           

 地名大事典によると、江戸期から現在の町名とのこと。洛中絵図にも「手洗ノ町」とか「手洗井丁」との名が記されているのでこの町名になったとのは確かでしょう。 通る人は見向きもしないビルの谷間。高札には「例年祇園會中(七月十五日~二四日迄)この井を開いて神水を領、秀吉の頃町民の申出により町名となる」との説明。

 この井戸は、祇園社御旅社藤井助氏の所有地であったが信長上洛した時にこの水の清澄を聞き及んで、井戸に施錠して、錠は町方に渡し祇園祭の時だけ開けることを許したという。 以来、現在まで祇園祭は東裏竹藪から竹2本を伐り、山科からは丈八の松2本を持ち寄り鳥居に架けてしめ縄(高札には七五三縄と書いているが注連縄と同じ)を架けます。

 柵に囲まれた御手洗井は、八坂神社の御旅所として1912(明治45)年に烏丸通りが拡張されたときに少し東にそのまま移動しました。 井戸は清水が湧き出ていますが手水は空です。地下鉄東西線の工事で御池以南の水脈が途絶えて御手洗井も途絶えました今はどうか?

 でも7月14日に井戸換えが行われて、15日から24日まで井戸が開かれているとのことです。その時だけは清水が湧いているかも?どなたか見にいかれたら伏見地区労まで連絡ください。 明治の神仏分離までは八坂神社と言わずに神仏混合の祇園社といわれていました。現代も寺院の境内のなかに鳥居があったりしますね。

 明治政府は国教を天皇=神として強要し、祇園はインド語で仏教用語だから、神社としては使えないので適当な名前がなくてあの付近を八坂とも言われていたので祇園社から八坂神社の名前に変えられました。でも祭りは祇園會とか祇園祭として通用していますね。 実は八坂神社も境内には5つの井戸を見つけましたのでまたいつかご案内します。
              (NAKANO) 
   
 
 

伏見の水

 
 伏見名水 旧三井家別邸の井戸


 前回は伏見酒造会社の現役の井戸でした。 
 今回は伏見を離れての京都ぶらつく散策途上に出会った井戸の紹介です。 皆さんよくご存じの戦前の財閥の三井家(三井家11家)共有の別邸(写真1主屋は木造四階建)の井戸です(写真2の四角い石)。  
            写真①
 正式には三井財閥三井家下鴨別邸といわれ大正時代に造営された邸宅。 主屋や茶室他などが重要文化財の指定にされています。一般に公開されたのはつい最近です。 場所は世界遺産下鴨神社や家庭裁判所の南側の高野川と賀茂川とのデルタ地帯。 京阪や叡電出町柳駅から河合橋を渡り右折してすぐの大鳥居の手前です。
            写真②

 財閥は巨大な独占的資本家で重要産業を支配する企業家の一団で一族や同族が絶対的天皇制を頂点とする国家権力と強固に結びついた日本独特の経営体ですね。 中でも三井財閥を筆頭に三菱、住友、安田などは天皇家や貴族や高級官僚とも姻戚関係も深い超財閥でした。

 さて、写真の井戸そのものは現在は使われていないとの説明で京都市水道との説明。 明治までは下鴨神社本殿東側の付近の地下水は地上付近から湧き出てるくらい水位はかなり高くて下鴨神社を流れ、参拝者が手や口を清めるいだ手水場(ちょうずば)のところです。 現在は下鴨神社庭園脇のポンプで地下水をくみ上げていますが、神聖な水で土用の丑の日の「足つけ神事(=御手洗祭)」や葵祭(賀茂祭)の「斎王代の禊の儀」なども行われます。 御手洗川(みたらしがわ)は糺の森を下って三井別邸の西側(紫陽花が栽培され京都の隠れ紫陽花園の一つ)を流れ高野川に注いでいます。

 みたらし団子発祥地で御手洗はトイレの後の手洗ではありません。京都みたらし団子は5個で先っちょの団子だけ少し離れて刺しています。 関東は4個が多いとか。みたらし団子の語源はまたいつか。なお、八坂神社の御手洗井は「みてあらい」と読み小さな鳥居の下付近にありますがなんのためか?。 さて、別邸玄関棟から上がると主屋には広々とした多くの部屋。2階はと居間や茶の間と外は美しい庭園が見れます。 そして別棟の重文の茶室があります。我々庶民にとっては見ごたえ充分、豪勢です。一番の感動は移築した時からあったトイレ。
当初からピカピカの洋式で椅子式水洗トイレでビックリ。

 主屋や座敷からの景色は糺の森が見えるし南は綺麗な庭園を眺めていると時を忘れます。 その母屋の南東の隅のほうに四角い石組の井戸があるんです。背の高い草に覆われて見えないようにしてあります(写真は庭園から撮影)。 二階に上がると広い座敷で。北側にはりっぱな茶室がありその隣は居室になっています。南側は回り縁側から足を延ばして木々や池を見るのもいいですね。 三階(中三階)、四階(階段は急こう配で手すりがなければ上がれません。正式には望楼三階)は東山、北山、御所など京の街360度がバッチリ眺望できます。 狭い3畳で定員は5名で部屋(いる時間は5分まで)です。ここは五山の送り火のために造ったとかいいます。 主たる親族が集まってくるんでしょうね。座敷で超一級の料理に舌鼓でしょうか? 質素倹約が創業者のモットーとか。

 別邸の歴史の大筋=第10代三井八郎右衛門高棟が建築。 1909(明治42)年に三井家祖霊社である顕名霊社建築は木屋町三条上がるにあった三井家木屋町別邸を現在地の母屋として移築(写真1)。 戦後1949年に国に移譲され、1951年からは下鴨神社前の大鳥居の西側と河原町通りとに挟まれた京都家庭裁判所所長の豪奢な官舎として2007年まで使われました。 2011年に大正期まで整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており歴史的価値が高いとして重要文化財に指定に。 現在は、旧三井家下鴨別邸運営コンソーシアム(構成団体=公益社団法人京都市観光協会や下鴨神社、三井不動産らが指定管理者となっています。 見学入園は有料。主屋座敷・居室・茶室となどは会議や茶会などとして貸出。原則として水曜日は休館。
【*次回4月号は京都名水総集編の予定です。また思いが変わるかもしれません。】
 本文や写真などは執筆者N
 
 
   
 伏見名水 山本(神聖)本家の井戸


 久しぶりの伏見酒造会社の井戸です。
 写真①は祠みたいに見えますが伏見銘酒の一つ山本本家酒造が地下をくみ上げている井戸です。 中の左手に見える白丸が水量メーターで深さ約100mからポンプで汲み上げています。 酒造りに欠かせないのは清水です。
            写真①
 地下水は前々回にも述べましたが、現在はいずれも地表に近い水脈でなく地下100m以上の地下水脈からくみ上げられています。 深い井戸は桃山丘陵だけでなく醍醐山系、愛宕山から北山山系などからの水質抜群の地下水になっています。 伏見のいずれの源水は鉄分がすくなく適度なミネラルを含んだ味《淡》にして《芳》といわれる酒に最も適した軟水の地下水です。

 阪神淡路大震災や京都市営地下鉄烏丸線や東西線などが造られて地下水路が遮断されたり濁ったり地下水路が変わったりで 一時は御香水などほとんどの名水は飲めなくなったり枯渇したりしました。しかし現在は水質検査も強化され掘削もすすみ、 それらを克服しての伏見の名水になっています。100m以上になると西山から愛宕山系、北山、比良山系から琵琶湖から潜っての広大で何層もの地下水 脈となり、何年も経て伏見まで流れとどけられています。 何せ、今日の研究では京都盆地の地下水の総量は琵琶湖の水量より多いというんだから。しかもコクある清水で酒造りにピッタリです。

 さて、伏見の酒造づくりの歴史についてはいずれレポしたいと思います。 ここでは「神聖」の名で知られている山本本家を中心にレポしたいです。 実は山本本家、鶴正酒造、向島酒造、豊澤本店と平和酒造など中小規模の5社の酒造株式会社で伏見銘酒協同組合が結成されています。 この組合の理事長が株式会社山本本家代表取締役社長の山本源兵衛さんです。 山本本家の伏見での創業は1677年(延宝5年=徳川幕府第4代将軍家綱時代)に現在の地に商いを始めました。 江戸時代の末期は世はまさに暗雲たる情勢。 ついに鳥羽伏見の戦いでこの伏見は戦火にまみれ当酒蔵はことごとく焼け、現在の酒蔵は焼失後すぐ再建された建物です。 近辺は酒蔵が集中して「酒なら伏見」らしい風情ある地域になっています。

 鳥食文化のあの「鳥せい」本店も山本本家の直営店です。 鳥せいの北側には美味しい綺麗な地下水が汲み上げて近隣の人たちに人気がありいつも行列になっています。 その地下水の名前が白菊水。近辺の酒蔵や大きな桶に代わって写真②のような近代的や工場になっています。
            写真②
 鳥食文化の鳥せい本店や源兵衛と古風なお名前ですが、代々源兵衛を襲名され現在は11代目。灘の銘酒との競合がある中、近代的な製法や機械化を取り入れなければ太刀打ちできません。 しかし近代化には研究も含めて膨大な資本が必要になります。前述のように山本本家など伏見の中小酒造会社5社が一緒になって結成したのが銘酒協同組合の誕生です。

   写真②のように巨大なタンクも外観から見られますが伝統的な酒蔵内部も近代化されコンピューター中央制御室、 浸漬タンク、蒸米機、製麹機(一次と二次)、酒母タンク等々最新の施設・設備を取り入れる機械化が進んでいます。 協同で使用していますが5社は同じ酒でなく原料の酒造米の産地や製法などは各社の伝統を引き継ぎ研究と改良を重ねてそれぞれコクと個性ある日本酒が造られています。 ふれあいユニオンのみなさん、多年度にわたり全国新酒鑑評会金賞に輝く名誉ある実績をもつ地元伏見の清酒 で、独酒でも又ご家族とまた友人知人と夕食と共に飲んでいただければ一層美味で楽しくいただけると確信します。 よろしくお願いします。

 *追伸=現在、多くの寺社や民家にあった多くの井戸は大部分が枯渇し埋められたりして急速に消滅しています。 しかも、北陸新幹線建設が計画され京都府下を南部から福井県敦賀までの大部分が深いトネル計画がされています。 京都の自然環境の大事な地下系や水脈と汚濁や有害な土質が含まれないかか心配されています。
                           (by Nakano)
 
   
 名水豆腐づくりの編


 番外編が続いていましたが、久しぶりに伏見の名水です。場所は板橋学区の成町(なるまち)です。 丹波橋通と西の高瀬川から一筋東の南北の通りから南の通りが成町でおおよそ100m南下した西側に櫻井豆腐店にある井戸です。
 写真①のように今はポンプでくみ上げています。
            

 現在の伏見にある酒造会社や個人の井戸はすべてポンプでくみ上げています。 昔の井戸で水があるのは少しありますが飲めません。 御香宮の御香水、月桂冠の記念館、藤森神社などは深い地下からポンプで汲み上げています。 もちろん伏見名水10選とか15選とかの井戸は全て汲み上げです。 深い地下水ですが、直に飲むことができる飲料水はすべて水質検査が必要ですし酒造会社の多くが宣伝されている伏見名水はすべて検査合格。 店主の櫻井さん(写真②)は、明治後期か大正初め頃から操業し100年以上経っていて、現在は三代目とのこと。伏見で唯一、造っている個人経営の豆腐屋さんです。
 
            

 櫻井さんは「伏見にもあちこちに豆腐屋があったけれど、主に跡取りが継がないので私とこだけになった」と。 仕事場はウナギの寝床のように奥まで長いです。写真①~③で見えているホースや鉄管は地下水の配管です。 大豆洗いから豆腐まで機械化できるところは機械化され流れは一貫(写真③)。 最終は豆腐をトレイで包んで店先の水槽に保管されています。水槽も地下水で水温は年中2℃に保たれています。 新鮮でおいしそうです。

 スーパーなどには卸ろさずほとんどが飲食店とのこと。取材でいろいろお話を聞きましたが、 豆腐と揚げとは作り方、製法はまったく別で、豆腐を薄く切って揚げるのではないんですね。 もちろん厚揚げは豆腐を三角に切って揚げるとの発見はちょっと賢くなりました。 ところで地下水を調べてみると、京都市には災害時協力井戸という制度があることを発見しました。 つまり災害時に最も重要な生活用水の確保が重要なことを阪神・淡路震災の大きな教訓で、 災害時でもまち中で水が出る井戸を確保する蓄える制度で学校・事業所。個人・寺社などです。

 伏見区にはこの櫻井豆腐店のほか以前紹介した伏見板橋小学校や土橋町にある建設関係の藤井組や醍醐寺(この三か所は飲料可)など65か所あります。 他に深草小学校やイズミヤ伏見店などもありますが圧倒的に個人宅が多いです。 区別では中京区や上京区に集中的にあるようです。
            

 写真①の太い鉄柱は災害で家屋や作業場が崩れても地下水くみ上げ場所だけでも残すためにぐるりを太い鉄柱で囲ってあるのです。 また消防署からは自家発電機も載せてポンプを稼働させるとのことです。 みなさん地下水で作られた清潔で美味しい豆腐やお揚げなど櫻井豆腐店よろしくお願いします。  
 
   
 石坐(いわい)の手水(ちょうず)の巻

今回は趣向を変えて2本立。
①は数か月前に退職グループと大津膳所を通過する旧東海道散策。
②は以前から紹介したかった伏見名水の地下水の概略です。

① JR京都駅から膳所駅までほんの10分で到着し徒歩5分で旧東海道。
 まずは木曽義仲やこの地が好きだった芭蕉のお墓(芭蕉の墓は大坂にもある)がある義中寺を拝観。
 芭蕉の句碑や翁堂などを見て、次は古式騒然の「石坐神社」に到着。同神社の龍の口から清水が流れる手水舎が下の写真です。バックはアジサイお花がいっぱいで見事。ここで休憩をして水分補給など。なんでも同神社は「天智天皇が琵琶湖の神を祭祀したことに始まる」とのこと。  
            
 旧家老屋敷や樹齢650年との銀杏の大木は石田三成が京都に護送される時につながれたという和田神社にも寄り、膳所城址の琵琶湖畔に到着。
 広い松林で爽やかな涼しい風が流れていて気持ちよく昼食(弁当)をとり、その後は膳所神社にちょっと寄って京阪石坂線の電車で膳所駅に、そしてJR膳所駅から帰京。

② 今度は伏見の地下水です。
 794年に平安京が誕生しました。平野でしかも水が豊富。人々の生活の基盤はなんといっても水。数メートル掘ったら必需品の清水がくみ上げることができた。今は琵琶湖が水源。
 しかし京の伝統的な豆腐、生麩、湯葉や酒などは地下水が老舗の主流。硬度も適切だし温度も年間を通じてほとんど変わらない伏見の地下水。灘に並ぶ関西を代表する酒どころである。 もちろん秀吉が政権中枢としての伏見城下町を作り上げたからこそ水運を基礎に酒造が発展しました。 酒造家が増え1657年(江戸前期)には83軒、生産高は2730?に達したらしい。

 伏見の地下水はカリウムの含有量が比較的多く、カルシウムが適切に含んだ中硬水 「きめ細かくまろやかな」と言われています。愛宕、北山、山科方面から京都の安定した地下水によってつくられています。
 また、先の戦争では観月橋以北に陸軍工兵隊があり奈良電(現在は近鉄)の鉄道敷設に際して陸軍から地下にせよと横やりが入り地下に敷設すると伏見の地下水が枯渇するとの酒造組合などから猛反対。
 結局、今の橋脚のない大きなトラスト鉄橋になり鉄橋から大手筋までは電車の東側窓のブラインドを下ろすとの条件で建設された経緯があります。
 そして伏見に第16師団が設置され日本酒も大いに需要が高まったとか。

 戦後は第16師団の跡地に米軍が入りましたが日本酒造りは振るわず、東京などに販路を拡大したが難しく、 伏見各地にあった酒造会社がビールやウイスキー、ワインや発泡酒などに押され酒蔵がなくなって寂しくなります。
 最近は日本酒ブームで欧米諸国に販路が広がっていると聞きます。
 京都市地下鉄東西線の影響で大きく変わった地下水についてなど京都市全体の地下水と現状はいつか述べたいと思います。(NAKANO)
※②の文章は守田優著「地下水は語る、見えない資源の危機」からの抜粋もあります)


 
 
   
 天之真名井の巻

 JR京都駅の東北方面を探訪した折に発見した市比賣神社(いちひめじんじゃ)本殿横にあるのが京都七名水の一つ「天之真名井(あめのまない)」です。
            
 観光ルートから遠く離れていて、小さなお宮さんなのでひっそりと佇んでいます。 場所は東本願寺の東方にものすごく広い別庭園が渉成園(枳殻邸とも)でその正門から100mほど上がったところに文子天満宮があります。 そこからさらに上がると六角通り、東に入って少し斜めになって囲まれている地域の北側に市比賣神社があります。

 この神社は創建当時は平安京の左右の公設市場の守護神として桓武天皇の勅令により795年(延暦14年)に創建された古い神社ですが秀吉によって現在の地に移転されたのです。 祭神はすべて女神であることから女性の守り神とされ女人厄除けの神社として少しは知られています。 境内には写真の井戸「天之真名井」の御水が竹筒から流れています。この御水を飲んで一つだけ願いをかけ て手を合わせると願いが叶うのです。だから「一願成就の井戸」で近隣の女性たちが汲みに来ます。 さらに、この井戸水は古来皇室において皇子や皇女誕生で使う産湯に用いられたとか。

 ところで前述した文子(あやこ)天満宮についでに述べておきましょう。天満宮ですがほんと小さなお宮さんで祭神は当然。 よく知られているように天才的知性の持ち主の道真が陰謀?によって九州大宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった。 その後、天候不順や政治腐敗、疫病が京の都を襲います。人々はこれらの災いは道真の怨霊のせいだと考えたのです。 ところで道真の乳母が多治比文子で、自分の家の庭にちいさな祠をつくり道真を拝んでいた途中に、現在の北野天満宮に祀ってほしいと託宣します。 これが北野天満宮がまつられるきかっけをつくったのが文子だったと云われているのです。 ですから当社を「北野天満宮の前身神社」とも称され「天神信仰発祥の神社」とも言われています。

 東本願寺別邸の広大な渉成園は四季折々の彩でとても美しい庭園です。ぜひ訪れてください。 京都駅のからほんの近くに京都を代表する庭園や古い時代からある神社や仏壇仏具などの町屋があるなんて洛中らしい洛中の雰囲気ありますね。 筆者が学生時代には地方から本願寺参拝の宿が立ち並んでいました。わがクラブの忘年会もそこでしてたこと懐かしく思い出します。
(お願い。ご愛読ありがとうございます。ご意見や注文などありましたら地区労まで。また名水がありましたらご一報くださればありがたいです。Y.N)


 
 
   
 伏見の名水 不二の水(その2)  の巻

 かなり以前に藤森神社の不二の水(Fuji no mozu-Water)紹介しましたが、今回は同じ不二の水の分枝の手水鉢台石についてです。
            
 不二の水のお浚(さら)いをしておきますと、 神水である不二の水は二つとない美味しい水という意味で、 武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水として信仰されています。 ですから同社には先の大戦で敗北した第16師団の兵士の忠魂碑もあるし絵馬堂にも師団関係の絵が奉納されてたりしています。

 この不二の水をくみ上げているところから30メートル北西の離れたところにある手洗舎の龍の口から流れ出ているのが不二の水の分枝です(写真)。 問題はこの手洗鉢の正方形の台石なんです(写真では鉢を載せている下の方の陰になって黒く映っているのが台石)。 宇治にある宇治川の浮島(塔の島)の十三重の塔の上から5番目の石が藤森神社の手洗鉢台に流用されたといわれます。 また、それは大泥棒の石川五右衛門が盗んで藤森神社に「もち来たりし物」で舎の台石にしたそうな。 ほんに、十三重の塔の上から5番目の四角い石の色が他の石とは色合いが違うんですね。面白い伝説ですね。 この名水シリーズでの神社仏閣の名水のほとんどは伝説や想像上でありその真偽はわからなくても発想はユニークですね。

 なお、宇治の浮島の十三重の塔は高さ15m、現存する日本最大、最古の石塔です。鎌倉時代、 奈良の西大寺の高層叡尊が宇治川での殺生の罪を戒め、 1284年(弘安7年=その3年前に再度来襲[弘安の役]があった頃です)に供養塔として建立されました。 その後大洪で度々流され何度も修復・再建されてきましたが1756年(江戸時代でその20年後に田沼意次が老中に)以降、約150年間、 川中に埋没。現在の姿のように復元されたのは1907年(‘明治40年)より発掘に着手・工事が始まり翌年に石積み工事 (ある新興宗教の女性信者などの髪の毛を編んだ綱が使用)が開始され翌年に九輪石を補って優美な姿が再現しました。

 不二の水などには水訓があって、水は尊し、水は美し、水は清し、水は強し、水は恐し、水は深しの6訓を示すそうです。 どれも納得できますね。不二の水は手洗水も含めて清く美味し飲料水に適し、大きなボトルに汲む人が絶えません。


 
 
   
 伏見の名水(番外)高津宮梅の井 の巻

 番外が多くてすみません。ともかく近畿一円歩き倒しているとあちこちに井戸にぶち当たるんです。
            
 今回は大坂は難波宮から谷町筋を天王寺までの約13km歩くコースで挑戦は3回目です。
このコースの中間点ぐらいにあるのが高津宮(高津神社=平安時代に創建。 江戸時代には浄瑠璃小屋や料理店など賑わっており、境内の井戸の近くには豆腐屋もあったとかで、この井戸水で豆腐を作っていたとも)。 午前九時過ぎに京阪中書島発で天満。地下鉄谷町線に乗り換えて他に街4丁目に。 ここがスタート地点です。中央政庁があった難波宮跡を通過して荘厳なカトリック教会を拝観して一路高津宮。 高津宮境内にある小料理屋で昼食と思っていたら、コーヒーなど飲み物だけになっていました。 昼食は谷町9丁目でと考えて高津宮の境内の隅々まで探訪=拝観。そこで新しく見つけたんです、りっぱな井戸(『梅の井』=写真)です。

過去2回訪れているのですが分からなかったのに。 由緒書きによると、この付近は梅で知られたところで江戸時代には梅川(源流は上毎台地の伏流水でそのまた源流は生駒山系か?) という風流な名前の川が流れ道頓堀につながっていたとか。 梅の井は写真のように周りをぐるりと名前の石碑柱の玉垣に囲まれて残念ながら明治時代に地元の有志が建立した記念碑の頭の一部しか見えないんです。

このあたりは傾斜が激しくて上町大地の伏流水がわいていその一筋が高津宮の南にある蓮光寺境内の井戸まで流れていたとか。 境内にあった井戸の井桁をここ高津宮の今の場所に移設したとのこと。 蓮光寺までの参道には梅乃橋という小さな石の反り橋もあり、 また立派な献梅の石碑もあります。梅の井の石碑は仁徳天皇1500年(明治32年ですが歴史的には???です)大祭の際に東町の有志が建てました。 この井戸の石の大きな四角い蓋にちょうど朝日が差し込み猫が気持ちよさそうに毛づくろいしているとの話も伝え聞きます。

ところで、高津宮は地下鉄9丁目駅から徒歩3分ぐらいのところで谷町筋は大きな寺院が立ち並んでいます。 特に高津宮から天王寺まで大きな仏教寺院がいっぱい。もちろん空襲で焼け野原になって今はコンクリートの寺院が多いです。 1月下旬に散策した今回はコースの中ほどの高津宮で打ち切りって谷町9丁目の大衆食堂で昼食をとり (食堂に入ると注意書きが=「店内で寝ないでください」などと書いてある) 近くの喫茶店で立ち寄り帰宅。最後に有名な王仁(ワニ)博士【架空の人物ではないかとも?】の歌を記しておきましょう。
 難波津に咲きやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花
 
 
 
   
 松山酒造&共同酒造の井
 
 久しぶりの酒造会社の井の訪問です。
 伏見中の少し西の濠川に架かる下板橋にある松山酒造(写真A)と共同酒造(Aから少し左側の建物に共同酒造の看板が架かっています)を訪問。
            写真A

 レトロな立て物が素敵ですね。こういう風景は伏見でもすっかり少なくなりましたね。 蔵を潰した跡地にはほとんどが高層マンションが建てられています。 やっぱり酒造の伏見で蔵が立ち並んでいる風景がいいですね。 もちろん酒蔵内部を改築して料理店などになっていることろもあります。ともかく土蔵の酒蔵全部このしたいです。

            写真B
 入口から少し入って左手に写真(BとC)のコンクリートの井戸があります。 ブリキの蓋(井戸の左円い蓋)を取っていただき深い井戸の中をパチリ。 もちろん現在は水も底に溜まっている程度で、 今は30~40m(?)ぐらいの地下水をポンプでくみ上げてるとのこと (観光客がよく訪れる大倉記念館の井戸は湧き出していますがあれも現在はやっぱり深い所からポンプで汲み上げている)。  ところでここは松山酒造と共同酒造の二つの会社が共同での酒の工場です。
            写真C
 まずは松山酒造。 昭和33年、三重県名張市の松山酒が持っている酒蔵権と施設を大倉酒造(月桂冠)が取得し月桂冠グループとして醸造開始 (商標は「明君」=万民のため明るい世をつくらんとする賢明なる君主を讃える意味とか?)。 その後、色々経過と移転をたどり現在地の下板橋の東堺町に内部施設や用具 (月桂冠北蔵)などにも再移転(写真A)し現在の下板橋西詰の東堺町になりました。 全国新酒鑑評会で金賞受賞して、伝統的な醸造を受け継いでいます。

 一方共同酒造は大倉酒造(現月桂冠)が伏見鶴酒造の全株式を取得して現法人を設立し霊峯を讃える意味の「美山」の醸造を開始。 昭和56年に月桂冠北蔵(丹波橋通り、現在の万代など))で続けたが平成7年の阪神淡路大震災などで老朽化がすすみ平成10年に同グループの松山酒造で集約製造をしています。 上の門柱には2つの酒造会社名の看板が架かっています。 (注=両会社の移転については少し曖昧ですのでそのつもりでお読みください。 もし正確にご存知の方はご連絡くださればありがたいです) 【注=以上、今回は手元資料がなくてインターネットなどから作成しましたのでご了解ください】

追記=当会社の表側に「江戸時代薩摩島津家屋敷跡」の石碑と歴史家の中村武生氏執筆の副碑(案内書)がありますので、 酒造とは全く違う幕末の話を追記しておきます(1.2.3の大半は副碑から引用)。


1.徳川三代将軍家光以降、約230年間大政奉還時まで将軍は上洛していません。 そのために原則として諸国大名の京都入りも禁じられていました。 だから、西国大名の参勤交代も伏見に逗留し宇治川、山科川、醍醐、追分から逢坂の関に。 しかし西国の藩邸は明治まで鴨川から東大路などの間に沢山にはありました。

2.大河ドラマで有名になった13代将軍家定の正妻となる島津養女篤姫も江戸に向かう途中、 伏見の下板橋西袂の薩摩島津藩屋敷に5日間逗留しました。 篤姫はここを拠点にいわば生涯たった一度の京都観光(東福寺や満福寺や近衛家なども訪問)を楽しんだと思われます。

3.慶応2年1月23日(1866年)深夜、南浜の蓬莱橋たもとの旅籠寺田屋で坂本龍馬が伏見奉行の襲撃にあった寺田屋事件が起こります。 龍馬は傷を負いながらも濠川伝いに逃れ材木商の納屋に潜伏し、駆け付けた薩摩藩留守居役に救出され、 当薩摩藩屋敷に逃れたのです。 逃走経路などは『京都民報』2018年からの連載「龍馬、新発見」〈寺田屋事件の復元〉(中村武生著)に詳細述べられています。

4.鳥羽伏見の戦いで大手筋の南方向に伏見奉行所が、大手筋北側の御香宮が薩摩官軍が対峙していました。 御香宮は江戸時代に幕府の多大な庇護を受けていたのですが、伏見での戦争時は官軍側の最前線基地となりました。 鳥羽伏見戦争の時は伏見の寺社は幕府軍や官軍の駐屯所 (風呂屋町の今年4月号で紹介した風呂屋町の三寶寺は薩長や鳥取藩、南法律事務所近くの東本願寺御堂は会津藩など) として接収された。戦争末期に開城を拒否した譜代大名稲葉淀藩などを裏切りなどとの評価は価値観で違うでしょうね。 吉良討ち入りでも忠臣と受け止めるかテロ暗殺団と受け止めるか、先の戦争での特攻隊も英霊とうけとめるかどうかですね。
 *追記も含んで、また名水シリーズそのもののご感想、ご意見などおよせくださればさいわいです。
                            (by. Y.Nakano)

 
 
   
 正宗の井の巻
 
 中国の精進料理(魚介を含む肉類なしで穀物、野菜など植物性の材料だけの料理)で特に万福寺の開祖が伝えた。 黄檗料理とも言う)有名な海宝寺の名水湧く井戸(写真)です。 もちろん今は一滴も汲まれることもないようです。
 
            写真A(井戸)

 桃山町正宗(JR奈良線と上板橋通交差点〈踏切〉を少し北に入ったところで付近一帯が桃山町正宗)にある海宝寺境内前庭にあります。
 かなり年代物で竹筒蓋には懐かしい手漕ぎポンプの残骸が見えます。
 この海宝寺は黄檗宗で創建は享和年間(1716~1736年)に杲堂元昶(こうどうげんちょう)によって創建され宇治の萬福寺13世が隠居先としたらしい。 もとは天台宗寺院であったとか。 海宝寺以前の伏見城時代の同地は仙台藩祖の伊達政宗の上屋敷があった場所で町名もこれに由来しています。

 秀吉から慶長6年(1596年)に広大な土地、屋敷が与えられました。 何せ重臣や妻子などから兵士、使用人ふくめて常時1000人以上住める屋敷だからどんなに大きいか想像つきます。 しかもここは上屋敷(正宗はここで一年ほど定住し以降も時折宿泊していた)で、南西の地(教育大付属中あたりか?)にはもう一つの上屋敷がありました。 また深草には下屋敷があり現在も深草東伊達昶や深草西伊達昶の地名にその名を留めています。

