日本同盟キリスト教団

■■■長野福音教会 ON SITE■■■

「召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ人への手紙 4章1節-3節)

  • 初めて教会に来られる方々に、「礼拝」の意味や式次第の意味を知っていただけたら・・・という高橋宣広牧師の思いでつづられたやさしいコラムが、教会の週報に掲載されました
  • どなたにとってもわかりやすい解説になっていますので、お時間のあるときにご覧になってください
  • タイトルをクリックしていただくと、文章などが表れます                   

【礼拝プログラム解説】 11.「アーメン」って何ですか?

 教会では、主の祈りやあらゆるお祈りの最後に「アーメン」と言います。時には賛美の最後にも「アーメン」と歌います。
 「アーメン」は、元々、ユダヤ人の言葉=へブル語の単語で、「本当に」、「確かに」、「その通り」、「そのようになるように」といった意味があります。
 では、私たちはどんな思いで「アーメン」と告白したら良いのでしょうか?
①何も考えずに、ただ何となく。いつも言っているから。自然の流れで出てくる決まり文句の「アーメン」…。
②誰かの祈りに心から同意して、「そうだよ!その通り!」と援護射撃の「アーメン」。合いの手の「アーメン!」
③「本当にそうなりますように、心からお願いします。そうしてください!」と強く実現を願う「アーメン」。念押しのアーメン
 上記の①は論外としても、②と③は、私たち人間の側の真剣さや正しさを主張する「アーメン」です。しかし、「アーメン」には、もう一つ大切な面があります。それは、祈りを聴いておられ、応えてくださる神様が「アーメン=真実」なお方ですとの信仰告白です。
 宗教改革の後、16世紀ドイツで作られた『ハイデルベルク信仰問答』の最後の問いと答えはこうです。
 問い129 「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
 答え   「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。私が、これらのことを神に願い求めていると心の中で感じているよりもはるかに確実に、私の祈りは、この方に聞かれているからです。
 深い意味が解き明かされています。祈りの最後のアーメンは、私たちの祈りの確かさよりも、さらに確かに私たちの祈りを聞いてくださる真実でアーメンなる神様を思って、アーメンと告白するのです。
 私たちの祈りは、言葉足らずで、不確かなものです。また、私たちの信仰も弱く、小さいものです。そのような私たちの祈りを、真実でアーメンなる神様は確かに聞いてくださっています。そして、このお方は、祈る私たちのために、いつも最善をなしてくださる神様です。そのことを信じて「アーメン」と告白するのです。

2021年919日週報から

【礼拝プログラム解説】 10.「祈りについて~キリストのお名前で~」

 祈りをどのような呼びかけで始めても、最後は「主イエス・キリストの御名(みな)によって祈ります」としめくくられます。それはイエス様が、「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ1624)と、教えてくださったからです。
 聖書の中の「主の御名」などの「名前」は、その名を帯びた存在すべてを表しています。そして、イエス様のお名前による祈りには、2つの恵みがあります。
 第1に、神様に直結する特権です。私たちには、天の扉を開く資格はありません。それを修行や努力で勝ち取ることはできません。しかしイエス様は、十字架で私たちの救いを成し遂げ、天の父なる神様のみもとに直結する道を完成してくださいました。イエス様の御名によって祈るとき、私たちはキリストの十字架をかかげて、天の扉をたたくのです。そのとき、どんな未熟な祈りでも、イエス様の仲介を頂いて、神様のもとへと引き上げて頂けます。
 第2に、御名によって祈るとき、祈りはキリストの権威を帯びることができます。旧約聖書では、「御名によって」という表現の中に、戦いのイメージが込められています(詩篇445、Ⅱ歴代1411)。敵との戦いを意識して祈るとき、勝利のかぎは「御名」にありました。私たちも日々、誘惑や罪との戦い、悪との戦い、試練や敵対するものとの戦いに直面します。キリストの御名によって祈り、助けを求めながら、神様の勝利を体験していきたいと願います。
 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。(使徒16:18

