日本同盟キリスト教団

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「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。」(へブル人への手紙 10章23節、24節)

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  • 主の豊かな恵みが皆様に届きますように・・・・・・

2020年10月18日
「主の宮から泉が湧き出でる」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 3章18節-21節

(序論)
おはようございます。今は、県外に自由に出かけて行って、観光旅行というわけには、なかなか行きませんが、そんなことを気にしなくて良かった30年ほど前の昔話です。私は中学高校時代、九州の福岡県で暮らしていました。中学2年の夏休み、車で九州を旅して周ろうということになりました。中学2年。家族一緒にということに抵抗もありましたが、一緒について行きました。
佐賀県、熊本県と南下し、阿蘇山の雄大な景色に圧倒されました。そして翌朝早く、   熊本市内の水前寺池公園に連れて行ってもらいました。特に期待もしないで、入園したのですが、入った瞬間、私はその庭園の美しさに、しばし言葉を失ったのを今でも覚えています。朝早い庭園で、観光客がまばらだったのも良かったのかもしれません。きれいに整えられた緑豊かな庭園の美しさ。その中でも、大きな池の中に泉の吹き出し口があり、水がぶくぶくと沸き上がっていました。なぜか、私はその場所からしばらく離れられませんでした。この泉の吹き出し口から絶えず水が湧き出ていて、大きな大きな池を形作っている。その事実に感動しました。
今回、調べてみましたら、あの水前寺池公園の泉は、50キロも離れた阿蘇山から伝わってくる伏流水の出口だったと知り、さらに驚きました。
(本論)
泉は、水が地中から湧き出ている所です。湧水(わきみず)とも呼ばれています。一年中、よく雨が降り、水資源が豊富な日本にいますと、水の有難味を忘れてしまいますが、聖書の舞台、中東イスラエルでは、水があるかないかは、死活問題でした。雨季には流れている川も、乾季には乾き切ってしまいます。泉や井戸などから、飲み水をちゃんと確保することが切実な課題でした。
そんなイスラエルに、「大患難がやって来た!」と、預言者ヨエルは書き記して来ました。イナゴ・バッタのおびただしいまでの大群が襲いかかってきて、緑という緑をみなむしり取って行ったのです。
国中が困窮し、嘆き、大変な苦しみを味あわされました。その苦しみ抜いた人々に、神様は、「回復をもたらす」と希望の光を照らしてくださったのです。いや、今までの常識では想像もつかないような大いなる祝福を与える、と約束してくださったのです。
18節 「その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す。」
イナゴ・バッタに食い荒らされ、すべてのぶどうがダメになってしまいました。普段の飲み物であるぶどう酒が断たれてしまっていました。苦しみ抜いたイスラエルの人々を神様は、「ああ、なんてかわいそうなんだ」と同情してくださり、思いを傾けてくださって、イナゴ・ばったを追い散らし、山々のぶどう園に、新しいぶどうをたわわに実らせてくださるのです。乾ききったのどに、ひからびた身体に、神様は新しい豊かなぶどう酒を注がれるのです。
イナゴ・ばったが、牧草を食べ尽くしてしまったので、牛や羊、やぎといった家畜たちは食べ物を失い、死にそうになっていました。しかし神様は、緑を回復し、牛ややぎを再び力付け、牛乳を、ヤギの乳を豊かに与えてくださったのです。
そして、何よりもあの乾ききった大地に、雨や夜(よ)露(つゆ)が降り注ぎ、川に再び清流が流れ、泉からこんこんと新鮮な水が湧き出て来たのです!! 不毛な地として名高い「シティム」が潤い、実りをもたらす肥沃な地に再生されたのです!!
ここ数十年、毎年のように続く天変地異に脅かされている私たちにとって、特に今年、コロナ禍にあえぐ私たちにとって、そして何とも言えない「生きづらさ」を抱え、「重たいもの」を背負っている私たちにとって、ヨエルが語った神様の回復の約束は、大きな希望です。今、私たちは、大いなるお方、神様からの癒しと回復を、心から祈り求めています。
けれども、それは目先のこと、目の前の問題の解決とか、すぐに手に入る物事だけではありません。一年後、数十年先といった、ちっぽけな話でないのです。永遠を知り尽くしておられるお方の、永遠を支配しておられる大いなる神様の壮大なご計画が、聖書全体に貫かれています。
ヨエル3章18節の「ユダのすべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」との約束、また20節、21節の「ユダは永遠に人の住む所となり、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。― 主はシオンに住む。」この神様のご計画は、聖書の最初:創世記から、聖書の終わり:ヨハネの黙示録につながって行く壮大なストーリーです。
最初に、神様が天地万物を創造され、人に住む場所として備えてくださったエデンの園には、水と緑と美味しい果物が満ち溢れていました。そこには、神様と共に永遠に生きる喜びしかありませんでした。神様の愛を身体と心いっぱいに感じられる幸せしかありませんでした。
聖書の最初、創世記2章8節から
8 神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
けれども人は、このエデンの園から追放されてしまいます。神様とのたった一つの大事な約束を破ってしまったせいです。「取って、食べてはいけない。取って食べる時、あなたは必ず死ぬ」と、警告されていた善悪の知識の木の実に、手を伸ばし、食べてしまった。その結果、人は神様を悲しませ、楽園から追放されたのです。永遠に生きる存在として造られたはずの私たち人間は、寿命が来たら死ぬ存在になりました。そして何よりも、いのちの主、神様から離れてしまい、心が、たましいが、混乱と不安と迷いの中に置かれたのです。
それでも、神様は人を不毛な大地に追いやって、苦しみしか与えないような非情なお方ではありませんでした。汗水流して土地を耕し、人が苦労して種を蒔く時、そこに雨を降らせ、太陽を昇らせ、季節ごとに実りをもたらしてくださっています。
それなのに、人は神様など頼らなくてもやっていけると、自分の知恵や力に頼り、自分の私利私欲に任せて、神様から与えられたこの地上の豊かな物を、思いのままに乱開発し、自分勝手に利用し続けています。そして、その報いとしての痛み・ひずみを今、私たちは被っていいます。
神様は、それでも、そんな私たちに、回復の道を、救いの道を用意してくださるのです。新しい天と新しい地:天国をもたらし、そこに私たちを引き上げてくださるというのです。
聖書の最後、ヨハネの黙示録22章1節から
1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
天国の情景と、エデンの園の情景は瓜二つです。かつて追放されたエデンの園に、神様は私たちを回復させてくださるのです。いのちの木がなっている園に、天の御国に、そこで私たちは永遠に主と共に喜び生きるのです。
神様の泉からは、本当にすばらしい清い水があふれて出て来ます。その水は、物質的豊かさというよりも、心をうるおし満たす、霊的豊かさです。
イエス様は、語ってくださいました。人生の虚しさをいやというほど経験させられ、何度、人に頼っても、裏切れ続けて来たサマリヤ人の女性に、イエス様は語りかけてくださいました。
ヨハネの福音書 4章13節から
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
またヨハネの福音書7章では、
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
コロナ禍で、私たちの心はむしばまれていないでしょうか? とげがいっぱい生えて来て、自分と人に向かって刺してしまってはいないでしょうか? 「うれしいね、楽しいね、おめでとう!良かったね」そんな言葉を、今年に入ってから口にしていない、聞いてもいない、そんな歩みをしてはいないでしょうか?
目には見えないイナゴ・バッタに心の中の潤いを奪われてはいませんか? あきらめ、不安恐れ、むなしさ、ストレス、我慢の限界、痛み苦しみに、心の緑をむしり取られてはいないでしょうか?
今朝、もう一度、あなたに「本当のいのちの水を与える、あなたに御霊を豊かに注ぎ、あなたの乾ききった心を満たす、あなたのたましいを潤す、本当の平安を喜びを与える」と約束してくださっている主の前に、進み出ましょう! 私の心の中に、神様のいのちの水を注いでください。泉のように日々、私の内側からその豊かさがあふれ出るようにしてください、そう祈り求めましょう。
それは、私が満たされて満足、それで終わりという神様の祝福ではありません。泉からこんこんとわき上がるいのちの水は、神様の愛は、あなたからあふれ出て、周りの人たちの心に、また注がれていくためのものです。
(結論)
主の宮から泉が湧き出て、不毛だと言われていたシティムの地を潤す、その乾いた川に清流をふんだんに流すと、神様は約束しています。
主の宮、この教会から、長野福音教会から、私たちから、神様の愛が、豊かな祝福があふれ流れる。救いの約束が、福音が、永遠のいのちの喜びが、湧き上がって来て、それがこの地を潤し、満たしていく。神様が大きなキャンバスに描いてくださった大きな絵を共に見つめながら、そのことを祈り求めて進んでまいりましょう!
主の宮から、長野福音教会から 主イエス様が 豊かに湧き出てくる。
聖霊に満たされ、私たちの中から 主イエス様の素晴らしさ、そのご性質:愛・赦し・恵み・きよさがあふれ出てくる。主イエス様が、豊かに湧き出てくる長野福音教会で、これからもあり続けたいと願います。祈りましょう。

2020年10月11日
「洗礼とは」  高橋宣広牧師

 ローマ人への手紙 6章1節-11節

(序論)
おはようございます。先週は教会創立60周年を共にお祝いしました。牧師でありオペラ歌手の稲垣俊也先生とピアニストの田口靖子先生をお迎えすることが許されました。先生方の素晴らしい賛美とメッセージの内に、主イエス様が現れてくださり、本当に励まされました。
そして今日も教会にとって、本当にうれしい洗礼式が行われます。神様に導かれ、この教会で主イエス様と出会い、イエス様をキリスト=救い主と信じた方が、その信仰を告白し、新しい歩みへと踏み出されます。長野福音教会という神の家族に、新しい家族が誕生します。この洗礼について、みことばから確認していきましょう。私たちの大事な原点をしっかりと覚えましょう。
(本論)
「洗礼」は、元々「バプテスマ」という言葉から出ていますが、バプテスマには「浸す」という意味があります。私たちの身体が水に浸される。水の中をくぐらされるのです。「昔、裾花川で洗礼を受けました」という方もおられますし、野尻湖で洗礼式を行っている教会も知っています。海で洗礼式を行う教会もあります。古くからの教会員にうかがったところ、昔は宣教師が、銭湯や温泉の湯船を借りて、また近くの小学校のプールを借りて、洗礼式を行っていたそうです。
そして、私自身もそうですが、大きな湯船のような洗礼槽にざぶんと浸されるのではなくて、頭にチョコンちょこんと水滴をたらしてもらう「滴礼」という方法で、洗礼を受けた方も多くおられるでしょう。やり方や受けた場所、授けてくださった牧師先生や教会は違えども、洗礼はすべてのクリスチャンの大事な出発地点です。キリスト教会は2,000年間、新しい神の家族を迎えるために、洗礼式を行い続けて来ました。
それは、イエス様が洗礼式と聖餐式という二つの大事な儀式を、私たちに教え、与えてくださったからです。それを「守り行ないなさい」と教会に命じてくださったからです。マタイの福音書28章19節、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と、イエス様は、弟子たち:私たち教会に ① 福音を証しすることと、② 信じた人にバプテスマを授けることを、大事な使命として託してくださっています。
さらにイエス様ご自身も30歳の時に、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのです。「あなたのような聖なるお方に、バプテスマを授けるなんて、畏れ多くて出来ません」と躊躇するヨハネに、イエス様は、「これが正しいこと、ふさわしいことなんだよ」と説得され、洗礼を受けられたのです。神の子が、私たちと同じ立場にまで下りて来てくださって、私たちへのお手本・模範として、洗礼を受けてくださったのです。
本当に素晴らしく、豊かな意味を持っている洗礼ですが、今朝は与えられた聖書のみことばから三つのことを見て行きます。
一つ目は、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」です。ローマ6章3節、それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
ここでの「つく」という単語には、元々「中に入って行く」という意味があります。洗礼=バプテスマは、私たちがイエス様の中に入って行くことなのです。
ときに「こんな私が…」と、うつむいてしまうことの多い私たちです。それでも「こんな私」のすべてを赦し、愛し、受け止め、招いてくださっているイエス様の胸に、私たちは信じて、思い切って飛び込んで行くのです。その時、まるで新郎新婦が結婚し、ひとつの夫婦となるように、私たちもキリストの花嫁として受け取って頂けるのです。キリストにつく、それは、私たちがイエス様としっかり結び合わされることです。心と心が、たましいとたましいが、霊と霊が一致していくことです。
心の中に働きかけてくださる聖霊の助けと導きによって、私たちはイエス様を信じる者とされています。イエス様を信じる時、イエス様が私の内にいてくださり、私たちもイエス様の中にいるのです。
洗礼はゴールではありません。スタートです。卒業ではありません、入学です。「パン、パアーパパン、パン、パアーパパン」と結婚式に臨んだばかりの新婚夫婦が、これから長い時間をかけて、互いへの理解を深め、互いを本当に大切なパートナーだと認識していけるように、そして一つとなることを目指していくように、私たちは洗礼を受けたその日から、キリストをもっと深く知り、キリストと共に生きる喜びを日々確認し、キリストと一つとされていくことを目指していくのです。
私たちのものの見方、考え方、思い・ことば・行動が、イエス様に似た者に変えられていく、地上のクリスチャンの歩みは死ぬまでその目標に向かって行く途上です。天の御国という最高のゴールが用意されています。そのゴールを見つめて、共に手をたずさえて、イエス様に近付いて行きましょう。
二つ目の洗礼の意味は、「キリストの死にあずかるバプテスマ」です。4節です。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
私たちは、前から今も、そしてこれからも、この地上にあっては、神様の前で100%の存在であることは出来ません。「非常に良い」と言って頂いた、最初に人が造られた時の、あの姿、神様に似せて、神のかたち(神様のイメージ)に創造されたあの姿を、私たちは日々、破壊してしまっています。神様が喜ばれる生き方とは違う、的外れな考え方・生き方をしてしまっています。
それでも神様は、そんな私たちをあきらめず、見捨てず、手を引いたりなさらないのです。天地創造をなさった神様は、その手を休めることはなさいません。今も、私たちのうちに再創造の御業を行ってくださっています。本来あるべき姿へと、日々、私たちを造り変え、本来いるべき所に連れ戻し、失った神のかたち(=それは神の子イエス様のお姿でもありますが)を取り戻すべく、私たちに働きかけてくださっています。
洗礼、それはクリスチャンとして新しく生まれたことを確認する時です。神の子として頂いたことを確認する時です。そして新しく生まれるためには、一度、死ぬ必要があります。物騒な表現ですが聖書はそう言っています。
バプテスマ=洗礼を受ける時、水に浸ります。それは古い自分が一度、溺れ死ぬことを体験することです。神様のかたちを壊している自分、悪魔の誘惑やこの世の誘惑に負けてしまう自分、罪をやめられない自分が、一度、死ぬのです。そういった古い自分に決別するのです。
またその時に、私たちは主イエス様の十字架の死につながれるのです。キリストの中に入って行くのです。私の古い性質、罪に向かう性質を全部代わりに背負って、キリストが死んでくださった。身代わりに死んでくださった。その事実を信じ、感動し、感謝し、イエス様につながれるのです。
そして三つ目 バプテスマは、キリストのいのちにあずかるものです。4節 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
再生・新生のバプテスマです。洗礼槽の中で古い自分が溺れ死に、そこから顔を上げた瞬間、私たちは神様の前で、全く新しい存在、全く新しい人間として、見て頂いています。罪をもったままの裁かれ、滅びゆく者から、罪を帳消しにされ、救われ、永遠のいのちにあずかる神の子=天国人に。新しいいのちにあずかっている者として、神様はあなたを見てくださるのです。
(結論)
新しくされている私たち、キリストの中に入って行き、キリストに似た者にされている私たちです。でも地上にあっての私たちはゴールを目指す途上にあり、いまだに完成していない工事中の身です。
途上にあって、私たちの中から時に古い人が顔を表します。溺れ死んだはずなのに、「泳ぐのが上手で」と宗教改革者のマルチン・ルターはユーモアを込めて語ったそうです。ある牧師は死んだはずの古い人が、ゾンビのように現れて、新しい人を乗っ取ろうとする、と警告しています。
泳ぎが上手で、しぶとく生き残っている古い人、罪の性質にも敏感に警戒しつつ、それでも私たち、新しいいのちを与えられ、そのいのちを生きていることを日々、確認し、喜び、感謝しつつ、新しい人の完成=イエス様を目指して、これからも共に歩んでまいりましょう。
祈りましょう