 江戸初期に伏見山(現桃山)一帯は伏見城も含めて諸藩の屋敷はすべて取り払われ更地になり桃の木が植林されました。 当時の絵をみますと見事な桃の花咲く伏見山が描かれており後世桃山と言うようになったのも頷けます。 ちなみに現在町名に桃山が付くようになったのは旧堀内村が京都市に併合された時からです。 大亀谷一帯は旧深草村ですので現在の町名には深草**町となっています。 ですから、安土桃山時代と言うのはおかしいともいわれています。

 京都市の駒札(高札)によりますと、 江戸時代になって海宝寺が創設され萬福寺第13代笠庵の隠居所になった伏見京町通り13丁目 (丹波橋通り北あたり)に大きな店を構えた大丸の創業者下村彦右衛門が帰依し同寺に莫大な浄財を投じて同寺の伽藍等を築いた。 庫裏は下村家の屋敷を移築したもの

 一方近年脚光されている伊藤若冲が同寺の障壁約10mに及ぶ水連続画面となる水墨画「群鶏図」(実物は京都国立博物館に収蔵)を描いています。 以降彼は筆を捨てたので「若冲筆投げの間」と呼んでいる。境内には仙台市が設置した高札版の説明書きもあり、 正宗手植えの木斛(もっこく:ツバキ科の常緑高木)や秀吉遺愛の手水鉢(ちょうずばち)などもあります。
 近年、本堂・客殿・祠堂(しどう:廟)・山門の4棟が京都府の暫定登録文化財に指定されました。

追記=この原稿筆者は
 ①本堂等建物の内部には入っていません。
 ②宇治の万福寺の普茶料理は食しましたが、海宝寺(写真B)はまだです。
 5000円~ 6000円で4名以上で四日前までに要予約です。 お味はどうでしょうか?現代人に合わせているかもしれません。 万福寺は品数は多いですが味はともかく超々薄かったです。
            写真B(四人前)
 ③この秋にも京阪丹波橋駅集合→桓武天皇陵~伏見城~野球場・サッカー場~北堀公園~森林研究所→海宝寺で普茶料理のコース行きましょうか (弁当持ちで北堀公園で食べるのもいいですよ)。
 

 
 
   
 遊郭の井戸(大和郡山)の巻

 写真は大和郡山にある旧廓の坪庭にある井戸と窓です。
            
 「町屋物語館」という名称で一般公開されていますが、京都で言う町屋ではなく大正時代に木造三階建ての遊郭として建てられました。 奈良県には奈良市の木辻町、大和郡山市の東岡町と今回案内します洞泉町の三大遊郭があります。 遊郭とは何かと定義するのは難しいのですが、京都の町屋ではなく、島原、上七軒や祇園なんかともちょっと違うようです。 伏見には大石内蔵助が遊んだ国道24号線と京町北端の撞木(一軒もなく、記念碑などあります)や小説家西口克己の実家である中書島街(建物は一軒だけあります)などでしょうか。 西口小説で有名な『廓』という小説や演劇は有名ですね。
 
 八幡市京阪橋本駅西側から旧遊郭街並みが原形のまま100mほど並んでいます。 話を最初に述べた洞泉町の廓に戻す、大正13年に本館と座敷棟が完成し一世を風靡しました。 戦後は昭和33年に廃業しその後下宿や貸間などになり廃業しました。しかし建物内外はしっかりしており、近年に隠し耐震を施して一般公開されました。 屋内は上流花街で意匠を凝らした欄間や数寄屋造りの竿縁天井の小部屋が並んでいます。
            
廊下にはハート形の窓(写真)や吹き抜け、りっぱな12畳広間は仏間や娼妓溜があり写真の井戸がある中庭もあって特殊な建築技法が随所に施されています。
 
 地元も保存会の案内でつぶさに見学しました。 写真の井戸は地下水が湧き出て常に地上の出ている井戸縁の三分の二ほど清水があって、淵の中間ほどに蛇口から清水が常に流れていたとか。 廊下の窓は雨戸の内側に格子がはめられていて逃亡を防いでいたとの説明でしたが、外からの侵入を防いでいたのではないかと思いました。 通りに面した表構えの格子は1階2階3階とそれぞれ違い目を奪われるほどの豪華さと意匠です。 平成26年に登録有形文化財に指定され大和郡山跡城などの整備に力をいれているようです。
  【付録】前号では「昭和に名水百選」について少し述べました。今号では平成21年環境省制定の「平成の名水百選」について少し。
 全国から162の湧水等の中から100か所が選定されました。選定基準は①水質・水量②周辺環境の状況③親水性・水源に近づきやすさ ④水利用状況⑤保全活動⑥その他故事来歴や希少性の6つです。
 昭和百選には近畿では11か所(内京都では天橋立の中ほどにある磯清水と伏見の御香水)でした。平成名水では14か所 (近畿では滋賀4、京都3、兵庫2、奈良2、和歌山3、大阪0)で京都は舞鶴市(西舞鶴)の真名井(紹介済み)、東舞鶴の大杉の清水と井手町の玉水(紹介済み)です。
 東海に区分されている三重県はハイキングコースの素敵な赤目四十八滝です。一か所もないところは、 茨城、宮城、大阪、佐賀、長崎などです。(お断り=平成名水も制定20年を経過していますので飲料するときは現地で確認してくださいね)
 
 
 
   
 新名井の名水 三寶寺の井 の巻

 前回につづき伏見のお寺さんです。写真のように井戸の周りは石がすり減って年代を感じる井戸です。
            
 所は大手筋風呂屋町の浄土宗知恩院派の三寶寺。山門から入って右手にあります。 東大手筋で消費税アップ中止の署名行動に行く途上、ふと門から中を見ると参道で住職ご夫婦が庭の手入れをされていたので声をかけたんです。 「今は水もなくなって、井戸の地上部分だけで、中は埋めてしまったんです。 「昔は夏になればスイカを冷やしたり金魚を飼ってたりしたのを思い出します」と。 同寺の縁起やら戊辰戦争の頃の言い伝えをお聞きしました。

 それによりますと、1590年(天正18年)のこと、下総(千葉県)の大巖寺から暫公上人が阿弥陀如来像(鎌倉末期作の現本尊)を背負い南海道に趣き、 当地にたどり着き寺田屋地下に住まいして布教活動を展開。 1615年(慶長20年)に当地に移転。その後本堂を建立し前述の如来像を本尊に。 幕末の鳥羽伏見の戦いの戦禍ではまぬかれて今に至る歴史的に由緒あるお寺です。  さて、鳥羽伏見の戦いに当寺もまきこまれています。
 前回は戊辰戦争での会津藩士の犠牲者を葬った悟真寺でしたね。今回は三寶寺です。 以下は住職から頂いた[京都伏見とっとりウォーク]の簡略文です) 1868年(慶応4年)1月3日夕方幕府軍と薩長軍が戦闘開始し三寶寺に陣取りました。 その翌日午前4時に官軍側についた鳥取藩兵士280名が三寶寺に到着。 5日の午前6時には三栖町まで幕府軍を押し出して激戦。 薩長に最初に味方したのは鳥取藩。 伏見の守備は薩長土芸の四藩でしたが土芸は動かず、鳥取藩が四藩以外では初めて参戦。それを見て他藩が官軍側についたらしい。 その後各地を転戦し戦後は朝廷から薩長は賞典禄十万石にたいし鳥取藩は三万石を与えられたとか。 さて、小野小町さんが久しく登場しませんが、現在調査研究中?。今しばらくお待ちくだされ。 その代わりに地下水・名水のお話を少しばかり。

その①=「名水百選」。  高度経済成長時代の日本は全国いたるところにいろんな形の公害や環境破壊が全国に蔓延しましました。 煙だらけの空はむしろ成長の証でした。でも、多くの国民は健康を失い公害病に苦しんだのです。 そして国民運動として利潤優先の経済政策より人の命、健康、そして環境を守ろうとの運動が大きく発展しました。 その運動の成果の一つに1980年、環境庁は専門家集団による全国調査で「名水百選」を発表しました。 地域の自然財産として「清澄な水」、「故事来歴を有する」、自然で「希少性・特異性・高著名度」などを評価基準としたのです。 近畿では滋賀県と兵庫県三か所、大阪府と奈良県が一か所、和歌山県と京都府が二か所です。 京都ではご存知伏見の「御香水」と天橋立のほぼ真ん中にあって美味しい真水「磯清水」の二つでどちらもかなり以前に紹介しました。
次回6月号は「郡山遊郭の井」と「平成の名水百選」です。乞うご期待。

 
 
   
 新名井の名水 悟真寺(ごしんじ)の水 の巻

 名水を訪ねてあちこち探訪中、ふと寺院の門から写真の「水」という大きな文字が目に入りました。 名水かもしれないと密かに期待してくぐり戸を開けて訪問。拝見しますと本堂左右の軒からの雨水甕でした。

 石をくり抜いた大きな水槽で防火用水になっているのかと覗いたら一滴もありませんでした。 お内儀にいろいろお聞きしました。まず、名水の井戸は清水が湧き出ていたのですが今は埋めてしまったとのこと。 ということで今回は名水は諦めてぜんぜん別のお話を聞いてくだされ。
 と言うのも、門前には立派な石碑に「明治元戊辰年伏見鳥羽戦争戦没東軍戦死者埋骨所と刻まれており、 当寺院との関わりについて聞いたのですが、確かな記録や言い伝えがないとのことでした。

 境内には江戸時代末期の武士であり政治家でもある榎本武揚(えもとたけあき=勝海舟の門下生、 オランダ留学、幕府海軍副総裁、蝦夷新政府樹立宣言したが新政府軍に降伏。その後新政府大事を務め、 特命全権公使として千島樺太交換条約締結した。そのごシベリア横断の著書もある)揮毫の「戊辰之役東軍戦死者之碑」の石碑があります。
 そこで戊辰戦争について、みなさんよくご存知と思いますがお話してみます。
 
            

 昨年暮れごろにNHKで戊辰戦争について放映(再放送も)してましたね。 総司令官であった徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗北し、何万という幕府軍を置き去りにして大阪湾から海路で江戸に密かに帰ったのですね。 ところで、この戦争の戦死者は約8420人で新政府側3550人、幕府軍4690人との推定。 内、藩兵士の戦死者が2557人(女性194人)でダントツ多い。

しかも天皇に叛く逆賊として死体はほったらかしでチリジリバラバラで戦死や瀕死の兵士がいっぱい。 現淀競馬場の東北側に多数の戦死者を埋葬した碑があります。桂川堤防には累々と絶命した幕府軍兵士が無残な姿でありました。

 近隣の農家や寺院が引き取り踏むったり土手に埋めて石をおいたのです。でも、ほとんどは桂川に捨て流されたんですね。 竹田付近から大手筋を経て宇治川までも激戦で跡には幕府兵士の死体があちこちにあり、地元の人や寺院が丁重に埋葬したのでしょうね。 悟真寺にはほとんどが会津藩兵士で64人を葬むられているらしいです。

 戦争はいつの世もいやですね。しかも犠牲になるのはいつも下隅の無名戦士です。 先の戦争もそうでした。ほとんどの責任者(戦犯)は悠々としていましたね。 日本の場合は世界的にもひどく、アメリカの対日支配転換で戦後に総理大臣や財界や大学病院医師などにもなってるんですね。

写真=鳥羽の鴨川に架かる小枝橋で激突する幕府軍(左側)と新政府軍(右側)。

 *追記 
 5月中旬又は6月上旬に伏見ふれあいユニオンで伏見名水を巡ります。
 城南宮・安楽寿院や北向不動などから鳥羽伏見の戦い現場(碑や小枝橋)など散策。
 お昼は小枝橋にほど近い堤の大樹元ベンチでお弁当です。
 ご案内しますので、ぜひご参加ください。詳細は追ってお知らせいます。
 (by Nakano)
 
 
   
 新名井の名水(新日本名水100選)の巻
 
 天橋立で退職者のつどいがあって、久しぶりにJR山陰線に乗車。 時間があったので綾部で乗り換えて西舞鶴で途中下車。 線路沿いに歩いて30分程にある「平成の名水100選」の一つ真名井(まない)。 一度は行こうと思っていた真名井の源泉を一人で探訪。 真名井の水路周辺のまだまだ青い雑草を踏み分けてなんとか源泉にたどり着きました。

 二羽の白鷺が驚いたのか飛び去りこちらもビックリ。 約15m四方の水源・湧水池でコンコンと湧いていて感動。 水源から水路(写真A)が造られて、途中からは導水管で約2kmほど下流にある街中や商店街、さらに南の田辺城々内まで引き入れられています (当時の殿様細川幽斎が灌漑用水や日本最古の都市上水道[御水道(おすいどう)と言う]など整備)。
 
            写真A

 御水道の雑草を掃除する御水道掃の保全活動が江戸時代から今日まで代々続けられてることも感動。 適度な水草などは湧き水をさらに浄化清水にする重要な役割があるとのことです。 源泉は3か所あって水路には5つの清水池があって今もなお人々の生活用水や農業用水として利用されています。 地質学的には市内を流れる伊佐津川の伏流水が湧き出ているのではと云われています。

 遠くに見える白雲山の向こうに真名井というところがあってそこの神様が3本の矢を放ち、それが着地したことろからコンコンと清水が湧いて真名井という伝説。 丹後風土記にも登場してるすです。西舞鶴のマナイ商店街や新世界商店街には立派な汲み取り場があってコンコンと清水が流れ出しています(写真B)。
            写真B

 中には遠くからボトルなど持ってきて汲みに来る人も絶えないらしく、ボトルに汲みに来た人は「これでご飯を炊くと美味しいから毎朝汲みに来とるんや」とニコニコ顔で話してました。 敷地内には懐かしい手動式ポンプもありました。 ウロチョロしていると列車の発車時間が迫ってきたので急いで駅まで走って一両だてのディゼル車に乗車。 由良川右岸を走りて長い由良川鉄橋を渡って日本海。 海は大好きでロマンに、胸膨らみます。遠くに冠島が見えます。 コウノトリと同じく特別天然記念に指定されているオオミズナギドリが生息する貴重な無人島。 右手にきれいな日本海、左は崖っぷち、トンネルを幾つも通過して天橋立に到着。 ところで舞鶴にはあと一つ「平成の名水」があるんです。

 20年ほど前に訪れた東舞鶴の端の山奥、青葉山に古刹松尾寺の近くに「大杉の清水」があります。新日本名水100選にもなっています。 ここは古くからこの地域のすべての人々の命の水として生活用水と日本一のワサビ、酒米や寿司米で知られている「杉山米」などの灌漑用水になっています。 今は住民総出+「NPO法人名水の里杉山」が結成=杉山ワサビや地酒造りに市民農園など村おこしに取り組んでいます。 舞鶴には名水100選に二つも選ばれているんですから。 そして皆さん、平成の名水100選に選ばれている名水が京都にもう一つあるんです。 どこでしょうか? 以前紹介した井手町の玉川の清水、玉水です。思い出されたかな。 6.1kmの玉川です。紹介したのはその近くにある六角形の井戸と蛙の井戸(蛙塚)でしたね。 舞鶴は遠いので玉川だったらJR玉水駅から5分でいけますよ。春の堤には黄色いヤマブキとピンクのソメイヨシノがズーーと続くんですよ。 玉川の山吹は300首以上の和歌に詠まれているし桜はもう円山や大阪造幣局などよりメッチャきれい! 

 さて、名水100選。戦後制定1985(S60)年に環境庁が制定したのが「日本名水100選」(通称「昭和の名水100選」)、 2008(H20)年に環境省が制定したのが「平成の名水100選」です。 昭和100選には京都からはよく知られている御香宮の「御香水」名水と宮津は天橋立の「磯清水」の2つで両方とも紹介しましたね。 磯清水は以前紹介したように、天橋立の中ほどにあるのに塩分ゼロで真水で筆者も飲んでみたらすごく美味しかったです。 平成100選は前述の3か所で、湧水、河川(用水)、地下水と周辺環境、地元の保全など総合的に評価。ちなみに大坂府や兵庫県は指定無し。 昭和+平成=200選、現地取材で紹介してみたいですね、 隔月だから全部で何年かな?そのころは書き手も新しくなりふれあいユニオンは1万人(うち外国の方もたくさんおられて国際色豊かで外国語教室もあったりしてなんて。 でも、アベ流労働力受け入れは労働権や生存権を脅かす最悪な構想で即止めてほしい。

 冗談はさておいて、名水をダシにしてみなさんとちょっと暖かくなるころにどこか散策に出かけませんか。 お弁当(手作りorコンビニ)と飲み物と敷物もって。京都市内もいいけど、玉川もいいところですよ。


 
 
   
 蔵付き民家の井戸の巻

 久しぶりに伏見の名水です。写真は壕川の丹波橋から北西一筋向こうにある民家の井戸でのす。 ミミズの寝床のような筆者宅の隣で、頑丈そうな蔵がある大きな家で和風庭園や蔵前には広場もあります。 井戸も蔵の前にある野外井戸(写真)ともう一つは炊事する土間にあるりっぱな井戸です。 玄関は二重の戸口。入れば十畳ぐらいの土間(今はセメント張)があり左手に大きい客間があります。 そこからまた戸口を潜ると広い土間があって天井もすごく高くて大屋根となっています。 電話がまだ普及していなかった頃は大きな家には電話機が戸口の壁に取り付けてありました。

 電気を起こすハンドルがあり最初にグルグル回します。 そしてクラリネットの先のような固定マイクが付き出て、その横に耳に当てて話を聞き取り専用の筒状の受話器がありました。 昔の学校の生徒名簿を見ると呼び出し電話の家庭が圧倒的に多かったのです。 広い土間は居間やお竈(おくど)さんが3ケ並んでいる炊事場あり、きれいな水が湧き出ている井戸があります。 今は水道を使用で井戸は蓋をしていっぱい物が置いてあります。 小さな町内ですが蔵を持っている家が4軒あり(その内、井戸2つが2軒ありましたが今はどちらも跡形もなく土地も小分けされて往事の面影もありません。 井戸一つの家でも大きくてりっぱですが一軒は埋め立ててポンプで汲み上げています。

 こういう大きな家は前述した京間十二畳ほどの客間は地蔵盆になると大きな家4軒が順番に祭壇が設営、飾りつけられて子たちの格好の遊び場になりました。 そして、井戸を覗くと大きなスイカが涼しそうに浮いていて、うらやましかった思いが今もあります。 高価なテレビも一番に購入されて私ら庶民の子どもが行って見せてもらいました。赤胴鈴之助や月光仮面が終われば「早よ帰りや」と。
 
 
 
   
 (番外)日光東照宮御水舎(おみずや)の巻
 
 「伏見の名水」連載なのに前回は蛸薬師の井でまたまた脱線して今度は日光東照宮に飛びました。
 世界遺産指定の日光東照宮の境内は広くて金銀色彩豊かな建造物がいっぱい。 なかでも有名なのが豪華絢爛の陽明門。 写真の御水舎(おみずや)もあまり知られていませんが重要文化財です。 大阪城の天守閣前の重要文化財指定の金水井についてはふれあい散策や本紙上で以前ご案内しましたね。

 さて権力者の死後、神と崇められるのは秀吉を豊国(ほうこく)大明神として祀った豊国神社(とよくに)の創設から始まり。 家康も秀吉の例に従い、遺言で、「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧進し、神として祀ること。 そして、八州(日本国中という意味)の鎮守となろう」に従い東照大権現として東照社(後東照宮と改称)が造営され全国にその分社がつくられました。 ちなみに明治天皇も神として祀られたのが明治神宮ですね。 ところで東照宮については話すことたくさんあるけれどここでは名水・井戸について。
            写真A

 御水屋は一般的には「手水舎(てみずやorちょうずや)」などといい神社仏閣の入り口付近に井戸があって手水舎の龍の口からチョロチョロ聖水が流れていますね。 でもあの形は東照宮の御水舎が起源とされています。 それまでは京都下賀茂神社など小さな清水流れる小川か湧き水で手や口を注ぎ清めてからお参りしていたのです。  写真Aを見てください。山手から滴り落ちる清水を横に渡した長い石の樋(とゆorとい)が受けて、写真Bの樋から水盤(手水鉢)に注いでいますね。
            写真B
 
 手を清めている人がいるでしょう。飲める水はたいがい何も注意書きしていませんが逆に飲めない水は「飲めません」と書いてあるのが多いようです。 でも身体の汚れを清めるための手水ですから飲むのは遠慮かな。でも江戸時代以前は歩きだけで訪れた人たちはこの清水を一口飲んで熱中症を防いだのでは。

 さて、石の水盤は家康三回忌の時(1618年)に佐賀藩主鍋島勝茂が奉納。 (内緒話=実はひと昔は背後の日光山の湧き水をサイホンの原理を利用して水盤から噴き出るようにしてあったとのこと。今の導水石(樋)はどうなっていたのでしょうね。見えないところのある一般の水道管から写真の石樋に引いているらしい)

 御水舎は1636年(家光時代/鎖国令の翌年で島原の乱の前年)の造営。 写真Aの右部に屋根を支える花崗岩の柱とその上に屋根がチョロッと見えるでしょう。 この御水舎の屋根や唐破風の妻、屋根や軒下などものすごく凝って豪華なんです。 屋根は銅板に彫金、軒や妻には漆、金箔に極採色を施した飛龍、立波の透彫や鯉などすべて水にちなんだ彫刻がいっぱいの豪華絢爛の御水舎です。 そして左右一対の妻の飛竜の彫刻の右側が東日本震災で欠落してしまったまま《今は復元されているかも》。 でもね、譜代大名以上ぐらいしか陽明門はぐることはできなかったし、近づくことすらできなかったんだから。 (by Nakano)

 
 
   
 「錦の水」と「薬師の泉」の巻

           錦の水
 観光客で賑わう新京極あたりには名水の井戸があちこちにあります。
 写真は京の台所錦商店街の東突き当りにある錦天満宮の「京の名水『錦の水』」(写真)。 説明版には「此の井戸の水は地下百尺(三十数米)より沸き出ており、年中十七、八度の水温を保っています。 検査の結果、無味、無臭、無菌の良質な湧き水です」と記されコンコンと龍の口から湧き出ています。 柔らかく口当たりも良い水で招福、厄除けに災難除け、そして神菅原道真を祀ってあるので智恵・学問・商才などのご利益もたっぷりとか。
 このあたりのは良質の地下水があって、京豆腐や京湯葉づくりには欠かせないそうです。 お宮さんの元は道真の生家である六条「菅原院」に創建され、1587年に秀吉が錦小路の端に移したので錦天満宮と。 境内には牛の銅像があって、牛と自分の頭を撫でるとものすごく賢くなるらしく有名校合格間違いなしとか?
 境内には面白い「からくりくじ」や「大願梅」などもあって充分楽しめます。

 さて、「錦」という京都的で綺麗な名前のついてちょっと。二つの有力説あり。
 一つは『宇治拾遺物語』の「清徳奇特事」に登場する「糞小路」説。修行僧清徳は母が亡くなったので愛宕山で3年間も母の成仏祈願。 下山したらお腹がべらぼう減った。畑にネギがなっていたので食べました。それを見た村人が僧にたくさんの御馳走をふるまいました。 何とご飯だけでも1石(100升)も。これを聞いた朝廷ナンバー2の右大臣が僧を招いて膨大な食事。僧は全部食べて右大臣は腰を抜かした。 実は僧の後ろには餓鬼・畜生が無数についてきて食べたのです。 でも僧以外には誰にも見えず、僧が食べてるように見えたのです。 ところがそのあと、都小路に餓鬼・畜生がした膨大な糞が。 こうしてこの小路を糞小路と。時の帝はこんな名前は不適当と、綾小路にあやかって「錦小路」と命名したのです。

 もう一つは「商店街でなくいろいろな具足類を扱う店が多かったので具足小路と呼ばれていたのが、 グソク小路→クソ小路と転訛した、時の帝が1054年に「錦小路」と改称したとかの説。 鎌倉時代に商業街として発展し伏見淀の魚市との提携や室町時代には酒屋、材木屋、小袖座など発達すれど寂れる。 江戸時代慶長年間に魚屋、八百屋など立ち並ぶようになった(『角川日本地名大辞典』や『京都地理地名地図の謎』なども参考。
            薬師の泉
 
 錦天満宮から少し北の蛸薬師堂には「弁天さまの御神水『薬師の泉』」が龍の口からコンコンと手水に注いでいます(写真・撮影許可済み)。 こちらの聖水は「その昔、病に苦しむ人々が、龍神水にて体や家のまわりを清めるとたちまちのうちに病が消えうせたと云ういい伝えがございました。 いつしか弁天さまの御神水と呼ばれて親しまれるようになり、人々が家に持ち帰るように」なったとのこと。 蛸薬師という変わった名。このお寺、二条室町にありしころ付近に池があったことから水上(みなかみ)薬師とか澤(たく)薬師と呼ばれ、 タクヤクシ→タコヤクシと訛って蛸(たこ)薬師と。

 また、善光という親孝行な坊さん、戒律に叛いて病気の母のために蛸を買って帰るところ町衆に咎められ難渋していた時に 「この難をお救いください」と薬師如来に念じたところ、蛸の足が八巻のお経(妙法蓮華経)に変わり難局を逃れ、母に蛸を食べさせたら母の病は全治したのです。 いつしか人々の間で本尊の薬師如来(石仏で伝教大師の作とか)を蛸薬師と言われるように」なり、蛸と着物姿の女性が描かれた小絵馬が奉納されます。 その後今日まで「病気平癒の祈願のために参拝する人々で賑わった参道は蛸薬師道と呼ばれるようになった」。 本尊の前には木彫りの蛸が3体置かれていて左手で撫でればあらゆる病が癒されると言われています。 50㎝ほどの蛸は無数の人に撫でられてピカピカでございます。京童唄「・・・はごぞんじ姉三六角蛸錦、四綾仏高・・・」。

 尚、蛸薬師は日本の伝承信仰で東京、大阪など全国各地にあります。 蛸は危険を感じたら黒い墨を吐く習性を持ち暗闇でも逃れるところから眼病を治すといわれていたり、 吸盤は吹き出物やガンなど取り払う効能があるとかが共通的に信じられているようです。 多くのヨーロッパ諸国では蛸や烏賊は悪魔の使いと恐れられており、食べるなんてなかったのです。 今では日本食が広がって蛸や烏賊などのネタの握寿司も食べているのかな?」

 
   
 八科峠の井の巻

桃山北堀公園の東突き当りの三叉路が八科峠。その峠にある立派な御門がある豪邸の前庭に写真の井戸があります。 竹の蓋を開けると水どころか小石がびっしり詰まっていました。 ご主人に井戸の撮影許可をもらい、井戸の謂れをお聞きしたのですが、何代も変わって謂れなど分からないとのお返事(ひょっとして井戸でないかも)。

 さて門前が六地蔵と墨染通りの頂上で「八科峠」と書かれた石の道標。 「やつしなとうげ」と読みますが「やじな峠と読む」と記す文献もあります。
 この峠の北西は以前紹介した陸軍第16師団が宇治川から上げた水の浄水場(現在は観修寺の山科浄水場から配水され地下集積されて深草や伏見に給水)があり、 東方には黄檗宗の佛国寺。八科峠の行政的な地名は深草大亀谷。ある跡誌に「伏見の城繁栄の時は・・此所に茶店あり。女有りて是を商ふ。 容色ある故に挙世賞。名を於亀(オカメ)と云ふ。於亀茶屋と称し、地を於亀谷といひしより、名となるとなり」と記す。 なんでも家康がこの於亀に惚れ込んだとか。

 峠の西の崖下は北堀公園で伏見城北を取り巻く巨大な人工堀。空堀でずっと下の濠川までありました。 空堀にそって総構え(土塁)がつくられていました(栄春寺境内に残存)。濠は津知橋(濠川)から三栖までが伏見城の外堀(濠川)でその中間に丹波橋。 でっかい橋と思いきやこれが地区労(ふれあいユニオン)がある丹波橋通りの丹波橋!

 さて、八科峠付近は武家屋敷がいっぱいあった、しかも城に近いので重臣たちの屋敷。八科峠付近は秀吉の重臣、黒田官兵衛の後継者長政の屋敷(宇喜多忠家の屋敷と記す地図もあり)と推定。秀吉は大名の妻子は帰国を許さず伏見の大名屋敷に常住を義務付けたのです(これを家康も見習う)。 官兵衛屋敷の西方には伊達政宗などの屋敷があり、城の南西には石田三成、南の豊後橋(観月橋)までは徳川家康や前田利家、毛利輝元ら他いっぱい。 西には町人街がつくられた日本の首都だったんですね。

 中央政権は東京に移り伏見城は廃城。 大名屋敷は皆無になり桃の木が植えられたからいつしか桃山と。伏見城は櫓、大手門、御殿などは各地に移設(重文や国宝指定)。 現在、桃山〇〇町など桃山が付く町名の地域は紀伊群堀内村や大亀谷村(ただし桃山南は全部巨椋池)でした。 それが京都市に合併するときに堀内でなく「桃山」をつけたのです。ちなみに深草〇〇の町名は以前は紀伊群深草村や大亀谷村。 紀伊群伏見町の小学校3校には伏見〇〇小学校の校名に。
 八科峠については言いたいこと山ほどありますが字数オーバーでこの辺でおしまい。

 
 
   
 大阪城「金・銀明水井戸」の巻

 伏見町屋を予告していましたが、大阪に変更、悪しからず。
 明治までは大阪でなく大坂の文字が一般的に使われていました。 豊臣秀頼が発行した「大坂一分金」、豊臣VS徳川の冬・夏の「大坂の陣」、江戸時代は「大坂大番」(100名の旗本が番頭として大坂城の警衛に当たる役職名)などは坂です。 でも「坂」は土に返るとか士に反するとかに分解できるので忌み嫌う人もあり、明治になってから大阪と書くのが一般的になったようです。 地名は石山で大きな坂で大坂。石山の頂上一帯は浄土真宗の本拠地として堅牢で壮健な本願寺が創建された。信長との戦争で敗北し廃墟に。 その跡地に秀吉が建てたのが大坂城。変遷は夏の陣ですべてを焼失し家康が二倍の規模で建設。 幕末まで直轄城。薩長軍が入城のどさくさに紛れて無残にも多くの櫓も天守閣も焼失し廃墟。

 昭和初期に陸軍第4司令部庁舎と天守閣(鉄筋コンクリート造り)が完成。太平洋戦争敗北で米軍が占拠。 その後大阪市に返還され現在にいたる。  銀名水井戸はその司令部付近(江戸期本丸御殿の台所)の裏手にあった。 一方、写真の金明水井戸は小天守台にあり井戸を覆っている屋形を金明水井戸屋形と言います。 井戸の深さは約33m、井筒はなんと一個のでっかい石をくりぬいたもの。 伝説では秀吉が水の毒気を抜くために黄金を埋めたと言う。 でも写真の井戸(黄金水とも)は家康当時のもので秀吉の井戸は発掘調査で天守閣東側の深いところにあったらしい。

 大天守の横に丸い大きな鉄の蓋が秀吉時代のものかも(井戸を発掘したら、刀、鎧、鉄砲などの武器や生活用品などが時代ごとの層になって埋まっていたとのこと。 (もう少し深く掘れば莫大な黄金も発掘されるかも?) ともかく大阪城は今も謎いっぱい。 家康もてこずった難関不落の城郭で堀も石垣もでっかいですね(国宝の京都二条城とはぜんぜん違う)。
さて、2月は何千本もの梅林できれいですよ、大坂城には重要文化財がたくさんあるのでいつか皆さん方をご案内したいですね。
 レトロな喫茶店に改装された司令部のCoffeeはいかが?
 