2021年81日週報から

【礼拝プログラム解説】 9.「呼びかけて祈る」

 私たちの祈りは、1つの型にはめられるものではありません。様々な状況に応じて、自由に祈る特権が与えられています。それでも祈りには、基本的な型があります。「父なる神様」といった呼びかけに始まり、「イエス・キリストの御名によって」祈り、最後に「アーメン」で閉じられます。
◆ 呼びかけ
 「父なる神様」と三位一体の第一位の神に呼びかけるのが、一般的でしょう。イエス様の祈りもそうでした(マタイ6:911:2526:39、ルカ23:34,46ヨハネ11:4112:27,2817章)。そうではなく、「御子イエス様」と呼びかけても(使徒7:59、黙示録22:20)、あるいは「聖霊様」と呼びかけても、大丈夫です。聖書が啓示している神様は、3つの神ではなく、1つの存在の神様だからです。
 呼びかけは、祈りの形式的枕詞(まくらことば)ではありません。ご人()格と意志をお持ちのお方に、こちらからもつながりを求めて「お聴きください」と語りかけていくのです。また祈りは精神統一のためでも、呪文を唱えるものでもありません。祈りを聴いておられる神様が、助け手としてすぐそこにおられることを意識して、呼びかけることが大切です。
 「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。」詩篇46:1

2021年66日週報から

【礼拝プログラム解説】 8. 司会者の祈り:牧会祈祷

 主の祈りに続いて、司会者が礼拝に集った皆さんを代表して、神様に祈ります。その祈りには、神様への賛美、感謝、皆を代表しての罪の告白(悔い改め)、教会の神の家族や地域社会、国家、世界、被災地等を覚えてのとりなしの祈り(他者のための祈願)、そして、これから神のみことばである聖書が解き明かされるあたり、助け主なる聖霊が、語る者と聴く者の心に光を照らしてくださるようにと祈ります。
 私たちもその祈りに心を合わせて祈ります。
1.祈りに答えてくださる神様を信じて祈ります。
  「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」マタイ7:11
2.全能の神様を信じて祈ります。
  イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」マルコ9:23
  :主よ、私の心の目を開き、全能のあなたを見えるようにしてください
3.神様の最善を信じて祈ります。
  しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」Ⅱコリント12:9
  :私たちの願いが、神様の御心とは異なることがあることを、へりくだって受け入れます。異なっていても、神様の思いは私たちにとって最善であると私たちは信じます。なぜなら、神様は私たちを永遠に愛していてくださる天の父だからです。父は私たち子に最善を与えてくださるお方です。

2021年52日週報から

【礼拝プログラム解説】 7.「主の祈り」って何ですか?

 礼拝とは、神様と人間の出会いであり対話です。そして人間から神様へ向かう応答の語りかけが祈りです。聖書の中には様々な祈りが満ちています。詩篇は150篇の祈りの集まりです。主イエス様も祈りの人でした。多忙きわまりない激務の中で、イエス様は折にふれてひとりで父なる神様に祈っておられました。その姿を見た弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ111)と求めた時、それに答えて、「こう祈りなさい」(マタイ69)と教えられたのが主の祈りです。 
 私たちも2000年間、受け継がれているこの「主の祈り」を礼拝最初の祈りとしてささげています。「天にいます私たちの父よ」の呼びかけに続き,神御自身に関する三つの祈願,人間の基本的な必要にかかわる四つの祈願が続きます。この祈りの意味をかみしめ、その豊かさ・深さを覚えながら、私たちの日々の祈りとしていきましょう。

「主の祈り」
天にいます私たちの父よ。
御名(みな)があがめられますように。
御国(みくに)が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧(かて)をきょうもお与えください。
私たちの負(お)いめをお赦(ゆる)しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試(こころ)みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン

2021年2月7日週報から

【礼拝プログラム解説】 6. どうして賛美をする時、立って歌うんですか?