2020年9月20日
「主は我らの避け所」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 3章9節-17節

(序論)
おはようございます。「百獣の王」として知られている動物と言えば、ライオンですね。動物園のオリの中にいるのを見たり、テレビの動物番組でその姿を見かけたりします。雄のライオンの方が、立派なたてがみを持っていて、強そうなイメージがありますが、実際には違うようです。
以前TVで見たアフリカの動物ドキュメンタリーにこんなシーンがありました。お父さんライオンが、昼間、涼しくて、虫の来ない岩の上で横たわっていたところ、お母さんライオンと子どもたちがやって来て、「お父さん邪魔、そこから下りて」と追い出され、心地良い寝床を奪われてしまったのです。 - それと似たような人間の家庭もあるでしょうか? -
そして日々の糧である獲物を狩りに行くのも、オスより足が早く、持久力もあるメスの仕事だそうです。じゃあ、オスは何をしているのかと言えば、群れを敵から守ったり、メスが狩りに行っている間、子育てをしているそうです。
奥さんに頭が上がらないように見える雄のライオンですが、それでもやる時にはやるのでしょう。群れのリーダーとしての自覚を持っていて、定期的に見まわりをしたり、「ガオー」という声やおしっこで、「ここは俺たちの縄張りなんだぞ!」とアピールしているそうです。大人の雄ライオンのほえたける声は爆音!さえぎるものの少ないサバンナでは、5~8キロ以上先まで届くそうです。そしていざ、縄張りに侵入してくるハイエナなどの外敵を見つけたら、雄ライオンは体を張って戦い撃退します。いつも家族を大きな目で見守っていて、いざという時には戦ってくれる頼りがいのあるお父さんなのでしょうね。
(本論)
さて、何でライオンの話をしたのかと言いますと、今日のみことばヨエル書3章16節の「主はシオンから叫び」の「叫ぶ」は、旧約聖書の元々の言葉=ヘブル語で、ライオンが「ほえる」ことを表現する言葉だからです。『新改訳聖書2017』は、この箇所を「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる」と訳していますし、新共同訳聖書は「主はシオンからほえたけり/エルサレムから声をとどろかされる」と訳しています。ほえたけるライオンのように、主なる神様が叫ばれるのです。その声のとどろきで、天地万物が恐怖でぶるぶる震え上がるのです。
3章9節からは、恐ろしい戦いの様子と神様の厳粛なさばきが予告されています。先週みことばから学んだように、それはイスラエルを苦しめ痛めつける敵どもへ、聖なる神様の御怒りがくだる日です。と同時に、イエス様を救い主と信じる信仰によって、アブラハムの子孫とされている私たち全てのクリスチャンを救い出すために、神様が最終的な戦いをしてくだること、さばきがなされることが、ここには予告されています。
9節の「聖戦をふれよ」とは、「さあ、神に敵対するやからどものよ、戦いを始めるぞ、戦いの前にそれぞれの偶像にいけにえをささげ、必勝祈願をしてから、かかって来い」という神様からの挑発的なことばです。「勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ」と、まるで獲物の前にエサをまいて、おびき寄せるかのように、さあ敵どもめ、出てこいと神様が呼びかけるのです。
そして「あなたがたの鋤(すき)を剣(つるぎ)に、あなたがたのかまを槍(やり)に、打ち直せ。」と、ドキッとするようなことを神様はおっしゃいます。私たちの神様は平和の主です。イザヤ書2章24節では、「彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、その槍(やり)をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と約束された平和の主です。武器がもう必要なくなる。ねたみとか憎しみとか、敵対する者同士がぶつかり合うような戦いが一切ない主にある本当に平和な世界を、神の国を、そして天の御国を与えると約束してくださった主です。
その主が敵に向かって、皮肉を込めて、農機具を武器に打ち直して来い、勝てるものなら総動員で攻めて来いと敵を呼び集めるのです。まるで戦時中、ありとあらゆる金属を回収し、それを武器や戦闘機にしようとした、かつての我がの国のようです…
そして12節にあるように、いきり立った敵ども全員が集められたところは、神様のさばきの座だったのです。12節「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」  
まるでアリがアリジゴクにおびき寄せられ、その穴に落ち込んで逃げられず、餌食にされるかのようです。さらに13節では、「刈り入れ」の時が来た。ぶどうが「踏みつぶされる」日が来たと、神様がお定めになった時に、悪しき者、サタンも悪魔も、その支配下にあるあらゆる悪しき者たちが、神様によって正しくさばかれる日が来るのです。
旧約聖書の多くの預言者たちが「主の日」の到来を預言しました。その通りに。またイエス様は福音書の中で「世の終わり」を警告されました。その通りに。そしてヨハネの黙示録が約束している通りに、神様が救いとさばきを完成される日が必ず来ます。その時、サタンは敗北し、神に敵対し続けて悔い改めなかった者たちは恐ろしい滅びに落とされます。けれども本当にうれしいことですが、イエス様の御救いにあずかった者たちは、最高の永遠の喜び:天国に迎え入れて頂けるのです。
世の終わり、それは主と共にある者にとっては、終わりではありません。恐怖でも絶望でもありません。その日は天国の始まりです。絶大なる喜びであり、大きな希望です。しかし、そこに至るまでには、多くの患難試練が待っています。ヨエル書3章15節に「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」ような恐ろしい天変地異が、世の終わりの前兆として起こります。クリスチャンに対する恐ろしいまでの迫害も待っています。教会が試練の中でふるいにかけられ、兄弟姉妹の愛が冷えていき、つまづきや裏切りも起こると、イエス様は警告しています。それでも「最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。」
そして、そんな様々な危機・試練と向き合い、闘っていくための私たちの武器は、剣でも槍でもありません。信仰を守り抜き、御救いにあずかるために、自分の力だけで敵を打ち負かすことはできません。神様のみことば:聖書、そして福音をしっかりと握りしめて、主に頼り、祈り続けていくことです。何があっても、主のもとから離れないことです。教会に、礼拝に、この兄弟姉妹の輪の中にとどまり続けることです。
神様はヨエルを通して、私たちを励まし、約束して下さっています。3章16,17節
主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。
(結論)
天地が震えるような恐ろしい事が待っていたとしても、「もう駄目だ…終わりだ…」と、うなだれてしまう現実があったとしても、その中で、主は叫んでくださっているのです。羊飼いが羊を呼ぶように、「わたしのところ来なさい。本当のいのちと安らぎを得なさい」と叫んでくださっています。
お父さんライオンが外敵に向かってほえたける時、周りが恐怖に包まれる中、唯一お父さんライオンの雄たけびを頼もしく、また誇らしく、安心して聞ける存在がいるのではないでしょうか? それは、群れの中にいる子どもたちと奥さんです。群れのライオンは、お父さんの声を聞いてほっとします。
「ああ、良かった!神様は、恐ろしい危険からもわなから、私たちを守ってくださった。救ってくださった。」と、主の力強い雄たけびを、私たちも安心して聞くことが出来るのです。
子どもライオンがお父さんを信頼し、お父さんが守ってくれているその群れの中に留まり続けるように。私たちも何があっても、どんなことに直面しても、「主を避け所」として行きましょう。主のみもとに逃げ込みましょう。駆け込んでいきましょう。
詩篇46篇
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 
7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。 
10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。 
祈りましょう

2020年9月13日
「人間の尊厳」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 3章1節-8節

(序論)
与えられたヨエル書3章のこのみことばを、先週一週間、ことあるごとに思い巡らしていました。そして私は困惑し、悩みました。「神様、なんでそうなさるんですか!?」と正直、面食らいまいました。後で、私が理解に苦しんだその内容をお話ししたいと思います。
(本論)
ここに語られている内容は、一面から見るならば、うれしく素晴らしい回復の約束です。3章1節に「見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、」とあります。「繁栄を元どおりにする」との表現は、他の聖書を読み比べてみますと、「捕らわれ人を返す」(新改訳・第2版)となっていたり、「回復させる」(新改訳2017)となっていたりします。「終わりの日:イエス様が再臨される日」の預言とも考えられていますが、今日は、バビロン捕囚からの回復という視点でみことばを見ていきます。「わたしが」=主なる神様ご自身が、ユダヤとエルサレムの町を復興してくださるのです。
紀元前586年、ユダヤ人は国を失いました。東から攻めて来た巨大なバビロン帝国(今のイラン・イラクあたりだと思いますが)、そのバビロンに敗れ、故郷は焼き尽くされました。バビロンは占領政策として、征服した国の指導者たちや軍人たち、また有力者や能力のある人たちを強制的に母国から引きはがし、バビロンに移住させました。植民地に抵抗勢力を残さないためだったのでしょう。
母国が消えてしまった、故郷が見るも無残な姿になってしまった、あのエルサレム神殿も崩壊してしまった…。その屈辱感、痛み、悲しみ、苦しみを主なる神様が晴らしてくださる。繁栄が元通りになる。国が、あの町この町が、故郷が復興していく、という希望に満ちあふれている神様からの約束です。
ユダヤ人は、一度に全てを奪われる経験をしました。それは想像を絶するすさまじさでした。3章2節、途中の4行目から「彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。」ユダヤ人は離散し、諸国に散り散りバラバラにされました。国土、神様が与えてくださった約束の地が、敵の手に渡り、分割されました。土地だけではありません。人間もまるで「モノ」のように、売り買いされたのです。3節です。「彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。」恐ろしいことに人身売買が行われたのです。人が、大人も、さらに子どもたちまでもが、奴隷として売られていったのです…。
私たちの国でも戦前・戦後、極度の貧しさゆえに、親が子どもを身売りするという悲しい時代がありました。 
- 昭和の初期、東北や北陸の農村を中心に、少女の身売りが相次いだ。明日の食べ物にも事欠く小作農家がやむにやまれず、娘を売ったのである。背景には昭和4年の世界大恐慌に端を発する日本経済の不況と昭和9年の凶作があった。繭(まゆ)と米の価格が暴落して収入が激減し、くらしが疲弊していたところへ、冷害が追い打ちをかけたのだった。周旋人(しゅうせんにん)はこっそり村にやってきては、わずかな前借金を親に渡し、花街(はなまち)へと少女たちを連れ出した。彼女たちは、芸事を覚え、一生懸命働くが収入は衣装代などに消えて行き、親に渡った前借金を返すにはほど遠く、また村人たちの偏見も強いため、一度この世界に身を置くと、二度と故郷へは帰れないというのが大半の運命であった。 ― 図書館から借りて来ました、小泉和子編『楽しき哀しき昭和の子ども史』(河出書房新社、2018年)の一節です。
人身売買、しかも多くの子どもたちが「モノ」のように売り買いされているというのは、過去の野蛮な時代の話ではなく、特別に貧しい国々の話だけでなく、現代も世界各地で起きている現実です。図書館から借りて来た本数冊の記述は、子を持つ親として、読むのが本当に辛くなる衝撃的な内容でした。
国連は、毎年約120万人の子どもたちが人身売買の被害にあっていると見ています。被害は世界全体に渡っていて、どの大陸も例外ではありません。国境を超える被害者の多くは性産業で性的搾取を受けています。自国内で強制労働に関わる子どもたちも多くいます。アムネスティ・インターナショナル日本編『売られる子どもたち 子どもの人身売買』(リブリオ出版、2008年)という本の一節です。
現在、この世界には3000万人以上の奴隷が存在する。あらゆる年齢の男女、そして少年少女たちが、ネパールの絨毯(じゅうたん)織物小屋で過酷な労働を強いられ、ローマの売春宿で体を売らされ、パキスタンの採石場で岩を削らされ、アフリカの密林で戦争をさせられ、カルフォルニアの縫製(ほうせい)工場で服を縫わされている。世界中の主要都市において、表通りから一歩裏に入れば、人間の売り買いがはびこっている、あなたの自宅近くでも… デイヴィッド・バットストーン著『告発・現代の人身売買 奴隷にされる女性と子ども』(朝日新聞出版、2010年)の冒頭部分です。
儲け最優先の大人たちのいやらしい欲望を満たすために、子どもたちが奴隷のように売り買いされていく。聖書の時代、2千年以上前から人間は良くなっているどころか、より陰湿に、さらにおぞましくなっているのでしょうか…
イスラエルを苦しめ、子どもたちを強奪した敵たちは、自分の快楽を満たすために、欲望のままに、捕虜とした子どもを売りとばすのです。遊女と遊ぶ金を手にするため、少年を売り、酒を買うために、少女を売ったと言うのです。何ということでしょうか…!
かわいい、大切な子どもたちが、こんなひどい目にあっていいはずがない、子どもたちの尊厳を、人権を、いのちを守って行かなければいけない、人身売買などというおぞましい犯罪は世界から無くさなければならない。私たちの誰もがそう願うでしょう。しかし、聖書は驚くべきことを記すのです。ヨエル書3章7,8節です。
「見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る、と主は仰せられる。」     
神様から「おまえ」と呼ばれているのは、イスラエルを苦しめ、土地を奪い、人々を特に子どもたちを売りとばしたあくどい敵どものことです。今日のみことばは、別の面から見るならば、敵に対する神様の厳しいさばきの宣告です。特に4節でツロ・シドンと名指しされているのは、そこが奴隷貿易の拠点となっていた港町だったからでしょう。
神様がご自身の民として選ばれたイスラエル。ご自分の子どもとして愛し、守り、導いてくださったイスラエルの民を苦しめた敵に対して、神様が怒りを燃やしてくださるというのはよく分かります。敵をおさばきになるというのもよく分かります。けれども、主なる神ご自身が敵への報いとして、「おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう」という衝撃の告白に正直「それで良いんですか!」、「神様本当にそうなんですか!」と私はびっくりし、また悩みました。 やられたら、やり返す。仕返しをする。目には目、歯には歯、イスラエルの親たちと全くおんなじ苦しみ・悲しみを敵の親にも味あわせてやる…。私たちの神様はそのようなお方なのでしょうか!
御子イエス様は、こう語ってくださいました。マタイの福音書5:38,39 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
三位一体なる神様です。父・子・聖霊なる神様が、同じ思い・同じご性質であられる唯一の神様です。この神様であるならば、ヨエルに対して「大事な子どもたちが、奴隷にされて売りとばされるという耐えがたい悲しみ・恐怖を体験したね。でも大丈夫、わたしがちゃんと子どもたちを取り戻してあげるから。でもね、あの敵たちに仕返しをしてはいけないよ、赦してやりなさい」。そうおっしゃるのかと思いきや、敵に報いを下す、今度は敵の子どもたちを売り渡す、遠くアフリカのシェバ:今のエチオピアの商人の手に売る、と神様ご自身がおっしゃるのです。 皆さんは、どう思われるでしょうか!?
この一週間、悩み・思い巡らし・神様のお考えを探る中で、私は、「イスラエルの子たちが売られていく現実に、心痛めてくださった主のお姿があるのではないか。そして、聖なる神様の激しいまでの御怒りが、また悲しみが表されているのではないだろうか!」という思いに至りました。ご自分の子どもたちが、「モノ」のように扱わるのを、売り買いされるのを、子どもたちが虐待され、その尊厳があまりにも軽んじられている現実に、耐えられず、悲しみ、敵を激しく怒ってくださる主のお姿がここにあるのではないかと思いました。
(結論) 
今日の週報の中の「今週のみことば」に選びましたが、イエス様は、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」(マタイ18:6)とおっしゃっています。この過激にも思える発言に先立って、イエス様は、一人の子どもを呼び寄せ、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイの福音書18:3)とおっしゃいました。子どもは当時、ものの数にも入れてもらえないような小さな存在、無価値なものとみなされていました。しかし、イエス様はおっしゃるのです。そのいと小さき者をつまずかせるなら=神様の愛から、いのちから、その小さき者を引き離すなら、私はそのような大人を赦さないと。厳しい口調で語ったのです。昔も今も、子どもたちの尊厳を損なうようなことがなされている。その現実を神様は心痛め、激しく悲しみ、怒っておられるのではないでしょうか。
そして、その小さき者の一人に私がいるのです 神様は、私たちのことをそのような特別な愛のまなざしで見てくださっています。
最後に、人身売買という罪の性質についてもう一度考えましょう。マフィアのような特別に悪い輩がやっていることで、自分とは無関係の事柄でしょうか? 実は、私たちの心の中にも、同じような罪の性質があるのではないでしょうか? 人を一人の人間として、大切な人格としてではなく、道具や歯車の一つのように見ているという考え方です。私の中にあります。人を「モノ」のようにお金に換算して、その人の能力・何が出来るか出来ないかといったことだけで、その人を評価し、あるいは否定していることはないでしょうか? 身近な家族にもそんな目を向けてしまいます。その人そのものの素晴らしさ・神のかたちに、神に似せて造られたその存在そのものの価値を見ることが出来ない。今日のみことばを通して、神様は、私たちのそのような人に対する誤った見方を正そうとしてくださっているのではないでしょうか。 
祈りましょう。