 
   
 伏見の名水 秀次の井

 伏見町屋の井を予定していたのですが、今回もマイチャリ走行中に見つけた井です。
 三条大橋南西たもとにある瑞泉寺の井戸(写真)です。境内は何となく寂しさが漂っているよな雰囲気。 秀吉が関白になってから10年後の文録4年(1595年)8月2日、鴨川三条大橋南西河原では世にも残酷な悲劇が演じられました。 秀吉の跡継ぎとした養子になった秀次ですが・・・。 秀吉の愛妻淀君に秀頼が生まれたのです。

 淀君と秀頼を溺愛する秀吉は、秀次を段々と疎んじ、2年後にいわれなき謀反の罪状で高野山にて自刃さされました。 引き続いて秀次一族39名を処刑。秀次の妻や側室、1歳から9歳まで4人の若君と1人の姫君や十代の女性19名、 親族など34人を炎天下、市中引き回して、山城河原中洲で処刑したんです。三条から下流、鴨川の清流は真っ赤に染まったといわれています。  戦国時代には敗北した主君の妻子など縁者は処刑などをされたのですが、処刑場の土手には秀次の首が晒らしているんです。 石川五右衛門親子を釜ゆでの刑に処したり、朝鮮侵略で朝鮮人達の耳や鼻を殺いで持ち帰られせた秀吉の残忍さがそこにあります。 当日、処刑を取りまいていた大勢の町衆も固唾をのんで、「臓を裂き、魂を痛ましめずということなし」との気持ちでした。 河原に掘られた大きな穴に遺体が次々投げ込まれました。 そして、三条大橋を行き交う人々の見せしめのために、秀次の首を入れた四角塚(石ひつ)として上部に積んだのです。

 この塚は鴨川の氾濫などで荒れ果てて16年、徳川の時代になった1611年、 京の豪商角倉了以が二条から高瀬川を建設中、三条でちょうど秀次一族の崩れた塚をほりあてたのです。 秀次事件に心痛めていた角倉(弟は医師で秀次の家臣)は秀次を丁重に弔うために家康の許可を得て刑場址に瑞泉寺を創建し一族菩提を弔ったのです。 山号は門前を行き交う高瀬舟にちなんで慈舟山とし寺名を故秀次に新らしく付けた法名から瑞泉寺としました。井戸水は飲めませんし簡単な謂われを住職から聴いたんですが忘れました。 秀次の遺品がたくさん保存されていますので、三条大橋に行かれたら同寺に足を運んでくだされ。
 余談=江戸時代末期、瑞泉寺付近は政争で犠牲になった事件が頻発します。 寺から高瀬川を少し上がった三条には佐久間象山、大村益次郎遭難の碑、倒幕派が新撰組に襲撃された池田屋、河原町を少し下ったところに坂本龍馬らが暗殺された跡などあります。
【写真:文はY.Nakanoです。執筆には同寺院の文献や解説書などを拝借しました。】
 
 
   
 伏見の名水 養阿の井

 今回も伏見の名水ではなく番外編(伏見にはまだまだ名水がありますが、ボチボチ紹介)。
 今回はイタリア製のマイチャリで、丹波橋通り西詰めの鴨川左岸の河川敷を走って勧進橋から右岸を走り奈良線や東海道線の鉄橋を潜って塩小路橋で地上にでて七条大橋西詰めの小さな祠=松明殿(たいまつでん)稲荷神社の井です。

 江戸時代中期に京都の木食正禅養阿(もくじき.しょうぜん.ようあ)と言う坊さんが造った手洗石と井戸を発見【写真】。
この小さなお宮さんは伏見稲荷大社の末社。京都市高札には平安時代(948年)に創建。松明殿の号が付けられたとあります。 稲荷大社春祭に氏子が松明を灯して神輿を迎えたから松明殿と呼ぶとも説明。元は塩小路で七条東洞院など経て今の地に。

 さて、養阿(?~1763)さん。本名は村上茂八郎。丹波保津の相当な禄高の武士家系でしたが、父親の代に本家断絶。 それで彼は大宮七条の下屋敷で誕生。八歳の時に父没し、京の銀座で手代に。24歳の時、東福寺北側の泉涌寺で出家。 高野山などで修業。下山し京七条の梅香庵に住んで念仏活動に専念。木食(or木喰)とは肉類(魚も)や五穀(米/麦/粟/豆/黍)を食べず木の実や草などを生のまま食べての修行の意味。

 彼の念仏活動は真冬でもペラペラ衣に鉦(地蔵盆でカンカンと鳴らす鐘)を持ち、素足にわら草履姿で「ナ-マンダ」と唱えて京の街をテクテクと。 病人や庶民の面倒を看るためにです。そして庶民が利用する渋谷街道や日岡峠など急坂、難所の補修や整備と各地に井戸を掘りに廻ったのです。

 松明殿の井戸(1752:宝暦2年完成)はその一つ。また、街の各所に「南無阿弥陀仏」名号のでっかい石碑を建て、 碑の足元に粟田口や六条河原などの刑場で処刑された人や化野、阿弥陀ケ峰、千本や大谷などに捨てられた人、行き倒れの旅人などを丁寧に葬り回向しました。 でも、これらの石碑は明治維新の廃仏毀釈で無惨に壊されたり道路敷石にも。 1箇所だけ再建されています。

 日岡峠山科側に上半分だけ(でっかいです)が京津国道工事犠牲者を弔うために代用され再建(1933・昭和8年=国際連盟脱退の年)されてます。峠に小寺(七条と同じ「梅香庵」と銘)を建て住み、 人足、旅人や牛馬のための井戸(石亀の口から水を流した=亀の水)を掘って施します。今も亀の口から清水が流れ落ちています。養阿さんを調べてみたら、 ともかく社会福祉や福祉事業を生涯をかけた具現化した偉い坊さんでまさに「市の聖」。マザーテレサ以上や。今日ではノーベル賞ですね。こういう人こそ教科書に載せるべきと思う。
 そういえば今年のノーベル平和賞は核兵器禁止国際条約締結運動のICANに。でも、被爆国の総理が妨害してヒバクシャや世界中の人から顰蹙。ほんとに恥ずかしいですね。

 本稿執筆の小生は10月9日現在、国際署名わずか70筆ほど、憲法署名は50筆ほど集めただけで養阿さんに怒られそう。

 
   
 伏見の名水 (番外編) 六角井戸

 今回も番外。6月に山城井手を散策したおり、珍しい井戸を発見(写真)。
 忘れないうちに紹介しておきたいと思います。JR奈良線玉水駅下車し玉川(JR線の上を流れる天井川)を渡って約80m南下って小路沿いにあります。
 写真の通り6角形です。 説明版には「天平時代の左大臣橘諸兄公(たちばなのもろえこう)は(中略)ここ井手町に別荘を構え住んでいた。 この珍しい井戸は諸兄公(広大な井堤寺の建立や玉川に山吹を植え続け現在の「名所井出の里」を生んだ人物)の館(中略)の宮(平城京から恭仁京へ遷都する時の仮の宮)のなごりとして今に伝わるもので、“公の井戸”」とあります。

 さて、井手町を流れる玉川は環境省「平成名水100選」に指定されています。100名水の選定は水量、水質+自然環境、住民生活になじんでいるかなども加味。 堤には4月桜並木、5月黄金色の山吹が咲き乱れる親水空間として地元の憩いの場に。 上流には府内最大級の農業用溜め池(大正池)があり、バンガローや多目的広場、バーベキュー場も整備された一大自然公園になっています。

【余話】
 久々に小町さんのご登場。色も香もなつかしきかな 蛙(かわづ)なく ゐでのわたりの山吹の花(『新後拾遺』より:蛙が澄んだ声を効かせる頃になると、 玉川堤にこぼれるばかりに咲いた山吹の花も散り染め、花の色香のうつろいにも似て、 なつかしく思い起こす事よ)と詠った小町。駅から東に約1km入ったところに彼女の塚があります。3段大きな石組み。 小町の終焉の地は伏見醍醐の随心院、左京市原の補陀洛寺に京都丹後、大津、遠く秋田県や山口県など全国各地に散在。

 さて、歌中に蛙がでてきましたね。“かはづ”は井手の枕詞で駅近くに蛙塚があります。20坪はどの広場。コンコンと清水が湧いています。 この玉川の堤に咲く山吹に蛙の美しい歌声を聴きながらのどを潤す大和路を行き交う人々の姿が目に浮かびます。

 玉川2㎞上流には木津川を挟む山城地方や生駒地方の素晴らしい景色が一望できる玉津岡神社(橘公を祀る神社も境内に同居)があります。 境内入り口にでっかい蛙。蛙の口から一条の清水が流れてる。その傍に「御かえる」と題した紙に「蛙は四方八方を見回せる目をもっており(中略)み力をいただいてください。 福かえる、無事かえる、旅かえる、宝かえる、若かえる。かえるの守は社務所まで500円」と認めてありました。 途中でまちづくりセンターに立ち寄りました。 青い目をしたグループは庭先でバーベキューを賑やかに、小生は囲炉裏のある部屋で美味しいコーヒーとお菓子を頂き、ボランティアの方としばし談笑。遠くまで手を振ってのお見送りでした。

 
   
 伏見名水探訪(番外編)錦の水

今回は伏見から離れて番外編。京都のど真ん中にある錦の水です。
♪「姉三六角蛸錦・・・」の錦通商店街の東の突き当たりに鎮座する錦天満宮の井です。 水質は良質な「錦の水」という名前の名水が湧く。 昔はコンコンと湧き出していたと思います。

 井の前の高札によると、今は地下百尺(約30m)より湧き(北山からの地下水は東西線でストップして新たに掘削したとのお話も)、 年中17~18度の水温。水質検査では無味、無臭、無菌の良質な湧き水と書かれています。 飲んでみると冷たくて美味でしたよ(でもたくさん飲むときは一度湧かした方が良いですね)。早朝から多く人々がお水取りに来られます。      ところで、天満宮ですので祭神は菅原道真で、北野天満宮と同じく臥牛の「撫で牛」がいます。 牛は農耕のシンボルで雨を降らせる天神の神使です。道真が神格化されて参拝者が撫でて青銅はピカピカ。 筆者も撫でたので一家無病息災、 ボケ防止とサマージャンボ一等が当たると思います(臥牛=勤勉、慈愛と健康の象徴ですが、 現在は知恵・学問・商才と招福・厄除けや高大合格などいっぱい追加されて神さまもコンビニなみに)。 撫でると願いが叶うとかで青銅製の臥牛はピカピカでツルツル)。

 さて、社伝の歴史をヒモ解きますと、十世紀初頭、道真の父の旧宅である菅原院に創建され、 源融の旧邸宅六条河原院に移し「歓喜寺」となり、その鎮守社として天満大自在天神を祀ったのが始まりとか。 その後さまざまな変遷をへて桃山時代、秀吉の都市計画で金蓮寺の敷地に移転し以降400年余り「錦天満宮として神仏混合で同地に鎮座。 明治の天皇制国家を思想面で統制するために神仏分離令が敷かれ歓喜寺は東山五条に移転し、お宮も新京極開通の際に縮小して現在にいたっています。 護摩木や絵馬やおみくじへの押印、そして小さなほこらには動く「からくりおみくじ」「紙芝居ロボット」などもあって、 天を仰ぐと石の鳥居の横天の左右は隣の店の壁に突き刺さっているのも面白いですね。歳末、お節料理ならなんでも揃う錦商店街にお越しの時は同天満宮にお立ち寄り下さいませ。
 
   
 伏見名水探訪 向島渡シ場の井(い)

 向島は初めての登場です。
未だ寒い二月下旬に観月橋から宇治川左岸(南側)の堤防上の細い道(宇治橋までつづく府道241号線) 上流に向かって歩いていくと倉もある大きな農家がズラーと並んでいます。 向島東泉寺町、向島藤ノ木町、向島鷹場町そして渡シ場町になり宇治市槇島に続きます。 ちなみに向島**町という名前の町は前出した町を合わせて現在33町もありました。 秀吉が伏見城建設のために材木や巨石を運ぶために巨椋池(琵琶湖につぐ大きな池で湖と言ってもいい) の右岸に木幡山から指月山(最初の伏見城で現在の観月橋の北東の山で明治天皇陵域)まで堤を築いて池から分離した。 観月橋(江戸期から明治までは豊後橋)から右手に折れて池の中央南北に堤を築いて小倉(中世=巨倉:神社名は巨椋神社)に結んで奈良に向かう道を築きました(一連の堤が太閤堤)。

 さて、写真は渡シ場町の一番東にある倉付きの農家(道路の向こうは宇治市)の井戸(写真)です。 農家の主婦の方は「昔、堤の高さはこの井戸ぐらいだったのと、宇治川水面はもっと高かったのでたびたび洪水に。 そこで堤を2m程かさ上げされたんです。洪水は起こらなくなったものの堤防上の細い路になり、 戦後は車が行き来するようになってから、裏側(畑側)の農道を広げて出入り口をつくったのです。 井戸は宇治川が低くなったので水は出にくくなって埋めてしまった家が多い」とか。 でも「私の家は井戸は埋めたら先祖様にあかんので使ってないけどそのままです。 井戸の周りの紅白の梅は盆栽だったのを地植えしたらこんなに大きくなったんです」とニコニコ顔。 井戸は茶畑用に新しく掘ったとのこと。 紅白の梅を愛でていたら「桜切るバカ、梅切らぬバカ」とのことわざを教えてもらいました。

 また、渡シ場町名は隠元橋がなかった頃、対岸の五ケ所との渡し場があったからとの説明も。 ところで、この農家の前が隠元橋。橋の袂の碑文を読むと、鎌倉時代この付近は近衛家所領で「御殿の浜」とも呼ばれて交通の要衝。 そして、隠元がここから(岡屋浜)上陸して「隠元禅師登岸之地」の呼び名にもなりました。 萬福寺建設には大量の建設資材がこの付近の岡屋浜から荷揚げされ多くの人々で賑わい、 明治になってからは大阪から蒸気船が伏見港を経て日常品など多くの物資が運ばれたと対岸の宇治側の石碑に記されています。 なお隠元橋は1949(昭和24)年に最初の木造の橋が架けられ、1953(昭和28)年の大水害で流失し、コンクリート橋になり2008年に幅の広い新しい橋が完成しました。

 巨椋(おほくら)の入江響(いりえとよ)むなり射目人(いめひと)の伏見が田居(たゐ)に雁(かり)渡るらし(万葉集:射目=雁を猟る時に猟師が体を覆いかくすコートor蓑等:「巨椋」名は文献上の初見:射目→「伏見」の語源説も)
【余話】小町さん登場を予告してましたが、本文が長くなりましたので申し訳有りませんが延期。次回は桃山八科峠(桃山北堀公園の東側)の豪邸2017.4.11又は丹波橋の倉持海藻屋の井。  (by Nakano)
 

 
   
 伏見名水探訪 石田(いわた)の井(い)

 今月は醍醐地区の石田の井です。
 外環状線は石田交差点の少し南。 西側の細い小径を入った突き当たりに小さな鎮守の杜が石田神社(田中神社とも)で境内に写真の井があります(手水用)。  古くは奈良より近江に至る今よりも東方にあって現在の日野坂や御藏山一帯が中心であったらしい。今の石田は東方の日野方面から移ってきたらしい。 山科川や合場川等から流れ込む砂礫の堆積地になって石田(岩田の漢字も)という地名に。 ですから山科川が常に氾濫(現在は蜷川知事が堤防など築き氾濫はありません。 しかし昨年は人員リストラでポンプ稼働せず大規模な水害発生)しました。

 古来、湿地帯なので米作りには不向きなので産業は製茶、柿、竹など。 平安中期頃は巨椋池が山科川に沿って石田で入江をなし、絶景で伏見よりは開けていたと記録されています。 しかし秀吉が伏見城建設【巨石や材木運搬の舟入場(河港)をつくるため。 今も京阪桃山南口から少し北側JR線路沿いに家康の孫千姫がこの入江から大阪城の秀頼に嫁ぐ有様が諸書に記された碑があります。】 で堤防を築いたため度々逆流して浸水甚だしくなり、村域は醍醐寺のすぐ南まであったのですが、離村相次ぎ人口が減り明治時代には村民は総計で248人との記録。 以降も離村相次ぎ戦後は「かつての山紫水明の地石田も森も外環状線から少し奥まったところに忘れられたかのように佇んでいます」(『史料京都の歴史』)。
 今は注意してないと見過ごしてしまうほど見る影もありません。万葉集にもたくさん詠まれています。一首だけ紹介。

 山品の岩田の杜を踏み越せばけだし
     吾妹に直に逢はむかも(守合卿)
(意訳:山品=山科の石田(いわた)の森を越 えたら、ひょっとしたら愛する女の子に 会えるかもね)

【余 話】
 小町さん久しぶりの登場です。昨年暮れに丹波橋の我が家からてくてく歩いて逢坂関から琵琶湖に。 その逢坂関に百人一首で有名な蝉丸を祀った神社境内に謡曲「関寺小町」と牛塔の碑を発見。
 近江国関寺の僧が稚児を連れて山かげに住みし老女(実は小町)の許へ歌物語を聞きに。 老女は歌物語を弱々しくも優雅に詠います。自分の昔の栄華を偲び今の落魄を嘆きます。 関寺の七夕祭に招待された小町は稚児の舞いに引かれて吾を忘れて舞ったのでした(今晩あたり夢で見るかなァッ)。  「牛塔」は関寺建立を助けるために現れた「霊牛」を供養する宝塔で、日本最古最大。
重要文化財指定ですが寂れ寂れた附近一帯から老女小町の隠棲地が偲ばれ、ふっと振り替えると老女小町の姿が浮かびそうです。 逢坂関の小町碑から少しのところに国鉄東海道線旧逢坂山トンネル(2本)が産業近代化遺跡として保存されています。 レンガ作りの巨大なトンネルには20㍍ほど入れます。そこから50mほど下手に現在のトンネル(4本)の大津側口がありトンネルの真上を京津線が走っています。 付近の公園に35歳で逝った三橋節子美術館もあったり、少し先には以前紹介した琵琶湖疎水トンネルの琵琶湖川入り口があります。
 次回の余話は以前紹介した洛北市原にある補陀洛寺(ふだらくじ)です。小町の終焉の地と伝えられています。 (by Nakano) 

 
   
 名水探訪(番外編) 晴明井

 堀川今出川を少し南下した西側に晴明神社があります。 平安中期以降に活躍した有名な陰陽家の安倍晴明を祀った神社です。
 陰陽術とは古くから有りますが晴明が天文、暦、陰陽などを駆使しての占い術で時の政治に深く関わっていました。

 一条天皇が晴明を稲荷神の生まれ変わりとして1007年、晴明の屋敷跡に広大な神社を創建しました。 度重なる戦火や秀吉の都市整備などで縮小され、荒れ放題になったときもありましたが江戸時代末に整備されました。 大きな鳥居を潜って境内に入ったすぐ右手にこの晴明井があります。 写真のように基礎は円形石に四角い柱を立てその上に五角形の石に刻まれ、表面に星印(五芒星と言う晴明紋)が刻まれています。 その真ん中の穴からコンコンの清水が湧いている珍しい井です。何でも清明が陰陽道の霊力を発揮して念じたら地中から湧いてきたとか。 これが無病息災、健康維持に効き目があるそうです。すごいですね。弘法大師が杖をトンとつついたら清水が湧きだしたという弘法の井も有りますね。 中世という時代はハリーポッターじゃないけれど空を飛んだり、何百年も生きてるお婆さんとか、洋の東西ともいろいろな奇蹟というか呪いというか摩訶不思議な時代ですね。

 さて、この晴明井から汲んだ清水を湧かして千利休はお茶を点てたんです。 もちろん秀吉もその茶を服されたとのこと。 しかも五芒星を描いた取水口はその星形の5つの頂点の一つで、 「2月の節分の日に神職が井の上部を回転させて、その年の恵方に取水口を向けるんですよ」と綺麗な巫女さんに説明してもらいました。 2月の始めの立春(来年は4日)の前日の節分の日に恵方巻を食べるとき、その年の恵方に向いて食べると無病息災、幸運をつかめると云います。 来年2017年は北北西ですので、地区労事務所からは愛宕山の方角。恵方は陰陽道(方角占いやしきたりで東北は鬼門だとか。 だから京大生は吉田神社にはお参りしない)が理論化?して編み出したもの。 だから当時、恵方に逆方向に旅するときは一旦道を換え(方違え/かたがえ)遠回りをして行ったのですよ。 これ本当のお話し。江戸時代の都市住民は初詣も自宅から恵方にある寺社にお参り(恵方詣と言っていました)していたんです。 江戸後半になると外出、転居、旅立ち、商取引、縁談など生活全般にわたり暮らしを縛ることになりました。

 だから明治5年(1872年)に太陽暦が採用された時に陰陽道や恵方は迷信として公に排除されました。 でも、最近は再び方位を気にしたり大安吉日や仏滅といった迷信を気にする人が増えてきているようです。 迷信とまでは行かないまでも、1月元旦の初詣、2月は恵方巻の巻きずし、豆まきから12月のクリスマスケーキに年越し蕎麦まで日本には一年中、しきたりがいっぱいありますね。 全部なくしてしまえばいいけど季節感や区切りもなくなって、寂しくなるかも。 ところで、晴明神社の近隣には不審庵や今日庵、機織機が稼働している西陣織成館、釘抜き地蔵、ゑんま堂などたくさんの見所があります。 また、神社境内には向かいの堀川に架かる戻り橋の再現された戻り橋もあります。戻り橋には多くの伝説がありますね。実話としては、太平洋戦争で海外へ送り出された応召兵。 その家族共々に無事に戻れるよう願ってこの橋に渡りに来たんです。でも、多くは遺骨で戻ってきました。 70年前の話しでなく、今日、平和憲法に違反の「戦争法」が強行され再び隊員を戦地に送り込んでいます。何としても廃止しなければと思います。

(2016.12 by Nakano) 

 
   
 伏見名水 琵琶湖疎水の巻

 琵琶湖365日、毎日私たち京都市民に命の水を提供してくれていますのでこれを外して水のお話は出来ません。

 前回2回は陸軍16師団の給水源と山科の浄水場について紹介しました。 今回は陸軍の浄水場でなく、山科浄水業の命水を取り入れている琵琶湖疎水です。
今年6月に山科・四宮琵琶湖疎水に沿って疎水第1トンネル(2,436mで当時の日本で最長) 出口から→寂光寺→普門寺前を通って山道の小関峠手前の竪坑(写真:直径5.5m:深さ約50m) →小生の母が生まれ育った等正寺→大津市三井寺麓の第一トンネル入り口から琵琶湖取り水までてくてく徒歩で探索。

 この煉瓦造りの竪坑=シャフト(この東側付近をJR湖西線のトンネルが上下に交差しています)は第一トンネル両端からの掘削と竪坑地底東西からの掘削工事もされました (シャフトはもう1本藤尾よりにつくられました)。 岩盤が堅くしかも湧水激しい難工事であったけれど、竪坑は工事期間の短縮と資材運搬や安全確保など貴重な存在になったのです。 琵琶湖疎水設計から工事までの総責任者であった田邊朔郎(*注)は「一番苦しんだのは竪坑ですけれども、それと同時に工事上で安心を与えてくれたのがあの竪坑です」、 重機のない時代、スコップとつるはしとモップだけの全て体を張っての何千人もの作業員の人力での土木工事でした。

 さて、竪坑では偶然に琵琶湖側から登ってきた青年とバッタリあってしばしの歓談。そして小関峠の地蔵さんを拝んでからは下り。 長等公園を右に見て滋賀県看護士学校前を通り三井寺麓の第一トンネル入り口へ。ここから真っ直ぐ琵琶湖三保ケ崎の取水地点で琵琶湖が一望だ。 この三保ケ崎は大津港の東端にあたり京大漕艇部倉庫(旧三高の三本線の校章が描かれ、対岸はヨットハーバー(小生の幼年時代はここで泳ぎを覚え、 現職時代は土曜午後に、醍醐の職場からランニングで逢坂の関を越えてこのハーバーでヨット操縦も取得した懐かしい場所)。 湖畔でコンビニおにぎりをパクパクと。「琵琶湖又くるね」と呼びかけてウォーキング調査は終了。

(注*田邊朔郎(以下は市局解説版・上京区ホームページ他多数参考した)=田邊朔郎(1861文久元年~1944(昭和19)年は1877(明治10)年工部大学校(現東大)に入学、1883年卒業(22歳)。 卒業論文は『琵琶湖疎水工事の計画』(英文)ですが、 現地調査中(当時鉄道は東京~横浜間と膳所~神戸間のみで横浜から膳所まで歩いての京都入り)に右手負傷するも左手で製図~工事プログラムまで論文作成。 卒業後すぐに京都府御用掛に採用。府は莫大な建設費や政府との交渉などを幾多の試練を経て(それに保守層や福沢諭吉など知識層には反対世論も強かった)いよいよ着工。 その琵琶湖疎水総責任者に弱冠26歳田邊朔郎が就任。発電所やインクライン建設など他当初計画は付加された(予算は膨れるばかりで重い市民負担に抵抗も)。  以下完成までのお話は一いっぱいあるけれど字数オーバーで又の機会にお話しできればとおもいます。 なお朔朗はその後、伏見までの鴨川運河、伏見インクライ、墨染め発電所や大阪地下鉄、各地の鉄道建設にも従事。 東京帝大、京都帝大の教授や学長など勤めました。北垣府知事の長女しずと結婚。1944年、死去。この年の10月に小生が生まれた。

【余話】=ご無沙汰しております、小町でございます。ほんとお久しぶりです。先日和歌山は加太から和歌浦海岸線に沿って単独30kmウォーク(ゴールは紀三井寺)。 春先のまだ厳冬の海でしたが、素晴らしい海、大好きな海。遙か遠くまで続く海原。しして島々と崖に砂浜、散在する小さな漁村、そして古い寺社、 そこには先祖代々受け継ぐ働く人々の暮らしの匂いがいっぱい。見かけすれば挨拶と地名や道、暮らしぶりなど尋ねて初対面でも話しは弾む。 カタクチイワシの丸焼きやシラス丼などご馳走になってお腹も満足。

 またてくてくと、何とも古びたお宮さんが木陰にちらちらと見える。お参り。 名前は玉津島神社。由緒書「和歌浦状」を斜め読みすると、なんと懐かしい小野小町さんのお名前が。 その一説、「潮みちくれば田鶴なくわたる芦辺の茶屋にこしかけて向ひをみればそのむかし小野小町と業平の契りをこめし妹背山」云々の一説。 そして足元の紅色の塀(この塀だけは綺麗に)、この壁を「『袖掛の塀』といいまして、業平を慕ってきた小町が小袖をその塀に掛けて再会を祈ったのでせす」と巫女さん。 このあたりは万葉の和歌が溢れていました。長く続く片男波浜の口にはりっぱな「万葉館」もつくられて歴史を伝えています(人影は皆無でしたが。 金髪の外人さん夫婦が可愛い子供と浜で遊んでいました。ニコニコと互いにご挨拶してまた遠い山の中腹に見える紀三井寺めざしててくてくとまた歩き始めました、 終着紀三井寺の長い階段を頑張って踏みしめて本堂前で無事終了させて頂いた神仏に合掌。

      袖掛けの塀
 若(わか)の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み 葦辺(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る (訳=和歌の浦に潮が満ちて来ると干潟が無くなるので、葦辺の方へさして鶴が鳴き渡るよ) 玉津島見てし良けくも我はなし 都に行きて恋ひまく思へば (玉津島を見ても快いことなど私はない。都に帰って恋しく思うだろうことを思うと) 

 
   
 伏見名水 京都市水道水の巻

 今号は4月号で紹介した、伏見陸軍16師団名水の巻の続き。

 前回、陸軍第16師団の水は桃山南団地あたりの宇治川から取水して桃山浄水場(今の桃山北堀公園や藤城小学校付近一帯)から送っていたと書きましたね。
 今回は、蹴上げ浄水場の職員さんの聞き取りや資料などから少し補足しておきます。 桃山浄水場は現在は貯水だけで浄水は全て名神の勧修寺の北側に1970年に新設された新山科浄水場から給水されています。 新山科浄水場の自然流下給水は伏見全域はもちろん下京・南・山科区以南や東山・中京・右京区などにも給水。

 肝腎の水源=取水は宇治川でなく琵琶湖疎水の日ノ岡地区にある最後の第3トンネル入り口の右岸[山寄り](写真=昨年撮影。右方が取水場)で、 ここから東山の東側約4kmの導水トンネル潜って新山科浄水場へ送られます。