 以前、千葉県にあるロシア正教会の聖堂を見学したことがあります。礼拝堂には会衆用の椅子がありませんでしたので、理由を尋ねました。会堂管理をされている方が、「正教会の礼拝では司祭も会衆もずっと立って礼拝するのですよ」と教えてくださいました。聖なる神様の前に身を置く時に、椅子に座すことなど畏れ多くて出来ないという信仰姿勢が表れているようで、襟を正されました。
 調べてみますと、「正教会のミサは司祭が行うと2時間、主教3時間、総主教4時間が普通。復活祭の祈りは夜11時半に始まり朝5時まで続く。」それをずっと立ったままで行うそうです。体力勝負ですね。
 長野福音教会には会衆席があり、座って礼拝メッセージなどを聞きますが、それでも賛美や主の祈りなどの際には、一同起立します。体調の優れない方々以外は「皆さんお立ちください」と案内がなされます。
 座ったままよりも、立ち上がった方が声を出しやすいという理由もあるでしょうが、それ以上に、心を高く上げて、喜びと感動を主におささげしたく、私たちは立ち上がるのではないでしょうか。
 教会音楽博士の天田繋(てんだつなぐ)師は、著書の中で、会衆賛美で心がけたいことは「良い姿勢ではっきりと」と記しています。「歌集を持って見ながら歌うと、どうしても姿勢が悪くなりがちである。当然、楽に声を出すことは出きない。背筋をピンと伸ばした良い姿勢で、口をはっきりと開けて端正に歌うようにしたい。」、「賛美はささげるものであるから、律儀で当然、心を込めて差し出す思いは態度にまず表れる。」― 
 コロナ禍で声高らかに賛美することが困難な昨今ですが、立ち上がり、主に心を向けていきましょう。
 「祭司たちは、その務めに従って立ち、レビ人も、主の楽を奏する楽器を手にして立っていた。― 全イスラエルは起立していた。」Ⅱ歴代7:6

2020年12月6日週報から

【礼拝プログラム解説】 5.「『聖歌(せいか)』と『讃美歌(さんびか)』って、どう違うのですか? (第2回)

・音の高さの違い
 朝7時からの早朝礼拝に出ておられる方が、時々こうおっしゃいます。「あの聖歌の音は高過ぎて、朝早く歌うのは、ちょっときついですよ…」と。奏楽者によっては、曲によって、音を低くして伴奏してくださっていたりします。
 『讃美歌』を編集された方たちは、西欧の原曲のままでは日本人にはとても 歌えないので、音を2度から3度低くしたという記録が残っています。その後『聖歌』が出版される際、編集者の判断で、熱心に歌うために、原曲に近い高めの音で、という方針が採用されました。

・訳詞の違い
 『讃美歌』は、格調高い文語体の日本語で訳され、神様が創造された花鳥風月の恵みが多く歌われています。それに対して『聖歌』は、分かりやすい口語体で、神様の愛や、キリストの再臨と新しい天地への期待、また私たちの信仰や聖化を多く歌っていることが特徴的です。原曲は同じでも、訳詞が違う1つの賛美を比べてみましょう。黒人奴隷制度の悲惨な現状を告発した歴史的名著『アンクル・トムの小屋』を書いたストウ夫人が作詞し、メンデルスゾーン作曲のメロディが用いられている賛美です。

『讃美歌』30
1.朝風静かにふきて、小鳥も目覚(めさ)むるとき、
  清けき朝より清く、 浮かぶは神のおもい。
2.ゆかしき神のおもいに とけゆく我が心は、
  つゆけき朝の息吹に 息づく野べの花か
3.輝く常世(とこよ)の朝(あした)、我が魂(たま)目覚(めさ)むるとき、
  この世の朝より清く 仰ぎ見ん神の御顔。

『聖歌(総合版)』44
1.静かに神と交わる朝(あした)の我がひと時
  新たに朝日のごとき 心を我もたまし
2.夜()の幕ややに消えゆき 日陰は地に漂(ただよ)
  主の他 我ただひとり 御声をいざ聞かまし
3.悔いなき 聖きひと日とならせよ いま一度(ひとたび)
  今宵(こよい)も汝()がそばにある 心地に我休みえん
4.かくてぞ ついに常世(とこよ)の朝に目覚むる時
  朝日を遙かに越ゆる 栄えの主に会うを得ん