2020年9月6日
「神の霊が注がれる」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 2章28節-32節

1. 聖霊が私たちの内に住んでくださる:私たちのただ中に神様がおられる(27節)
私たちの心の中には、神の霊=聖霊が住んでくださっています。Ⅰコリント12章3節には 聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 とあり、同じⅠコリント 6章19節には、 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、 とあります。
みことばが約束しているように、今、イエス様を信じ、礼拝するために集められた私たちの内に、確かに聖霊が住んでくださっています。私たちが意識している・あるいは意識できていないに関わらず、インマヌエルの主 = 「神我らと共にいます」です。インマヌエルの約束は、三位一体なる神の御霊なる神が、私たちと共におられるという事実によって実現しています。
ヨエルは、主なる神による回復のメッセージを取り次ぎました。それは過酷な災いからの回復であり、また霊的な回復・信仰の回復でした。主なる神様と再び、しっかりとつなぎ合わされていくことでした。2章27節の 「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」 この約束は、聖霊が私たちに注がれ、私たちの内に住んでくださることによって成就しているのです。
ペンテコステの日、新約聖書の使徒の働き2章に記録されていますが、キリストの弟子たちに聖霊が降ったあの日、ペテロは集まった人たちに、ヨエル書2章の約束が本当に起こったんだと語りました。
旧約聖書の時代、聖霊:神の霊は、神様から特別な使命を頂いて、特別な働きに任じられた人たちに注がれました。民の指導者、王様、預言者などです 。その特別な聖霊が、新約聖書のあのペンテコステの日以降、すべて主を信じる者たちに注がれているのです。「注がれる」という以上に、ここには「あふれ出る」、「こぼれ出る」という意味があるのだそうです。神様のあふれ出るほどの恵みです。
それは息子・娘:子どもたちにも、お年寄りにも若者にも、国籍・民族・性別・年齢などの区別なく注がれます。さらに社会的立場にも関わりありません。しもべ:男性の奴隷たちにも、はしため:女性の奴隷たちにも神の霊:聖霊が注がれているのです。学のあるなし、収入の多い少ない、この世で偉いか偉くないかなど、全く関係ありません。
聖霊があふれ出るほど内に与えられるとき、このお方、助け主とも呼ばれ、私たちをかたわらで支え、応援してくださっている聖霊に、私たちが導かれるとき、私たちはどう生きていくのでしょうか? 私たちはどのように変えられるのでしょうか? 「あなたがたの息子や娘は預言し」と約束されています。ペテロやパウロが、誰に対しても、いつでも、どこでも大胆に、主イエス・キリストの福音を語ったように、小さな子どもたちが、神様のみことば、福音の素晴らしさを語り始めるのです。
子どもは子どもなりに、子どもの言葉で、イエス様を証しし始めるのです。さらに、「青年は幻を見、老人は夢を見る」と約束されています。日本語の「夢・幻」は、「夢か現(うつつ)か幻か」とか人生50年「夢幻のごとくなり」などと言われ、はかないもの・消えていくものといったイメージを抱きます。また将来への展望とか希望といった意味でも使われます。しかし、ヨエルはここで、子どもが預言をし、青年が幻を見、老人が夢を見ると、三つの世代を並べ、どの世代の人たちも聖霊を受けて、神のことばを語ると約束しているのです。神様のすばらしさを仰ぎ見、その御業を語り始めるのです。
ペンテコステの日、聖霊をいただいた使徒たちが、様々な言語を駆使しながら語った内容は、まさに福音そのものでした。恍惚状態になって神秘的な呪文を唱えたり、新たな説を語り始めたりしませんでした。ただただ主であるお方のこと。ナザレ人イエスがしてくださったこと、十字架に架かり死なれ、墓から復活されたこと、それがあなたの罪のためであったこと、だから今、悔い改めて、キリストを信じ、バプテスマ:洗礼を受けなさいという伝道メッセージでした。まっすぐに福音だけを語ったのです。
皆さんもそれぞれ聖霊に満たされたとか、聖霊が注がれた、また聖霊に導かれたといった聖霊体験をお持ちかと思います。イエス様を知ったあの日のこと、十字架が迫って来たあの時のこと、震えるような感動を覚えたあのみことばとの出会いなど。
私にとって、聖霊に触れられたという経験は、神学生時代でした。牧師への召しを受けて、神学校で学んでいました。神学校では毎日、お昼ご飯前に礼拝をささげていました。わくわくするようなみことばの取り次ぎをする先生もおられれば、いつも睡魔と闘わざるを得ないメッセージもありました。
ある日のお昼の礼拝で、一人の教師が「聖霊のお働きについて語ります」とヨハネの福音書からイエス様が教えてくださった「助け主なる聖霊のお働き」を坦々と語り始めました。情熱は込めておられたと思いますが、熱烈に叫んだり、感情に訴えたりすることはなく、みことばを順々に語ってくださいました。 ― 聖霊は私たちの罪を指し示してくださるお方です。聖霊は私たちにイエス様の十字架の赦しを悟らせてくださるお方です。そしてこのお方を信じる信仰を与えてくださいます。 - 
そのメッセージを聴き終えた後、私は神学校のチャペルの椅子から立ち上がることができませんでした。涙がとめどなくあふれ出て来ました。なぜか分かりません。うれしくって、うれしくって、また自分の罪深さを知らされて、「主よー」と、昼ご飯を食べに行くことも出来ず、午後ずっとチャペルで祈り続けました。「赦してください」、「憐れんでください」と祈り、十字架の赦しにすがりました。そして「ありがとうございます」と祈りました。
聖霊が私の心・たましいに触れてくださった。本当の意味で、イエス様の十字架の愛・赦しの大きさ・広さ・豊かさを私に知らせてくださった時でした。
聖霊は皆さんの内に住んでいてくださいます。そして私たちに働きかけよう、語りかけようとしてくださっています。御霊に満たされていくこと、御霊に導かれていくこと、その喜びを私たちも体験していきましょう。そして求めて行きましょう。

2. 世の終わりの前兆
ヨエルは、自分が生きていた時代から数百年も後に起こるペンテコステの素晴らしい御業を、神様から示されて語りました。さらに驚くべきことに、もっともっと先のこと。2020年を歩んでいる私たちもまだ体験していないことを語りました。もしかしたら、私たちはその実現に向かう序章を今、見ているのかもしれませんが、この世の終わりについての神様のご計画をヨエルは示され、語りました。2章30,31節です。わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
終わりの日のことです。天地創造の第一目に、この世界の初めを定められた神様は、同時に終わりの日をも定めておられます。その日、主イエス様が再び天から下って来られます。終わりの日、最後の審判の日、そして救われた者が主イエス様のみもと、天国に引き上げて頂ける完成の日です。その日が、一日一日にと近付いている今を、私たちは生かされています。
その日の前触れとして、聖書は思ってもみなかったような天変地異が続くと警告しています。人々に危機を悟らせ、神様に立ち返らせるための試練でしょう。みことばは、「太陽はやみとなり、月は血に変わる」ようなことまで起きると言うのです。太陽と月は、いつも変わらずにあって、毎朝、毎晩お目にかかれる不動のものと私たちは思っています。しかし、変わらない、絶対に大丈夫と頼りにしていたものが、揺さぶられる・・・そんな時が来るのです。

3. 主の名を呼ぶ者たちの救い
そのように、この世のものがどんなに揺さぶられても、私たちがどんなに絶望的な状況に追い込まれても、それでも決して変わらない神様の救いがある。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。 この神様の救いの約束は、決して変わることがありません。これが私たちにとっての一番の慰めです。
 あの十字架の場面、イエス様の隣で苦しんでいた強盗の一人が、言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」
イエス様は、答えて言われます。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」
 主の名を呼ぶ人は、誰でも、みな救われるのです。「イエス様」と信頼して、名を呼ぶ。「イエス様、助けてくださいと言う」 その人はみな救っていただけるのです。終わりに向かっていく私たちが、持ち続けていかなければならない幻、夢、希望は、このイエス様の救いでなくてなんでしょうか!? 
ヨエルは、御救いの約束を「のがれる」や「生き残る」とも表現しています。これらは、恐ろしい戦争のただ中から、あの虐殺の中から、奇蹟的に生き伸びた、救われたという強烈な意味を含む言葉です。私たちも、罪と、死と、永遠の滅びから、神様の大いなる御業によって、イエス様の十字架と復活によって奇跡的に救われた者です。
イエス様は今も、私たちの世界をご覧になって、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々をかわいそうに思ってくださっています。長野福音教会の一番の幻、私たちがいつも思い続けていく幻は、このイエス様の思いでなければなりません。一人でも多くの人が救われてほしい、罪に苦しみ、死と滅びに向かっている人たちが、イエス様によって救われてほしい。本当に福音はすべての人を救う神の力なのだ。この幻を私たちは、ずっと持ち続けていきたいと思います。主を呼び求める者は救われます。そして永遠に恥を見ることはないのです(26,27節)。 

2020年8月30日
「回復の約束」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 2章18節-27節