 琵琶湖疎水の第3トンネルの手前には日本最初のコンクリート橋が架かっています。 この橋を渡って日ノ岡山の山道を登って下ると平安京の鬼門を守る日向大神宮があり少し下ると蹴上げインクラインです。 (ところで4月号掲載の写真の宇治川取水ポンプは休止していますが非常用としていつでも稼働できるようにしてあります)

 追記=前回、琵琶湖にブルーギルなどの外来魚が琵琶湖棲息の鮒や鯉を襲ったり外来の浮き草が大量発生していると延べましたが、 粉末活性炭処理施設を新設して以前より美味しい水質になっています。
 一番怖いのは福井県にある原発群です。琵琶湖最北端から30km内です。 原発事故が発生すれば、私たちの命の水琵琶湖は放射能で汚染されればと考えると恐ろしくなりますね。 現市長さんは原発再稼働を事実上容認していると聞いていますが・・・。

 それに水道料金はスゴック高い(我が家の水道代[汚水8,382円を引いて]3月4月合計で12,277円も) さて、京都市の水道の宣伝を一つ。大手飲料水は天然水を販売していますが、水質や味とも京都市の水道水が勝っているんです。 筆者も毎年蹴上浄水場で飲み比べており、産地無記名で並べられた水を飲んで市水道をピタッと当てます。 だって今年も一番美味しかったんですよ。

 その美味しい京都市の水道水は非常用に活用できるように1本490ml缶詰24本入の1ケースを税込み2400円で家庭に届けられます(常温製造5年間保存)。 熊本地震のような災害が発生すれば一人1日最低3リットルの水が必要とされています。
申し込みは伏見区役所向かいの新しい南部営業所(申し込み用紙もあります)。

 ちなみにミネ水ペットと比較すると安心安全度=1.7倍、環境度合=700分の1、安さ=400分の1(以上、水道局資料より)、保存期間=2.5倍(スーパーで調べた)。 *小学生の時、水泳カッパになったのは山科の琵琶湖疎水と琵琶湖疎水第1トンネル三井寺手前の京大や同志社大のボート部格納庫あたりでの練習です(当時も今も遊泳禁止です)。 琵琶湖疎水についていつか紹介したいですね。

 『小町さん【余話】』は4月に編集部に送っているのですが、スペースの関係で7月になります。ご期待のほど。いつも誤字脱字だらけ長い文章読んでいただき恐縮です。
《3.6.2016 by Y.Nakano》

 
   
 伏見名水探訪 陸軍16師団名水の巻

    ポンプですが稼働はしていません
 伏見深草に創設された陸軍第16師団。師団司令部は聖母学院、輜重連隊は教育大附属高校(馬小屋と門が現存)、 兵器支厰の跡地は警察学校や龍大など。 他にもたくさんありますが、何千人もの兵隊の飲み水は井戸水ではありません。宇治川からの取り水でした。

 宇治川と山科川が合流する地点から少し上流の宇治川右岸にその取り水ポンプ場を設置し、 そこから桃山・万畳敷(八科峠西)に陸軍水源池(現在は北堀公園)と浄水場(今はほとんどが住宅地に、一部が貯水場)がつくられました。 宇治川取水付近の古老は「小さい頃はこの辺りでよく泳いだ。あのあたりの流れている川の真ん中に低い塔が立っておったんです。 それが陸軍のポンプなのか知らんとったが、この辺りではポンプ場はここしかないし」と懐かしく話してくれます。

      袖掛けの塀
 現在も宇治川から大きな導水路とポンプ場がありますが、 川底が低くなって取水できなく閉鎖されています。私たち伏見区民の今の水は。 琵琶湖疎水の日ノ岡から東山連山に掘られたトンネルで勧修寺裏山付近の新山科浄水場に送水。 この浄水場は市の約半分362,000?(1日)をカバーし、送水は全て自然下流。一部が北堀公園北川の丘の地下に貯水されて私たちの家庭に送水。 伏見はもちろん下京・南・山科区全域と東山・中京・右京区の一部にも給水。

 蹴上浄水場はよく知られていますが、以前は夏場の水道は少し匂いましたが今の京都市の水道はとても綺麗で匂いもありません。 とても美味しいです。我が家の緊急用の水は水道局生産のカンポット10本です(賞味期限がきれて今はありませんけど)。 わざわざ飲料メーカーの天然水を買わなくても、家庭用浄化装置などつけなくても活性炭の何重物層を通されているのでもちろんコーヒーやお茶に適しています。 でも近年琵琶湖に外来種の魚や植物が繁殖し生態系がやばくなって水質が心配されていますが。

【余話】=ご無沙汰しております、小町でございます。
 お久しぶりです。
 先日和歌山は加太から和歌浦海岸線に沿って単独30kmウォーク(ゴールは紀三井寺)。 春先のまだ厳冬厳しい海。素晴らしい海、島々と崖に砂浜、散在する小さな漁村、そして古い寺社、そこには先祖代々受け継ぐ働く人々の暮らしの匂いがいっぱい。

 お見かけすれば挨拶と地名や道、暮らしぶりなど尋ねて話しは弾む。カタクチイワシの丸焼きやシラス丼などご馳走になってお腹も満足。 と、古びた神社にお参り。名前は玉津島神社。由緒書「和歌浦状」と。斜め読みすると、なんと懐かしい小野小町の名前が。

 その一説、「潮みちくれば田鶴なくわたる芦辺の茶屋にこしかけて向ひをみればそのむかし小野小町と業平の契りをこめし妹背山」云々の一説。 そして足元の紅色の塀(この塀だけは綺麗に)、この壁を『「袖掛の塀」といいまして、業平を慕ってきた小町が小袖をその塀に掛けて再会を祈ったと』巫女さん。 このあたりは万葉の和歌が溢れていました。長く続く片男波浜の口にはりっぱな「万葉館」もつくられて歴史を伝えています。

 若(わか)の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み 葦辺(あしべ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る (訳=和歌の浦に潮が満ちて来ると干潟が無くなるので、葦辺の方へさして鶴が鳴き渡るよ) 玉津島見てし良けくも我はなし 都に行きて恋ひまく思へば (玉津島を見ても快いことなど私はない。都に帰って恋しく思うだろうことを思うと)

【おことわり】
 市本庁での本格的な下調べの時間がなくて、推測で書いたところがあります。申し訳ありませんが、そのつもりでお読み下さいね


 
   
 伏見の名水 月橋院の井の巻

  指月山観月橋から外環を200mほど東の山手に月橋院(げっきょういん:月橋禅院とも)を訪ねました。門から入って本堂の手前に釣瓶が掛かった井戸があります(写真)。 地図(上が南)は豊後橋(今の観月橋)付近で、月橋院が少し上流の指月山(秀吉が最初に造営した指月城の麓にあります。右下の大きな道路は今の外環で昔から交通の要所。 伏見港に流れる宇治川派流の流れは今は逆になっています。

 さて、月橋院の井。境内前は騒音の外環ですが境内に入ると綺麗に整備された本堂前庭は静寂さが漂っており南北朝時代にタイムスリップした雰囲気です。 気品のある玄関の土間で住職ご夫妻からお話を聴きました。組竹の覆いを開けるとポンプ機械があります。 説明では水質は宇治川に近くてあまりよくないとのことですが、りっぱな井戸は河川局が度々調査にきているとのこと。

 月橋院の開山時や歴史の詳細は不明ですが、南北朝・室町時代に皇族の伏見宮にさかのぼり、1421年正月に大通院指月庵が建立されたとのことです。 景勝地として有名になり雪見や月見の宴が催されました。 同院縁起書には「指月の名は、この地が、月を賞する地としては希に見る絶好の地であり、天の月、川の月、地の月、盃の月を一度んい見るところかが四月と称しましたが、 円覚経の中に指月の文字があるので指月と書くようになったといわれています」とあります。

 いろいろな古文書に登場しますが字数オーバーで秀吉登場まで省略。秀吉は豊後橋(観月橋)を架け奈良への近道をつくり、また向島に「月見の城」を築城して宴を催しました。 その城が家康の居城「二の丸」「向島城」になるんですね。それほど美しい月が見れたんです。 伏て見るともっと素晴らしく、伏見の名にも。秀吉は指下城築城のために作った宇治から続く長い堤防。 築城資材の浜を「指月の浜」で完成後はその浜に円覚寺を建立し、懇意にしていた越前の宗鶴(しゅうかく)和尚を迎え住持としました。たびたび和尚を訪ねて名月を鑑賞。 秀吉は月橋院と改称したとも縁起に述べられています。
「伏見山むかしの迹は名のみして 荒れまく惜しき代々のふる里」(貞成親王)


 
   
 伏見名水 伏見大手筋の妙見さんの井

 地元で「伏見大手筋の妙見さん」として親しまれている福昌山本教寺の井です。 大手筋のアーケード街、中間よりちょっと西寄り南の路地をツーといくとドン突きに御堂があります。 元、近衛公の堀川御殿を移築したりっぱな本堂です。その本堂右手前に地蔵堂があり、 小さな参道を挟んだ向かいに開帳講と銘打った竹で組んだ蓋がしてある井戸(写真)があります。

 妙見さんといえば日蓮宗で、六甲は能瀬の妙見さんが有名ですが、 諸派あって伏見妙見さんは上京区にある総本山本法寺の末寺。 大手筋の本教寺の開祖は日受上人。寺伝によりますと 家康第二女督姫が16歳にして池田照政の令室として姫路城に嫁がせます。 そこで督姫は自分の邸宅を伏見の日受上人に寄進し大手筋の小さな寺院に移築したのです。 督姫は伏見城で幼少の頃から秀吉の寵愛を受けていたんです、 そして信頼熱い姫路の池田の令室に推挙し、自ら媒酌しました。

 ところで井戸ですが今は写真の井戸一つですが、戦前までは寺院専用の井戸があったはずです。 坊守(住職の奥方。最近は尼寺でなくても、普通のお寺が跡継ぎがいなくて女性の住職が増えています)のお話では、 他の寺社や民家の井戸と同じく、水道が引かれてからは専ら水道水。 しかも地下水が下がって干し上がってしまって埋めたてられたのがたくさんあります。 竹組の蓋を開けてもらうと土がどっさり上まであり、井戸は外見だけ。 坊守さんに「水が出なくても残しておかはったらったら良かったに。 はまったら危ないけど」、「そうですねん、いまさら掘り返すこと難しいし、残念に思っています」と、会話が弾みました。

 もう一つ。ここには伏見城内から督姫が移植し自分の手で植えた牡丹の花が毎年4月中旬頃、 それはそれは見事な花を咲かせます。1600年前の慶長時代から毎年咲いているので「慶長牡丹の寺」とも呼ばれています。 伏見城から移築された建物は各地にありますが、今日まで400年以上も連綿と命を繋いでいるのはすごいと思います。 最後に当寺院の本尊妙見大菩薩をお詣りしますと20項目の功徳がありますので、 4月中頃に大手筋にこられた折りにはちょっとお立ち寄り下さいね。
牡丹は4月号にその写真を載せたいと思っています。

 次回は伏見のごく普通の民家の井を訪ねましたの・・・。
余話でご無沙汰しています小町さんも登場予定です。おたのしみに。
皆様方には年末、御自愛してただき、良き新年をお迎え下さい。(by Nakano)


   
 伏見名水 油懸地蔵の井(あぶらかけじぞうのい)

 今回は地元では有名な油懸(油掛とも)地蔵尊にある手水鉢です。大手筋の一筋南の油掛通りにあります。 昔はちゃんとした井戸だったんですが今は写真のように水道(京都市水道局の説明では京都市の水道水は綺麗で美味しく缶入りで非常水としても出荷されているとか。 筆者も蹴上げ浄水場で缶入りを飲みましたがとても美味しかったで何個か貰った)

 さて、油懸地蔵は浄土宗の西岸寺(1590年=秀吉が小田原征伐し北条氏滅亡した年に創建) の境内入ったすぐの御堂に安置されており、今も近隣の人達が毎日お詣りしています。 謂われは、なんでも乙訓郡山崎の油商人が当寺門前で担いでいた油桶ごと転んで油が流れちゃった。 桶にちょっと残った油を地蔵さんの頭に懸けて立ち去ったんです。でもその後、商運に恵まれ大金持ちになったとか。

 それを聞いた人達が、自分も金持ちに(今はいろいろな願い事でもOKで成就するそうな)と地蔵さんに油を注ぐようになったとのこと。 石造りのこの地蔵は鎌倉時代の作で、1.27mの立ち姿が浮き出るように彫刻され、 銘文も刻まれているらしいですが、なにぶん長年の油が2㎝も真っ黒のテカテカにへばりついて読めません。 ところで、俳諧の芭蕉さんが当寺院3世住職を訪ねた折りに一句詠みました。

   我衣(わがきぬ)にふしみの桃の雫(しずく)せよ

 さて、油懸地蔵は嵯峨天竜寺油掛町、大阪中央区南船場、奈良古市町や明石の船上町他にもあります。 南船場の油掛地蔵さんは「遊女が折檻で油をかけられるのを地蔵さんが身代わりになった」とかそれぞれ謂われは違いますが、 何百年もの信仰ってすごいですね。筆者も一願い(「オータム宝くじ1等あたりますように」)しておきましたが。
余話=小町さんのお話は一休みです。


   
 伏見名水 小町百歳の井

 今回は伏見区から東山区にちょっと入ったところの井です。 ずいぶん前に醍醐随心院の「小町化粧の井」と東福寺の塔頭の一つである退耕院にある小町ゆかりの玉(たま)章(ずさ)地蔵を少し紹介しました。 今回はこの退耕庵の小町の井を再度訪ねたのです。写真が「小町百歳の井」です。

 後期高齢になった小町さん、やはり自分の美貌を保つために相当苦心していたようです。 今なら牛乳風呂に浸り、毎日高麗人参を食し、肌の手入れは様々な薬草や純正オイルなどで肌は二十歳前後かテカテカであったでしょうね。 でもね、いくら色事に邁進してきた小町さんですが、百歳を迎えるとね。 玉章地蔵の御堂内の説明書には「この井戸の水鏡にうつったおのが姿をみて小町の詠んだ歌は 『おもかげのかはらでとしのつもれしか たとえこの身に限りあるとも』」と書かれています。

 その井戸は退耕庵の門をくぐるとすぐ右手に玉章地蔵尊の御堂があり、その前にあります。 井戸の左手の石碑には「小町百才の井戸」と刻んであり元禄時代のものとか。地蔵御堂内には高さ七尺(約2㍍強)もある大きな地蔵さんです。 なんでも小町さんが土をこねて造ったと言われています。真っ白な化粧がほどこされお顔に彩色豊かな唇とお目にふっくらとしたふくよかな地蔵さんです。 この地蔵さんの体内に、世の浮気男の心を濃蘭し、遠近より送られてきた艶書(ラブレター)が読まれずぎっしり詰められていたんです。 老後の小町さんが「愛執の罪を滅する様にとのこの像を建て艶書を腹中に修めた」ので玉章地蔵。別名「ふみはり地蔵」とも言われ除災与楽の信仰をあつめたとか。 ところが秀吉時代に噂を聞いた愚か者が地蔵さんのお腹の後ろの穴をバリッと破った。「ウワッ!」と・・・。

 (字数オーバーで機会があればお話ししましょう。退耕庵は三成らが関ヶ原の謀議を錬った寺院であり鳥羽伏見の戦いでは長州藩の殉職者の菩提所に。 2つの見事な庭園もある由緒ある寺院です。)
注=玉章(玉梓=元はタマアズサ:玉は美称)とは郵便制度などない平安時代、 恋文などは使者に届ける相手方の門前などに植えられている梓(あずさ)の樹の枝に黙って手紙を結びつけて届けていた。
【前回の続きの余話】


   
 伏見名水 菊水~閼伽井(Kikusui→Akai)

 伏見名水シリーズの初めの方で紹介した伏見城南宮の「菊水」。 この水、水源は遠く若狭の国から潜り、この鳥羽離宮城南宮を経由して奈良二月堂のお水とりに通じていると説明していました。 そこで先日、東大寺、春日大社近隣を探訪したついでに二月堂に立ち寄りました。 国宝二月堂本堂に通じる石段の下に写真の「閼伽井屋」(重要文化財)を偵察してきました。 井戸のための建物では破格ですね(アポしてないので入らず) 。

 鎌倉時代の初期に建てられた閼伽井屋は「3月12日にこの屋内にある井戸より本尊十一面観音菩薩にお供えする御香水(おこうずい)を汲む儀式を行うところです。 この儀式は修二会(しゅにえ)といいますが、よく知られている奈良のお水取りです(今年1264回で一度も絶えていません)。 「天平勝宝四年(752年)、最初の修二会で諸神を勧進した際に、若狭国の遠敷明神が献じたものから「若狭(わかさ)井(い)」とも呼ぶ」と説明されています。 隣の小さな祠が興(こう)成(じょう)神社(じんじゃ)は遠敷明神が若狭より送水された折り、黒と白の2羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出たところから、 甘泉湧出したのが若狭井でなんです。城南宮の菊水でも最後に「地質学的裏付けは何もありませんが」としましたが、なんとロマンチックなお話でしょうか。
 3月12日深夜(13日午前2時頃)のお水取りと「お松明」、みなさんと一度行きたいですね。

【余話】お待たせしました「小野小町」でございます。いくら創作といっても、秀吉や龍馬の恋人であったとかは書けないでしょう。 やっぱり調べないと。図書館で小町関係の本十数冊を探し出しての創作であります。 広辞苑や百科事典、人名辞典ほかどんな本も、文末にすべて「・・と伝えている」とか「云われている」とありますので。そのつもりでお読み下さい。

 小町と同時代の在原業平(ありわらのなりひら)との新伝説。ご存じ業平は容姿端麗、放縦不羈、情熱的で和歌の名手と色好みの典型的プレイボーイで、 その対局、女性側が小町。小町さんで、ものすごく釣り合いがとれていますね(彼女の方が有名ですけど)。 1200年の間ズーと妖しげな噂は絶えませんが。業平出家し陸奥国旅途上、「夜な夜なあなめあなめ」とすすり泣く声ありと聞きし、行ってみるとなんと変わり果てた小町の髑髏。 しかもその目からはススキが延びていたんです。業平おもわず噎び泣き、屍骸を弔ったのです。さて、業平のお父さんは平安時代初代桓武天皇の孫である阿保親王の子と云う。

 平安遷都前後は最高権力層でも陰謀、策略と複雑で油断ならない時代であったのです。だから余計に男女関係も妖しさも増幅されます。 ところで小町さんのやんごとなきロマンは、安倍清行や僧正遍昭などもご登場します。まずは遍昭さんとのロマンを、有名な贈答歌を紹介しておきましょう。

 「岩の上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我に貸さなむ」(小町)と送れば「世にそむく苔の衣はただ一重貸さねばうとしいざ二人寝む」(遍昭)と返歌 (注釈=大和国は石上寺にて出家した遍昭が修行中。遍昭がここに居ることを知っている小町さん一宿します。その夜、「冷たい岩に上で旅寝しとても寒くてかないません。 どうかあなたの衣を貸して頂けませんか」と、遍昭に挑発的な歌を贈るんです。遍昭は、「持っている衣は一枚しかないのです。 仕方ないのでこの一枚の衣を二人で被って、さぁ一緒に寝ましょうよ」とね。結末は・・・です。 アッ、字数オーバーになりました。ふれあいニュースデスクの怒る顔がかすめますので、業平さんを書く予定してたのに次回に・・・。
(いつも中途半端でごめんなさい)
(『小町伝説の誕生』『日本尾作家5巻』『小野小町追跡』他参照しました)


   
 伏見の名水(番外編) 霊泉「亀の井(かめのい)」の巻

  桂川右岸に鎮座する松尾大社(通称「松尾さん」)を散策。
参道の大きな鳥居から桜門を潜って本殿右手の庭園の入り口を素通りして、人影もまばらなお山の小径に行きますと正面に「霊亀の滝」(縦長の写真)と 手前に「亀の井」(写真)があります。 社殿のバックのお山は松尾山(別雷山(わけいかづちのやま))で7つの谷があってその一つが渓流御手洗川の霊亀の滝で約10m程の高さで荘厳です。 その手前に亀の井。亀さんのお口から切れ目なく四六時中地下水が湧き出ている神泉です。延命長寿、よみがえりの水としても飲まれています。

さて、ご存じ松尾大社はお酒の神さまで伏見の酒造との縁も深く、たくさんの伏見酒造会社の菰(こも)酒樽が神御庫前に奉納され並べられています。 Q.当社の起源は。A.なんでも京都最古のお宮さんで太古の土民が生活守護神としたのが起源。 ところが5世紀頃から朝鮮から渡来した秦一族が定住し山城から丹後一帯を高度な技術を使って河川、農林業、家屋や酒造りなど開拓し定住(伏見稲荷大社も同じ起源ですね)。 その秦一族の総氏族神としたのです。長岡京や平安京への遷都にも秦一族の財力と政治的影響があったのです。 皇室の崇敬のきわめて厚く全国十数カ所の荘園、江戸期には1200石と嵐山一帯の山林を有していました。

 ところで、伏見の酒造は伏見の酒造に適した地下水(今はかなり深くポンプで汲み上げています)が使われていますが、 この亀の井の霊泉が京都中の酒造りの元水として造り水に混和しているのです(伏見酒造会社の菰樽が毎年奉納されているので現在も極少量使われているのかもしれませんね。 大きな鳥居の左の建物はお酒の資料館で、中書島にある伏見大蔵資料館のような展示がされています)。4月号がお手元に届く頃、松尾大社には黄色い山吹がいっぱい咲いています。

 追記:①滝の右手のでっかい山にビックリするような巨大な岩石が見えます。これが古代の磐座(いわくら)で、社殿祭祀以前に神を祀っていた所でいわれています。
②神社仏閣を参拝するときは本殿や本堂だけでなくぐるりをちょっと散策すればいっぱい宝物があります。
御香宮本殿の裏には常磐御前ゆかりの祠や石橋や御香水の井や伏見城残石などもあるんです。
③ユニオンのみなさんと行きたいですね。近くは美味しいレストランもあるし、嵐山や桂川土手でお弁当を食べても良いし。

 【余話】井のお話がながくなったので、予告しました小野小町さんのお話はもうしわけありませんがまた次回に。 伏見六地蔵や東山六道珍皇寺に縁が深い小野篁(冥界をさまよった文武誉れ高い人物)の娘といわれている小町さん(知性教養抜群で六歌仙の一人で世界三大の柔軟艶絶世の美女の一人とか)。 東北地で誕生したのでしょうか?そのあたりの伝説と創作を交えてのお話であります。

   
 伏見の名水 「三寶寺の井」の巻

 大手筋と風呂屋町納屋町の交差点から北に入ったところに小綺麗な浄土宗知恩院派の三寶寺があります。
 門から入ってりっぱな本堂手前の参道右手脇に井戸があります(写真)。 当寺院は秀吉が1855年(天正13年)に関白になってから5年後、一蓮社圓誉暫公上人が下総(現千葉県北部)の寺から仏像を背負ってはるばるこの伏見たどり着いて、 寺田屋あたりの寓居で布教をはじめたのがことの起こりと伝えます。 その後、大阪夏の陣の陣(1615年)の年に風呂屋町の現在地に移り御堂が建てられました。

 江戸末期から明治維新にかけてこの伏見は戦乱まっただ中でした。 幕府軍と薩長軍との激突した鳥羽伏見の戦いの時。1868年(慶応4年)1月4日午前4時に鳥取藩兵280名が当寺院に到着。 2時間後に黒門(三栖)まで行軍し幕府軍と戦闘。この鳥取藩の行動をみて多くの藩が官軍側に付いたらしい。 その後、鳥取藩は各地を転戦し戊辰戦争後、朝廷から多額の賞典授与したと言われています。

 鳥羽伏見の戦いの時、伏見界隈の寺院や大きな神社は両軍陣営が置かれ戦争に巻き込まれていくんですね。 徳川家に厚遇された御香宮のように官軍側に付いたところは論功で繁栄したが、幕府軍側は寺社だけでなく兵士たちも無惨。 屍も野積みになって各所で地元民の手で葬られたんですね。その一つに淀競馬場の西の方に幕府軍兵士の慰霊碑があります。 戦争は結局は兵士、町衆など名も無き人達の膨大な犠牲があるんです。古代からなんども繰り返してやっと70年前の世界に誇る憲法です。 ほんと大切にしないとと思います。

 さて、主題の名水ですが、写真のように、井戸に蓋がされてゴチャゴチャしていますが400年の風格はありますね。 住職ご夫婦からいろいろと歴史的なお話しを聞きました。「若いとき清水がコンコンと湧き出でてスイカなど冷やしての思い出しますね。 いつごろから、すっかり干しあがってしまいました」とも。
 筆者の中学生ごろは近所の井戸はすべて冷たい清水が湧いていました。水道が引かれる以前の寺社には必ず井戸があったのです。

【余話】
 次回は小野小町さんのお話をしますと予告していましたね。小野小町の生没年や経歴などは不詳です。だから、さまざまな伝説がいっぱいあります。 共通点は絶世の柔軟艶麗の美人で教養はピカ一。六歌仙の一人で超々一級。「花の色は移りにけりないたづらに 我身世にふるながめせしまに」(百人一首)と。 六地蔵から東に行った小野誕生院(名水で紹介済)や小野郷や随心院(紹介済)辺りと東福寺塔頭(紹介済)にも小町嬢の伝説いっぱい。 でも彼女の父さんは出羽(秋田・山形)郡司であったので生まれも出羽でしょうね。だから東北には京都以上に彼女の伝説や遺跡(?)がたくさんある。 彼女のお爺さんがまたスゴイ人物で、冥界と往復した小野篁(たかむら)で名水で登場(六道珍皇寺冥界の井や六地蔵の井)しています。

 今回、小町嬢と篁の新設伝説を執筆にあたり、あらためて篁(弓馬の名手で歌人:文筆家)と小町嬢の資料をいっぱい集め目下読破中。 多分おもしろいお話ができると思います。次号(4月号)をお楽しみに(前回も同じこと言うとった、ホンマかいな?)。

   
 伏見の名水 茶碗子の井(Chywanko no i)の巻

  かなり前に掲載した「茶碗子の井」の再登場です。写真を見てください。 右側が以前ご案内した茶碗子の井が左のように全く装いを変えたりっぱな茶碗子の井になりました。 前の案内には、「写真のように地蔵堂の隣にゴツイ鉄のフタが被せてあって風情も何もあったもんではありません(鍵までしてある)」と書いていたんです。 近所の方にも「もうちょっと何とか工夫できたらなぁ」と会話してたのを思い出しました。 このホームページ「伏見名水探訪」は全国発信されてどなたかが見られたのか、寄付金を集めて新装されたとのこと。 水も湧き出るりっぱな井戸と地蔵堂さん、かなり経費がかかったと思います。まことにありがたく嬉しいしだいです。

 さて、この茶碗子の井の場所は北深草、JRの線路東にあります。 この場所、昔は有名な画家伊藤若沖の五百羅漢石像がある宇治黄檗山石峰寺(若沖のお墓もあります)境内だったんです。  ところで、茶碗子の井のお話ですが概略お話しておきましょう。 昔、京の都の身分の高い貴族や僧や茶人達は、召使い達にわざわざ宇治川大橋まで水汲みに行かしてたんです。 ある茶人の小僧が宇治空の帰り、石峰境内で水桶もろとも転げたんです。こまった小僧は、近くにあった井戸水を桶に汲み持ち帰った。 それとも知らず主人はお茶を点てる。こっぴどく叱らるものと思って小僧は追放覚悟で事実を話した。 ところが、主人はニコニコ顔で「今日のお茶は特別に美味しかった。これからは石峰寺の井戸水を汲んでこい」とご機嫌。 この話しが街中に伝わり、召使い達は遠い宇治でなく石峰寺の茶碗子の水を汲んだとか。

 写真のバックの白壁にある小さな4つの四角(深草で採れる装飾京瓦土の焼き物)は京を守る玄武・青龍・白虎・朱雀をあらわし、 左の石の歌碑には藤原俊成が詠んだ深草の歌。井戸の後ろには子どもたちが作ったお地蔵さまがいっぱい、井戸の左横のポンプは手で汲み上げられますが飲料は不可。井戸の井筒竹蓋を開けると清水がこんこんと。右のお堂内には四体の地蔵さん。内壁面には広大な宇宙を描いた絵、扉は洗い場の野菜籠のイメージの篭目格子戸、そして全面に敷かれている敷石(鉄平石)の裏面には子どもたちの署名がと・・まぁ様々な工夫が施された真新しい茶碗子の井でした。 余話=①今年3月に伏見の昔話を掘りおこす会が『伏見の水のお話』という絵本を発行しました。そこに茶碗子の水が掲載されています。 ②ところで小町さん暫くご無沙汰していますね。次回は小町嬢が登場予定です。

   
 伏見の名水(番外編)明王院の井(Myooin)の巻

 最近番外が増えていますが、伏見の名水が減ったのではありません。 面白い、新発見とかの井を見つけてもしまっておくのも勿体ないとの思いです(次号は地元伏見で新装なった深草は茶碗子の井)。

 さて、写真の井は細い塩ビの筒からチョロチョロと手水に流れる清水?(飲料後の保障は自己責任)は河原町松原付近に鎮座する真言宗東寺派の明王院不動寺の境内にある井です。

 平安京(794年遷都より百年昔からある古いお寺で691年に創設。後に弘法大師が自作の石仏不動明王を当寺に安置しましたが、 天暦年間(947~957年)鴨川の大氾濫で流没。 比叡山が再建したけれど、が応仁の乱で荒廃し石仏も灰燼に埋もれたまんま。 天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉が聚楽第を造営した時に、荒廃した当寺院の苔むした不動明王を発掘して聚楽第に移したところ、 ボヤボヤ怪しげな光(青色ダイオードか?)を放ったので、秀吉霊感を感じ、再建したとか。この井の聖水は飲めるどうかは保障なし。