2020年11月1日週報から

【礼拝プログラム解説】 4.「『聖歌(せいか)』と『讃美歌(さんびか)』って、どう違うのですか? (第1回)

 長野福音教会の礼拝では『聖歌』という賛美歌集を用いて、主をほめたたえています。日本には他にも『讃美歌』という有名な歌集があります。『新聖歌』、『教会福音讃美歌』、『ミクタムプレイズ&ワーッシップ』など多くの賛美歌集が発行され、歌われています。
 徳川幕府の長年に渡るキリシタン禁制が、明治6(1873)年に解禁され、その翌年には長崎、大阪、神戸それに横浜で、日本で初めての賛美歌集が作られました。各地域で伝道した米国の宣教師たちの出身教派が違っていたため、教派ごとに先駆的(せんくてき)な歌集が作られました。そして明治33(1900)年、当時のプロテスタントの主な教派が、共通の讃美歌を編纂(へんさん)する委員会を発足させ、3年後、『讃美歌』が発行されました。昭和6年と29年に大改訂されて現在の『讃美歌』(日本基督(きりすと)教団出版局発行)となりました。
 『讃美歌』が委員会で話し合って制定されているのに対し、『聖歌』はきわめて個人的編集に貫(つらぬ)かれています。編者は中田(なかだ)羽後(うご)師(牧師、音楽伝道者、作詞・作曲家、指揮者等)です。彼の父は中田重治牧師で、後のホーリネス(聖め派)教会の創設者です。中田羽後師は、音楽の才能に恵まれ、米国でキリスト教音楽を学んだ成果を『聖歌』の編集に注ぎました。大正10年に編集し出版した『リヷイヷル聖歌』をもとにして、昭和33年に『聖歌』を発行しました。彼は、聖歌の理念4か条をこう記しています。
 1. 言文一致(話し言葉に近い口語体)であること
 2. メロディーとことばのアクセントが一致すること
 3. 曲は「その歌詞」のために特に作曲されたものであること
 4. 歌詞は聖書的であり、かつ情熱的であるべきこと
 現在、福音的な多くの教会で『聖歌』が用いられています。そして中田羽後牧師は77歳の時、説教中に急逝(きゅうせい)します。遺言(ゆいごん)が残されており、それによって聖歌の資料等の財産が弟子であった和田健治氏に託されました。そして今、私たちの教会では和田健治氏が編集された『聖歌(総合版)』(2002年発行)を用いています。

2020年10月18日週報から

【礼拝プログラム解説】 3.「賛美(さんび)する」って何ですか?

 大いなる神様を「ほめたたえ」、「感謝し」、「祝福し」、「歌い」、「叫び」、「喜び楽しむ」など多様な意味が賛美にはあります。
 その意味は大きく4つに分けることができます。
 ① 三位一体なる神様だけをひたすらほめたたえることです。賛美は神様におささげする最高の行為です。
  「御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。」(詩篇66:2)
 ② 信仰を告白することです。賛美することは、与えられた信仰を公けに表明する具体的な行動です。それは人々に神様を証しすることにつながります。
  「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40:3)
 ③ 祈り願いです。賛美として歌われている詩を多く残したダビデの詩篇には、祈りや願いがあふれています。
  「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」(詩篇42:8)
 ④ 感謝のささげものです。賛美は歌をもって主に感謝をおささげすることです。神様の絶大な恵みに対して、喜び賛美することによって、感謝を表します。
  「それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(詩篇28:7)

 私たちの内面に信仰の高まりがふつふつと湧いてきて、それが歌(賛美は歌だけとは限りませんが)となってあふれ出て来るのが賛美です。

2020年8月23日週報から

【礼拝プログラム解説】 2.「招(まね)きの詞(ことば)」って何ですか?