(序論)
おはようございます。約一月ぶりにヨエル書に戻って参りました。これまで預言者ヨエルは、主なる神様の厳しいさばきを語って来ました。おびただしい数のイナゴやばったが大群となって襲って来ること。ありとあらゆる農作物を食い尽くしていくこと。だから人々に「ああ、なんと恐ろしいことが起きてしまったのか…」と泣き叫びなさい、嘆き悲しみなさいとヨエルは訴えてきました。そして、この恐ろしい災いも、主なる神様が起こされたことなんだ。それは、あなた方の心が偽りの神々になびいている現実を、神様は良しとはなさらず、まことの神のもとへと立ち返らせるために厳しい試練をお与えになったのだと、告げてきました。
ヨエルは、2章15節から全国民に「集まれ!」と呼びかけます。断食をし、神様の前に心から罪を悔い改め、神様のあわれみを祈り求めなさいと、呼びかけました。2章17節には、こうあります。
主に仕える祭司たちは、神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか。」
(本論)
涙ながらの訴えに対して、真剣な祈りに対して、主は答えてくださいました。2章18節からは神様からの答えです。それは、あなたたちを必ず救い出すよとの約束であり、回復の約束でした。約束の一つ目は、こうです。
① 主は、ねたむほど愛してくださっているので、私たちのために大いなることをしてくださる(18‐20節)。
:罪人である私たち人間の内にある「ねたみや嫉妬の感情」は本当にみにくく、恐ろしいものです。それに対して、聖なる神様のねたみは、愛に基づく悲しみと嘆きと痛みが伴う「ねたみ」です。
世界一大切な伴侶に浮気をされてしまったご主人・または奥様が、怒り悲し落胆するように、いやそれ以上に、神様は、私たちが他の神々:この世のものや、欲望を満たしてくれるものや、偶像にひざまずくのを、悲しみ、ねたむほどの怒りを燃やされるのです。
私たちがお母さんの胎内で形造られている時、神様は私たちの骨をつなぎ、身体を与え、いのちを与えてくださいました。ずっと守り育んでくださっているお方です。私たちを「ご自分の民」、「ご自分の子ども」とまで呼んでくださり、唯一無二の存在として愛してくださっています。
だからこそ、このお方は、私たちが苦しみ泣き叫ぶのを、絶対に見過ごすことが出来ないのです。「神様、助けてください、あわれんでください」という訴えを聞き流すことが出来ないのです。「私は馬鹿にされ続けています。ひどい扱いをされ続けています。この状況を、神様どうかそのままにしておかないでください。」その訴えに神様は、応えてくださるのです。大いなる御業を見せると約束してくださっています。19節です。
主は民に答えて仰せられた。「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する。わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない。
穀物が荒らされ、ぶどう酒が干上がり、油がかれてしまうような危機的な状況(1:10)も、神様がお与えになりました。けれども今度は、失ったそれら全てをあなたに豊かに与えると回復を宣言してくださったのです。
イスエルを苦しめたあのイナゴ・バッタたちは、みな荒廃した砂漠に追いやる。東の海:死海に、西の海:地中海にまで追放し、みな死に絶えさせる。その死骸の悪臭が立ち上るほどにまですると、神様は宣言されたのです。
人間の力で何とかして追い出そう、無くそうと、努力しても努力しても無駄でした。人には太刀打ちできませんでした。けれども全能の主は、一瞬にしてイナゴ・バッタを消し去ってくださるのです。
主は、ねたむほど私たちのことを愛してくださっているので、私たちのために大いなることをしてくださる。
この世界に、この地に、私たちの中に、大いなる御業をなしてくださる、この主の約束を私たちも堅く信じ、主に期待していきましょう!
② 二つ目の神様からの約束です。大いなることをなさる主を、私たちは楽しみ喜ぶことができる(21‐24節)ということです。
:イナゴの大災害をもたらされた主。その結果、多くの人々が飢え死にしそうになるまで苦しみました。神様の恐ろしい一面に触れてしまったイスラエルの人々に、神様は、これからは豊かな祝福をもたらすから、私と共にいることを楽しみ喜びなさいと、告げてくださるのです。21節、地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。
食うや食わずの日々を過ごしていた人々にとって、不安でいっぱいだった人々にとって、地の実りが回復していくという約束は本当にうれしい宣言であり、大きな希望でした。これで家畜たちも、我々人間も生き延びることができると、ほっと安心しました。
年間降水量が、長野市(1,288㎜)の4割ほどしかないエルサレムの町(477㎜)。さらに5月から9月までは、降水量0ミリという過酷な気象状況の中で、乾きき切ってしまう農地に、毎年種をまき、収穫を期待するイスラエルの人たちです。初めの雨、秋になると降ってくれて、かたくなった地面を潤してくれる雨。そして春に降ってくれる後の雨、種を発芽させ、植物を大きく成長させる雨があってこそのイスラエルでした。その恵みの雨を豊かに降らせると、神様が約束してくださるのです。
そして、こうした日々のご飯がちゃんと食べられるようになっていくという日常生活の回復もうれしいですし、経済的な祝福や物質的な祝福も神様は語ってくださるのですが、実は、もっと大事なことは、私たちの信仰が回復し、恐ろしい神様ではなくて、ねたむほどまで私たちを愛してくださっている神様を喜び、感謝し、賛美して歩むという、礼拝者として私たち自身が回復されることを神様は、ここで約束してくださっています。23節の始めです。 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。 私たちにとって一番大切なこと、必要不可欠なことは、このことではないでしょうか!主なる神様との関係が回復されていくことです。恐れないで、あなたがたの神、主に、「わが神」、「神様」と信頼して、より頼んで行きましょう。
③ 三つ目の神様からの約束です。それは、不思議を(驚くべきこと:驚愕するような奇跡を)行ってくださる主が、イスラエルの真ん中にいてくださること。他に神は無いことを私たちが本当に知っていくことです(25‐27節)。
25節で神様は、驚くような提案をなさっています。いなご・バッタによってもたらされた大損害を、神様ご自身が埋め合わせるよ。損害を補償するよとおっしゃるのです。
私たちも今、回復を求めています。度重なる自然災害からの復旧復興を求めています。何よりも、新型コロナウイルスがもたらしている痛み・苦しみ・困窮・様々な危機・不安や恐れからの回復を求めています。世の中の知識人や経済人たちは、アフターコロナ、コロナが無くなった後のこれからの社会は、前と同じような社会に戻してはいけない。職場や学校の環境を、働き方や学び方を、都会と地域の格差を、新しくよりよい形に変えていかなければならないと語っています。
では私たち、まことの神様を知っている者、まことの神様に知られている者たちが、ずっと期待していきたい回復とは何でしょうか? 経済的な不安定さから抜け出すこと、将来への不安が無くなること、病が回復し健やかに生きていけること、断絶してしまっている家族や人との関係の回復でしょうか? そういった回復も求めて行きたいのですが、一番の願いは、26節の2行目からではないでしょうか!
あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない     
主なる神様が、私たちの心の中にいてくださること、そして、この地に、この世界の真ん中に主がいてくださることを、この地球に住むすべての人たちに気付いてもらうことではないでしょうか! 「御国が来ますように」との主の祈りが実現されることです。
『あなたの神はどこにいるのか』 『愛の神様がおられるというなら、なんでこんなひどいこと、悲しいこと、つらいことばかり起こるのか!?』
そう言われてしまう現実の中に、確かに主がおられること、主が働いてくださることを、まず私たち自身が認め、確認し、主を喜んでいきたいと思います。
(結論)
最後にもう一度、「回復」ということを考えたいと思います。私たちが「回復」と聞きますと、けがや病気が自然に回復していったとか、時間が解決したとか、人の力(誰かスーパースターとか、カリスマ的なリーダーとか、メシヤ:救世主のような存在)によって、回復させてもらったといったイメージを抱きます。けれども聖書は、約束します。本当の回復は全知全能なる主なる神様の御力によってだと。そしてこの神様との関係がしっかりと回復させられることこそ、私たちの一番の回復だと。
さらに25節の「償おう」という言葉は、もともとシャロームという単語が使われています。シャロームは「平安がありますように、平和がありますように」という挨拶ですが、それは波風立たないのほほんとした平和ではありません。「血沸き肉躍るような」生き生きとした状態のことです。いのちの源なる神様との関係が回復され、神様としっかりつながって、そのいのちを生き生きと私たちも生きていきましょう。
祈りましょう。

2020年8月16日
「喜びにあふれる」  宮崎契一牧師

 詩篇 16篇

今朝はこの教会での奉仕の機会を与えてくださり心から感謝いたします。私は何度かこの教会に遊びに来たことがありまして、長野の実家に戻る度に、行ける時には友人である高橋先生=のびくん(友人としての敬愛の念を込めて)に会いに来ていました。正直に申し上げますと、知り合いの中でも、帰る度に足を運んで、そこで時間を共に過ごしたい、そう思える人は私にはそれほど多くありません。
しかし、なぜ、のびくんのところに遊びに来ているのか、それはやはり、のびくんとは一緒にいても、自分がありのままでいられる、何でも自分のことを話せるし、のびくんもそのように自分に向き合ってくれる、その中で会いに来続けているし、連絡を取り続けているのだと思わされました。皆さんにとっても、そのような本当の友人と言える存在があるかもしれません。

身を避けます
そしてそのことはとりわけ、人と人との間のことだけではなく、神様との間でこそそうなのだと思います。私たちは聖書の神様の前でこそ、この方につくられた者として本当の自分でいられる。私たちは、この方には何でもぶつけることができる。自分の悲しみや嘆きといった心、その全てを注ぎ出すことができます。
この詩篇16篇でも「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。」(1節)と言われています。詩篇の詩人は、信仰を持って生きている人です。そして、そのことの故に、この地上で生きることに苦しんでいる人です。神様の前では自分を取り繕う必要は全くない。だから、この人は苦しみの中で、神よ私を守ってください、あなたに身を避けます、いきなりありのままを、自分の中心的なことを叫ぶことから始めるのです。これは私たちの祈りにもつながるものだと思います。
この出だしだけではありません。詩篇の詩人は「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください」(6:1)、「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」(10:1)、このようにその始まりから神様に自分をぶつけるように叫んでいるのです。しかし、この人はただ苦しんでいただけの人でもありません。その中で、返ってただ神だけを喜びとしていた人でした。
16:2では「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」このように、この地上にあっては、ただ神だけが私にとっての良いお方であると、言っているのです。私の幸いは、あなたのほかにはない、これは神に身を避ける人の姿です、ここにはまことの信仰がある、このように言うことができます。
このように主を幸いとする人の心は、同じように信仰に生きる聖徒たちを喜びます(3節)。また4 節では、自分たちの共同体から他の神に走った者を嘆いています。自分は決してそのようなことはしない、その名を口にしないと、自分の幸いである主から離れないとこの方にしがみついています。
ほかの神へ走る(4節)、こういう者たちがイスラエルの民の中にいたということですけれども、これは私はとても現実的な表現ではないかと思います。私たちの内側にある欲望や本能は、私たちを神様から簡単に引き離すものです。自分たちにはどうすることもできません。自分の欲望から、神以外のものに目もくれず走っていく、こういう本能や欲望が人にはあります。神を幸いとするのではなく、この世を幸いとしてしまう、そのような人の痛みについてもここでは触れられているのです。

神の与えたもの
だからこそ、ここでこの詩人も神が自分に与えたもののことを覚えています。5節では「私へのゆずりの地所」や「私への杯」と言われています。これらは神様が与えてくださるものです。この「私へのゆずりの地所」とか、6節の「測り綱」、「ゆずりの地」とは、イスラエルにモーセという指導者がいた時代に、民に与えられたすばらしい土地、約束の地を指す時に用いられた言葉です。そのような測り綱によって定められた、素晴らしい神様から割り当ての地(ゆずりの地所)が、エジプトから脱出した民には与えられました。
しかし、ここでは単に、そのような地上のすばらしい場所、私の好む場所が与えられた、ことが覚えられているのではありません。何か地上の目に見える利益とか、好ましいもの、地上の幸い、そういうものの喜びが言われているのではないのです。ここでそのような言葉使いでこの詩篇の詩人が何よりも喜んでいるのは、主が、私へのゆずりの地所、私への杯、ということです(5 節)。この方が私に割り当てられた方だと、この方が私の受け継ぐものだ、この方が私の嗣業だ、ということを喜んでいるのです。また聖書はそのことを示しています。それこそが素晴らしいものだ、この方こそ私たちが受け継ぐもの、このように自分にとってただ一つの幸いである神様を喜ぶのです。
その中でこの人は「私はいつも、私の前に主を置いた。」(8節)とこの方に応えていくのです。私たちはいとも簡単に、揺れ動いて神様から離れてしまう者です。昨日一日を考えてみても、今朝からの生活を振り返ってみてもそう言えるのではないでしょうか。最初の人間であったアダムとエバは、食べるのに良さそうな木の実によって、本当にあっけなく、またいとも簡単に、神様に背いてしまいました。そのように、私たちもこの世の利益によって揺れ動いて、罪に陥ってしまうことがある。だからこそ聖書は、神だけが幸い、神こそ私が受け継ぐべきもの(ゆずりの地所)、その中で私はいつも神を私の前に置く、このような人の幸いを教えています。この方が右におられる、だから、私は揺るがない、と言われるのです。それは、この人が、本当の喜びと幸いの中にあるということです。
この詩篇の詩人は、そのように生きるために、自分自身のたましいや心、といった部分の修練、訓練をしてきた人のようです。7 節を見ると、主は私に助言をくださる、と言われています。神様という方は、私にアドバイスをしてくださる方だと言われるのです。神だけが幸いなのだ、主だけがあなたにとっての幸いなのだ、そのことを教え示してくださるのでしょう。そのようにこの世にあって簡単にあっけなく揺れ動く者に助言をされる。そして夜ごとに(毎夜と言える、ただ主に向き合う時間と言えるだろう)、私の心の深い部分が私に教える、と言われています。
主という方は助言をしてくださり、夜ごとに、私の心が私に教える。このことは、この詩人が本当に日々、心の深い部分で、ただ神が幸いであり、自分にはそれがある、このことを教えられてきたことを示すものと言えます。私たちが毎日を、ただ平然と、この世を喜んで生きることが言われているのではありません。このように日々、自分自身をただ神に向き合わせてみる、そのような静まりの時が私たちにも必要です。その中で、8 節のように私はいつも私の前に主を置く、9節のように、心の喜び、たましいの楽しみ、その身の安らかさ、が言われています。たましいだけではなく、その体も安らかである、この詩篇の詩人は、この世の中で、そのような喜び、楽しみ、平安を覚えていた人でした。また、その点で揺らがなかった人でした。

いのちの喜び
喜び、楽しみ、ということが言われるのですが、それはどのような喜び、楽しみなのか、詩人は最後にそのことを述べています。10節、まことにあなたは私のたましいをよみに捨てない、と言われています。よみ、とは、死んだ後の世界、死後の場所のことです。悪しき者のやがて行く場所、滅びの場所と言えます。
しかし、神様は私をそういう場所に捨てない、返って、いのちの道を知らせてくださる(11節)。その喜び、楽しみが、あなたの前や右にとこしえにある、と言われています。ここにあるのは、とこしえの喜びや楽しみです。ただの地上だけのことを言っているのではありません。私たちはやがて、誰もが、何らかの形で死んで墓に葬られることになる。しかし、それでも、そのたましいには、御前の喜び、神の右の楽しみがある、とこしえにある、ということなのです。この神の前や右にある喜びと楽しみ、これこそ地上においてもその死後も、とこしえにそのたましいにあり続けるもの、です。
このようなとこしえの、滅びを見ることがないといういのち、そのことを私たちは、十字架の死から復活をされたイエス・キリストにおいて見ることができます。この16篇の詩篇をよく見ると、この詩人の姿は、神だけを私の幸いとして歩まれた、イエス・キリストそのものの姿のように私には見えます。イエス様はいつも、ご自身の前に父なる神を置かれていました(8節)。絶えず主は父に祈りの叫びや声を上げておられました。イエス様の心、そのたましいは、いつも父なる神に向けられていたのです。
イエス様は人々や弟子たちからも理解されず、最後は捕らえられて、十字架に付けられます。その姿は私たち人間の目には、弱々しく揺れ動いた人の歩みのようにも見えるかもしれません。しかし、その中でもイエス様には、絶えず神を前にすることの心の喜び、たましいの楽しみ、その身の安らぎ(9節)があったのです。そして、ご自身が十字架の死からの復活という、いのちの道を歩まれました。神を前にして生きるという、その点において、イエス様は決して揺らぐことはなかったのです。この方には、神の御前にある喜び、右にある楽しみが人間の罪を背負う苦難の中でもあり続けました。