 新発見のお話2つ。その1。実は当松原通りは何を隠そう平安京の五条大路で、幅も24㍍もあったんです。 二条・三条・四条間は短くて、四条から五条はちょっと長いですよね。源氏物語に描かれている源氏と夕顔との出会いはここ五条大路で京の下町っぽいところ。 あの弁慶と牛若丸が出会ってチャンバラした橋も今の松原橋(当時は五条大橋)なんです。そして、清水寺参道の道でもあり、平家の一門の屋敷が建ち並ぶ六波羅の地も。 鴨川中州には大黒堂もありました。では、どうして五条大路が松原通りの名前に変わったのでしょうか?
  箇条的に言えば、
①室町末期荒廃した五条室町に歌人藤原俊成屋敷跡に玉津島神社が建てられ
②その境内の松林が美しく、
③やがて五条松原と言われるようになり、
④やがて地元の町衆は五条を取って簡潔に松原と短縮して呼ぶようになったのです。

  新発見、その2。八坂神社と伏見稲荷大社との氏子の縄張り境界線がこの旧五条通りなんです。 写真は稲荷の御輿と祇園鉾の巡行の写真で、どちらもこの松原通りを巡行していたんですね。 だから他の通りと違ってこの松原通り(旧五条通りにはたくさんの史跡があるんですよ。 ふれあいユニオンでご案内したいですね。伏見の戦争遺跡もしたいですね。稲荷七面山あたりもいいね。 中書島界隈や城南宮界隈や巨椋干拓田(京都最大の圃場)に淀方面もね。いずれも半日コースだよ。



   
 伏見の名水 日野かやお井

 伏見の日野の里山に鎮座する萱尾(かやお)神社を探訪しました。日野は日野一族の領地で儒学や歌道など学識高い家柄でした。 写真は本殿手前にある清水が湧く井です。このお宮さんは日野の産土神として崇敬を集め、かつ真言宗醍醐派の法界寺の東北(鬼門)に位置し、同寺院の鎮守社となっています。 創建はかなり古く飛鳥時代(西暦655年頃)に遡ると伝えます。現在の本殿は1652年(関ヶ原合戦から半世紀後の慶安5年)に 再建され何回も修理・補修しながら、1985年(昭和60年)に京都市指定有形文化財に指定されるなど、極彩色の色彩装飾のりっぱな本殿です。

 さて、法界寺(1051年に日野資業が創建: 建造物や仏像など国宝と重要文化財多数:裸祭は有名)のいえばかなり前にこの「伏見の名水」紹で介した親鸞誕生の寺院で境内に 産湯の井があります(日野誕生院あり)。また、同神社の前の小径を徒歩で10分ほど登っていくと、鴨長明の方丈跡があります。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水あらず」で始まる「方丈記」はあまりにも有名です。筆者も尊敬する人物の一人です。 悲劇的な青春時代、1185年(元暦2年)の大地震や大火災など京の都はすべて破壊され尽くし、庶民は奈落の底。鴨川には屍累々、 東山山中からは煙も絶えずという時代を生き抜いた長明。けっして世捨て人、隠棲生活者ではありません。むしろ逆に現実を直視し庶民の暮らしを気遣った人物であります。 余裕があれば今一度「方丈記」お読み下さいね。 

  かやお井は清水で、一昔なら飲んでもよかったですが今は、ちょっとと思いますので。 ところで井戸など地下水を汲み上げて下水に流すと京都市では下水道使用料がいりますとの張り紙がこの井戸の柱にぶら下げてあります。 こんな張り紙はじめてでびっくり。でもね、酒造会社や機械工場など大量に地下水を汲み上げ大量に下水に流しておればと思いますが。 家庭や寺社で喉を潤したり、手や体の禊(みそぎ)に使って流すぐらいならと思いますがいかがでしょうか。 だいたい水道(下水道)料金が高すぎると思いませんか(筆者宅は節水に節水を重ねているけど2ヶ月分平均約2万円:電気代は1月分平均9500円)。 「水はタダではありませんよ」とか「ゴミはタダではありませんよ」とか、お役人の声が聞こえてきそうですね。


   
 伏見の名水(番外編) 桐原水[Kirihara]の巻

   何となく美しい名前の「桐原水」。場所は宇治は世界文化遺産登録されている宇治上神社境内の国宝拝殿の右手に写真のような大きな祠があります。 石段をとんとんと降りると、室内に四角い霊験あらたかな池が。その池の底からコンコンと清水が湧いているんです。感激!! 宇治はお茶の名産地で、 お茶には水が付きものですね。沢山の井戸があったのですが中でも、宇治7名水(公文水・法華水・阿弥陀水・百夜月井・泉殿・高浄水と桐原水) はお茶にピッタリの名水だったのですが、都市化が進んで埋めたてられたりて、今は標識しかありません。ただ唯一、ここ桐原水のみが残されていて、 昔の清水が今なお湧き出でています。

 ところで宇治茶にもいろいろあって中でも「宇治七名園」と呼ばれる茶畑が有名です。昔の祝・川下・宇文字・森・奥の山・枇杷・朝日の七つの茶畑です。
茶は、僧栄西(比叡山に学び中国留学。帰国後博多に聖福寺、京に建仁寺を建立。著作多数で『喫茶養生記』も著した)50歳の時(1191年)に中国から茶種を持ち帰って、 各地に栽培され広がりました。

(余話)お茶には水が大事。かなり前の「伏見名水シリーズ」で深草の茶碗子水を紹介しましたね。 京の寺社や宮中でのお茶の水の一級品は伏見でもなくて宇治だったのです。まだ小さい召使いの子どもが遠い宇治を往復していたんですね。 しかも重たい水ですよ。アフリカやアジア諸国では、今も水を求めて子供たちが水瓶を頭に載せて運んでいる写真などよく見ますね。 筆者もなけなしの年金からほんおチョッピリですがユニセフを通じて井戸づくりなどに送金(確定申告控除適用)してます。 お茶についてのお話もいっぱいあるんですが、またいつかその機会があれば。

追加=桐原水ですが祠に入り口に「御手を清めてご参拝下さい。生水はお飲みいただけません。」との張り紙がしてあ ります。
 (次号は伏見小野の井です) 
 
   
 伏見名水(番外編)
 

水田

日の出のアンコールワット

農家の家と大瓶

ベンメリア遺跡
 大分前に中国は長安(現西安)にある玄宗の妃である楊貴妃の150坪もあるお風呂の名水を番外編でご紹介したのを覚えておられますか? 今回は2回目の番外海外編でカンボジアです。

 首都のプノンペンから北西に160㎞離れたトレサップ湖の北にあるシェムリアップの東にある広大な世界遺産アンコールワット遺跡群です。 そのアンコールワットから60㎞離れたジャングルに忽然と現れるのがベン・メリアでここは発見された当時のまま残す巨大な遺跡です。 つい最近道路が貫通したところで、バイクでもなかなか行けなかったのです。
ガジュマロの大木が砂岩の壁や建造物に絡みつきすき間に入り込んで崩壊させている巨大遺跡の探検です。

 水の話しですね。シェルリアップ空港から赤土色の道を高速で左右上下に激しく揺れながら土埃をモウモウと上げて高速で突っ走ること2時間。 その路の両側には田園や密林が。そして農家が点在しています。立ち往生するときに農家をみると(写真)大きな壺が。 その傍に手でくみ上げる井戸があります。水瓶にいっぱい溜めて、濁りを取り沸騰させるのでしょうか。時間がなく取材がほとんど出来なかった。

 さて、6ヶ月間の雨期になると時には床下1㍍ほどに水位が上がるので大変です。一昨年は大洪水(というより琵琶湖よりでっかい湖に)で日系工場も2ヶ月以上浸かった。 雨期と乾期が半年ずつはっきりしてる。写真は3月下旬で、もう35度ぐらいの真夏で写真水田は3毛作の田圃。

 ところで遺跡近くの子どもは早朝から観光客目当てに絵はがき売り、女性は襟巻きのような布売りです。小学校が不足して午前と午後の2部制。 ハダシで売りつけている子どもに、「今日は学校行った?」と質問したら、どの子も「昼から行くよ」との返事ですが、学校に行けない子どもも結構いるようです。

 インドシナ半島と一口にいいますがベトナム・カンボジア・ラオス・タイと長いフランスの植民地や解放後のアメリカの言葉に絶するジェノサイド攻撃などで 政治や経済は根底から破壊され、おまけに民族間の対立はほんとに厳しいですね。
 長い文章になりました。ラオスやミャンマーにも行きますので、またいつか番外編を楽しみにしてくださいね。

 
   
 伏見の名水 常磐井
    弁天社の池にかかる石橋
 写真は御香宮本殿に左奥にある弁天社の池にかかる石橋です。 この石橋こそ、かの有名な常磐御前ゆかりの井の井形石を移設した由緒あるものなんです。 世にもまれな美しき常磐(名前の後ろに尊敬称として御前を付けます。 女性に限りません)は源義朝の妻で今若(阿野全成り)・乙若(義円、愛智円成り)・牛若(義経)の母ですね。時は平安末期で古代社会から封建社会に移る激動期。

  さて常磐は、もとは近衛天皇の皇后九条院の雑仕で、義朝に嫁ぎ一時幸せな生活でしたが夫義朝の死後は波瀾万丈の悲運の人生。 平治の乱で夫死して大和に子連れでのがれし途上、大和街道は伏見地区労事務所の東から、御香宮南を通過して、 現在のR24号線観月橋100mほど北附近の常盤町(この町名はまさに常磐からです。一説に彼女はここに住んでいたとかとも)を通ったんです。 常盤町あたりに井戸があってコンコンと湧出る清水の井があった。ここで子らと休息して喉を潤すんです。ホットしたんでしょうね。 こんな身近なところを常磐や幼い牛若丸が通ったんですね。

 その後この井は石筒を残しだけになりましたが由緒ある井のこと昭和初期に御香宮の弁天社の石橋として転用されたんです。 御香宮に行かれたときは観てくださいね。本殿横や裏手の社はすべて由緒あるいわれをもった社で他から移されてきたんです。 さて、大和街道は観月橋手前を左の折れて六地蔵から宇治を経由して大和の続きます。3人の子らも元気出しててくてくと大和まで歩いたんですね。

 ところが、京の常磐の母が捕らえれ、これを聞いて子連れで京に戻る途中、 今の労働監督署あたりで平家の雑兵に捕まってしますのです(今この地点に「常磐就捕処(ときわしゅほのところ)」 と刻まれた石碑(写真B)が建っていますので近くによられたら観てください。捕らえられた御前は、五条東山の六波羅(平家本拠地)に送られました。 御前は必死になって三人の子どもの命乞い。そのために平らの清盛になびき・・・。しかし結局は子どもたちと引き裂かれて藤原長成に再嫁。 まぁ、高貴なお方の人生もいろいろですね。源氏物語にも妬み、意地悪、横恋慕に権力欲などいろいろありますね。 庶民は日々の生活に追われていても幸せな家庭だったのかな?(でも庶民もいろいろ)。いろいろでも4月の知事選にはみなさん力を合わせて敵陣に激突しましょうね。 筆者もヨボヨボ老人ながら後衛をしっかり守りたいです。

【私蔵の京都府紀伊郡役所発行『京都府紀伊郡誌』ほか多数参考にしました】
(2014.2 by.Nakano)

 
   
 伏見の名水 アラゴンの泉の巻

 桃山明治天皇陵近くにある京都橘中学・高校にある「アラゴンの泉」を訪ねました。 グランドに入った左手前に大きな石壁に有名なフランスの詩人ルイ・アラゴンの「学ぶとは誠実を胸に刻むこと  教えるとは共に希望を語ること」の言葉が刻んであります(写真=文字と石盤が同じ色で判別しにくいのでちょっと手を加えてあります)。 写真の下方に四角の石型が泉です。建設から4、5年は冷水がコンコンとわき出していたが、 水質保障ができなくなったのか、それとも枯れちゃったのか、水源は止められて残念ながらカラカラです。

 この丘陵地の地形図を見せてもらうと中腹には光伝寺があって、その境内には小さな池・井戸が見えます。 この池の水は有名な義経の母常磐御前が病に伏せる夫(源義朝)の回復を祈りこの寺に熱心なお百度詣りです。 ある夜中、常磐御前が寝ていると、天女が現れ、ここの井戸から冷水を汲んで授かる夢を見たんです。 さっそく井から汲んで義朝に飲ませたらたちどころに病は全快し元気になったとさ。 昔はいろいろスゴイことがあるのですね(この寺は橘高校建設でJR奈良線南に移転)。

 今のスゴイことは憲法改悪や労働者いじめかな。霊水はないし、 やっぱり団結して名医を知事に押し上げれば、みなさん幸せになるのかな・・・。 だったら何故「常磐御前の井」とせず「アラゴンの泉」の名前か? 長くなるけれど、ちょっと話をアラゴンの話を聴いてくだされ。
 歴史ある橘高校は1985年に現在地に移転するわけですが、その際、霊水たる井を泉として残すことになり、 バックの石壁にルイ・アラゴンの言葉を刻んだので「アラゴンの泉」と命名されたのです。

 情熱の詩人アラゴン(1897―1982)は1943年にドイツナチスの弾圧によってフランスの教育が破壊されようとする中で詠んだのが詩が「ストラスブール大学の歌」で、 そのワンフレーズなんです。アラゴンは1927年に共産党に入り反戦平和運動と働く人々に依拠し社会正義のために人民戦線で闘った偉人です。 幼いときは実父が認知せず複雑な家庭環境でも母の愛に包まれて・・・。第1次大戦後、恋愛が元で自殺をはかるも失敗。 ロシア生まれの女性小説家と熱烈なラブラブロマンで、生涯の伴侶に。という人物です。 そんな人物を橘の教職員のみなさんが採用し考え命名したとのお話でした。気品・教養・正義が溢れてますね。 学校名の橘という命名の謂われはまたいつか機会があればね・・・。(以上の創作は直接訪問しての聞き取りと諸文献などをベースに執筆しました)

【余話=アラゴンの名著『レ・コミュニスト』は私が一番好きなロマンロラン『魅せられたる魂』と同じく女性が主人公なんです。 二人ともヒトラーとの断固たる闘いに立ち上がるんです。小町さんのお話しまだ続くんですけど】

 
   
 伏見名水「腹帯地蔵の産湯」その2

 前回、京都五条河原町、醍醐と伏見なりの3つの腹帯地蔵さんがあります、と紹介し次回はその内の醍醐の「腹帯地蔵さんにまつわるお話を」と予告してしまったので、今回は予告通り醍醐の腹帯地蔵にまつわるお話しです。三宝院より少し下った奈良街道に面した善願寺は安産、子育てで地元の信仰を集めています。
小さな門を潜った所に左手に写真の井戸があります。住職さんご夫妻は、「もう使ってませんし、名水なんてものでないですよ」と謙遜気味のお話でしたので、敢えてお勧めはしませんし、今日の話しも水抜きです。
 この寺院、かの有名な僧行基が地蔵尊を本尊として平安京前の730頃に建立し、その後、僧源信が女性の安産のために丈六の巨大な蔵尊(腹帯地蔵=京で一番大きい:重要文化財指定)を造ったんです。
 その後、あの有名な平清盛の5男重衝(しげひら)誕生の時に安産祈願してお堂が建立されたと伝えます。その重衝の妻佐の局(藤原輔子:安徳天皇の乳母)は寺院の近くに住まいし、子授かりを祈願。無事成就します(子どもは生まれなかったとの有力説あり)。この時の産湯にこの井戸水を使ったのかな?(今日のタイトルにこじつけで、多分NOでしょう)。ところで重衝、南都の東大寺や興福寺など焼き払い多数殺害し平家の権威をしめしたが「驕れる人も久しからず(平家物語書出し)」、1184年の一ケ谷の戦いで敗北。須磨の浦で捕縄され鎌倉に護送。恨みを懐く南都の僧衆徒たちが奈良に送ってほしいと請願。鎌倉から東海道、京醍醐街道に入って奈良へ護送途中の木津川ので河川敷で斬首に(今の泉大橋辺りで石碑あり)。享年29歳。輔子は悲しみにくれ遺体を持ち帰り、日野の法界寺で荼毘し高野山に髑髏を納め、遺体は善願寺北に重衝の墓を造る(現存してます)。 《余話》この寺から、少し南下したところに合場という地名あり(バス停も合場川)。それはそれは悲しいお話。重衝護送は逢坂の関を少し下った追分けから醍醐街道に分岐(碑あり)。そして、随心院、三宝院前を通過して善願寺前を護送籠通過。この時、街道の傍らに肩を震わす女性がひざまずいていたんです。輔子です。その場所は琴引山。護送兵長は気を利かして温情。二人は竹籠に擦り寄って熱き悲しい僅かの時間再会。そして、輔子は泣き崩れるも籠は再び出立。最後の哀別したとこころからの名前(醍醐合場町)。ちなみに輔子は出家し大原寂光院の建礼門院(高倉天皇の皇后:平徳子。この女性もいろいろあるんですが字数オーバーでまたの機会に)の侍従に。【毎度、お読み頂き感謝。ご感想や要望などお寄せくださいね。by.nakano】 

 
   
 伏見名水の旅 「深草山大雲寺の井の巻」

 伏見稲荷大社から少し南に重要文化財も有する宝塔寺の塔頭の一、深草山大雲寺(現在は日蓮宗)があります。重要文化財の四脚門(総門)から本堂までの参道左右に塔頭が並んでいますが、一番最初の塔頭です。なんでもかなり古くからある寺院でしたが法華一揆(天文5年=1536年、日蓮宗信者町衆の一揆で、浄土真宗の一向一揆とも一戦を交え一時は都を闊歩する勢いであった)で大伽藍ともども全山焼失(ああ、もったいない。イスラムがバーミヤンの大石佛破壊といっしょですね)。その後、18歳の若き日銀上人が深草に入山し日夜読経をつづけ再興を祈願したことろ、秀吉の家臣伏見普請奉行平野権兵衛の尽力で再建。以来400有余年を経て今日にいたります。

 さて名水ですが、住職の案内で庫裡から細い階段を下った所狭しの井戸で丸い鉄板(写真)で蓋してあった。ごちゃごちゃしちょっと無粋な感じで蓋も開けられません。だから井の清水は直接見れません。和尚さんは、「「この井戸水は深草山(稲荷山)からの伏流水でコンコンと湧いておりますが、今はポンプで高いところまで水揚げしています。井戸水は水質検査に合格し飲めますよ。けれど日常使う水は、水道局の勧めで水道水を主に使っていますけど・・・」とのお話でした。このお寺、表門を潜って中門からはキレイに掃き掃除された参道に添って七重塔と位牌堂があり、その足下には一群のムラサキの桔梗がキレイに咲いていました。そして境内には客殿、宝珠庵、書院などの建造物や大きな五輪塔などもあります。いちど稲荷大社に南面する深草の数々の滝を探訪し、旧街道沿いに並ぶ有名な寺院巡り、そして威風堂々たる煉瓦造りの聖母女学院本館(旧陸軍司令部)のすごい 内部もご案内したいですね。昼食は近くの料理屋に予約して美味しい1000円定食をお喋りしながらみんなで頂けたら最高ですね。秋の空の元で企画してくださいね、いつでもご案内いたします。もちろん伏見の名水で以前紹介した「茶碗子の井」など4つほどもご案内もいたします。

<お詫び=①稲荷の腹帯地蔵尊の井を紹介する予定でしたが、いくら探せどもまた地蔵尊の若い住職内儀に聞けども井はないとのことでした。小さな寺院でも井戸は必ずあるはずですが先々代ごろに埋めてしまったのでしょうね。ということで腹帯地蔵尊にまつわるおもしろいお話はいつか機会があればネ。②伝説は次回をお楽しみにしてください>
 
 
 
伏見名水「一言寺の井と蛙」その2

<今回は「一言寺の井」の余話オンリーです>

 醍醐の一言寺境内の井に二百年も住みつづけている蛙こそが真阿(しんな)尼僧の化身なのです。前回お話しましたように真阿は建礼門院に仕えた少納言通憲の娘で、故有って仏門に入り、清水寺にて観音さまのお告げで一言寺を建立したとお話しましたね。200年後の今、若者が井の竹覆いをはずすとそこに青蛙がちょこんと座ってこちらを見つめています。それを見た若者(名前は誠太郎)は腰を抜かさんばかりにビックリ。というのは若者には青蛙ではなく、うら若い女人がそこの座っているように見えたんですもの。それはそれは美しい女人で、笑みを浮かべて誠太郎を見つめています。その後の事は省略して、可愛い子ども二人と幸せな毎日を送るんです。自称ルポライターの若者はいずれの出版社や新聞社にも属さずいわばフリー。売れっ子だと原稿料がたっぷり入るが、原稿を持ち込むが採用はほんの少しで、4人家族が暮らすには程遠いさま。真阿の献身的な働きが(近くのコンビニのパートに勤め信頼もあり時給もほんの少し上積みされていた)あってなんとか暮らすことが出来たのです。ところが、真阿は毎年、厳冬や真夏の日照りがつづく季節になると精気がなくなり床に伏せる日々がつづくのです。誠太郎は真阿と子ども二人を愛しく思って身を粉にして尽くします。そんな幸せな日々がつづいたある日、子どもたちが遊んでいる池のほとりの物干し竿に誠太郎が洗濯物を干していたときです。大きな蛇があらわれ、まさに子どもを飲み込もうとしているではありませんか。危機を感じたは誠太郎大きな蛇の前に立ちふさがります。誠太郎にすれば大きいといっても長さは1メートルほどの蛇てあり棒切れで突けば逃げると思った。しかし、術を掛けられたのか誠太郎は足がすくみ体も硬直して手も足も動かない。そうなんです、若者は小さな蛙になっているんです。子どもの声を聞いた真阿が駆けつけ、大きな声で一言「観音さま、子どもを助けて!」と叫んだのです。蛇は子どもは諦めたが大きな口を空けた蛇は蛙の誠太郎を飲み込み、林の中に逃げ込んでいったのです。それ以来、一言寺の池の畔にすむ3匹の蛙たちは見かけるものの、若者を見かけた人は誰もおらなかったとか。
(次回は伏見街道は直違橋11丁目「攝取院の井・腹帯地蔵尊」の巻です)

 
   
 伏見名水「一言寺の井と蛙」訂正版

 伏見は醍醐の一言寺本堂前にある井戸(今は写真のように地下水か水道水かわからないが鉄管を竹筒に通して水飲か手洗の手水鉢<チョウズバチ>ですが昔は井戸)。正式名称は金剛王院で一言寺は通称(建礼門院に仕えた少納言通憲の美しい娘がおりました。何故か出家して「真阿」(シンナ)と名のり、清水寺の観音さまに毎日足を運び篤く信仰しました。ある日、観音さまは真阿にお告げされてこのお寺を建立したと伝えます)。信仰心篤き村人は「ご本尊の千手観音さまに<一>心に祈れば願いを<言>下に叶えてくださる」とかで一言寺。御詠歌は「ただ頼め、仏に嘘はなきものぞ、二言といわぬ、一言かな」合掌。さてさて、この井戸、昔はは裏山の醍醐連山を源水としているのでしょうね。水道の無い時代は寺社や荘屋には必ず井戸がありました。京の町屋にも井戸がありました。庶民が暮らす長屋は一に箇所に共同の井戸とトイレがありました。一言寺は衰退して長く荒れ果てていたんですが、文化8年(1810)年に再建(江戸期代表する建築の一つ)されたんですところで、筆者が井戸の蓋を開けますと竹筒には一匹のアオガエルがおりました。大きさは一寸ほどかな。逃げないでこちらをじーと見ています。アオガエルに後ろ髪を引かれながら一言寺を後にしました。

 <ここからは不思議な余話に> ところで、その井戸の南側にある古池にはアオガエルがずーと暮らしていたんです。。そっと井戸の蓋を開けた若者は、逃げようともしないでじっとこちらを見つめるアオガエルがおりました。しかし、若者にはアオガ
エルには見えず美しい娘がまぶしそうに目を細めてそこに座っているように見えました。何分突然のこと、若者は驚いたような目で娘をじっと見つめました。実はこのアオガエこそ真阿の化身なのです。二百年前からこの池で井戸でじっと待ってたのです。ここからは次回をお楽しみに。

 <言い訳>「名水シリーズおもしろかったのでもっと続けてほしい」なんて言われて、調子者の筆者、炎天下にマイチャリで醍醐まで。二十年ほどまえに一言寺の和尚さんを伺ったこともあり、一言寺のトンボというお話を聞いたりで少しは縁がありました。門から入ってすぐ右手には京都市登録天然記念物(一言寺)の大きなヤマモモがあります。本堂には内陣の中にもう一つの奥内陣があるんです。秘仏一言千手観音さまはここに安置されています。こころこめて合掌。

 
 
 
   伏見名水<子守の井の巻>

 向島から旧巨椋池を渡った西方に氏神神社の小倉神社が鎮座しています。その神社の一角に子守神社の祠があります。その祠の前に写真の井があるんです。正確には伏見区ではなく宇治市域のなので番外編にしました。巨椋池は太古時代は京都市北山麓までが巨椋湖でその周辺に巨椋一族が生活していたんです。その変遷はいつか探訪しますが、今は、子守神社です。この付近に大鷲3羽が何万回となく飛して子ども危害を加えたりさらったりしていくんです(話しは飛躍して、沖縄の飛来している金属でできているオスプレイは鳥の名前。このとオスプレイ【osprey】という大鳥は鷲や鷹と同じ仲間のミサゴ=鶚or雎鳩で海浜に住み、海上を飛 来して急降下して魚類など獲物を狙う。ところで、女性強姦や中学生障害事件などまさに米軍のオスプレイはまさに県民や国民、アジア諸国の人々を餌食にするんです。しかも沖縄をオスプレイの出撃の巣にするんです。怒り心頭です。僕たちは小鳥かも知れない。だけど、勇気を出して何千何百万と結集して反撃すれば、沖縄から恐ろしい猛禽のオスプレイを撃退出来ると思う。撃退しましょう!)。さて話を戻して、文徳帝の親王惟喬さんが諸国を巡り弓矢で一撃の連続でみごと退治したんです(現在は英雄でなく県民や日本中の名もなき無数の民衆の闘いで一撃だ!)。村人歓喜し村中の小道に子守大神を祀ったんです。以来、世にも希な子どもの守護神として鎮座し。巨掠湖底を流れる井の清水で手を浄め、心こめて祈れば子どもすくすく元気に育つと言い伝えられ、今も付近のお母さんたちの参拝多数ありです。

 【余話】ところで、京盆地の地下は現在も地下水いっぱい。西山・北山東山・音羽山などから潜って伏見の巨椋まで、2層になって流れて(1年に1㎝~10㎝ほど)いるとか。最新の 研究では、京都の地下水の総量は琵琶湖の総水量に匹敵するとの報告もあります。京の人々の生活、文化と歴史を支えてきたのはまさにこの地下水なのです。だから、地下鉄東西線ができて南北の地下水帯が切断されて、御池より南方の70ほどの井戸の枯渇被害がでました。祇園祭に使う御手洗井(みてあらい)までも枯れてしまったんです。ものすごい異変が目に付かない京の地下で起こっているんです。また、地下水の危機は全世界いたるところで発生。アメリカの穀物危機も気象変動だけでなく膨大な地下水くみ上げによる枯渇があるんです。逆に東京や大阪など大都会では汲み上げ規制で地下水が復元して地下からの高圧力の押し上げ力などで、ビルや地下鉄の浸水に崩壊の危機も起こっています。一方 、アフリカやアジア地域では井戸掘削の援助で有害な地下水も湧き流れ河川を汚濁し住民を不治の公害病などで苦しめている実態もあります。長くなりますのでまた何時か、この地下水についても少しお話しをしてみようと思います。(小町さんのお話しははたまた順延)

 
   
   伏見名水<華*井の盥漱水>

 深草にある古いお寺「嘉祥寺」の門を潜ったところに立派な井戸と手水鉢があります。井に刻まれた名前が「華■井」とあり、真ん中の■の文字が潰れて読めない。お寺の方に聞いても「さー分かりませんなー」の一言。そこで大漢和辞典を詳細に調べたら「華」のつく熟語は「華榮」(花が開く:かがやくの意)と「華蘂」(カズイでおしべとめしべのこと)の二つがありました。有難い佛教用語かも?、どなたか教えてください。
この寺院は嘉祥4年(851)に仁明天皇の菩提を弔うために建立されました。仁明天皇は病気がちで医者が処方する薬でも効き目なく悪化一途。自らもいろいろ調法したがついに亡くなった。だから「華の藥」という意味かも。ところで写真の左側の鉢は盥漱水(カンソウスイ)と書かれていますね。盥の訓読みはタライ。両手で水を受けて洗ってる意味で、漱の訓読みはススグで口をすすぐこと。鉢の左側に「井戸水なのでお手のみお清め下さい」と書いていますが往時は口も漱げるくらいきれいな水だったのでしょう。井戸の竹蓋を取って怖々覗くと深~いところに水が貯まって、底から2本の鉄管が這わしてあり、蛇口を捻ると奇麗な水が出てきました。
井の周りには実をいっぱい付けたムラサキシキブが何本も輝き、その向かいには写真のようなほほえましい小さな石像もあってホッコリとこころ癒してくれます。
 【余話】井戸水はすべて地下水。京都の地下水は西山・北山東山・音羽山などから潜って伏見の巨椋まで、2層になって流れている。最新の研究では、京都の地下水の総量は琵琶湖の総水量に匹敵すると言います。京の人々の生活と文化を支えてきたのはまさにこの地下水なのです。地下鉄東西線ができた南北の地下水帯が切断されて、御池より南方の70ほどの井戸の枯渇被害がでました。祇園祭に使う御手洗井(みてあらい)までも枯れてしまったんです。ものすごい異変が目に付かない地下で起こっているんです。また、地下水の危機は全世界いたるところで発生。アメリカの穀物危機も気象変動だけでなく異常な地下水くみ上げによる枯渇があるんです。逆に大都会の地下水が復元して地下からの高圧力で大都会のビルや地下鉄の浸水に崩壊の危機も起こっています。一方、アフリカやアジア地域では井戸掘削の援助で有害な地下水が湧き流れでて河川を汚濁し住民を苦しめている実態もあります。次回はこの地下水についても少しお話しをしてみようと思います。(小町さんのお話しはまたまた延期)

 
   
   伏見名水(藤乃井の巻 Hujinoi)

