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保存会の発足

当社の縁起相伝えるに、昔、完治3年(1089)の秋、陸奥の豪族阿部貞任反逆に付御征伐のため、伊予守源頼義同八幡太郎義家陸奥国に御出発のとき、下野国の塩谷長者という豪民の屋敷や砦を打ち破り、直ちに御味方にして、時にその地の粉河(こかわ))寺の僧侶、海院阿闍梨と申す者を召連れ安積表を御通過の祭に、安積の西山に蛇龍が住んでいて、東の山から西の山へ往復する時に、暴風雨を起こして農作物実らず困難が甚だしかった。そのために安積の住民は義家朝臣に蛇龍を御退治下さいとの願いに義家公は、陸奥に入り鳥海の凶徒等の征伐祈願も有るからとて権五郎景政に命ぜられ、安積郡多々野ヶ原という所に御祈壇を築き、寛治4年(1090)4月7日、下野国塩谷より連れてきた粉河寺の海院に仰せ付けられ、陸奥鳥海の凶徒征伐並びに蛇龍退治祈祷の為、壇上に陰陽五張りの弓、並びに本黒の御鏑矢五筋を備え、僧の海院は壇上に目を注ぎ、鳥海の方に向い三日三夜の御祈祷終わって、鎌倉権五郎景政、甲冑六具に身を纏い給い、白綾の鉢巻きをして、大袖の鎧、水呑の緒を引き結び、弓小手高く鳥海に向かい、僧海院の祈りにまかして、一本の御鏑矢を放てば、安積郡の竹ノ内在家に下る。次に御矢に祈りをこめ給い射放てば、二の矢は同郡安子嶋にくだる。次に射放てば三の御矢は同郡早稲原村にくだる。次に四の御鏑矢をとり祈りをこめ給い弓を満月の如く張り放てば、同郡田村の荘の境福原村にくだる。次に五本目の御矢を取り暫く御祈りして、景政御矢を太郎義家に取次奉れば、義家朝臣多々野ヶ原の峰なる物見ガ舘に登り給い、如何にして安積庶民の憂いと災難の蛇龍を退治すべきかと祈りて、陰陽の弓弦強く張って東方に向い射放ち給えば、その矢は中丸山の峰に住んでいた大蛇の頭に当たり、大蛇は狂い立って山野を震動し空を雷電させながら、西の山を指して走り、西安積船津の湖畔に至りて遂に倒れ伏したり。その鏑矢は船津村に残る。しばらくして鳥海の凶徒征伐の御祈祷並びに蛇退治ありて、安積庶民の災いを除かせ給い、義家朝臣の軍は陸奥の鳥海に進ませ給う。ここに康治3(甲子)年(1144)9月18日景政公相模に於いて去し給う。その翌年天養元(甲子)年(1144)安積庶民は永年の災難が絶えるは、偏に景政公のご恩とその霊を合祀して、御霊宮と称し奉り村内安全を祈る。右四本の御矢のくだりし所に、皆公の御霊を祭祀し御霊と称して五社一統に4月9日、10月9日を以って春秋の祭日と定む。
                                                          (原文)



 竹ノ内   御霊宮   安子ヶ嶋 大光院之司(これをつかさどる) 
 
 安子嶋村  大鏑明神  安子ヶ嶋 安藤出雲之司(これをつかさどる)
 
 福原村   御霊宮   福原村  渡辺伊勢之司(これをつかさどる)
 
 早稲原村  鏑矢明神  下伊豆村 文殊院之司(これをつかさどる)
 
 船津村   鏑前明神  船津村  光大院之司(これをつかさどる) 
 

 
難語解説
 
 蛇龍(りゅう)
蛇と龍を一緒にしたような怪物
 
 阿闍梨(あじゃり)
    天台、真言の高僧の呼名
 
 陰陽五張りの弓
一切の万物は陰陽二気によって生まれ、五行中木、火は陽に、金、水は陰に、土は中間にあるとし、これらの消長により、天地の異変災祥、人事の吉凶を説明する、陰陽五行説の作法。
 甲冑六具
兜、胴、脇楯、栴檀板(せんだんいた)、鳩尾板(きゅうびのいた)、大袖の六つの装具をいう。
  
 水呑みの緒を引き結び
鎧を着たときに、鎧の後ろにある金の輪に紐を通して縛ったこと。
  
 白綾の鉢巻
    白地の綾に織った絹織物を鉢巻きにすること。
  
 鏑矢
鏑のところに穴があって、飛ぶ時音を出す弓矢の一種。