約束の場所
神を私の右に置くこととか、神が私のゆずりの地所と言われますが、改めて、主が私へのゆずりの地所、とはどういうことでしょうか。もちろん、主ご自身を、ということなのです。けれども、「ゆずりの地所」、「測り綱」、「ゆずりの地」と言われる時に、やはり私たちにとってのその場所は天の御国そのものであることを覚えることができると思います。神様が私たちのために堅く保っていてくださる場所、私たちが受け継ぐことが許されている神の備えの場所があるということです。その場所について、イエス様は十字架におかかりになり天に昇られる前に、心を騒がせる弟子たちにこう言われました。ヨハネの福音書14章1-3節(209頁)。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。…」
神を信じ、わたしを信じる。私の幸いを他の何ものでもなく、ただこの方にし、この方を私の前に置く、そのたましいの喜びと楽しみはやがてこの場所につながるものです。十字架の死から復活されたイエス様は私たちのための場所を備えに天に行かれ、やがて、時が来た時に私たちをご自身の国に迎え入れてくださいます。イエス・キリストはいのちの道を私たちに明らかにしてくださいました。この神、またキリストだけが、私にとっての幸い。そのような信仰に私たちも導かれたいと思います。最後に詩篇16篇11節をお読みします。
あなたは私に、いのちの道を 知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
祈り

2020年8月9日
「変えられない人生はない」  高橋宣広牧師

 ルカの福音書 19章1節-10節

(序論)
おはようございます。8月に入って急に訪れたこの猛暑、心身にこたえますね。皆さん夏バテなどしておられないでしょうか? この後、お疲れがどっと出ないと良いのですが。
今から25年の夏、西田ひかるというアイドルが「♪人生変えちゃう夏かもね」という歌を歌っていました。若い頃は、この夏の出会いで、ひと夏の経験で人生が変わるような淡い期待を抱いていました。けれども、どうでしょうか? 年を重ねて来ると、人生観とか価値観とか生き方といったものは、そう簡単に変わらないように感じられます。培ってきたご自身の哲学・生きる指針といったものに固執してしまいます。年を取ればとるほど、人は頑固になっていくのでしょうか?
そんな私たちに主イエス様は「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3:3)とおっしゃいます。しかも語られた対象は人生のベテランであり、優秀な宗教家であったニコデモでした。
(本論)
今日のみことばに出てくる有名なザアカイさんも、ある程度年をとった人生のベテランであったと思います。「彼は取税人のかしらで」と説明されていますので、今で言えば、町の税務署の署長さんクラスです。その仕事に精通していて、能力もあり、出世しました。ザアカイ、皆さんよくご存知でしょう。その名前は、「義人」とか「聖い人」という意味です。日本でも「義人」と書いて「よしひと」さんという男性がいたり、「きよし」さんという方がいたりします。ザアカイの親もこの子に正しい人になってほしい、心聖い人に育ってほしいと願いながら、名付けたのではないでしょうか? それなのに、ザアカイは親の願いとは正反対の人生を選び取っていくのです。彼は取税人の頭でした。
取税人は当時、ユダヤをはじめとして地中海世界一帯を支配下においていたローマ帝国の税金を徴収する仕事をしていました。イエス様が来られたユダヤの地もローマへの納税義務を負っていました。ローマ政府は植民地各地からの反発が直接自らに及ばないように、巧みな方法で徴税をしました。それは現地で雇った取税人に徴税を下請けさせるという方法でした。
ザアカイは、ローマ帝国という強大な権威と力をバックに、徴税に励みました。ローマが設定した税額に何割増しかしたうえで、庶民に「これが税額だ」とうその請求をしました。そして余計な分は、自分のふところにしまいこんだのです。自ら「私がだまし取った物は」と告白し、また「金持ちであった」とあるぐらいですから、相当な無理をして、例えば貧しい人たちからも、そのわずかな財産や、家財道具・衣類まで奪い取るような非情なやり方で、ザアカイは私腹を肥やして来たのです。金の亡者でした。
現在の税務署の職員さんたちは、細かい仕事を正確に丁寧にしてくださっている尊敬すべき方々ですが、2千年前のユダヤでは、取税人はあくどい生き方をしていましたので、ザアカイは人々から「売国奴=ローマに魂を売った奴」とか、「罪人=貧しい人たちを苦しめ、汚れていると見なされていた異邦人とつるんでいるやから」と呼ばれていました。
どうしてザアカイはそんな人生を選び取ったのでしょうか? 聖書は、詳しい生い立ちは語りませんが、ひとつのヒントを提供しています。「背が低かったので」とわざわざ特筆されるほど、かなり背が小さかったのでしょう。その身体的特徴ゆえに、ザアカイは、おそらく劣等感を味わいながら育ってきたのではないでしょうか。自分に自信を持てず、周囲の人々が自分を見下ろしているように感じ、その視線を恐れました。「チビ」と言われたくない言葉を言われたり、同情されたりすることもあったでしょう。劣等感に苦しみ、ザアカイの心はすさみ、歪んでいったのかもしれません。「自分を見下したあいつらをいつかは見返してやる。ぎゃふんと言わせてやる。」そんな思いを胸に秘めていたのではないでしょうか?
その野心を実現させるために、ザアカイは取税人の道を選んだのかもしれません。そして猛烈に働いたのです。良心の叫びを無視して、まっしぐらに金儲けに勤しみました。それが自分を馬鹿にしてきた奴らに対する彼なりの仕返しでした。
ザアカイの生い立ちや心を想像しながら、「ああ私にも同じようなものがあるなあ」と思わされます。生まれ育った家庭環境が本当に貧しかった。親に十分に面倒を見てもらえなかった。小学校に入ればすぐに競争社会、50メートル競走ではいつもビリで惨めな思いをさせられた。勉強でも周りに取り残されてばっかりだった。そんな思いを、劣等感を私も抱えていました。
しかし、驚くことにザアカイの心と生き方を180度転換させる出来事が起こりました。全く別人のようなことを口にしているです。8節。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
金の亡者ザアカイからまさかこんな言葉が出てくるとは!衝撃の告白です!!
―  人々から奪い取って来た男が、人々に惜しみなく与えたいという心に変えられています!
―  脅しだまして生きて来た彼が、正直過ぎる損害賠償を申し出ています!
―  自分の貯金を殖やすことしか頭になかったザアカイが、すっからかんになっても構わない、全部放出したいと申し出るのです!
一体何がザアカイの身に起きたのでしょうか? 聖書は端的にその答えを示します。イエス・キリストがザアカイの家に客人として来てくださった!そしてザアカイの心に働きかけてくださった!ということです。それでザアカイの人生は一変したのです。
イエス様と出会い、イエス様を心に迎え入れる時、ザアカイのように「主よ」と、イエス様を「私の神、私の救い主、私のすべて」と信頼し、すがる時に、人は変わります。悪い方向にではなく、本当に素晴らしい方向に人生が変わります。いや変わると言うよりも、本来あるべき人間の姿(神のかたちとして造られた姿)に回復されていくのです。
―  人を蹴落とし、人を悲しませてきた人生から、
人のために配慮し、自らをささげていく人生に。
―  造り主なる神様の期待に背き、神様を悲しませて来た人生から、
神様の愛と赦しを体験し、喜び、神様の思いに応えて行きたいという人生に。
 ―  劣等感に支配され、ひがんで生きて来た人生から、
    喜びと希望をもって明るく生きる人生に変えられていきます。
イエス様はザアカイのように嫌われていて、罪人だと軽蔑されている人のもとにあえて近づいてくださいました。神様の愛がどれほど大きくて深いかを、ご自身の行動で示してくださいました。金目当てに近付いてくる人はいても、本当の意味で友だちのいなかったザアカイの家に、友人として泊まりに来てくださったのです。「わたしはザアカイ、あなたのことを本当に大切な存在だと思っているよ」、「あなたと友だちになりたいんだよ」と、その愛を示してくださったのです。
(結論)
ザアカイだけではありません。今日もイエス様はあなたに語りかけておられます。イエス様の惜しみない愛に気付いてほしい、十字架でいのちを捨てるまでしてくださった計り知れない愛に気付いてほしいと、あなたに働きかけておられます。
このイエス様の愛に気付く時に、私たちの人生は確実に変わります。聖書の約束はこうです。「神様の愛を受けられない人は一人もいないし、変わらない人生はない」
ザアカイは、このイエス様との出会いを、家にこもって安穏と何もしないで待ってはいませんでした。自ら出て行って、真剣にイエス様との出会いを求めました。聖書はこう言っています。3,4節、
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
いい大人が走って行って木に登るなんて、よほどのことです。けれどもザアカイは恥も外聞もかなぐり捨てて、どうしてもイエス様にお会いしたかったのです。イエス様なら私の人生を変えてくださると期待して。
「人の上に立ちたいという野望をかなえるために生きて来た。取税人になって有り余る金と力を手にした。そうなるために、ザアカイという名とは正反対のあくどいことに手を染めて来ちまったな…。
でも、それで結局、行き着いた先は、みんなから嫌われ、友だちと呼べる存在なんて一人もいなくて、孤独で空しくて辛い人生だった…。こんな人生に終止符を打ちたい。新しい人生、貧しくなっても良いから、心が満たされる日々を送りたい。あのイエス様なら、俺の悲しみ、俺の苦しみを分かってくれるに違いない。他のお偉い宗教家の先生どもは俺たち取税人のことを虫けら同然に扱う。でもあのイエス様は違うらしい。同業者だったマタイがお弟子さんにしてもらえたそうだ。イエス様に会って、人生を変えてもらいたい。」
ザアカイは、こんな期待を持ってイエス様に会いにいったのではないでしょうか。私たちもザアカイのように真剣にイエス様を求めて行きたいのです。イエス様はおっしゃいます。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」人の子=イエス様は、今日もあなたを捜してくださっています。辛い人生を送っているあなた、心に闇があり苦しんでいるあなた、過去の失敗・痛みゆえに立ち上がれないあなたを愛し、救いだし、生かすために、イエス様はあなたのことを捜してくださっています。
さあザアカイのように、この方のもとに走って行って、このお方を心にお迎えして行きましょう。祈ります。

2020年8月2日
「感謝して生きる」  高橋宣広牧師

 ルカの福音書 17章11節-19節

(序論)
おはようございます。先週一週間を振り返ったとき、私たちは何を思い浮かべるでしょうか? また2020年のこれまでの歩みを振り返ったとき、どんな思いになるでしょうか? 新型コロナ・ウイルスに振り回され、恐れさせられ、我慢や変化を求められています。社会全体が:学校も職場も家庭も地域も、私たち教会も:大きな波に翻弄されています。
問題・課題・悩み渦巻くこの世の中にあっても、今日のみことばは「感謝する」ことを教えます。「こんな大変な状況で、感謝なんて出来ない…」そう思うかもしれない。不安や嘆き、不平不満が心に沸いて来てしまう。そんな私たちが感謝して生きていけるように変えられたら、「ありがとうございます。感謝します」という言葉が、真心からいつも出て来るようになったら、なんて素敵でしょうか! 
学生時代の夏休み、私はある島で過ごしました。日曜日、電話帳を開いて教会を探し、礼拝に出席しました。出席者2・3名の小さな教会で、おじいちゃん牧師は普段、ガソリンスタンドで働いておられました。その牧師は、ずっと「感謝です!」、「感謝します!」と語っておられました。そこにいる内に、不思議に私も感謝な気持ちに、うれしい気持ちになっていたのです。そのように「感謝」があなたから周りの人たちに広がっていったら、私たちの世界は少しずつ変わっていくのではないでしょうか!?
(本論)
ルカの福音書17章は、主イエス様が十字架に付けられるために自らエルサレムへと向かっておられる道中の出来事です。イエス様と弟子たちは、サマリヤとガリラヤの国境沿いを歩いて行かれます。サマリヤにはサマリヤ人が、ガリラヤにはユダヤ人が住んでいました。
ある村に入りますと、10人のツァラアトに冒された人たちがイエス様を待ち構えていました。「ツァラアト」のことについて、旧約聖書のレビ記13,14章に大変詳しく記されています。そこを見ますと、皮膚に腫れ物やただれといった症状が出る病だったようです。人の身体だけでなく、家の壁とか服にも「ツァラアト」が出るとありますので、カビが生えてしまうような状態だったのかもしれません。
「ツァラアトに冒される」ということは、身体のかゆさや痛み以上に、社会から白い目で見られ、恐れられ、嫌われるという偏見・差別にさらされました。このツァラアトに本当に感染しているかどうか、検査・検査が行われました。そして疑いのある人は隔離されました。7日間、さらに7日間と2週間の経過観察が行われ、癒されたかどうかも慎重に判定していく。こういった点で、今の新型コロナ・ウイルスに様々な点で似ているなあと思わされました。
ツァラアトに冒されると、普通の生活は出来なくなります。人里離れた所に隔離されて生活しなければなりません。「汚れた存在」とみなされました。ツァラアトに冒されたか、反対に癒されたかどうかを判定するのは、宗教家である祭司の務めでした。祭司に「あなたはツァラアトだ」と診断されると、その人は着ている服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげを手で覆って、「私は汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。そして町の外に出て行って、一人で生活しなければなりませんでした。 ― 現代のように医療や公衆衛生の発達していない数千年前の世界です。感染拡大を防止するため、やむを得ない対応だったのかもしれません。 -
ルカの福音書17章に出て来るツァラアトに冒された10人は、主イエス様のうわさを聞いていました。「目の見えない人を見えるようにし、足のなえた人を歩かせ、ツァラアトに冒された人を癒し、死人までよみがえらせたそうだよ!」、「奇蹟を起こすことが出来るお方がイエス様だ、天から遣わされた預言者だろうか!?聖書に約束されているメシア:救い主だろうか!?」と憧れ、イエス様に会いたいと期待していました。
そしてイエス様が、なんと辺境の地のこの村を通ってくださると言うのです。ついにその日、その瞬間が訪れました。イエス様がやって来てくださいました。けれどもツァラアトに冒された人は、人から50メートルは離れるようにと言われていましたので、遠くから声を張り上げて「イエス様―、先生―、私たちをあわれんでくださーい」と訴えました。
弟子たちや村の人たちに取り囲まれ、たくさんの呼びかけに答えていたイエス様でしょうが、遠くから叫んでいたこの10人に気付いてくださり、その姿を見てくださいます。そして答えてくださったのです。「行って、自分のからだを祭司に見せなさーい。」
10人は言われた通り、エルサレムにいる祭司のもとへ、かなり遠いですが、そこに向かって走り出します。大急ぎでした。喜びと期待でいっぱいでした。
「あのイエス様に声をかけて頂けた!祭司のもとに行けと言うのは、ツァラアトが治ったと診断してもらい、証明書を出してもらいなさい。そして神様に感謝のいけにえをささげよということに違いない。」10人はそう信じました。「これでふるさとに帰れる。家族にも会える。仕事にも復帰して、もとの生活に戻れるんだ!」と希望に胸をふくらませました。
その期待はエルサレムに着く前に、道中で実現します。ふと自分のツァラアトの患部を見ますと、何をやっても消えなかったツァラアトが跡形なく消えていたのです!みずみずしいきれいな皮膚になっていたのです!!どれほどの驚き、喜び、感動だったでしょうか!想像もできません。
みんながより一層、エルサレムへ向かう足を速める中、一人だけ別行動を取る男が現れました。このサマリヤ人です。イエス様のもとに戻ろう!お礼をちゃんと言いに行こう。この喜び、感動、感謝を伝えなくては、とUターンしたのです!「大声で感謝しながら」、「ハレルヤ」と叫び続けて行ったでしょうか!小さな頃から覚えてきた賛美歌を熱唱しながらでしょうか!うれしくて、うれしくてたまりませんでした。
他の9人は、これから自分の人生が元通りになること、そして幸せをつかむことしか頭になかったのでしょう。それに対してこのサマリヤ人は、どなたが自分を癒してくださったのか。どなたが、苦しく辛い絶望から救い出してくださったかに思いが及んだのです。まず大恩人、救い主、イエス様に感謝をしたかったのです。
ツァラアトであることだけでもつらかった。さらに彼はサマリヤ人として同病を煩うユダヤ人患者からも軽蔑されていたでしょう。本当にどん底でした。そこからイエス様は救い出してくださり、大きな光の中に置いてくださったのです。
たった一人だけ、10分の1の人だけが感謝している。これと似たような状況ってあるでしょうか? 電車通学・電車通勤されている方は少ないかもしれませんが、いつもはダイヤ通り時間に正確に動いている日本の電車も、時々、故障や悪天候でダイヤが乱れることがありますよね。電車が止まってしまった時、動かない満員電車に閉じ込められた多くの人たちは、心の中で不平不満を抱くはずです。「運賃を支払っているんだから、ちゃんと時間通りに動いてくれよ」と。
そんな中、もしも自分の身内が鉄道会社に勤務している家族が乗っていたら、全く違う反応をするのではないでしょうか? 「うちの主人が今、故障対応をしているのかしら」、「うちの息子が徹夜で除雪作業をしているはずだわ」、「こんな大変な中でも電車が動くのは、主人のおかげ、息子たちのおかげ。どうか無理だけはしないでください。お願いですから身体だけは大事にしてください」と心配と感謝の思いになるのではないでしょうか?
私たちは自分の都合とか自分の幸せしか頭にないと、感謝が出来なくなってしまうのかもしれません。今、生かされているのは誰のおかげなのか。今、何不自由なく生活できているその背後で、どれだけの人が汗水流して働いてくださっていて、私たちを支えてくださっているのかに、思いをはせていく時、私たちの心は変わっていくのではないでしょうか。感謝できる人になりたいですね。
(結論)
私たちも身体は健康でも、ツァラアトに冒された人と似た状況にありました(今もそうかもしれません)。人生に絶望したこともあります。どん底も体験しました。何よりも自らの愚かさとか、汚れとか、罪深さに絶望しました。そんな中からイエス様は救い出してくださいました。ご自身のいのちをあの十字架の上でささげてまでして、イエス様は、私を罪と、死と、滅びの絶望・どん底・恐怖から救い出してくださったのです。そしてキリストに似ていく聖さと、神の愛と、永遠のいのちという絶大な喜び・祝福の中に私を入れてくださいました。
今、私たちの目に映る現実がどんなに厳しくとも、将来がどれほど悲観的なものであっても、あなたを絶望から救い出してくださったイエス様は、いつもあなたと共にいてくださり、あなたが倒れることがないように支え続けてくださっています。だから私たちは、いかなる状況に置かれても「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16‐18)、このみことばに立つことができるのです。
イエス様は感謝を表しに引き返してきたサマリヤ人に語ります。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直した(救った:新改訳2017)のです。」
「立ち上がりなさい。そして行きなさい。」と私たちに語りかけてくださる主イエス様がいてくださいます。立ち上がる力を勇気を与えてくださるイエス様です。そして行きなさいと使命を与えてくださるイエス様がおられます。イエス様からの励まし・力・導きを、日々頂きながら、これからも歩んでまいりましょう!
祈りましょう