 旧竹田街道南一方通行の土橋町(どばしちょう)の濠川に架かる土橋のたもとにある一級建築士「㈱藤井組」のビルの角に写真の井があります。ちょっと人目には付きにくいですが、ちゃんと一筋の地下水が湧き出でています。もちろん保健所の検査にも合格し飲料にも適しており、飲めばまろやかな冷水です。当社の初代社長の藤井虎夫さんがこの地で創業。なんとか地域に根ざした愛される企業として発展をと祈念して、誉れ高い伏見の名水と掘削されました。最初は60㍍ほど掘った地下水でしたが水質がイマイチでもっと浅い20㍍の水質がバッチリだったのです(深いから良いとは限りませんね)。御香水とは違う水脈とのことで、近くには酒造会社もあってほんとにまろやかな美味しい冷水です。 ちゃんと柄杓もあっていつでも飲めますし(ただし平日=午前9時から午後6時まで。日祭日や雨天時は不可です)、遠くからもポットに汲む人も結構あるということです。太陽光発電システム設計もバッチリだし、ビルの屋上からはミストシステムで玄関先はクール。周りの植え込みには地下水の散水システムもバッチリ。おまけに大災害時でライフライン崩壊の時には災害時協力井戸の家に京都市から認定(停電時はプロパンガスでの自家発電で汲み上げ。ちなみに筆者の自宅は大阪ガスエンジンの自家発電ですけどガス管がつぶれたらアウト)。駐車場はありませんがお近くに来られたときなどお飲みくださいね、下もとろける美味しい冷水なんですよ。

【余話】前回は小町能を記しましたが、小町さん主人公の能は他に『鸚鵡小町』や『関寺小町』などもありますがいずれも100歳の小町さんで、「昔は芙蓉の花たりし身なれども、今は藜雀(れいじょう)の草となり、顔ばせば憔悴と衰え、膚は・・・」と乞食まで落ちぶれたすがたにて、「過去の栄華の幻影」で人生の象徴たりと。ソーソー、天橋立からの小町さんの足取りですが、また次回に順延。

 
   
   伏見名水<荷田の井 Kada no I>

 全国的に有名な伏見稲荷大社境内の外拝殿の南側に小さなお宮さんがあります。東丸神社(あずままろじんじゃ)です。稲荷社とは別の神社です。稲荷社の社家(しゃけ)に生まれ国学者の大家になった荷田春満(東丸:東麿とも)が明治になって正4位に追贈されて建立されたお宮さんです。小さな境内にはポンプでくみ上げている井戸が左手にありますが、水質未検査で飲めるかどうかは?です。国学者の大家ですので北野天神さんと同じく学問の神さま。境内の絵馬には有名大学の医学部合格祈願などの札がぎっしり。何と現職の医学部教授の札もあります。また、「としまいり心願成就」で自分の年齢と同じ数だけ祈願を成就させるために年の数だけ竹棒を持ちお百度参りのように往復します。
 【余話】小野小町さんですね。天橋立から話進まずですね。また脱線します。最近、能「卒塔婆小町」という脚本。ものすごく薄っぺらい本ですが何千円もするんで本箱に隠れて読破。100歳を超えて髪はくちゃくちゃでボロをまとった小町さんのなれの果ての姿で卒塔婆に腰をかけて休んでいました。それを修行中の若い僧侶が見て小町さんを叱りとばします。でも逆に、小町さん知性・教養溢れる仏理を僧にコンコンと説きます。僧はビックリ仰天。小町さんにほれぼれします。名前を聞いてまたもビックリです。小町さんは若い頃、伏見の深草の少将を邪険にして死なせてその怨霊にとりつかれ、難儀していると告白します(2年前ぐらいに墨染の欣淨寺の「涙の井」を紹介しましたね)。以下は略しますけど、もちろんシテは小町、ワキは僧侶で有名な観阿弥作の老女物の能です。


 
 
 
   伏見名水 『蒼空水・藤岡酒造の巻』

 伏見中央図書館の南西の毛利橋通りに面している藤岡酒造の『蒼空水』(この名前は藤岡酒造の清酒名「蒼空」から勝手に筆者が付けた名前ですが、蒼空のsilky taste(絹のように滑らか案味わい)との紹介がありますので「蒼空水」がぴったりかな?。写真は正面入り口に丸型の鉢の底からこんこんとわき出て鉢から零れている地下水です。ちょっと気配りしないと見過ごしてしまいます。鉢の上の方の大きな石版に会社名「藤岡酒造」が刻まれています。名水は100mほどの地下からポンプでくみ上げられ「白菊水」(以前紹介した板橋小学校の白菊水や御香宮の御香水)などと同じ水脈でこの清水で仕込まれるんです。
 1902(明治35)年に東山区に創業した同蔵は大津市にも酒造場を拡張するなど「万長」という品名で最盛期は8000石(1石=180l=1升100本)も生産したとか。でも1994(平成6)年に三代目が亡くなって閉鎖。しかし「なんとかもう一度お酒を造りたい・・・」と五代目蔵元が酒造法の勉学と技術などを学び、たくさんの方から協力を得て2002(平成14)年に新しい酒造の建築から「藤岡酒造」の再生を試みました。そして同年、僅か28石(約5000l)ですが見事な純米酒ができ上がったんです。すべてが手作りの純米大吟醸酒「蒼空」と銘うっての名酒です。五代目蔵元の藤岡正章さんは「よいお酒は必ずや天に通じ、人に通じる」との信念の持ち主。女将さんは「京都の酒蔵に嫁いでのあんなこと そして少しひとりごと」と先日「宇治市植物公園で蛍鑑賞に・・・キレイだった」と忙しい生活からたまに解放されての一言。お店にはいると酒蔵Bar「えん」がお待ちしてます。囲炉裏のあ開放的な空間で「蒼空」を楽しめます。
【このレポは店員さん・℡・HPなどを参考にしました。小町物語は次号に。by Nakano】

 
   
   伏見名水(番外編) Sachi no I

 「さちのい」とは、さち=祐、い=井のこと。祐は祐宮(さちのみや)の産湯に使った井戸ということ。だいぶ前に醍醐南にある日野誕生院にある親鸞聖人の産湯の井戸を紹介しましたね。歴史上の人物の産湯に使った井戸は今なお丁寧に保存されているんですね。筆者などは自宅で生まれて自宅の京都水道局の水道水が産湯。水源は琵琶湖から山科疎水から東山山麓から桃山の浄水場(今は北堀公園になっている)で綺麗に浄化された水なんだからすごいでしょう(エッ! だったら地区労事務局長の香川さんも琵琶湖の水が産湯なんでだって?) さて、祐宮は何を隠そう、恐れ多くも明治天皇陛下なんです。明治天皇は京で生まれ、京都弁(帝mikado言葉)で,ずーと京にい たかったらしい。だから御陵は京都にとの希望で、伏見桃山丘陵(徳川家康がつくった伏見城天守閣跡あたり)に葬られたと聞いています(桃山御陵)。あの参道からズーと天皇陵。JR桃山駅(だから戦前は東側が改札口だったんだよ)もそのためにつくられたんだから。さて、祐井の場所は御所の北部で、公家権大納言中山忠能(ただやす)の邸宅です。祐宮のお母さんは忠能の娘権典侍慶子(ごんのてんじよしこ)で1852年(嘉永5年)に誕生。写真の井戸は祐宮2歳のとき干ばつがつづき井は干し上がってしまい、新しく掘られた井戸とのこと。筆者桃山高校の3年生の時`(入学したての1年生時が60年安保。生徒会の呼びかけで授業サボって四条河原町などでフランスデモや市電軌道内で座り込んだり した革命児)にならった日本史の教師は明治天皇の実像にはものすごく批判的であったことを今も思い出す。戦前・戦中は天皇陵や乃木神社は靖国神社以上に侵略戦争を鼓舞し軍国主義教育の最先端の場であったことをバッチリ学びました。


   
   伏見名水探訪 (坪井商店の井)

 京町1丁目(京町通の一番南が1丁目、最北端が墨染24号線の11丁目です)のワイヤーやロープなど商っている坪井商店を訪ねました。店の表側、道路に面した端っこに水道蛇口があってその下に銭形の蝶番があります(写真)。これは水道水でなく地下約100㍍から汲み上げられているれっきとした伏見名水です。「月桂冠や菊正宗の井や御香宮などと同じ水脈なんですよ」と主人の坪井さんは説明します。さらに「この水脈は約80年前の雨水が地下深くたどってここに来ている」とのことです。この商店は街や風の建物で、庭には2箇所の井戸あって、昔はコンコント湧き出ていたとのことです。お茶やコーヒーなど抜群の香りと味。だから一般の人にもと7年前に表通りから汲めるようにと持っ てきたとのこと。もちろん無料で、掃除も行き届いてキレイ。おまけに年に1回は保健所の検査をうけており、安心して飲めます。また関電が停電になっても自家発電装置付きでいつでも汲み出せるようになっています。だから、非常時の水源にと京都市の「災害時協力井戸の家」にも指定されています。でも、最近大きなタンクで持ち帰る人や車で乗りつけて近所に駐車して迷惑などマナーがちょっとの人あって、節電もあるし一定制限している。でも「喜んでくれる人がいるので、これからもつづけます」とのことです。寺社や酒蔵の井の提供はありますが個人で提供している井は初めてです。(ペトッボトル=3本、タンク=1本までです。毎日汲み上げていますのでどうぞ)

≪余話≫小町さん前回特集でしたので、今回はありません。橋立をテクテク歩く小町
さんはどうなるんでしょうか?次回お楽しみに。伏見の歴史シリーズが始まりました
ね。名水よりもこっちの方が面白そうですね。


   
   伏見名水探訪  稲葉水(Inaba-sui)の巻

 淀城本丸と淀神社の間にぜんぜん目立たない小さな荒れはてた神社があります。この神社にも井戸(写真)があるんです。筆者が勝手に名付けて稲葉水。稲葉神社は淀藩主稲葉家の藩祖の正成を祀っています。淀神社に埋もれて無秩序な自転車置き場に隣接しているから良く注意をしなければわからないです。もう井の水は無さそうです。隣の淀神社の井の水は水道水かもしれませんが(失礼)あります。
 淀城の井は淀城本丸下にあって(今はでっかいコンクリートの蓋がしてあって、真ん中の小さな穴から石ころを落とすと3秒ほどしてポチャンと言う音がするのでかなり深くて水があることがわかります(穴から覗いても真っ暗。名水シリーズの最初の方で紹介しました。思い出してください)。
 ところで、藩祖の正成は美濃国(岐阜県)の一七条の城主である林家に生まれ、長じて稲葉重通の女婿となり、稲葉と称した。ところが妻が亡くなり、明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎えて再建。これが後に有名な春日局(かすがのつぼね)で稲葉正勝(後に小田原城主)らを生み離別し大奥に入り家光の乳母となりやがて大奥を統率する絶大な権力者に。
 藩祖正成は秀吉の信任厚かったが関ヶ原合戦では家康側について勲功あって感状を受け、後真岡城(栃木県)の城主となったんです。将軍吉宗時代に佐倉(千葉県)から5代目稲葉正知が入封し明治の廃藩まで、稲葉家12代148年間もの淀藩主でした。でも鳥羽伏見の戦いでは敗北した幕府軍の入城を無情にも断ったんです。いつの代も上手く生き抜く人あり。(筆者はそんな能力無くて単純に生きている)
【余話】①写真右は淀城の有名な水車(当時は巨大な水車)で。淀城の北側に流れる桂川と宇治川(今は西側に流る)の2カ所に巨大な水車があって場内に水を引き入れていたんです。たんです。②さて天橋立にたどり着いて3.6㎞のも橋立をテクテクと歩くんです。宮津湾には北風が小町さんに容赦なく吹き付けてきます。今年のように豪雪ではなかったですが小町さんたびたび立ち往生です。1㎞ほどのところに井があって真水がこんこんと湧いており(今もあるって美味であります:何という名前だったかな?)小町さんは冷たい清水でのどを潤します。これが暖かい湯であったらよかったですが。もう夕暮れ時です。寒さは一段と強く感じられ小町さん絶体絶命の危機に。そこに現れたのが・・・。(つづく)

 
   
   伏見名水探訪 神供水(ジングウスイ)の巻

 伏見稲荷大社の本殿右横にある「神供水」(写真は今年正月元旦に撮影)を紹介しましょう。井戸には古い釣瓶(ツルベ)がぶら下がっているけれど、写真のように四方は囲いがしてあっておまけに蓋までしてあるので使用はできる状態ではありません。けれど、戦後しばらくは使われていたと思われます。地下水がどんどんくみ上げられて枯れたんでしょうね。本殿の横なのできっと謂われがあると思って、巫女さん(すごくきれいな人)にお聞きしました(彼女、分からないので「ちょっと聞いてきます」と奥の年輩の神官に聴きに)。もともとは神殿に添える聖水をくみ取っていたのでしょうとのことでした(いろいろ楽しくお話した内容は内緒)。手口を清める水は本殿下の大きな手水があるしね、やっぱり聖水でしたね。
 この聖水はきっと、正月は早朝寅の刻に汲まれる若水として神に供され、5日の注連縄神事の大山祭など年中行事にはこの聖水が汲まれたと推測できます。
 さて伏見稲荷の起源はものすごく古く古代の古代の文献にみえる。語る紙面がないのですが、水神に雷神竜神やお狐さまなど興味深くてとても面白い伝承の宝庫です。国際的な繋がりもあって古代渡来人の秦(古くはハダと発音)で大陸の技術者の一群であったのでしょう。それに太秦、欽明天皇、聖徳太子や弘法大師との結びつきなど話せばつきません。
【余話】さて天橋立の麓までようやくたどり着いた小町さん。今年の厳冬のように雪がいっぱい積もってる橋立。ところでこの天橋立は3.6㎞の湾口砂州で2万年前に宮津湾が陸地化し、氷河期が終わった約7千年前の縄文時代に海面上昇し急速に成長し、2~3千年前の大地震で大量に流失した土砂で海上に姿をみせたと言われています。いまはちょっと痩せているし昨年末に訪れたときも8000本も松も怪しげになってきている。また余談になって小町さんの話はまた今度に。すみませんね。

 
   
 伏見の名水探訪 「白龍銭洗弁財天の巻」

 2012年「新年おめでとうございます」と東洋では最大の祝いの正月(中国などほとんどの国は旧暦:今年は1月23日が元旦で春節祭)。なんで「めでたいの?」。昔は人生40年、特に幼くして亡くなる子がいっぱい。だから老若男女、いのちが年を越えて再び新しいいのちにつなぎ変わったんだから、こんなめでたいことはないんです。ところでお年玉。古来日本ではいのちや魂は玉(丸)型。餅も正月ぐらいしか食べられなかった貧乏な庶民の子にせめて正月ぐらい丸い餅をと。お雑煮に入れる餅も京では丸餅。神社の鏡も丸。だから鏡餅も丸。当然、お年玉も四角い紙でなく丸い硬貨が本当なんだけれど・・・。

 さて本題。今年は辰・龍年。龍(ドラゴン)の水を紹介しましょう。伏見深草山(ジンソウザン)は瑞光寺(ズイコウジ)の門をくぐって右手に弁財天の祠がありその横に龍から湧き出る清水と大きい石鉢(写真)。これが昨今、TVなどに登場する「白龍銭洗弁財天」。硬貨でなく「ザルの中にお金(千円、五千円、一万円)を入れ、龍神の神体の中から出る水で願い事をお祈りし、お金を洗います」との説明の立て札。濡れたお札を乾かして神体袋(当寺院特製で500円)に納めて財布などに入れておくと幸運を授かるんだって(取材した時も一万円札を浸していた人がありました)。

 さて、当寺院は元は極楽寺薬師堂の旧跡で応仁の乱で荒廃していたのを、1655年(明暦元年:四年前に由井正雪の乱、二年後に明暦の大火)に元政上人(彦根藩の武士。出家し、当寺院で父母孝養。学者・文人で知られる)が日蓮宗の寺として再興し瑞光寺と名付けたと伝えます。境内には大きな桜の木があって春にはみごとな花を咲かせるんですよ。

 【余話】小町さんは村人たちに別れを告げ成相寺にむかいます。もちろん一人です。車も電車もない時代に女人の一人旅はそれはそれは苦難の一言。テクテク、テクテクとやっと宮津湾の浜辺に着きました。浜辺から長く伸びる橋立が見えます。「ああ、あれに見ゆるが天の橋立か・・・」と深く感動。もし、小町さんが小式部内侍の後の人であれば、『大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立』の一句を思い浮かべたでしょう。(つづく)

 
   
 伏見の名水探訪 「源空寺の井の巻」

  源空寺は瀬戸物町(新町通りの一筋西の通りで、南法律事務所がある山京桃山ビル前・イオン前の通りの大手筋通り少し北)にあります。なんでも、法然上人25霊場の大15番にあたる名刹で、正式名は宝海山法然院源空寺といい浄土宗に属しています。寺伝によると源頼朝が征夷大将軍になって3年後の1195年に天台宗の忍空上人が宇治郡炭山に創建したのが始まりとかでかなり古い。その後いろいろ変遷を経て徳川二代秀忠と三代家光将軍が現在地に移したことか。写真の井には釣瓶もある立派な井なんですが、木造の屋根形の蓋がしてあってちょっと重くて中を見られなかったので、水は? 井のすぐ横にりっぱな手洗鉢があるので、戦前まではさぞ美味しい清水がコンコンと湧き出でてたんでし ょう。

 さて、右の写真、伏見では珍しい二層の山門は伏見城から移築した遺構で門の両脇(仁王さんが立っているところ)には小さな即地蔵や愛染明王像や伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあった秀吉の持念仏や秀吉天下統一の大福を授けた大黒天像(だから一時このあたりを新大黒町と言われていたんだよ)などが薄暗く見えます。本堂内は荘厳で両サイドのふすま絵はすごいですね。ということで、城下町の伏見ではとても伝統的なお寺の井戸をご案内しました。門から入った左手の井戸についての説明は省略させて頂きます(どうして?)。

 【余話】小町さんですが物語は次回にします。ただ、小町さんに関わるお話一つだけ・・・先日訪問した東福寺の塔頭寺院の退耕庵(たいこうあん)。ここの地蔵堂に安置されている背丈2㍍の地蔵菩薩像の体内には小町さん宛の艶書(今風ではラブレター)がいっぱい詰めてあったんです。小町さん一通一通お読みになったんでしょうか? 丸めてポイだったんでしょうか? 一度聞きたいですね。でも「玉章地蔵(たまずさ)地蔵」なんて呼ばれていたんだから、玉章(玉梓とも)は玉は美称。古代には使いの者が手紙持参して、ポスト、郵便受けなんてないものだから門前かどこかの梓の木なんかに結びつけたんですね。「玉梓の・・・」は「使」「妹(いも)」にかかる枕詞。「玉章結び 」は若い娘の間に流行したでっかくした帯結びで「吉弥結び」とも言い「腰元結び」とも。ついでに「玉章豆腐」は豆腐を封書のように薄く細長く切って鉢の水に浮かべたもので、貴族趣味かな? なお、当所は鳥羽伏見の戦いの際には長州藩の陣が置かれていて戦死者の菩提所でもあるんです。小町さん無事に天橋立を渡って成相山成相寺に着けるのでしょうか? 平成の大市町村合併でなくなった大宮町教育委員会発行の『小町ものがたり』(あまのはしだて出版製本)はいったいどのように展開してあるんでしょうか。
 

 
   
      寺田屋の井(Teradaya no I)の巻

 江戸時代伏見の宇治川派流は京、大坂を結ぶ日本有数の港町でもありました。弁天浜から西浜、北浜、南浜界隈です。そして、北浜から京二条木屋町までは東高瀬川の水運も盛んで米、味噌、薪、炭、反物、タンス長持ち、野菜、魚そして旅人に罪人と万運搬でありました。さて、蓬莱橋(龍馬通の南側)付近にも船宿が立ち並んでいました。そ一つが薩摩藩の船宿である寺田屋(今の建物は明治以降に再建されたとかの有力説あり)。大名が乗る大型の過書船や三十石船が宿から直接出入りしていました。家康が過書船制度を定め過書船番所をもうけ運賃や税、運行認可などを厳しく取り締まっていました。三十船は小型船で大きい船は三百石積もありその数数百隻もあったと言います。小さな現在の十石舟(舟体は合成樹脂)は建長寺の門前である弁天浜から観光客を乗せて三栖閘門まで運行しています。三十石船(船体は木造)は蓬莱橋のすぐ下流の架かる京橋(日本最初の京都市と伏見町を結ぶ郊外電車の終点であったんです)が発着場になっています(運賃は両方とも同じ)。国鉄東海道線や京阪電車が開通して1871年(明治4年)に廃船。
 さて、寺田屋の庭には江戸末期から明治時代にあった井戸がちゃんと保存されています。竹で作った覆いがしてあり、中を覗くとチョッピリ水も。龍馬と親しかった寺田屋の女将おりょうさんが風呂に入っていたときに襲撃にあい、真っ裸で敵陣に向かって走り出で、敵を驚かせ乱入をチョットだけ遅らせたとか。そのため龍馬は傷を負いながらも下板橋(伏見中学の西)の薩摩下屋敷に逃げたとか。そのお風呂の水もこの井戸からくみ上げたんですよ。もちろん宿場の食事一切に使われておりました。ところで、寺田屋騒動は薩摩藩内でのゴタゴタ(藩主をはじめとする穏健な公武合体派と有馬新七などの急進的な勤王倒幕派の争い)で穏健派が集結していた寺田屋で急進派とが激論になり乱闘になったのが騒動とか。今も生々しい刀の切り傷跡の柱があります(これを見たい方はチョッピリお金を払ってくださいね。「そんなの全部ウソ。傷もウソ」なんておっしゃるお方は素通りしてください)。
 【余話】小町さんのお話です。右は小町さんのお顔です。知性と教養にあふれ、それに+温厚な人柄+品のある美しい顔立ちのお人でしょう。さて、お話→小町さんは村を去るんでしたね。「たいそう お世話になりました。旅の目的地の天橋立の文殊堂に立ち寄り、橋立を渡って成相山へお参りしたいと思います」とたくさんの村人が見送る中、別れを告げました。〈文章は大宮町教育委員会(当時)発行『小町ものがたり』から少し拝借しております〉
 (次号につづきます。お話はボチボチとすすみますのでご期待を)


   
 妙榮水(Myoeisui)の巻

 ふれあいユニオンの本部(?)がある伏見地区労の西隣3軒目は本成寺(ほんじょうじ)。ユニオンにもっとも身近なこのお寺の庭園にあるのが有名な妙榮水。龍の隣の竹筒から一条の水(写真)。本堂庫裏を再建した同寺院36世の日崇が祈念し唱題祈願して掘ればなんと清水がコンコンと湧き出ったとか。日崇は「われらはこの奇瑞(きずい)を讃仰し奉り『妙榮水』と名付けり。み仏の慈悲と自然の恵みに心より感謝の誠を捧げん」と言われたとか? 竹筒は前に池があって汲めないので横のほうに水道蛇口をつけてポンプで汲み上げている。近所の人がたくさん汲みにきます(無料)。飲料にも適してコクもあってとても美味しいです。ユニオン本部に寄ったさいにはペットボトル持参してくだ さい。極上のコーヒーやご飯がつくれます。ところで日蓮宗のこのお寺はとても由緒あるお寺で、関ヶ原戦から36年経た年(1636年)に伏見奉行水野石見守忠貞の協力で少し北にあった所(住吉児童公園あたり)からこの地に。本尊は創建当時のもの。本堂右手前の地蔵堂には大人等身大の真っ白なお顔の木造のきれいなお地蔵さんが安置されてます。以前登場した六地蔵は大善寺で紹介した小野篁(おののたかむら)作といわれています。篁は重病であの世に行き再びこの世に戻ってきた人物。また篁があの世とこの世を行き来した東山は六道珍皇寺の「冥土の井」も紹介しましたね。この地蔵は元々、大亀谷地蔵院にあったけれどたびたび移動し1870年(明治3年)に当地に引っ越しました。古来から「痰(たん)切り地蔵 」と呼ばれて信仰をあつめているとか。その地蔵堂の左横には一㍍はあるでっかい鬼瓦の対が置かれています。今のは丹波橋通りから本堂てっぺんの鬼瓦(写真)が見れます。筆者の小さい頃の丹波橋通りは竹田街道からフレスコあたりとここ本成寺前には夜店が出て賑わっていたんですよ。貧乏でお金も持たずにウロチョロしてた筆者であります。綿菓子や小細工飴がほしかったなぁっと指なめてた。紙芝居は「水飴買わへん只見の子は後ろから見!」と言われてたっけ。今は丹波橋商店街もだんだんお店が減って一般住宅が建つようになり昔の面影がなくなってきましたね。

 (①文章が長くなって小町さんのお話はまた次号。それに夏の平和行進の終点東福寺東門の塔頭に世の男性どもから送られてきた数多くの艶文が納められているとか。あの随心院にもたくさんの恋文を捨てた文塚がありますね。ほんとに小町さん美貌と教養も持ち主でモテモテであったんですね。中国の楊貴妃は以前現地報告しましたので、今度はクレオパトラの足跡を取材したいですね。

 
 
 
    伏見名水(栄春寺の井の巻)

 織田信長が初めて上洛した年、1568年に伏見最初の曹洞宗の寺院として開創されたお寺です。本堂前のよく手入れされた庭園に井戸(写真)があります。場所は京阪電車本線を国道24号線が大きくカーブしてまたぐところにあります。歴史的遺産としては総門は伏見城の遺構、釈迦如来座像が家康の家臣であった酒井重勝の寄進、本堂裏で墓地になっている高台は伏見城総惣構え(土塁で北野天満宮と同じ)で唯一現存【近鉄豪川鉄橋から北堀公園(伏見城の内堀)の北側まで高い土塁(写真の石垣)が築かれていました】、茶室指心庵(ししんあん)、秀吉が命じた孟宗竹の群、会津藩主の碑誌が刻まれた巨石(会津藩とは幕末まで交渉)、福山藩寄進の画像や兵緑6編、墓地には兵法の祖長沼宗敬、誰でも知っている浅野内匠頭、大石内蔵助など志士を祀っています。さて井戸には竹蓋がされて開けると埋めてしまって水なしで残念。
 ところで、先の東日本大地震が影響したのか、日本名水百選の御香宮の名水も飲料は不可になり誰一人として汲みに来なくなったんです。また問題の乃木神社の勝水も濁る時があって飲料は控えたらとかで伏見の名水も地下の層が大分ずれたりして水脈もちょっと変わったのかもしれませんね。地質学者や市当局なんか調査したのかしら? 
【余話】小町さん。村の名前を「五十日」(いかが)の字を「五十河」に変えんですね。そして太鼓に踊りなど村人は祈ったんです。それ以降はすっかり火災はなくなったんです。だから乳飲み子も火災で焼け死ぬこともなくなりすくすくと元気に育ちました。
 さて、柚木も解けた春先に小町はこの村を去ることにしました。だって、小町は天橋立にある文殊堂や向こう岸の成相山にお参りの旅をしていたんだからね。手習いやら都の話やらですっかり子どもたちは惜しみながらも小町先生とお別れしました。この村の案内してきた甚兵衛が峠まで見送った。ところが・・・(次回をお楽しみに))



 
 
 
 伏見名水番外(乙訓寺の井)

 たびたび乙訓の里に取材しているので今日は伏見の地域ではない乙訓の里は長岡京市の乙訓寺名水。乙訓寺と言えば牡丹が有名で境内一面に咲く牡丹は圧巻。でも、本堂前庭の井戸には人々は目もくれない。乙訓寺の歴史は古い。桓武天皇の弟の早良親王が幽閉された寺で長岡京造営以前からの大寺院でありました。空海(弘法大師)もこの寺院の別当に任じられている。しかし平安京以降は紆余曲折、徳川綱吉時代に一時的に再興したが現在はちいさなお寺に。さて、「清浄水」と銘打つこの井戸(写真)は文久元年だからちょうど徳川最後の将軍の前の家茂時代のもの。参拝人の喉を潤したのでしょう。今は涸れ井戸。ちょっと掘削して清浄水が再び湧き出たらいいのにね。
 
 
 
 
 
 伏見名水(安楽寿院の井の巻)

 近鉄竹田駅の南南西に歩いて5分。近鉄車窓西の方を見ているとごく近くに丸い三重の新御塔(しんみとう)が見えます。近衛天皇の遺骨が納められている安楽壽院南陵といって、御陵にしてはとても珍しい(現代の多宝塔は豊臣秀頼が再興したもの)。コンクリートづくりの明治天皇墓陵から見れば遙かに立派。さてこの北隣の安楽壽院は本堂や金堂がある古刹。1137年鳥羽離宮の東殿を寺に改められたのが始まり、白河上皇の時代から保元・平治の乱あたり、1167年に清盛が太政大臣になり、古代から武士の世に大きく変化する激動の時代に突入。思想界も法然<念仏宗>、日蓮<法華宗>、親鸞<一向宗>など庶民の宗教が台頭)。安楽壽院の位置。平安京のど真ん中の朱雀大路を南にズーとの ばした場所であり、京と大坂と結ぶ港(当時の中書島はまだド田舎で沼多数)があったんですよ。加茂川はこのあたりから城南宮の南側を流れていました。写真は本堂前の井戸で龍の口からコンコント流れる清水(飲めるかな?ちょっとやばいかな?)。さて、安楽壽院は鳥羽伏見の戦争では官軍(薩摩軍)の本営にもなったんですよ。ここから一気に幕府軍へ出撃。伏見全域が灰燼(かいじん)にと。

 【余話】小野小町さんのこと。京から旅だった小町さん老の坂を越え、観音峠も越えて鬼の住む大江山も越えてテクテクと。途中で出会った行商人の道案内。男の村は五十日(いかが)の里。真冬で凍りつきそうな村であった。ここに逗留して一月。村人は小町さんを『都の人』と親しみをこめた呼び名をつけた。美しいだけでなく、どことなく溢れる知性と気品、そして村人に対してはやさしさと同時に気さくさもあるんだから。ある晩のこと村が火事。ワラ葺きの家々は見る間に炎につつまれた。この村はたびたび炎下に襲われていたんです。難儀を聞いた『都の人』はある提案を村人達にしました。「五十日の日の字は火の災いと夢枕でお告げがありました」、「京からここまでいくつもの河を渡ってこ ちらに着きました。日は火に通じます。日と言う字を河に、五十河に変えてはいかがでしょうか。読み方は今まで通りの「イカガ」です」と奇抜な提案でありました。その提案はたちまち村中に広まって、『都の人』の逗留している商人の家に集まってきたんです。(つづく)