 前奏に続いて、司会者が朗読する聖書のことばです。「招(しょう)詞(し)」と言う教会もあります。神様が今日この礼拝に、私たちを呼び集めてくださっていることを確認する聖書箇所が選ばれます。長野福音教会の礼拝では、詩篇100篇が朗読されます。
 一週間前の日曜日、神様の祝福を頂いて、礼拝堂からそれぞれの持ち場立場に遣わされた者たちが、再び礼拝堂に集められ、心と思いを一つにして主の御前にひざまずきます。日曜日の朝、私たちは目を覚まし、「今日は日曜日だ。教会に行こう。礼拝をおささげに行こう」と、自分で決めて、自分で車を運転するなどして、教会に来ているように感じています。けれども、その背後に神様からのお招きがあって、神様が私たちの心に「礼拝に行きたい」との思いを与えてくださっているので、私たちは共に礼拝をおささげできているのです。

 詩篇100篇
 感謝の賛歌
  1. 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
  2. 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
  3. 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
  4. 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
  5. 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 私たちは日々、いろいろな「招きの言葉」を受け取って、過ごしています。「新車をお買いになりませんか?」とか、生命保険の勧誘や、テレビやインターネットでの宣伝広告、町中の看板など、数えきれない多種多様な「招きの言葉」に四六時中、囲まれています。
 しかし、どんな新車よりも確実に最後まで私たちの命を担い、背負い、持ち運んでくださる方。それが私たちの神様です。
 どんな保険にもまして確実な永遠の保障を与えてくださる方。それが私たちの神様です。
 永遠につながる本当に必要な招きの声を選び取っていきましょう。

2020年8月16日週報から

【礼拝プログラム解説】  1.「前奏(ぜんそう)」って何ですか? 

 礼拝の初めになされる奏楽を前奏と呼びます。賛美歌作家の由木康師は「前奏は俗(世)から聖(教会)への音のカーテンである」と記しています。その通り、前奏は礼拝前のB.G.M.でも添え物でもなく。そこから共に主なる神様におささげする礼拝が始まります。
 礼拝開始時刻に司会者が講壇に立ち、会衆は静まります。司会者が礼拝の開始を宣言し、「前奏の内に心を静め、主なる神様を待ち望みましょう」と呼びかけます。奏楽者は緊張し、すべてを神様に委ね、思いを主に向けて、ピアノを弾き始めます。その時、皆が一礼拝者として神の御前に出て行くのです。
 前奏の間、静まって黙想する方もおられるでしょうし、心の中で主に祈りをささげる方もおられるでしょう。祈りのお手本として下記のような祈りはいかがでしょうか?

 「天におられる父なる神様 新しい朝を与えてくださり、ありがとうございます。先週一週間の歩みを守り抜いてくださり、感謝致します。心も身体も様々な危険の中にありながら、あなたが守ってくださいました。そしてこの主の日の朝、礼拝へと私をお招きくださり、心から感謝致します。
 礼拝の間、みことばにのみ集中することが出来ますように。他のことに心奪われて、散漫な思いにならないように、お支えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」

:2020年8月2日週報から

どうして教会では、日曜日のことを「主日(しゅじつ)」とか「主(しゅ)の日(ひ)」と呼ぶのですか? 

 私たちの救い主イエス・キリストは、今から約2000年前の金曜日午後3時頃、十字架の上で私たちの罪の身代わりに死なれました。なきがらは墓に葬られましたが、3日後の(日本の数え方ですと2日後ですが)日曜日の朝、墓の中から復活されました。キリスト教会はイエス様が復活された事実によって生み出された群れです。
 復活の事実を喜び、証しするために、それ以前は土曜日が安息日で礼拝の日であったユダヤ教の礼拝から徐々に脱皮し、キリストが復活された日曜日を「主の日」また「聖(せい)日(じつ)」と呼んで、共に集まり、礼拝をささげるようになりました。
 新約聖書の中にも「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」(使徒の働き20:7)や、「あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」(Ⅰコリント 16:2)と記録されています。定期的に日曜日に集まり、礼拝をささげていたと考えられます。ローマ帝国がキリスト教化されるまで、クリスチャンは少数派でした。そのため日曜は休日ではなかったので、日曜の朝早くまたは夜遅くに集まって礼拝をしていました。
 今、私たちはそれぞれ闘いを抱えつつも、日曜日に教会堂で神様を礼拝できる恵みと特権を与えられていることを心から感謝し、この日を大切に歩んで生きましょう。
 なお、第七日(土曜日)が安息日であるとの聖書の戒めに忠実に従い、土曜を公同礼拝日としているキリスト教会:セブンスデー・アドベンチスト教会や、ユダヤ人にメシヤ(救い主)イエス様を証しするために、土曜に礼拝をささげているキリスト教会があることも書き添えておきます。