2020年7月26日
「神に立ち返る」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 2章12節-17節

(序論)
皆さんは最近、考えを改めた、生き方を改めた。そんな経験があったでしょうか? 甘いものが止められない、とっても大好きという方がいます。こんな暑い時期には毎日アイスクリーム、普段もお菓子袋が、かたわらにあって、お団子やチョコレート、ビスケット、ケーキが手放せない。飲み物も甘いジュースや甘いコーヒーなどなど。仕事帰りにスーパーやコンビニに行くと、ついつい自分へのご褒美として、スイーツを一品、買ってしまう。
しかしある時、健康診断を受け、「このままじゃまずいぞ」と悟りました。そんな食生活を続けていれば、大変な病気になってしまう。いやもうすでになっている。「危ないですよ」とお医者さんや保健師さんに脅され、注意され、もう甘いものを止めようと決断した。時々、誘惑に負けてしまうけど、それでも量が減った。そんな経験があるでしょうか?
(本論)
自分の意志で「もう止めよう」と決断して、生活や生き方を変えられたら良いのですが、今日の聖書のテーマ「神に立ち返る・悔い改める」というのは、自分で頑張って神様のもとに帰ろうとして帰る。自分の強い意志で神様のもとに留まろうと頑張ってしがみつく。そんなふうに人間の側から立派になることではないのです。
主なる神が人々に「わたしに立ち返れ」とお告げになった時、また預言者ヨエルが「あなたがたの神、主に立ち返れ」と語った時、そう言われた人たちは、ボロボロの状態でした。絶望し切っていました。一生懸命育てた作物:麦もぶどうもりんごも あらゆるものが、イナゴとバッタの大群に飲み込まれていました。豊かな実りを生み出してくれたこの地が、不毛の大地と化してしまった。来年のためにと取っておいた種まで全滅した。「もうおしまいだ」そしてそれは「主の日」の到来だ。神様がさばきをもたらされたんだと、ヨエルによって語られるのです。
もう駄目だ、自分には何の力も無いと思う中に、「主に立ち返りなさい。それが神の願いだ」とヨエルから語られるのです。「心を尽くし」とあるように、そのボロボロの心のままで良いから「わたしに立ち返れ」と主は語りかけてくださっています。
豊かな恵みの中にいた時、私たちは自分で何でもできるような傲慢な思いでした。「神様、本当に助けてください」と真剣に願い求めていませんでした。「ああ、自分の心は神様から離れていた…神様に背を向けていた…」それを認めることから、神様への立ち返りが始まります。
不安うずまくこの世界、将来どうなるか全く分からい私たちの生活。精神的にしんどくて、食べ物がのどを通らず断食状態、涙と嘆きしか出てこないような中でも、そんな「今」、「今だからこそ」、「今でもまだ間に合う」帰って来なさいと神様は訴えるのです。
それは、まず自分自身に絶望することです。自分の力・意志で行動を変えていくのではなく、もう神様の前にあっては、自分が何もできない無力な存在であることを認め、泣きながら必死に神様におすがりしていく。そんな心に変えられていくことなのです。「私は神様のあわれみなしには、一瞬たりとも生きることができない者です」そう認めることです。それが神様に立ち返る。悔い改めていくことです。
旧約時代、イスラエルの人たちは、本当に悔しい時、悲しい時、自分たちの罪を示された時、着物を引き裂きました。でもヨエルは言います、そんなポーズはしなくても良い。それよりもあなたの心を引き裂きなさいと。真心から神のもとに帰れと言うのです。
一度はイスラエルの罪を悲しみ、お怒りになり、イスラエルを罰するためイナゴ・バッタの大群を遣わされた主。「でも、それは、わたしに立ち返ってほしいから与えた試練なんだよ。『主よ助けてください』とあなた方が立ち返るための試練だったんだよ。」
この主が、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる」お方なのです。すがれ、わたしにすがれと呼びかけてくださっているのです。一度、「こらしめる」と決断された神様が、「それをひっこめたい、助けたい」と願っておられるのです。それは神様が情も心も無いお方ではないからです。情け深くて、情に篤くて、痛んでいる人を見たら放っておけない、そんな神様なのです。
まさにイエス様がたとえ話でなさった放蕩息子の父親です。勝手に出て行って、家の財産をすっからかんにして、ボロボロの姿で帰ってきた弟息子。「私はあなたの正統な息子です。受け入れてください」なんて、決して言えない状態でした。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」(ルカの福音書15:21)と土下座して謝るしかできないこの息子を、お父さんは走り寄って抱きしめ、口づけしたのです。情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かな父なる神なのです。
だからこそ、ヨエルは2章15~17節で全国民を集めて、この憐み深い神様に立ち返ろうと呼びかけます。老人も、幼子、乳飲み子も、結婚したばかりの新婚夫婦も、集まって共に神様に祈ろうと訴えます。主に仕える祭司は代表して泣きながら、祈ります。
「主よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を、諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか。」
必死に神様に訴えます。私たちをあわれんでください。神の民として選ばれ、救い出され、導かれて来た私たちイスラエルが滅びることは、神様あなたの御栄光と名声を損なうことになりますよ。敵たちは、イスラエルの神なんてまがい物だ、何の力も無いとあなたの存在を否定しますよ。そんなことがあってはなりません。ですから、私たちを救ってくださいと必死に神様に訴えるのです。
私たちも自分の無力さを認め、あわれみ深い神様に、そして力強い神様にすがり続けていきたいと思います。
そんな経験をされている方々を最後に紹介します。クリスチャンが創設したアルコール依存症の方たちのための自助グループ(回復に向けて、同じ苦しみを抱えている人たちが定期的に集まり、分かち合う場)のA.A.( アルコホーリクス・アノニマス)というものがあります。自分の無力さを認め、神により頼むということを体験していく場です。
そのAA創始者の一人、ビルの物語が、『アルコホーリクス・アノニマス ― 無名のアルコホーリクスたち ―』(ハードカバー版、2010年、第3刷、NPO法人AA日本ゼネラルサービス)という本の中に載っていました。ご紹介します。大変優秀でやり手の男性だったビルですが、アルコールに溺れ、自分と家族をボロボロにしてしまっていました。そんな彼のもとを飲んベイ仲間だった友人が訪ねてくれます。驚くことにその友人はしらふだったのです。
「けれどもぼくの前に座っている友人は、彼が自分にできなかったことを、神が彼のためにしてくれたのだと、単純明快に宣言したのだ。彼は意志の力では、どうにもできなかった。医者はこの友人を見込みなしと宣告した。世間は彼を精神病院に閉じ込めるところだった。ぼくと同じように、彼も完全な敗北を認めたのだった。それから突然、彼は捨てられたゴミの中から救い上げられ、経験したことがなかった素晴らしい人生を与えられた。死者がよみがえったのだ!
そうなる力はもともと彼に備わっていたのだろうか。そうでないことははっきりしている。彼自身の力はいまのぼくが持っているものでしかなかった。つまり全く無力だったのである。」(17ページ)
「真剣にやる気があれば、この友人のようになれるかもしれない。ぼくもなれるだろうか。もちろんだ!
こうしてぼくは、ぼくたちが神を一心に求めるとき、神はぼくたち人間のことを顧みてくださると確信した。やっとのことでぼくは理解し、感じ、信じたのだった。ぼくの目から、思い上がりと偏見のうろこが落ちた。新しい世界が見えた。―
― しばらくの間、ぼくは神を必要とし、神を欲した。謙虚な心で神を迎えたかった。すると神は現れたのだ。けれども神がここにいるという実感は、ぼくのなかの世俗的な雑音にすぐにかき消されてしまった。 ― ようやくぼくは、自分が理解している神に、あなたの計画のままに私をお使いくださいと、謙虚に自分をささげた。神の配慮と指図のもと、条件を付けずに心から自分を差し出した。生まれて初めて、自分は何者でもないこと、神なしでは自分もないことを認めた。厳しい態度で自分の罪に対面し、それを新しく見つけた友である神に取り除いてもらう気持ちになった。以来、ぼくは一滴も飲んでいない。」(18,19ページ)
(結論)
祈りましょう

2020年7月19日
「主のあわれみにすがる」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 2章1節-11節