 
 
 
 
    伏見の名水(神川の井の巻)

 伏見区を流れる桂川の以西は合併までは乙訓郡でした。乙訓郡には大山崎町、長岡町、向日町、神川村、久我村、久世村、羽束師村などがありました。久世村のみ南区に編入され、神川、久我、羽束師は伏見区に編入しました。ちなみに伏見町は紀伊郡でした。

 桂川の西沿いには菱妻神社、久我神社、羽束師神社などがあり、村人たちは産土神をまつり、桂川の氾濫を恐れ、五穀豊穣と無病息災を祈って日々の厳しい労働に打ち込んでいました。

 さて、写真は焼き肉の網ではありせん。霊験あらたなれっきとした井戸であります。神川小学校の東の片隅に鎮座してますが、「神川小学校はこの神社の広い境内に建てられたんですよ」と古老は言います。このあたりの中学は伏見中学と乙訓中学に通学していました。すごく遠いですが、何とも思ってなかったとも昔話を語ります。

 話変わって小町さんの余話。でも研究書みたいなのは面白くないので、丹後地方に遍歴した小町さんを紹介しましょう。語り部のお婆の話を聞いてくだされ。

 昔々の事じゃ。美しいおなごが京の都からはるばる宮津の天橋立まで旅をしておった。ちょうど、五十日村の行商人の甚兵衛(じんべい)も都から帰る途中で偶然に出会ったのじゃ。女は一人旅で不安に思っていたので、甚兵衛に道案内を頼みおったと。夜中も歩きどうしで朝露が草木を濡らすころに二人は天津に着いた。橋立のある宮津と甚兵衛の郷の五十日との分かれ道。甚兵衛は女に「わしの家はすぐそこじゃ、ちょっと寄って疲れを癒したらどうかな」と。「ご親切に、京の都からテクテクと心細く思って、少々疲れ気味ですので、男場に甘えて一時ごやっかいになりましょう」と。真冬で雪も吹雪いて山々は真っ白。冷たい風が吹きつけるなか歩き歩いてようやく甚兵衛の家についたんじゃよ。

 (今回も字数オーバーでこのつづきは7月号。どないなんのやろ、この先お楽しみ


 
 
 
    伏見の名水(国道1号線の伏水)

 1号線と大手筋交差点から約200㍍北の1号線東側の「鉄板や本店」横に「天下の名水の伏水(ふしみず)は生きていた」と書いた看板があり湧き水がこんこんと流れています。京都市許可書や水質検査(データー=水温20°、ph:6.3、Fe:0、硬度:90、周辺地質:砂・れき・粘土などの堆積層)もされ、飲料可でコップも おかれています(お金いるかな?)。おいしい天然水で「美容と健康・・・」と銘打っています石碑には誰が詠んだかわかりませんが「松風や鳥羽の祇温の伏水を むすぶこころは涼しかるらん」と刻まれています。    

 【余話=地名の伏見は伏流水から伏水とも言うともっともらしい話しもあり、江戸期に極一部に使用されていましたが、明治に陸軍第16師団の連中がしゃれっ気をだしてこれを用いたとのこと。歴史学者や郷土史家では名月などを「臥して見る」からで、古代以来「伏見」の荘園名(領主は伏見宮家)になったと言う説が 最有力です。24号線宇治川に架かる橋を「観月橋」(=豊後橋)なんていいますね。昔から巨椋池から眺める月はものすごくきれいであったと記録されています。最初の伏見城(4回築城)は伏見指月山ですね。ところで伏見の土民どもの生活、村の掟や闘いについていつか記述したいですね。深草・竹田・伏見・醍醐・淀などの 土民(百姓)の暮らしです】

 【言い訳=「小野小町姫はいつあらわれるんですか?」という問い合わせがありました。水物はいろいろおもしろい話しいっぱいで、脱線ばかりしてごめんなさい。小町の資料はいっぱいもっていますのでそれを駆使して次号に掲載。お楽しみに】


 
 
 
 伏見の名水(圏外編)楊貴妃の湯井 

 今回は伏見から2000㎞離れた圏外特別編。日本では奈良時代のはじめ、中国は唐の都長安(現在西安=シーアン)に第6第皇帝の玄宗が溺愛した楊貴妃と日夜遊興にふけった華清池の宮殿。美しい橋が架かる大きな池は人工堀。土は宮殿の背後の小高い丘に。宮殿のまん中にあるのが写真の楊貴妃専用の湯の井(海棠の湯<カイドウ=バラ科リンゴ属。春の末に淡紅色の小さな房状の綺麗な華がいっぱい咲く。昔から美人の形容>・747年に青い石を用い精緻を極めた湯船で海棠の形)。とても大きくきれいで温泉を引いている。隣には楊貴妃専用の暖房完備の脱衣所も。おまけに湯上がりの髪を乾かす専用の豪華な塔まである。妃は世界三大美人(楊貴妃・クレオパトラとヘレネ<日本では小野小町>)の一人で写真のように豊満な女性(写真)で、音楽に舞踊など多大な才能を有していたとか。玄宗のあまりの寵愛しすぎで嫉妬、離反、そして有名な安史の乱を引き起こし傾国の美女とも呼ばれています。もちろん伝説は小町どころではなく無数。最後は悲運な縊死(首吊り)にさせられたとか自殺を命じられたとか。安禄山は嘆き悲しみ、白居易は長編漢詩『長恨歌』を作製し今日まで伝えます。なお、玄宗皇帝や女官達専用の湯船などたくさんの湯船があります。(2011.4.2撮影)
 
 伏見の名水(番外編ー桃山時代の井巻)

  今回は特番です。今回は2年前に地中深く埋め戻された「桃山時代の井」(写真)で、現在はこの真上に伏見区の総合庁舎が建てられており、もう二度とお目にかからない井戸です。さて、桃山時代と言いましたが、秀吉が伏見城を造営するまでは久米村で、室町時代には板橋寺(今は跡形もありません )があり、また写真の北側には今もある金札宮が古くからありました。2007年11月から08年2月まで同所では大規模な発掘調査が行われ時に直径1m~2mほどの井戸がたくさん発掘されました。写真はこのうちの3つです。井戸は素掘であったと推察されています。

 分厚い調査報告書を読みますと古代から平安時代や室町時代などの地層が何十にも重なっていたようです。各時代の地層によって発掘された内容は違いますが、土師器・陶器(写真=お茶碗)・磁器・漆器・瓦・箸・籠・人形・木簡・下駄や中国製の磁器などたくさんの木製品、金属製品、石製品を発掘(多くの発掘品は京 都市伏見垂見水収蔵庫に展示されています。見学は要予約)。ところが墓地時代もあって、何百という人骨が重なるように発掘されました。幼児から子供、青年、成人など甕棺に入れたれたり、土葬されたりして、骸骨の形もリアルに報告されています。そして、お茶碗やお皿もたくさん発掘されています。だから、約1000年も 前の人々の生活が、生きている様が、今とかわらない子どもの遊び声や井戸端でお母さんたちが茶碗を洗い、洗濯をしている姿が、そんな情景が生き生きと目に浮かんできます。遺跡や史蹟を訪ねたときは、単に見学するだけでなく、一つ一つの遺物に、人々の悲しみ、子供たちの笑顔などそこで生活している姿を思い浮かべると、 今生きている私たちと重なり合う道標になって、10倍の学習になるんです。(にわか考古学者、Nさんの言)


 
 
 
 
   伏見の名水(羽束師神社井の巻)

 桂川の西側(昔は乙訓郡に所属。ちなみに伏見町や深草村は紀伊郡、醍醐村や石田村などは宇治郡、淀村は綴喜郡で競馬場南あたりは久世郡)の名水の紹介は初めて。ところは羽束師大橋を渡ってしばらく西に行くと、中ぐらいの川があります。ここを左に折れてちょっと南に入ったところに羽束師神社が鎮座してます。1500年前(477年)の創建といますからものすごく昔。生成霊力を持つ皇産霊神を奉斉していす。霊水は正面参道からら入った左手にあります(写真)。古札を燃やしていた宮司さとしばし懇談。なんでも昔はもっと深かくきれいだったので飲み水などに使ったけれど今の水はポンプで汲み上げて流している。このあたりの地下水は飲めますが、10mぐらいの深さなので鉄分が多くてあまり飲料に適しないということ。

 神社の前を流れる川が羽束師川。この川は実はここの宮司さん(5代さかのぼった)が、洪水と悪水など低湿地を何とかしようと1809年(文化6年)から実に17年をかけて掘削された川です。古川、樋爪、水垂、大下津、山崎を経て桂川に注ぐ全長12km。2郡12村の水害や汚水などを防ぐことができの村人たちは永代 にわたり感謝感謝。しかもお上は一銭の官費を出さず、宮司の私財と村人の尽力で完成。川名はこの神社名である羽束師神社から命名。5月には祭で御輿2基がかつがれ賑わいます。
  「幾千町羽束師川に水おちて 秋の田のもにみのるやつかほ」

 (お詫び=今回は小野小町のお話を予告していたんですが、またまた小町の研究書が手に入り目下勉強中。今しばらくお待ちください(実は調べれば調べるほどレポートは書けないんです)。



 
 
 
   伏見の名水(松本酒造の巻)

 濠川に架かる下板橋のたもとにある松本酒造の井を訪ねました。当地は明治までは薩摩島津家の伏見屋敷があったところ。参勤交代でも大名の入洛は禁止。伏見に入って六地蔵から山科に抜けたんです。伏見は西国大名にとって旅籠に変わる大名屋敷がずらりで町名が沢山残っていますね。島津斉彬(な りあきら)の養女篤姫も江戸に向かう途中、1853年10月31日(旧暦9月29日)から一週間ほど滞在して東福寺、満福寺や近衛家などに訪問していて、私の自宅前の道(呉服通り)や地区労事務所がある丹波橋通り(丹波守屋敷)も何度か籠に乗って通ったかもね。それから13年後の1866年3月9日(旧暦1月23日)龍馬襲撃事件。龍馬 は深手を負いながらも濠川伝い逃げた、木挽町の材木問屋や毛利家家臣などの手引きでここ島津屋敷にかくまわれたんです。鳥羽伏見戦争で伏見は灰燼に。

 余談話ばかりで、名水だ。松本酒造の門から入ったすぐ左に大きな丸い井戸(直径約2m)があります。蔵人さんに重たい鉄制のとんがり蓋を開けてもらいました(写真)。中を覗くと深くて真っ暗で底は見えません。今は、酒水は枯れて、10mほど離れたところ蔵側に深く掘った井戸から清水をポンプで汲み上げています (伏見の寺社や酒造会社の井戸は今はいずれもポンプで汲み上げています)。仕込み最中でしょうか、蔵からは湯煙がもうもうと立ちこめて、甘酸っぱいにおいがプーンと。新酒しぼりたて生原酒をちょっといただきますと、まぁ、新鮮でフルーティな味が口中いっぱいに広がります。一切なにも手を加えていない無垢なお酒。加熱 殺菌処理や防腐剤などもなしなので生きた酵母の出す芳香かすかにあってこれまたなんともね・・・。ということで松本酒造「明君」をどうぞ。


 
 
 
 伏見の名水(小町化粧の井戸の巻)

 今回は伏見区醍醐と山科区との境界線から10mほど山科に入った(だから伏見名水とは言えないかな?)隋心院にある小町化粧の井戸(写真=枯葉浮かぶ井)です。

随心院は真言宗善通寺派の大本山で弘法大師から8代目の弟子仁海が991年(正暦2年)に創建した古いお寺。仁海がある夜、夢を見た。亡き母が牛に生まれ変わってた。仁海は一生懸命世話をしたがすぐ死んでしまい、その皮に曼茶羅の像を描いて本尊としました。ですからこの寺の最初の名前は牛皮山曼茶羅寺(キュヒサンマンダラジ)と言ってたんです。

 さて写真の小町の化粧井戸ですが、このあたりは小野一族が栄えた場所で、地下鉄も小野駅がありますね。小町というのは未婚の若き女性をいい、小野に住んでいる小町だから小野小町。本名は(小野良真=篁の子<以前、大善寺(六地蔵の井で紹介>の娘)。昔の女性は本名は夫にしか言わなかったんですね。紫式部、清少納言も官名。化粧の井戸は絶世の美女で柔軟艶麗な歌人出会ったことはよく知られています。小町を恋いこがれたの深草少将(墨染にある欣浄寺の涙の井)の百夜通(もももよかよ)いの悲恋伝説も以前紹介しましたね。少将は通うたびに随心院近くの榧(かや)の木の実を一個持って来たんですね。百日目に雪に埋まって凍死しますが手にはしっかりと100個目の実を握っていました。その榧の大木(今は朽ちていますが)今もあります。随心院には世の男どもが送った無数の恋文が埋められている「文塚」や供養の「文帳地蔵尊」もあります。本堂の間には百歳の小町像とかわいい十代の小町像(先月奉納された)があります。小町さんについては京都丹後にもきれいな美しいお話がありますので、またいつか紹介しましょうね。


   伏見の名水 (洗心水の巻)

 伏見竹田にある北向山不動院にある「洗心水」を探訪しました。付近一帯は京の都平安京の東西中心の朱雀大路をづーと南に延長したところ鳥羽湊があったところ。鳥羽天皇を祀る安楽壽院(重文多数)や白河天皇院政の地であり3重の塔、西には以前紹介した城南宮の若水など、観光ルートではないの で平安京時代の街はずれの風情を思わせます。

 さて北向不動さんで知られている同寺は天台宗の単立寺院、1130年に鳥羽天皇の勅願によって鳥羽離宮内に創建された古いお寺で本尊不動明王は重要文化財。応仁の兵火に遭遇し、1712年東山天皇の旧殿を移して再建。元禄7年に鋳造された梵鐘も重文で美しい響きがあるとか。写真の洗心水は昔は自然に湧き出て 、行者修行を行う滝(同院東側)や参詣者の心身を清めるお水でした。その後、枯れてしまって深い井戸を掘っての水です。城南宮の若水とは水脈は同じ。護摩壇の「龍水泉」の清泉で心願を唱えてお供えすると多大な御利益(無病息災、学力向上、家内安全、就活や婚活成就ほかいっぱい)があるとか。坊守は「毎年水質検査して ますさかいにきれいなお水ですよ。もちろん飲めます。どうぞお飲みになって心清めてくださいね」とのお言葉でいただきました。あまりの美味で願を立てる忘れていました。合掌。

 
 
 
 伏見の名水探訪 (勝水の巻)

 今回は「伏水会」が選んだ「伏見名水スタンプラリー」11カ所の一つ「勝水」を紹介しましょう。実は2007年までのスタンプラリーにはこの勝水は入っていなかったんです。いつの間にかしら「勝水」の名で名水に。「勝水」は明治天皇陵(通称桃山御陵)参道入り口の乃木神社境内本殿の左脇前 にごく数年前に造られたんです(写真)。どうして「勝水」なんて造られたのでしょう。乃木神社は明治天皇大葬の当日に陸軍大将乃木希典(のぎ まれすけ)が殉死して、天皇の神の子として1915年(大正5年)に創建された神社です。境内には第3軍司令官として中国旅順を侵略した時の司令部の建物が記念館として移築されて いたり、近年では写真のように日露戦争の日本海海戦で「活躍した軍艦吾妻の主錨」(顕彰会の説明文)の実物などがあります。今も、毎月一回例会があって正装し海軍帽子をかぶった退役兵士が集まって直立不動での異様な雰囲気の聖域の護持に務めているんです。境内を探訪すると勝栗の栗絵馬も販売(試合に勝つなら「試合」 と書く、出世なら「勝負」と書くなど説明してる看板や以前はなかった君が代に出てくる「さざれ石」も2組あります。平和祈念碑には歴代の保守政党国会議員らの記名入りの石柱も。

 今は亡き池田一郎(府立高教祖桃山高校分会)さんが執筆した『京都の「戦争遺跡」をめぐる』という本(伏見中央図書館にあります)を引用しておきます。「伏見は伊勢・橿原と共に絶対主義的天皇制の三聖地の一つに」、「畏れおおくも伏見桃山では・・・」というように儀典脳ファシズムの用語の一つに」なって「 ファシズムの根拠地となっていった」、京都府立桃山中学(現桃山高校)や隣の菊花高等女学校創立者は御陵下教育と呼んで軍人づくりの教育、皇室教育や軍国教育の精神的支柱として明治天皇陵墓や乃木神社を最大限引き合いにして邁進したと述べます。

 伏水会はどのような人々が入っているのか知りませんが(スタンプラリーの問い合わせ先には御香宮、後援は日本観光協会関西支部、京都市観光協会、京阪電車他が名を連ねている)。

 名水として絶対案内しなかったんですが、地元でもじわじわと軍靴の音が聞こえるご時世ですので、紹介しました。そこまで考えなくてもいいのかも知れませんか? 単純に11カ所のスタンプを集めたらいいのかな? みなさんのご意見を聞かせてほしいいですね。伏見の銘酒の名前も月桂冠を始め戦争に纏わる名前が多 いですね。考えてたらお酒も飲めなくなりますね。


 
 
 
 伏見の名水探訪(招徳の井=Shyoutoku-well-waterの巻)

 丹波橋と竹田街道北行き一方の交差点の北西にある招徳酒造を探訪しました。大正時代のレトロな事務所で親切に説明して頂きました。井戸は事務所入り口の右手にある写真のような石組のりっぱな井戸。「昭和20年代末頃まではコンコンと清水が湧き出ていたんですよ」と懐かしくお話し。しかし段 々と水質や湧き出る量から地下100m掘削し、一番水質の良い20mほどの水脈(御香水と同じ水脈で醍醐山が源水か)から仕込みの水として使用。「女酒」と昔から呼ばれるだけあって、柔らかい口当たりの清水です。

 ところで、招徳酒造はアルコールなど一切加えずに「米と米麹と水だけでつくる純
米酒こそが日本酒本来の姿である」との考えを今も頑固に守っています。酒米は嵯峨越畑の棚田で京都だけの酒米「祝」や日本晴の契約栽培で綾部市の農場などでより品種改良に取り組んでいる伏見でもユニークな酒造会社です。

 創業は関ヶ原の戦いから45年後の1645年(正保2年)。古いでしょう。やがて明
治になり大正末期の都市計画で名水の地伏見の現在地に移転し現在に至ります。酒蔵は街道筋に面してよく見えます。「招徳」の名は禅語の「福以徳招」(福は徳を以って招く)。

 (余話)50数年前、招徳の前は中書島から京都までの市電が走っていて、丹波橋という停留所もあったんです。酒蔵の北側は小川が流れ田圃や池があったんですよ。そのつい近くで生まれ育った私は小学生の頃、近所のガキと一緒にザリガニやカエル、ドジョウにフナ、メダカそしてゲンゴロウにヤゴなんかドロンコにな っていっぱい捕ったりして遊んだところ。


 
 
 
 伏見の名水探訪(番外編) 
六道珍皇寺の井(Rokudochinno-tenple-well)


  今回は伏見から脱出して東山区の六道珍皇寺の「迎えの鐘」の取材の副産物です。
 題して「冥界の井」でこわ~いお話し。
 六道珍皇寺は東山五条坂の中腹にあって、死者をほかす鳥辺野(火葬場あたり)へ葬送する野辺送りの途上にあって「六道の辻」と呼ばれる冥界の境に位置します。
 六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの冥界で生前の行為によって裁判官の閻魔大王が生前の行為によって判決します。
 さて、同寺院本堂の横手に古びた井戸(写真)があります。
 一千年誰も蓋を開けたことがないとか。それもそのはず、昼は嵯峨天皇に、夜は閻魔大王に仕えた小野篁(たかむら)が冥土へ通った出入り口。篁は遣唐副使で何度か渡航を試みたが遭難し、嵯峨上皇の怒りに触れて隠岐島に流刑。帰京して参議に。政治家であり古今集など編纂した文人でもあります。
 最初に書いた「迎えの鐘」とは、四方が暑い壁に被われ釣り鐘が見えない珍しい釣り鐘堂。西面に10㎝ほどの穴から手綱が出ています。
 これを8月7日から10日の間に引っ張って撞くと「ゴ~~~ン」と不気味な冥界の響き。
 この響きは十万億土のあの世まで届き先祖の霊をこの世に呼び戻して(六道詣り)、これを篤く祈って16日(大文字の送り火)にあの世に送るんです(これがお盆。盂蘭盆=うら盆の略で古代インド語=ullambana(苦界)・古代イラン語=urvan(霊魂)。
 鳥野辺、蓮台野、化野、紫野とかだいたい「野」が付くところは死者を葬る場所で土葬やそのまま捨てられてあたり一面骸骨。
 夜はすごい人魂が行き交っていてこれを沈めるため卒塔婆がたてらました。千本あったので「千本通り」と言うんですって。化野念仏寺の何万もある朽ちた石仏群はローソクの火に揺られて何とも言えない魔界が見えて今も鮮明に覚えていまんですよ。こわ~~い。 伏見の六地蔵(大善寺)には大病で冥土に行った篁が彫ったと伝える地蔵(重文)が安置されています(8月22日から六地蔵めぐり)。

 
 
 
 伏見の名水探訪 墨染井<Sumizomenoi>の巻

  京阪電車墨染駅から琵琶湖疎水の橋を渡ったすぐのところのあるお寺が墨染寺(ぼくせんじ)。りっぱな山門前に建っている石柱には「墨染桜寺(ぼくいせのうじ)」と彫られています。門に入って本堂手前に井戸の石手水(写真)があります。今はご覧のように空っぽです。女性の坊守に聞きますと境内の井戸は水も涸れて埋め てしまったとか。この手水側面に墨染井と彫られ、願主(奉納者)を「中村哥右衛門」(歌舞伎で有名ですが何代目かわかりません)と彫られています。「今の歌右衛門さんもちょくちょくとお参りにこられるんですよ」と話します(でも歌右衛門と墨染寺との関わりは不明)。

 このお寺は清和天皇勅創の貞観寺の旧跡で891年に藤原基経(もとつね)の死を悲しんだ上野峯雄(かんづけのみねお)が「深草の野辺の桜し心有らば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだ桜があります。今はその桜の3代目といいます。秀吉もあつく信仰したが、江戸期は荒廃し学妙が再興しました。

 <余話>京阪の墨染駅はこの寺院の名前。実は現在の藤森駅は名神の下ですね。藤森ではありません。旧名は師団前という駅名。でも敵にばれるので名前を探して藤森と命名。藤森神社は南正門や鳥居はずっと南ですね。だから駅名は「墨染」でなく「藤森」の方が適切。もし初めから「墨染駅」でなく「藤森駅」だったら 現在の藤森駅はどのような駅名になっていたでしょうね? ところで、伏見の名水シリーズも長くつづきましたが、名水や井も深く掘削されたり、埋められたりですっかりかわってしましました。それに読者のみなさんよく辛抱強く読んでおられるのか、次号はどこの名水か?楽しみに・・・なんて。次号は小野小町のホッとする暖 かい丹後伊根に伝わる<余話>を紹介しましょう(小町さんも水とは「小町姿見の井」「小町産湯の井」「小町涙の井」などついてまわります)。

 
 
 
 伏見の名水探訪 月桂冠「さかみづ」=Sakamizu-Water の巻

 伏見の蔵元で一番大きな酒造会社は大倉酒造(通称=月桂冠)でしょう。歴史も古くて江戸期寛永14年に笠置町(木津川市の東奥)の大倉治右衛門が宿場町として賑わう伏見に創業(屋号「笠置屋」、酒名「玉の泉」)したのが始まり。明治に入り最新の科学技術を導入し、樽詰全盛時代に防腐剤なしのビン詰を発売し大ヒット。さらに「コップ付き小ビン」が鉄道省で「駅売り酒」として採用されて、月桂冠(905年日露戦争勝利の勝者栄光記念として「月桂冠」と命名し登録商標。伏見の名手と言われる中には戦争時の名前がありますね)が全国的に躍進。研究所も設立しバイオ部門に進出中。これからの季節は暑い夏、ビールもいいけれど冷酒もまたいい。日本酒頑張れ!
 さて肝心の名水「さかみづ」。創業時からの井戸で今写真のように清水がコンコンと湧き出ています。柄杓も用意されて効き水(美味でまろやかな冷たさが口中で広がります)。しかし、いずこの名水も同じで、今の井は1961年に掘削して地下50㍍から汲み上げています。ちなみに「さかみづ」とは「栄え水」で古くから伝わる酒の異名でもあるといいます。
 飲みたい人は入場料を払ってください。でも、酒造の歴史館、酒蔵や大きな樽など見物ですし、何よりも無料で利き酒が振る舞われるんだよ(原酒・生・特製ワインの3種類も頂けるし、お帰りにはお土産に一本もらえて元以上に取り戻せまっせ)。 

 
 
 
 伏見の名水探訪 醍醐3名水の獨鈷水の巻

 前回紹介した赤間水から旧街道を小野小町で有名な随心院に行くまでのちょうど中間地点の上ノ山中腹(小町さん99歳にして色を求めてさまよっていたので「野色山」と古文の郡誌に書かれている)少し入ったところにあります。
 周りは鬱蒼とした暗い湿っぽい林で古い墓場。その先ちょっと上がったところに大正時代に蜷川知事と親交深き清水寺貫首大西良慶がつくった京都府下で一番古い老人ホーム(特別養護老人ホーム同和園)があります。
 墓場に朽ちたお堂の前にある井で、デッカイ老杉の根本に「獨鈷水」。獨鈷はインドの護身用の兵器。煩悩を破る仏具で両方から鋭い刃が3本づつでています。巡業中の弘法大使喉渇いて、3本足の白い亀あらわれて大師を大木の杉に案内。大師手にしていた獨鈷で杉の根元を掘ると清水がコンコンと湧き出た。「おこうずいさん」とも言われ、長く湧き出る。明治になってからは汲み人絶えず長~い行列まででき、茶店も3軒ばかりあったとか。
 醍醐新町裏町の旧街道入り口にも真新しい石碑もあるし、現場にも古石碑がありますね。ただ、明治維新前後に廃絶された極楽寺の跡に三界万霊なる苔むす石碑もあって薄ら寒い霊気がいっぱい。
 一人でウロチョロしていたら杉の巨木の根元にあるこの井戸に吸い込まれそうに、小走りになって(アッ誰かが引っ張ってる・・・)必死で逃げた。足が震え心臓ドキドキ、顔面真っ青、おお怖ワー。 

 
 
 
 伏見の名水探訪 醍醐3名水の巻

  醍醐3名水の一つ有名な「醍醐味じゃ」という上醍醐に湧く醍醐水は以前紹介し、つづいてあとの2水を紹介すると言っていたのを忘れていました。
 先日醍醐の桜取材でふっと思いだして日を改めて探検。
 まず「赤間水」です。三宝院のある下醍醐寺の北側に長尾天満宮があります。小さくても醍醐寺守護するお宮さん。その北側に「赤間水」があります。
 実は20㍍のところにあってどちらが本当なのかわかりません。写真は東。京都市指定有形文化財の平安時代の仏像があり、地域の古老たちは「赤間の薬師さん」と親しまれています。文献によると、源平合戦の戦乱をさけて山口県赤間から仏像とともに逃れてきた人々が定住したのに因んで赤間と言うとのこと。
 共同の井戸を掘削したんでしょうね。古老のおばあさんがいろいろ語ってくれましたが、まったく忘れた。    by.N
(編)「醍醐3名水」の「獨鈷水」は、次号で掲載いたします。

 
 
 
   伏見の名水探訪  弘法大師杖の水の巻

 桃山北堀から東にある京都老人ホーム前を通って山道は竹林に入ります。二股に分かれ道。
 左は大岩神社を経て名神。右に入ると広大な竹林。麓は小栗栖。その手前が怨念の空気漂う例の明智の藪。天王山の戦いに敗れた光秀が少数の部下を従えて山科から坂本城に逃亡する山道だ。峠から小栗栖の中程、村人に襲われた付近に「弘法大師杖の水」の井と祠がある。
 この峠を抜けて伏見に入る旅人は多かった京道。その光秀ご一行が通った時よりさらに昔々、今からざっと1300年前の平安時代、弘法大師がここを通ったんです。ともかく峠といっても東西とも急な坂道。大師もほとほと疲れたんですね。また喉もカラカラ。大師何を思ったのか突然杖を地面にブスッと突いたんです。なんと、その穴から冷たい清水がコンコンと湧き出たんですね。スゴーイ!あの立命館大の安斎育朗大先生も脱帽だ。宗教家でもあるし政治家でもある大師さま、超ウルトラマジシャンでもあったんですね。スゴーイ!ともかくこの井、その後づーと枯れることなく旅人の喉を潤すことになったんです。いつしか村人らはここを「弘法大師の水」と呼ぶようになったとさ。
【余話】①今はちょっと飲むのはどうかと・・・どうしても飲みたい人はおなかの薬を。 ②例の明智の藪ですが、戦闘員(武士)は上等な服、鎧、兜、刀、靴など身につけていますね。だから敗残兵は土民や夜盗に襲われやすいです。土民は竹槍で襲います。だから、明智の藪から小栗栖付近は光秀の怨念に呪われ残忍・不幸・凶作がつづいたんです。村人はこの土地を近くの日蓮宗本経寺に寄進し有難い法要をしてもらってやっと安穏な生活にもどったとか。 by N

 
 