:2020年7月16日週報から

「真(まこと)の神様を礼拝するために、必要なものは何でしょうか?」 

 ヨハネの福音書4章23節で、イエス様は教えています。「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」
 私たちの礼拝をお受けになるお方は、三位一体なる神です。父なる神・御子イエス・キリスト・聖霊が、私たちの思いを守り導き、真実な礼拝へと向かわせてくださいます。私たちの礼拝は、聖霊に導いて頂く必要があります。みことばを聴き、賛美し、祈りをささげる礼拝者の心の内に働きかけてくださる聖霊から霊的感動を頂き、心からの礼拝をおささげしましょう。
 そして「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と宣言される真理なるお方イエス様のゆえに、私たちは神様を礼拝できます。イエス様の十字架と復活による救いにあずかり、神の子として頂けたので、私たちは父なる神様をほめたたえることができるのです。

 また礼拝とは、日曜日の約1時間、教会でささげるものにとどまりません。日々の私たちの生活すべてが礼拝です。神様を人生の主人とし、神様に向き合い、神様に聞き、神様に祈り、神様に従って生きることです。そのために一日のどこかで特別に時間を設けることも大切です。朝起きてすぐに、または床に入って寝る前に賛美し、祈り、みことばに聴く時間を取りましょう。
 そんな個人礼拝が大切である一方、教会に集められ、皆で主をたたえることも大切です。同じ神様につながれている神の家族と出会い、主の励ましと導きを共にいただきます。それは天国での最高の礼拝の前味であり、リハーサルです。

:2020年7月5日週報から

「礼拝って何でしょうか?」 

 礼拝とは、真(まこと)の神様を敬い、拝むことです。聖書はいくつもの用語で、このことを表現しています。例えば、「奉仕をする」、「求める」、「ひざまずく」、「一致して告白する」などです。死からよみがえれた主イエス様と出会った女性たちが、御足を抱いてイエス様を拝んだ(ひれ伏した)の「拝む」も礼拝するという意味で使われています(マタイ28:9)。

 私たちは、礼拝をおささげすることを通して、
① 私たちを招いてくださっている神様(イエス様)に出会います。
② 神様を畏れ、拝み、ほめたたえます。
③ 神様と親しく交わります。語りかけを聞き、私たちの祈りを聞いて頂きます。

 本来、すべての人は真(まこと)の神様をあがめ、神様に感謝し、神様と共に生きる者。つまり礼拝者として造られ、いのちを与えられた存在でした。けれども悲しいかな、神様を見失い、自分勝手に生き始めた結果、多くの人は礼拝者であることを止めて歩んでしまっています。
 教会に集っている人たちは、「これまで自分は神様を大事にしてこなかった…」ことを正直に認め、神様の愛と赦しを信じて、礼拝する者に回復していただいた人たちです。

:2020年6月21日週報から

参考文献: 

         『祈祷集-教会に生きる祈り』 加藤常昭(教文館)
         『伝道のステップ1.2.3.』 鈴木光(日本キリスト教団出版局)
         『今、礼拝を考える』 越川弘英(キリスト新聞社)
         『礼拝賛美のこころえ-共に喜ぶ賛美を』 天田繋 (いのちのことば社)
         『新聖書辞典』 (いのちのことば社)