(序論)
おはようございます。私たちは小さな頃から、日本昔話やディズニーの物語、またジブリ作品といったものに触れ、その世界観から大きな影響を受けて育ってきました。それら多くの作品に共通するのは、主人公を苦しめ、災いや試練・逆境に追いやるのは悪役の仕事だとうことです。鬼(おに)であったり、山姥(やまんば)であったり、魔女であったり、意地悪なまま母であったりします。
悪の親玉のような極悪非道な敵がいて、誠実に生きている一般庶民が痛めつけられている。そんな悪い敵を、スーパーマンのような特別に強くて、優しいヒーローがやっつけてくれる。みんなが助けられ、世界は再び平和になりましたとさ。めでたし・めでたし。
(本論)
そういう常識、そういう世界観の中に生きている私たちにとって、今日のみことばは衝撃的ではないでしょうか? ヨエル書2章1,2節「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。」
皆よく聞くんだ、「主の日が来たぞ!」 預言者ヨエルは訴えかけました。主なる神様がことを行われるのです。今、目の前にそれが起きていました。そしてここでの主の御業とは、やみと暗黒、暗やみをもたらすものなのです。光とか平安ではなくて、良きお方が、主なる神様がやみと暗黒をもたらすのです。これまで見て来ましたように、イナゴによって食物が全滅させられ、イスラエルでは人も家畜も生きるか死ぬかという危機に直面していました。
無数のバッタが大地を覆い、空を飛び交い、昼間であるにも関わらず、目の前がまっ暗闇になる。壮絶な情景が、出エジプト記の中にも記されています。これはイスラエルに対してではなく、エジプトに対してですが、主なる神がもたらされた十の災いの第八番目がイナゴ被害でした。出エジプト記10章12節からです。
12. 主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」
13. モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。
14. いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。
15. それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。
ヨエル書と同じような恐ろしい災いが、すでにエジプトでも起きていました。イナゴ・バッタの異常発生で目の前すべてがバッタ・バッタ、日の光も、人の顔も、目の前の道すら見えない…なんとすさまじい光景でしょうか!? 想像するだけで身震いします。
そのバッタやイナゴの恐ろしい大群の襲来を、ヨエルは、「このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない」前代未聞の事態だ、完全に想定外だったと愕然とし、2章2節でイナゴたちを「数多く強い民」だと例えました。また3節では、イナゴが野を食い尽くす様が、まるで自然火災の巨大な炎が畑や草木を焼き尽くしたかのようだと、深くうなだれました。
かつてはエデンの園のように、きれいな川が流れ、緑もあり、地の実り豊かだったこのイスラエルの地が、荒れ果てた不毛の大地になってしまったと嘆き悲しむのです。
イナゴ・バッタはまるで敵の大軍勢が攻め込んで来たような破壊力でした。4節以降には軍馬、戦車、戦い、勇士、戦士とその速さ、すさまじいまでの恐ろしさが表現されています。イスラエルの住民は、もうなすすべなく、6節のように「もだえ苦しみ、青ざめた顔で」ぶるぶる震えるしか出来なかったのです。
私たちはこういうひどい災いは、悪いやからが企み、それをもたらすんだという考え方で育って来ました。もちろん聖書の中にも、悪の存在、悪魔・サタンが、人を惑わし、苦しめることも記されています。けれども、今回は驚きです。この耐えがたい苦痛、この危機をもたらしたのは主なる神だと言うのです。2章11節です。
主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。
まるでバッタ・イナゴの大群の総大将が主ご自身であるかのようです。一番先頭に立って、「ものども続け」と先陣を切って、イスラエルの田畑を食い荒らしていかれるような様(さま)なのです。良いお方であるはずの神が、愛とあわれみに満ちておられるはずの神が、ご自分の民としたイスラエルを苦しめるのです。耐えがたい苦痛をもたらすのです。衝撃的です。善なる神が災いをもたらす。皆さんが、もしもそんな目に遭ったら、どう思うでしょうか!? 「なんで、そんなひどいことをするのですか…! もう神様なんて信じられません…」となるでしょうか?
でも覚えたいのです。ここで先頭に立って、イスラエルを苦しめ、試練に遭わせ、イスラエルをお裁きになる神は、イスラエルを憎んだり、嫌って、苦しめたのではないのです。来週2章12節以降から見て行きますが、人々がまことの神に立ち返ってほしとの願いで、お与えになった試練だったです。偶像の神々ではなくて、主なる神に立ち返ってほしい、子を愛し、子を思う親心で、イスラエルを苦しめたのです。試練と絶望のどん底から、「神様、助けてください」と神の子どもたちが、もう一度神様に向かって叫び求めることを期待して、イナゴ・バッタを送られたのではないでしょうか。
(結論)
どんな恐ろしい災いにも、どんな苦しい試練にも、そこに良いお方、神様の愛の御手がある。私たちには訳が分からなくても神様の大きなご計画があるはずだ。そう信じるなら、私たちは本当に安心できます。それでも大丈夫です。どんなことも愛の神様の御手を離れて起きてはいない。神様のあずかり知らない所で、悪の親玉とかサタンの支配下で勝手に引き起こされた災いではない。神様がすべてのことを握ってくださっている、その確信を忘れないようにしましょう。
1563年、ドイツのハイデルベルクという町で書かれて出版された信仰問答書『ハイデルベルク信仰問答』、その問い26に素晴らしい信仰の確信が告白されていますので、紹介します。
 問26 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を
信じているのですか。
 答  天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の
熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・
キリストの永遠の御父(おんちち)が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの
父であられる、ということです。
    わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切を
わたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる
災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、
わたしは疑わないのです。
    なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、
真実な父としてそれを望んでもおられるからです。
この答えを繰り返し読んでみると、胸がじーんと熱くなって来ます。神様の愛が迫って来ます。「たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。」 そう信じて生きていきたいと願います。
 そして今日のヨエル書のみことばからは、先頭に立って、私たちのために裁きを下し、私たちを試練に遭わせてくださる神様の御姿を見ましたが、同時、私たちの神であり主なるイエス様は、先頭に立って、私たちに代わって裁きを受けてくださったお方であることもしっかりと覚えましょう。重い十字架を背負って、イエス様は自らの足で、先頭に立ってゴルゴタの丘、カルバリの山へ向かってくださいました。
このあと歌います応答の聖歌399番の歌詞です。
1 カルバリ山の十字架につきて   イェスは尊(とおと)き血潮を流し
  救いの道を開き給えり    カルバリの十字架 我が為なり
   ああ十字架 ああ十字架 カルバリの十字架 我が為なり
2 かくも妙なる愛を知りては 身も魂(たましい)もことごと捧げ
  ただ哀れみに縋(すが)る他なし カルバリの十字架 我が為なり
   ああ十字架 ああ十字架 カルバリの十字架 我が為なり
祈りましょう

2020年7月12日
「主よ、私は呼び求めます」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 1章15節-20節

(序論)
おはようございます。雨が降り続く毎日です。前まで6月・7月の梅雨の時期は、雨足(あまあし)が細(こま)かく、しとしと降る雨というイメージでしたが、ここ数年は激変してしまいましたね。激しく大量の雨が降り続き、豪雨災害が日本各地で発生しています。この地、長野県内の河川も、危険な状態が続いています。被害が出ています。また私にとって、九州の熊本、そして福岡は、生まれ育った場所ですので、とても心が痛みます。まだまだ厳しい試練が続きそうなこの年の日本また世界に、全能なる神様の助けと守りを祈ります。
(本論)
余りにも衝撃的な出来事、受け入れ難い出来事を前に、私たちは言葉を失います 。ただただ、唖然とし、うなだれるしか出来ません。前を向く力も沸いて来ません。しかし信仰を与えられた者は、その現実のただ中で、「助けてください」、「どうしてですか?」、「どうしたら良いのですか?」と呼び求めることが出来る存在を知っているのです。「主よ。私はあなたに呼び求めます。」預言者ヨエルは、主なる神様に向かって叫びました。主を、「あなた!」と呼んで、必死にすがったのです。
ヨエル書1章15節、「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」おびただしい数の恐ろしいイナゴによって、緑という緑が食い尽くされ、荒涼とした大地をその目で見たヨエルは、「主の日は近い」と悟りました。主の日の「日」は、24時間で一日の「日」ではなく、特別な意味を持つ「時」を表しています。
そしてヨエルはじめ多くの預言者たちは、「主の日」を、主なる神のさばきと救いが実現する日だと見ていました。ヨエルはイナゴの災害、そして食糧難、餓死寸前の家畜と人々、さらに19節、20節を見ると、日照り続きで大火災が発生し、水も消えてしまったという立て続けに起こる自然災害を前にし、主なる神様の私たちに対する厳しい眼差しを意識したのです。極限状況を目の当たりにし、この異常気象、この非常状態を、もたらされたのは、主なる神だととらえたのです。恐ろしい自然災害の背後に、神の怒りを見て、必死に「主よ、私たちの罪がこの災いの原因なのでしょうか!? 私たちの傲慢さ、神様をないがしろにしたことが原因なのでしょうか!? どうか赦してください、どうか救ってください、どうかあわれんでください。」と主を呼び求めたのです。
また「主の日は近い」の「近い」は、「目の前にある」という意味なのだそうです。世の終わりが近いと言うよりも、目の前に神様からの厳しい試練がもたらされている…これは神様のさばきなのだろうか…そう感じているのです。
「全能者からの破壊」恐ろしい表現ですが、何とここには、ヘブル語の言葉遊び、ごろ合わせが見られます。全能者はヘブル語で「シャダイ」、破壊は「ショッド」です。文学的表現方法なのでしょう!でも書かれていることは重大です。全能なる神が、破壊をもたらすというのです。愛なる神が、同時に破壊者、さばき主なのです。
とんでもないことに遭ったとき、私たち人間には、その意味が分からないことがあります。「なぜここで? なぜこの時に? なぜこのような形で? しかも私に?」と、考えても・考えても、答えが出ないことがあります。「棚からぼた餅」のような信じられない喜ばしい祝福を頂くこともありますが、反対に受け入れがたい大惨事を前にすることもあります。でも、その全てをご支配し、大きな御手の中でその全てを動かしておられるお方がおられるお方を覚えましょう。そのお方、神様の旨の内、ご計画、みこころを私たち小さな人間が理解することは出来ないにしても、それでも、主はすべてを知っていてくださり、すべてを御手の中に置いていてくださることを信頼し、「主よ」と呼び求めて生きたいのです。
この恐ろしい災いも、全能の神の御手の中にあってのこと、ならば全能の神は、この災いから私たちを救い出すこともお出来になる。そう信頼し、期待するのです。同じヨエル書の2章32節、しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」のです。
私は、今日与えられたみことばを思い巡らす中で、19節、20節にある「荒野(あらの)の牧草地(ぼくそうち)」という表現に気付き、ドキッとしました。
主よ。私はあなたに呼び求めます。火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです。
ああそうなんだ…と考えさせられました。日本に住む者が「牧場」、「牧草地」と聞いてイメージするものは、高原や山の中にあって、一面緑、どこまでいっても草が生い茂っている光景が思い浮かびます。小川がさらさら流れていて、そこに牛たちがのんびりと群れていたり、羊たちも柵の中で守られて草を食んでいる情景です。
しかし中東イスラエルの大地は、乾ききっています。緑は本当にごくわずかです。荒涼とした大地の中で、牧畜農家は、砂漠の中のオアシスの場所を知っていて、また緑がある場所も知っていて、そこに牛や羊を導くのです。
そんな貴重な、荒野の中の牧草地まで、焼き尽くされてしまったと、ヨエルは嘆き悲しむのです。元々わずかしかない緑の牧場、希少価値の極みのような牛や羊のための草っ原まで、イナゴに根こそぎ持って行かれ、さらに火災の炎で全部やられてしまった…頼みの綱が、いのちをつなぐ最後の望みの綱まで、全部断ち切られてしまったのです。絶望の極みです。もう駄目だ…
もしも、そんな中に置かれたとしたら、私たちはどうなってしまうでしょうか? もう死ぬしかないと、あきらめるでしょうか。それとも必死に駆けずり回って、生き延びようともがくでしょうか。
生きるために必死に水を求め、必死に食べ物を求め、うめき、さまよい、あえいでいる野の獣たち、また家畜たちの姿を見て、ヨエルは、はっとさせられたのかもしれません。あのダビデ王が、詩篇42篇1節で「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」と歌ったように、野の獣も、必死に助けを求めている、ならばなおさら、まことの助け主を知っているお前よ、いのちの主によって行かされているお前よ、主を呼べ、主に助けを求めよう、そのようにはっと気付かされたのかもしれません。そして周りにいる人たちも呼びかけるのです。「さあ、一緒に主を呼び求めよう!」と。
1章14節「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」
(結論)
私たちにとっての牧草地、特に大切で、命綱のように大事にしている「荒野の中の牧草地」とは何でしょうか? これが無ければ生きていけないと感じているものは何でしょうか?
健康ですか? お金ですか? 仕事ですか? 家庭ですか? 築き上げて来たキャリアや人間関係、資格や経験ですか?
荒野の中にも牧草地を備えてくださっている神様に日々感謝しながら歩んで生きたいですし、もしも、それが無くなってしまう、たとえ消えてしまう、失われるような厳しい試練に遭ったとしても、それでもその中で、主に「ああ、どうしてですか?」とあえぎ訴える者に、また求め続けていく者でありたいと思います。
なぜなら私たちのとっての本当の「荒野の牧草地」とは、この世のものや人ではなくて、主なる神様、このお方ただ一人だけだからです。そしてまことの「荒野の牧草地」はイナゴにやられたり、炎に飲まれて消えたりすることはありません。とこしえに私たちを生かし、うるおし、満たしてくださる尽きることのない緑の牧場です。
祈りましょう。

2020年7月5日
「気持ちを注ぎ出して祈る」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 1章8節-14節