 
 伏見の名水探訪  牛頭水(Gozusui)の巻。

  外環横大路交差点の北東100mのところにある田中神社の井(右写真)をご案内しましょう。
 ざっと950年前、祇園感神院(ぎおんかんしんいん=今の八坂神社)から牛頭天王(ごずてんのう=インド祇園精舎の守護神で薬師如来の垂迹<すいじゃく>とも)を勧請し下鳥羽田中里に移されたのがはじまりとか。社伝によると天正年間(関ヶ原戦の10年ほど前)に京都は大洪水。ために田中里にあった当神社諸建物は全て流されます。
 しかし本殿だけは倒壊せずに無傷で横大路の当地に流れ着きます。村人は奇跡じゃ!と総出で境内を造作し盛大なお祭りを行ったと伝えます。さて、下鳥羽から横大路にかけては京の玄関口。秀吉時代は宇治川・桂川・鴨川などの整備で魚市(羽束師橋の袂に祈念碑あり)や水運業が盛んになり江戸時代に入っても繁栄しました。ために田中神社は魚市、水運陸運の守護神として崇拝。
 東海道線、京阪電車開通によって旧千本通り界隈に軒を並べていた魚市や水運業は跡形もなくなりました。
 本殿は1816年(文化13年)に建立され、拝殿は1996年に建立。本殿左手に井戸があったのですが1995年に参道に移設されました。
 井に設置された龍口からコンコンと清水が湧き流れ落ちています。by N

 
 
 
   伏見の名水探訪

今回は「延命水」「寒の水」「飛鳥田神社の井」の余話です。

<余話1>このシリーズ最初の城南宮の菊水の巻で若水、延命水を紹介しました。
 若水とは元旦の初日に汲む水を言い古来から新しい生命が再生すると信じられる風習で井や清水流れる川へ我先に一番水を汲みにいきました。東大の偉い学者先生の研究では、若水に纏わる習俗は中国や朝鮮、ベトナムなど東南アジアの諸民族に太古から共通する民俗と言います(龍の口から流れる清水はまたいつかに)。

<余話2>「寒の水」=小寒(今年は1月5日)から大寒(1月20日)までの清水。
  小寒も大寒も24節気。寒中の清水は腐らず酒にも醤油も寒造りをします。そして寒い中の紙漉(かみすき)もビシッと張りがあり上質の紙。

<余話3>写真は田中神社近くの飛鳥田神社の井(底に水あり)。
 神代から綴った「日本紀略」に記すとの京都市の説明。でも、1600年代半ばまでに建立され、独特な工法の貴重な本殿が倒壊寸前。市長さん議員さんなんとかして欲しい。

 
 
 
   伏見の名水探訪 金湧水(Kin-yusui)の巻

 深草大亀谷敦賀町(桃山北堀公園の北東)にある佛国寺境内の金湧水。
 桃山城築城のおりに、秀吉は桃山城北東の鬼門の厄除けのために御香宮をこの寺の北側に移しました【家康が今の御香宮に戻したので、古御香宮〔ふるごこうぐう〕と言われ小さな祠があります】。
 江戸時代初期の1678年(延宝6年)、高泉和尚がこの地にあった永光寺を復興して黄檗山萬福寺に属す「佛国寺」と名付けたのが起源と伝えます。
 佛国寺と言えば韓国慶州の石窟庵のある世界文化遺産登録が有名ですが、高泉和尚は、中国の福清(フーチン)の人で宇治黄檗の隠元禅師の招きで来日し、萬福寺五世となった偉いお坊さん。重要文化財の中国風の銅板碑は有名で、近衛家熈【いえひろ=江戸中期の公家で摂政関白。江戸幕府との関係改善を尽くす】の撰文や小堀遠州【28歳で作沿奉行。江戸城、伏見城、大阪城ほか名造園家で茶人、文化人でもあり伏見奉行にも】の墓などもあります。肝心の名水の金湧水【名著『京都民俗誌』にも「茶によい」と紹介】ですが、写真のように瓦やら土やらで埋められてセメントでびっしりと塗り込められていました。和尚さんと先代の奥方に聞きますと。醍醐の方の地下鉄工事の頃から水が枯れ始め、また水質も悪くなったので埋めたとのこと。和尚さんとお母さんは「ちょっと前までは綺麗な水がコンコンと湧いていたんです。ものすごく美味しかったし、近所の人たち御飯を焚いたり、お茶を沸かすのにしょっちゅう汲みに来てました」と懐かしく語ります。また湧いてくるかも知れませんよと言えば「ホント。湧くでしょうか?」と。りっぱな納骨専用のお堂があり入り口両脇には写真のような中国風の観音さんが建っていました。ほんとに惜しいですね。伏見の名水は今や全てがポンプでしか汲めないんですね。ここもポンプで汲み上げたらと提案しておきました。今回はちょっと教科書的に書きました。 次回は余話「小町裏話」を・・・。N・R

 
 
 
 伏見の名水探訪  深草の滝(Fukakusanotaki)の巻

 今回は、地下水でなく流れ落ちる水=滝の探訪。稲荷山南西麓から深草山一帯は広大な竹藪が鬱蒼とと繁っています (「くれたけ」と言われる説の一つ)。また、深草という名は鴨川までの一帯が深い竹林・森林にあったという有力な説もあります。 (区役所深草支所管轄の町名は全て深草越後屋敷町、深草大亀谷**町、深草善導寺町、深草勧進橋町などと全て冠に深草があります。

 古代は深草郷、中世は深草<天皇領や東寺領など>、江戸期から明治初期までに紀伊群伏見廻り8ケ村の一つ深草村、その後紀伊群深草町、 そして伏見市、竹田村などとともに京都市に編入され伏見区に)。
 さて、この深い森も秋も深まって紅葉がちらほら見えます。何と言っても青い竹林で圧倒されます。この竹林や森林にたくさんの滝があります。
 名前がある滝だけでも大岩滝・末廣滝・七面滝・青木滝・弘法滝・命婦滝・白菊滝他が、観光ルートの壮大な滝でなくて、 こちらは高さが30㎝たらずの滝もあれば、白菊滝(写真)などは約10mほどの高さから一条に流れ落ちる滝もあります。 多くの滝には小さな祠や鳥居が置かれてゾクッとする霊験を漂わせています。ところで、これらの滝の水は飲めるのでしょうか?
 きれいに見えていても・・・地元の方に聞いてくださいね。

 余話=稲荷山中腹から南に道をとり、立命館高校方面からさらに東南に道をとると滝に遭遇します。 また下ると、若沖で有名な石峯寺(以前この名水で「茶碗子井」で紹介)、七面宮、宝塔寺、完宗院、霊光寺、十二帝陵ほかたくさんの寺院、神社、御陵があります。 またあたり一帯が自然風景保全地区に指定されており、カブトムシ、クワガタなどの昆虫や、 ウグイス、シジュウガラ、ヤマガラ、モズ、ツグミ、ジョウビタキなど鳥たちの宝庫でもあります。
私たちの身近なところに最適なハイキングコースがありますね。(N・R)

 
 
 
 伏見の水探訪  伏水(Fushimizu)の巻

 酒といえば灘と伏見。出荷量は灘。おいしさはどうでしょう。灘が好きな人もあれば伏見のお酒が好きな人も。どちらも甘口・辛口ありです。ということで今回はお酒の水。 月桂冠(大倉酒造)が有名ですが、ここ黄桜も有名。黄桜の源水名には伏水(ふしみず)という名前がつけられています(写真)。

 この水はきめ細かでまろやかな口当たりと淡麗な風味が特徴との説明文ですがどんな風味か?ちょっと呑んでみましたが、ホントいい風味。 ところで全国各地には地酒がありますね。伏見も古くから地酒があったもよう。秀吉が築いた城下町の伏見はもちろん酒造りが盛んになりました。 でも、徳川幕府になって各大名屋敷も衰微して最悪に。でも水運・宿場となって伏見は酒造りに活気が。 しかし、鳥羽伏見の闘いで伏見は焼け野原。酒造会社も壊滅。水運・宿場も衰微し酒造りも大ピンチ。 これを救った(?)のが陸軍第16師団の創設だ。

 軍人さんや兵隊さんは大の酒飲みで、軍都伏見の登場。酒造会社も雨後のタケのように設立され繁盛。師団がなかったら伏見は一地方の地酒にすぎなかったでしょうね。 戦後派16師団もなくなり、また、ビールや洋酒が入ってきて多くの酒造会社がなくなり、その跡は巨大なマンションやスーパーが。 それでも現在23の伏見の酒造会社があります。さて、伏見の地下水は名水で酒造りにピッタリといいますが、 以前にも紹介したように、今はポンプで地価何百㍍の水を汲み上げているんですから、一昔の源水ではありません。

 黄桜余話=大正14年(1924年)創業。1959年の清水崑の河童の漫画登場、「河童の歌」と芸者・三浦布美子のCMで一躍有名に。 酒造工場の庭に黄桜(薄く緑かかった白い花:今もある)が社長が好きで命名したとか。 読売グループと関係が深く後楽園球場・東京ドームのスポンサーとか。現在はさまざまな商品開発で売り上げも伸ばして従業員280名近い。 西大手筋の高瀬川に架かる北東の写真などに載る酒蔵は松本酒造で黄桜はその分家です。 直営のレストランで美味しい料理とお酒で・・ふれあいユニオンで一度いきたいですね。(N)

 
 
 
 伏見の名水探訪 不二の水(Fuji no mizu)の巻

 平安遷都以前に創建された古社の藤森神社本殿右にある「不二の水」。不二とは二つとない良質で美味しい水の意で、コーヒーお茶、御飯にお汁など10倍美味しくなるとか。毎日ポットを持って汲みに来る人が絶えません(無料)。
写真の左手の看板に「水六訓」の高札。「一、水は尊し、水無くんば成らず育たず心ある者その加減を知り水を大切にせよ・二、水は美し、冷熱に応じて虹と化して氷と変わり水晶となる・・・五、水は恐ろし、人を呑み船を覆し山野を汲して地表をも変貌す・・・」三、四、五は何と書かれているでしょうか?
 さて、ここ藤森神社は古社なのでいろいろな伝説いっぱい。まず、熊襲(九州南部)や朝鮮征伐=侵略で勲をたてた日本武尊(やまとたけるのみこと)や神功(じんぐう)皇后などを祀る深草の産士神。5月5日藤森祭=貞観の祭が起源、石川五右衛門が盗んできた手洗鉢の基礎台石、近藤勇が額を外した鳥居、「菖蒲の節句」発祥地、駆馬神事は有名。日本最初の学者舎人(とねり)親王を祭神し学問の神でもある。本殿バックの祠二つは重要文化財。6月「紫陽花の宮」紫陽花は見事。
 *余話。 名水探訪で何回となく登場した小野小町さん。その伝説や全国無数にありそうですね。特に東北地方はすごい。出羽国(秋田)生まれの采女(うねめ=群の小領以上の家族から選んで奉仕させた後宮の女官)との有名な伝説で小町の産湯を汲んだ古井戸も現存。9歳にして京に上がる。小町年頃になり帰郷して植えた芍薬(しゃくやく)も現存し枝をちょっとでも折るとたちまち雨が降り出し田植え(雨乞い小町)。もちろん小町墓もあれば深草少将墳墓もあります。人間と牡鹿が結婚して小町が生まれたとか父と契りを交わしたとか、もう伝説はロマンどころかとどまるところ知らずに広がって行きます。
 *京都府北部の京丹後市(旧大宮町)に伝わる小町伝説。大宮町の絵本サークルが制作し、町教育委員会が2001年発行した『小町ものがたり』という優れた絵本があります。それはそれは美しい心暖まるお話。またの機会にお話ね。

 
 
 
 伏見名水探訪 金運清水(Kin'un Shimizu)の巻

 伏見区役所の少し北にある大黒寺境内にある新しく2001年に掘られた井戸でコンコンと湧く「金運清水」。現世利益の大黒さんの霊験あらたかな水で金運バッチリ、資産倍増、厨房守護と子孫繁栄のご利益ありの有難い清水。この清水で世の格差と貧困が無くなったら苦労なし。
 昔は空海(弘法大師)開基の長福寺と言いました。秀吉深く信仰し武家の信仰厚くなり江戸時代は近くの薩摩藩藩邸が置かれました。藩主島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が祀られて寺名も大黒寺に(1615年に薩摩藩祈祷所に定められて通称薩摩寺とも)。西郷や大久保利道などが国論を議論した寺院で、寺田屋事件での犠牲者や墓碑や伏見義民の文殊九助の遺髪塔、木曽川治水工事の責任をとった家老平田靱負の墓などもあります。

(余話)今回の余話は文中の伏見義民の文殊九助について触れてみましょう。伏見の労働運動も支えた中書島の作家西口克己執筆の『文殊九助』や『直訴』など小説化されたのがきっかけになって、年一度、御香宮神社正門の左側にある義民の碑で神式の義民祭がおこなわれるようになりました。義民の子孫や党派を超えて府市会議員など多数の人たちが参列します。
 さて、九助。西日本の交通・情報結節点として幕府直轄地の伏見には伏見奉行所が置かれました。文人家でもある小堀遠州は有名。その子孫、小堀政方(まさみち)が奉行に赴任しました。この政方が問題。遊興三昧にどっぷり。癒着した一部商人と結託し町民にすさまじい過酷な負担を課します(TVドラマの黄門登場の悪代官や悪徳商人みたい)。町民達はやがて団結します。1785年、刃物鍛冶屋の文殊九助ら町人7名が苦心惨憺して江戸に行き幕府へ直訴。幕府は政方を追放するのですが、直訴は御法度。厳しい詮議のすえ全員が獄中死。義民として密かに語り継がれました。明治になって顕彰石碑(勝海舟文・三条実美揮亳)が建てられました。山宣も有名ですが、彼ら伏見の義民達の闘いを今日の私たちも受け継いで行かなければと思います。(余話が長くなってすみません)
 
 
 
 伏見名水探訪  大善寺の巻(六地蔵)

 毎年8月22日23日は洛外6ケ寺【伏見六地蔵の大善寺(奈良街道)、上鳥羽浄禅寺(大阪街道)、桂地蔵寺(山陰街道)、常盤源光寺(周山街道)、出雲上善寺(鞍馬街道)と山科徳林庵(東海道)】の地蔵を巡って家内安全、無病息災、五穀豊穣を願う風習。各寺一色の計6色のお幡をいただくと疫病退散、福徳招来すると今も大勢の参拝者があります。写真は大善寺(JRと京阪六地蔵駅近く)で、東の門から入った右手にある井戸です。汲み上げた冷たい清水で猛暑の8月地蔵巡りの汗を拭い喉を潤したのでしょう。今は蓋がしてあって、若いお内儀に頼んで蓋をとって井の中をパチリ。水はありましたが今は飲料には適さないとのお話。
 奈良街道へは五条大橋の本町一丁目から南下する本町通りを通って伏見から大善寺の六地蔵へと通じています。六地蔵からはJR奈良線添いが奈良街道。だから大善寺は古来より京、宇治、山科への分岐点で多くの旅人が往来していました。平安時代に小野篁(たかむら)地獄を垣間見た。なんと無数の人々が苦しみ喘いでいる。そこに僧姿の菩薩が出現して全ての人を救い、篁も病癒えて元気に。これにより木幡山の一本の桜を切り出し6躰の地蔵が刻まれ納めました。その後、平清盛の命によって街道口6カ所(前述)に六角堂を建て1体ずつ分置されました。(余談話=この付近には京都市内最大の前方後円墳の「黄金塚1号墳・2号墳」があります。伏見城時代には藤堂高虎や小堀遠州の屋敷もあり、伏見城築城に際して膨大な物資を運んだ「お舟入り」の跡も残存しています)

 
 
 
 伏見名水探訪  茶碗子(Chawanko)の水

 北深草の石峰寺(Sekihouji)は、約300年前に宇治黄檗の万福寺の千呆(Segai)和尚が創建したと伝えます。江戸期の有名な画家伊藤若沖(Jyakutyo)が当寺院に住んでいた時に作成した石造釈迦如来像、十題弟子、五百羅漢など一台石仏群があります(若沖の墓もある)。
 創建当時は諸堂が立ち並ぶ広大な伽藍でした。その西端(JR奈良線)辺りの境内(今は民家が建ち並ぶ)に井戸があります。写真のように地蔵堂の隣にゴッツイ鉄のフタが被せてあって風情も何もあったものではありません(鍵までしてある)。この古井戸が「茶碗子の水」。
 この清冷な湧き水は伏見だけでなく京都の名水の一つでもあるんです。しばし耳を貸して下さいね。昔の昔、都の茶人たちは宇治川に架かる宇治橋から汲んだ水を運んでは茶の湯にしてたんです。ある日のこと。茶人の下男(使用人)が宇治で汲んだ水を大事に抱えてようやく稲荷あたりまで来たのですが、この水をこぼしてしまった。今さら宇治へなどいけません。偶然に近くに湧き水。この水を汲んで持ち帰った。主人は茶を点てて一口。いつもとは違うんです。バレちゃった。問い詰められて、泣きながら事実を話したんですね。もう追放になると思ったのに、逆にお褒めの言葉。「宇治の水より十倍もお茶にぴったりじゃ。香・味もとろけるようじゃ。よう見つけてくれた」と笑顔に。それからは遠い宇治ではなく都人はここの水を茶の湯に。(汲めるようにしてほしい)
 (余話=先月号の小町さん。先日チャリンコで鞍馬街道市原の小町寺探訪。「小町姿見の井」を発見。百歳で朽木の如く亡くなり葬う人なく髑髏野ざらし。目穴から一本のススキが風にふるえていたとか。「穴目のススキ」と言う。当地は昔は死者を葬る霊城。おおこわ。霊感の風吹いたその時、一人のうら若い女性が訪ね、フッと消え去った。おおこわ、ゾクッ。マイチャリ必死で貴船神社へ逃げる)

 
 
 
 伏見名水探訪   産湯(Ubuyu)の井戸の巻

 今日は六地蔵から東の方角の日野にある誕生院を訪問。800有余年前、親鸞が誕生したと伝えられる西本願寺の聖地。親鸞は1173年平安時代末期、日野一族の日野有範(Arinori)を父に、母は源治八幡太郎義孫娘吉光女(Kikkounyo)。幼名松若丸。9才にして比叡山に出家し堂僧になり勉強。1201年に下山し京都六角堂で聖徳太子の示現により法然の門に入りました。そのご弾圧されて越後に流され、赦免後結婚し妻と東国にて「悪人正義」などの思想を広め一向宗(=浄土真宗)の開祖となります。
 さて、写真は誕生院(法界寺に隣接)産湯の井。同エリアには「ゑな塚」と呼ばれる松若丸のありがた~い「へその緒」が埋められた跡もあり、「いく春も絶えぬ うぶ湯のながれ哉」と江戸期は女性俳人の田上菊舎(Tagami-Kikusya)の句碑もあります。同寺院は保育園でもあり園児の賑やかな声が聞こえます。近くの山間には『方丈記』を』執筆した鴨長明の隠居跡も。「恋しさの行方もなき大空に又みつ物はうらみ成りけり」と詠い、頂上から京や伏見の里を遠見してたんでしょうか。
 余話=ところで、親鸞など新興の仏教宗派の祖がたくさん生まれた平安時代から鎌倉初期は長くつづいた奴隷制(天皇制)が崩壊し軍人が政権を担う封建社会への大きな激変の時代。教科書やNHKの大河ドラマにはいろいろ権力欲に燃えた有名人が歴史を創っていったように描かれていますね。でも、私は歴史は圧倒的多数の働く人々こそ新技術をあみ出し、田畑を開墾し生産力を発展させ時代を進歩させた主人公ではないかと思います。そして一向一揆など各地で圧政者との闘い(伏見や南山城も先鋭的)。貴族社会の源氏物語やNHK大河ドラマでの働く人々はみな片隅。でもね、庶民こそひとり一人がかけがえのない人生ドラマがあり主人公。蟹工船の労働者もね。私ら、ふれあいユニオンメンバーもひとり一人大切な人生があるんですね。そして仲間がいるんですね。


 
 
 
 伏見名水探訪  清和の井(Seiwanoi)の巻

 西墨染め通にある料理旅館の玄関口にある井戸でいつも竹筒から清水が流れています。説明書きによると、昭和の初期に建てられた建物を料理旅館として営業を始めたとか。創業時にやく70mほど掘削してわき出たもようです。今では、「伏見名水スタンプラリー」(伏水会作成)に掲載されている11ヶ所の1つになっています。ちなみに江戸期の伏見7名水は、*常磐井、白菊井*、春日井、苔清水、竹中清水(山城志:*紹介済)や旧堀内村(万畳敷から桃山南口の丘陵地)の7井も有名でしたが今は不明(御香水はその内のいつかな?)。醍醐3名水なんでのもあり上醍醐の井は紹介しましたね(次号は醍醐赤間井の巻か?)
 さて清和についてもう少し説明。清和の水は料亭の命。同料亭の食材は旬のものを生かした京料理を利休箸でいただくのはちょっと贅沢かな。この広い庭園にある大きな池を潤す水は清和の井からコンコンと湧き出す水が流れ込んでいるのです。
 説明によりますと、清和という名前は「世の中がおさまって穏やかなこと、空が晴れて清らかな様子」を表したこの屋号「清和」から名付けられたとあります。「ハケンギリ」や「ロケット発射」「海賊」なんで穏やかでない昨今ですね。憲法9条平和的生存権、25条豊かな教育権、27・28条労働基本権がほんとうに光り輝く世の中にしたいですね。

 
 
 
 伏見名水探訪 墨染井と遺愛井戸の巻

 「名水」というより「迷水」のご案内。墨染めにある税務署(陸軍憲兵隊跡)の少し北の欣浄寺(Gonjoji)を探訪。鎌倉時代の1230年頃道元禅師がこの地で布教活動を行い創建。いろいろ改宗を経て現在は曹洞宗。この寺の境内の池(小町姿見の池)をはさんである二つの井戸。もともと当地は有名な深草少将の邸宅があったところ。邸宅内にコンコンと湧く「墨染井」と呼ばれる井戸。少将はこの水が大好きで日々の生活用水として愛用。ところで、深草少将はウルトラ美人で知的センス抜群のあの小野小町を恋いこがれ、裏山の大亀谷を越えて山科隋心院に通うんです。小町が「百日連夜尋ねたら」と言うもんだから少将は本気になるんです。ところが九九日通ってあと一日。目前だったのですが体力も尽き果て凍死します。最後の方は悲嘆にくれて涙いっぱい。この涙が溜まって「小町恋しの水」の井戸(写真/なんてロマンな呼び名。今も湧き出てます。しょっぱいかも)。その井戸から少将が通った道の一部が竹薮に残って「少将通いの道」(写真・井戸左の石道)と名付けられ、その後この道を歩くと恋いも逃げ、訴訟事件でも負ける(*)と伝えます。
 裏話=隋心院には小町百歳のアッと驚く像や世の男どもの求愛のラブレターを破って捨てた「文塚」があります。ボロに身を包み髪で100歳の小町が毎夜、男を求めて小野付近の野山を彷徨い、遂に少将の霊に取り憑かれて発狂し地獄とか(通りかかった坊さんに説諭されて反省し、極楽浄土にとの説もあります)。
 余話=①少将が小町の幻影を映した池が「小町姿身の池」。本道には「伏見の大仏」毘盧遮那仏と道元石像、小町塚もあります。ロマン満載のお寺。(文中の*は秀吉も出てくるややこしいお話でまたいつか)②深草の少将という人物は10冊ほどの著名な人名辞典などを調べても出てきません。広辞苑には伝説としてちょっと記述されているだけ。③小野小町も石田東南の小町という村の小町(=小娘)、全国各地に小町さんの伝説があります
 
 
 
 伏見名水探訪  御香水

 環境省の日本名水百選にも選ばれている御幸宮神社の御香水。御皇宮の主神は神功皇后(シングウコウゴウ=九州や朝鮮など攻略) で何度か引っ越して江戸期に現在地に鎮座。御香水は古く1100年前境内から香り高い水が噴き出し、 これを飲むとたちまち病気が治ったとか。井戸は明治になって枯れてしまい、1982年に復元されました。 伏見は酒造りの地場産業。酒造りは水が命。伏見の井(地下水)は酒造りにピッタリ。連日、ポットを何本も持ってきてくみ出す人多しで順番待ち。

 御皇宮を訪れるならここもという余談話。
①写真の手水鉢の左手に水かけ占いなるものがあります。 この真っ白いお札を水に浸せば主神がポッカリ浮かび上がります。間をおかず願い事を。 主神は消え去りその願いを叶えてくれるとか。

②24号線の東の石の鳥居から入ってすぐ左手に、 天から降りてきた白菊翁(太玉命)が住んだ後、翁は石になったと言われる白菊石があります。 そのすぐ横には江戸時代、竹田街道の車道に敷かれた車石(棒鼻あたりの物)もあります。 その裏側には伏見城の巨石が無秩序に積まれています。

③社務所の前には京都市登録天然記念物に指定されている珍しいソテツがあります。 なんでも1605年過ぎあたりに植えられたとか。

④社務所でお金を払えば庭園に入れます。  伏見奉行でありまた庭園などに造詣が深かった小堀遠州造作の庭園の一部が移管されています。

⑤本殿右の暗い絵馬殿に行きますと絵馬に描かれた猿が抜け出して御香水を飲んだとかの絵馬が掛かっています。(古くて解らないかも)。


  「仙人のむかしのあとは千代のかほりに残りけるかな」(通禧)

 
 
 
 伏見名水探訪  白菊水の巻

 山本酒造は清酒「神聖」の仕込水と使われている白菊水。このあたり久米の里といっていた昔々、 水枯れて干ばつに見舞われたとき「老翁の育みし白菊を振り振り給えば清冽な水、滝々に尽きず湧き稲豊に稔った」という。 中硬水で伏見独特の芳醇な香りで仕込水として使われます。 また、緑茶、炊飯、コーヒーなどにも抜群の美味しさが発揮されるので連日写真のように行列が出来る程の盛況です。

 ところで、右の地図*印のところが白菊水の場所ですが、 『印の角は「四ツ辻の四ッ当たり」と言われています。油掛通を東の方に行けば鳥せいに突き当たり、 南浜通りを北進しても本願寺別院に突き当たりと城下町特有の「遠見遮断」(トオミシャダン)です。 月桂冠の角もそうですね。でも伏見城よりかなり離れているのに不思議。 多分京町の東側にあった伏見奉行所防御の構えであったのでは「鳥羽伏見の戦い」では別院は会津藩の本陣でした(ちなみに官軍の本陣は御香宮)。 だから寺田屋も含めてあたり一面は火で焼き尽くされました。

 
 
 
 伏見名水探訪  醍醐水の巻

 桃山丘陵西側の伏見とは水質は違いますが今回は上醍醐の水です。 醍醐寺は三宝院や五重塔の下醍醐と、今夏、雷で消失した西国11番札所准胝堂など上醍醐があります。 醍醐水は上醍醐。開祖の理源大師が山中で修行中、地主神が現れて湧き出る水を与えて「群生を利済せよ!」と言って消えた。 飲んでみると「こりゃ美味しい、醍醐味じゃん」、「閼伽水(前号で説明)じゃ、笠取山を醍醐山に名前をかえたろ」と写真のように石組みを組んで醍醐水とか (会話は今風訳)。醍醐は乳を煮るとき、表面に浮き上がる酥(ソ)や糊のような液体で美味、滋養に富む (=仏教での最高真理でほんとうの深い味わいの意味。写真は普段見られない祠内部の石組みです。 余話=秀吉伏見城内の時、家臣の面前で手紙を書いていたが醍醐の漢字がわからない。それを一人の家臣が見てニタッと笑った。即座にバッサリ斬り殺したとか

 
 
 
 伏見名水探訪  閼伽水の巻

 中書島の30 船着き場にある長建寺の閼伽水(Akasui)は古代インドの水の神。日本では仏さん供える水。 同寺は弁天さんとしてしたしまれていますが、弁財川は河川を神格化したものとも言われ京、大坂を往来する廻船の安全を守護神。 境内には水の神、水天尊も祀られています。四季折々の木々の花、「花人の落合ふ駅や中書島」の虚子句を刻んだ句碑、 1000年前の日本最初のおみくじもあり広くない境内は結構楽しいです。

 湧き出る水は大倉の名水と同じ良質の地下水で備え付けのひしゃくで飲めば市販されている六甲山の天然水などよりもおいしいことはもちろんです。 大倉酒造は有料ですがここは無料。でもお賽銭ははずんで弁天さんを拝むと幸福になるとか。

 
 
 
 
 伏見名水探訪  板橋白菊の井

 伏見板橋小学校校門を入ってすぐ左手の白菊水。

 奈良時代の昔。伏見九郷の一つ久米村(旧伏見の中心部)でのこと。 照りが続き稲が枯れた時に村の翁が「白菊に溜まった露を注ぐと、清水がわき出すんだよ。これホント」と言ったんです。 村人達は「ほんまかいな」と思いながら、その通り注ぐとたちまち清水が湧き出て田圃には綺麗な水が入り飢饉を逃れ、 この年は豊作にとか。

 時代は下り秀吉が伏見を天下の政治中心都市の町づくり。金札宮を少し南の今の場所に移転。ですから、 板橋小学校は金札宮の旧跡と言われています。

 井戸の深さは約58㍍、20年前に掘られた。地元の人がポットなどで汲みにきています。 写真の女性は「ご飯やお汁などほんまに美味しいですよ。近所の喫茶店の美味しいコーヒーもここの水」とニコニコと汲みながら話します。 保存会が綺麗に保存していますので、薬代、水質検査代、ポンプ修理代などで年1000円のカンパにご協力くださいね。


 
 
 伏見名水探訪  菊水の巻

 伏見は広くて、いたるところに名水あり。探訪も東西南北満遍なくマイチャリ探訪。今回は京の都の西南を守護する鳥羽の城南宮さん。

 このお宮さん100種を超える「源氏物語」登場の花々たちが次々と四季を通して咲いています。 特に2月のシダレザクラ、四月のベニシダレザクラ、圧巻は30種300株のツバキで広い苑庭を彩ります。

 さて、ここの名水は「菊水」。「若水」「延命水」とも言われています。江戸期の随筆に、井の水を飲むとあらゆる病が治ると 今も連日多くの人がポットを手に汲みにきています。お百度を踏めばより効き目があるとか。 コーヒー、紅茶はもちろんお米の研ぎにも抜群。ところでこの水、 水源は遠く若狭の国から潜り、奈良二月堂のお水に通じているんです(地質学的裏付けは何もありませんが)。

 平安時代から庶民の熊野詣出立つの地でもあり白川上皇、後鳥羽上皇もここから何度も旅立ちました。 難波天満橋駅前に熊野詣の石碑があります。どうですか、みんなで熊野詣しませんか。