(序論)
おはようございます。「男子たるもの、人前で涙を見せるな」。「人前で泣くな」と、一昔前の日本では、侍(さむらい)のような生き方を求められていました。喜怒哀楽の感情を、わーっと表に出すことを良しとしないような国民性が今も根強く残っているでしょうか? そんな中、生きていますと、知らず知らずのうちに私たちは、自分の感情を押し殺しています。そうやって生き抜くことを選び取っています。悔しさ、怒り、嘆き、しんどい気持ちを心の底に押し込めて、ふたをして、見ないようにして過ごしています。「人生なんて、そんなもんだよ」、「人なんて、結局そんなものんだよ」とあきらめて、自分で自分を納得させています。ひょうひょうと生きているように表向きはよそおえても、心の中には恐れや悲しさ、嘆きや揺れ動く思いが、いっぱいあるのではないでしょうか!?
(本論)
そんな私たちにとって、今日のみことばは衝撃的です。「泣き悲しめ」、「泣きわめけ」、「いたみ悲しめ」、「泣き叫べ」、「主に向かって叫べ」と神様の方から、私たちに「そうしてごらん」、「そうして良いんだよ」と呼びかけてくださっているのです。「わたしに向かって、あなたの正直な思いを、あなたの生の感情をぶつけて来てごらん。」神様がそう呼びかけてくださっています。
人間の親はそうはいきません。私自身そうですが、家で子どもが泣き叫ぶ声に、時々耐えられなくなります。親も一緒になって「うるさい、黙れ!」と爆発してしまったりします。子どもの感情を受け止めきれないことが多々あります。けれども天の父は違うのです。父なる神様は、私たちに「全部、吐き出してごらん。受け止めるよ」と私たちの訴えを待っていてくださるのです!
先週から旧約聖書のヨエル書をひも解いています。ものすごい数の恐ろしいイナゴが襲いかかって来たイスラエルの大地は、完全に荒廃していました。緑と言う緑が食い尽くされたのです。
1章8節、「若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ。」
これは、正式に婚約をして、嫁入り支度を整え、結婚の日を待ち焦がれた若きおとめに臨んだつらすぎる悲劇です。ある日、ご主人となるはずの男性が急死したとの信じられない知らせが入るのです。彼女は、最初何が起こったか訳が分からなかったでしょう。でも婚約者のなきがらと対面し、その死を前にして、崩れ落ちるのです。痛々しいまでに泣き続けるのです。葬儀で黒い喪服をまとうように、彼女は黒ヤギの皮で作った粗布をまとい、泣きじゃくります。この不幸なおとめは、当時のイスラエルの農家の皆さんと、国民全体を例えています。
10 .畑は荒らされ、地も喪に服する。これは穀物が荒らされ、新しいぶどう酒も干上がり、油もかれてしまうからだ。
11. 農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。
12. ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた。
冬の寒い日も、夏の暑い日も、耐えて耐えて、労働にいそしんだ農家の皆さん。   土地を耕し、種を植え、草をとり、水をやり、美味しく豊かな実りを得ようと、精魂込めて育ててきた作物の数々…それが収穫を目の前にして、全部いなごに持って行かれてしまったのです。根こそぎにされたのです。あてにしていた現金収入が全て断たれてしまうのです。 ― どれほどの絶望・嘆き・怒りでしょうか!? -
農家の方々だけではありません。国民全体の恐怖、不安、嘆きです。穀物:小麦・大麦と、新しいぶどう酒と、油:オリーブオイルは、イスラエルの主要な作物です。いつも食卓にあがる日常食です。パンとぶどう酒とオリーブ油。日本人には、それほど馴染み深いものではないですが、このみことばを日本風にアレンジするならば、「お米もお茶っ葉も、味噌も醤油も、みんな根こそぎ、害虫にやられてしまった…ああどうしよう」という非常事態なのです。食べる物が何も無いのです。みんなやられてしまったのです…さあどうして行こう。今日からいったい何を食べて行ったら良んだ…? もう飢え死にするしかないのか…という状態なのです。
麦とぶどう酒とオリーブ油、それは日常食であり、さらに主なる神におささげしていくものでした。礼拝でいけにえの家畜と共にささげられていました。だから、礼拝に仕える祭司たちも嘆き悲しむのです。 
9節「穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は【主】の宮から断たれ、【主】に仕える祭司たちは喪に服する。」
また13節「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ。穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ。」
神様におささげするものが全部イナゴにやられてしまった。もう何も残っていない…という状態です。神様に礼拝をささげられないと嘆き悲しむのです。普通なら、礼拝で主を喜び賛美する勤めを担っている祭司たちが、皆に「神様をほめたたえましょう!」と呼びかけている祭司が、喪に服しているような、うつむいて、憔悴しきった顔をしているのです。恐れおののいているのです。
この祭司たちの嘆き悲しみ、「神様どうしてですか? どうしたら良いのでしょうか?」との思いを、今、私たちも経験しています。2千数百年前のイスラエルの祭司たちの思いは、私たちの思いです。
昨年10月の台風19号襲来で、あの千曲川が氾濫し、大災害が発生して以来、教会もまた私たちの身の周りも激動の日々です。予定していたもの、楽しみにしていたもの、がんばろうと準備していたものの多くが、中止・キャンセル・延期となってしまいました。今年に入って春以降は、新型コロナウイルスの感染を恐れ、多くのものが出来なくなっています。
教会関係では、昨年秋の信州クリスチャン修養会の中止、楽しみに準備してくださっていた素人演芸会の2度にわたる延期、また4月・5月の二か月間に渡る公同礼拝の休止、いまだに再開できないでいる聖餐式、そして福音食堂の楽しい交わり、今年の教会バザー、ゴスペル、そして妙高キャンプなどなど、多くの活動が中止となりました。
その活動の中心になって、祈り、仕え、準備されて来た方々にとっては、本当に心折れそうな事態かもしれません。主のために、伝道のために、教会のためにと、一生懸命準備して来た。しかし、実現を目の前にして、それが出来なくなってしまったのです。
「祭司よ泣け、悲しみ叫べ」それは、私のような「牧師よ、泣け」という呼びかけに留まりません。もちろん、牧師も心を注ぎ出して、時に泣きながら神様に訴え祈るべきでしょうが、
新約聖書では、神の子として頂いた私たちみんなが祭司なんだと、語られています。
第Ⅰペテロ2章9節
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
あなたがたは王である祭司、主に礼拝をささげ、主なる神様と人々をつなぐ働き人なんだと新約聖書は語っています。それなら、「祭司よ悲しめ、祭壇に仕える者よ泣きわめけ」 このみことばは、私たち皆に語りかけられているのものではないでしょうか!
神様に泣いて訴えるような呼びかけを、祈りを私たちはしているでしょうか!?「祈り」が、どこか、きれいごとだけを並べる表面的な言葉の羅列になってはいないでしょうか? よそ行きの言葉で、お行儀の良い祈りが、良い祈り・立派な祈りだと勘違いしていないでしょうか!?
祈りということを考えていく中で、私の好きなクリスチャン作家フィリップ・ヤンシ―が書きました『祈り どんな意味があるのか』という本の1節に出会いました。第7章の「取っ組み合い」のような祈り、という所から紹介します。
聖書の祈りは厚かましく、しつこく、恥知らずで不作法だ。教会で行われる礼儀正しい独白よりも、露天市場の押し問答に似ている。
私の通う教会では、会衆席の人たちが声を出して短く祈る時を設けている。長年に渡ってそうした祈りを何百と聞いてきたが、そのほとんどは「礼儀正しい」という言葉がふさわしい。しかし、露骨な感情表現のゆえに強く記憶に残っている祈りがある。
明瞭ではあるが震える声で一人の若い女性がこう祈り始めた。「神様、私はある男性から非人道的な扱いをされて、あなたを憎みました!どうして私をこんな目に遭わせたのですか?それに私を慰めようとする、この教会の人のことも憎みました。私は復讐したかった。仕返しして傷つけてやりたかった。感謝します。神様、あなたが私を見限ることなく、ここにいる何人かも私を見捨てなかったことを。あなたは私を追いかけて来てくださいました。そして今、私はあなたのもとに帰り、この心に負った傷をいやしてください。」
ヤンシーは彼女の祈りを聞き、こうコメントします。「私が教会で聞いたあらゆる祈りの中で、この祈りは聖書に非常に多く見られる形に酷似しているように思う。とりわけ、アブラハムやモーセのように、神に気に入られた人々の祈りに似ている」と。
私たちもよそ行きの言葉ではない、正直な思いを、本当の気持ちを注ぎ出して祈っていきましょう。
その時、人知を超えた 神様からの温かな慰め 平安 励ましを 体験できるのではないでしょうか 
(結論)
祈りましょう

2020年6月28日
「記憶し語り伝える」  高橋宣広牧師

 ヨエル書 1章1節-7節

(序論)
おはようございます。JA長野のホームページに「イナゴを食べるのは伝統文化」というタイトルの地域情報が載っていました。抜粋して紹介しますね。―「農村医療の先進地であり、『ピンピンコロリ』という言葉の発祥地でもある長野県佐久市は、男女共に平均寿命が全国トップクラス。佐久市で生まれた人に聞くと、1990年頃まで、保育園の思い出に、みなで畑に行って袋いっぱいにイナゴを捕り、給食のおばさんに佃煮(つくだに)にして食べさせてもらった記憶が残っているようです。1965年頃は小学校の授業でイナゴ捕りをし、それを売ってクラスの時計を買った、なんていうエピソードもありました。長いこと子どものお手伝いのひとつがイナゴ捕りになっていたのです。ほんの少し前までかくも身近だったイナゴを食する文化。実は昆虫からタンパク質やカルシウムをとりいれるという伝統的な食文化が、長野県の長寿を支えてきたひとつの要素でもあると言われています。(https://www.iijan.or.jp/oishii/area/east/post-1149.php)」
(本論)
こうあるように、イナゴって身体に良いようですね。教会の諸先輩方からも子どもの頃のイナゴ捕りの思い出をお聞きしたことがあります。私は人生でわずか数回だけ、佃煮を頂いた経験しかありませんが、皆さんはいかがでしょうか? 農薬の使用で最近はイナゴもいなくなっているのでしょうか?
今日から旧約聖書の小預言書と呼ばれている箇所からみことばを聴いて行きます。ばったが飛び交い、イナゴが大発生しているヨエル書です。虫やバッタが嫌いな方、見るのも、聞くのも嫌だと言う方おられましたら、申し訳ありません。
預言者ヨエル、名前は「主(ヤハウェ)は神である」という意味です。旧約聖書には、計13人もの「ヨエル」さんが登場しますので、よくある名前だったようです。「ペトエルの子」、それ以外の情報はありません。いつの時代の預言者だったのかについても、諸説あります。1章の13節で「祭司たちよ、祭壇に仕える者よ」と呼び掛け、神殿での礼拝に触れています。また2章1節では、「シオンで」と語られています。シオンはエルサレムの別名ですので、ヨエルは、おそらく南ユダ王国エルサレムの住人であっただろと考えられています。
そして何よりも大事なことは、ヨエルに「主のことば」が託されたということです。人間が観察し記録した資料であったり、書き留めたメモや日記のようなものではありません。自分が感じたことを書いたエッセーでもありません。主の霊、聖霊によって、神様の言葉をその心に与えられ、それを人々に語り伝えよと、神様によって召し出された預言者の言葉です。
語った内容は警告でした。バッタ・いなごが異常なまでに大量発生した。バッタらによって田畑が食い荒らされ、作物が全滅し、食糧難に陥ってしまった…そして餓死寸前の家畜や人々がいる…という、本当に恐ろしい光景が描かれています。悲惨としか言えない自然災害を通して、その災いをも支配し、お与えになる神様からのメッセージをヨエルは伝えたのです。
このことは、ヨエルのいた時代、2000数百年前の中東アラブ、特にイスラエルへのメッセージに留まりません、今を生きている私たちへのメッセージです。ヨエルの警告は今、この現実世界への、私たちへの警告なのです。
テレビやインターネットニュースなどを通して、皆さんご存知のように、今年に入ってから、新型コロナウイルスの感染拡大と共に、世界を揺るがしているのが、バッタです。アフリカで大量発生し、今もう既にパキスタンにまで被害をもたらしている「サバクトビバッタ」。恐ろしいまでの破壊力です。バッタが田畑の麦や草や緑を食い尽くし、市場(いちば)で売られている野菜も食い尽くしていると報道されています。世界食糧計画(WFP)はコロナまん延以前に1億3500万人だった世界の飢餓人口が、2億5000万人を上回ると試算しています。今後数カ月で3000万人以上が餓死する危険すらあると警鐘を鳴らしています。
私たちは今、本当に厳しい時代を生かされています。前からそうだったかもしれませんが、先行き不透明な時代です。明日(あす)がどうなるか、来月・来年どうなるのか分かりません。明るい見通しよりも、暗く重い現実が待ち構えていそうです。自然災害:大地震・津波・巨大な台風・洪水被害、原発事故とこれからのこと、さらに人間同士の様々な対立、また疫病のまん延、経済の大混乱など、不安な要素を挙げて行けば切りがありません。
だからこそ、とこしえに揺らぐことない神の言葉を私たちは聴きたいのです。今から2000数百年前という大昔、日本に聖徳太子がいた時代よりも2倍も古い時代に記された神のことばは、全く色あせていません。今の私たちに必要不可欠なみことばです。私たちへのメッセージとして受け取っていきましょう。
ヨエル書1章4節
「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。」
ここにはバッタ・イナゴを表現する言葉が4種類出て来ます。みんな違う単語 です。そして、何とヘブル語にはいなごを表す単語が9つもあるのだそうです。それだけいつも身近にいる虫で、農作物を荒らす害虫として警戒していたのでしょうね…。― 長野県に来て、りんごにはこんなにもたくさんの種類があることに驚かされました。「しなのゴールド」、「秋映え」、「ふじ」などの存在を初めて知り、その味や色合い、収穫時期の違いを知りました。 ― 同じようにイスラエルの人たちは、イナゴを見て、あいつは「かみつくいなご」だ。こいつは「食い荒らすいなご」と判別できたのでしょうね。種別の違いと同時に、その成長によって名前も変わって行ったようです。
日本ではイナゴは体長3-4センチで稲の葉を食べる虫ですが、ヨエル書で描かれているイナゴは、日本のものの三・四倍の大きさ、10-15センチもあるもので、あごが発達し、動物をも噛み咲く力を持ち、木の表面の皮を食い荒らすのだそうです。まさに1章7節で「それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした。」とある通りですね。
何千万・何億といういなごが雲のように飛んで来る時、その響きは大地をとどろかせ、聞く者は恐怖で震えあがるそうです。その被害は植物、動物すべてを食い尽くし、家の中にも侵入して、食べ物と言う食べ物を根こそぎにしていくのだそうです。1章6節に、そのイナゴ・バッタの侵入が、まるで外国の軍隊が攻め込んできたかのようだと例えられ、あるいは雄獅子・ライオンに襲われるかのようだ…とその破壊力と恐ろしさが表現されるほどでした。
イスラエルの人々の大事な栄養源であり、水分補給のための大事な果実であるぶどうやイチジクは木そのものが、やられてしまい、5節にあるように、ワイン好きな酔っぱらいは、飲む物が無いと泣き叫び、悲しむのです。
ヨエルはこのような恐ろしい自然災害を経験した人々に、それをちゃんと語り伝えよと、神のことばを語るのです。1章3節、
これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ
 子どもたち・孫たち・子々孫々に、体験した大きな試練・災い・その時の恐ろしさ、苦しさを語り伝えなさいと言うのです。これは私たちにとっても大事なことです。先の戦争の際のむごたらしい経験、加害者となって犯してしまったこと、また沖縄・東京・広島・長崎での悲劇を語り伝えていかなければなりません。
忘れてしまいやすい私たちです。新聞やメディアが取り上げてくれるのでいいやと人任せにしやすい私たちです。つらい過去はみんな忘れてしまいたいと考える私たちです。そして世代が変われば、前の世代の経験や遺産を忘れ去っていく私たちに、神様は、自ら語り伝えよと命じられるのです。
阪神大震災の時の経験、オウム事件の時の社会全体の恐怖、拉致家族と拉致された方々の悲しみと闘い、東日本大震災、福島第一原発の大事故、栄村の地震、そして昨年の千曲川大洪水、さらに今年のコロナ等々を記憶し、それを子どもたち・孫たちに伝えよと、神様はおっしゃっているのではないでしょうか?
キリスト教会で語られる証しは、とかく良い話に終始しがちかもしれません。最後はハッピーエンドなストーリー。神様の守り、祝福による成功談となりがちです。
けれども、そうではなくて、ただひたすら痛い経験、思い出しくもない過去、辛い経験、大失敗も、神様は私たちに対して、それを記憶し、語れとおっしゃっているのではないでしょうか!?  そんな私、それでも神様の憐みによって生かされている。神様に助けられて、ここまで歩んで来られたことを書き記し、記憶にとどめ、伝えていこうではありませんか!?
私は、この春、子どもが小学校に入学する前後、自分の失敗談をあれこれ子どもたちに聞かせました。年長になり、小学校入学への不安を子どもたちは日々、訴えました。「勉強が難しかったらどうしよう…」、「テストで0点、取ったらどうしよう…」、「小学校に行きたくない…」。そう訴える子どもたちに、私は自分が1年生だった時の体験を思い出し、話しました。「1年生の国語の授業でね、先生から『ちゃんと、すらすら読むことが出来る人は、手を挙げて朗読してください』と言われたんだ。お父さんは、全然練習もしていなかったけど、すっと手を挙げてしまって、先生から『じゃあ、高橋君』と当ててもらったんだ…でもつっかえてばっかで全然読めなかったんだ…先生から『ちゃんと、すらすら読める人はって、言ったでしょ!』と言われて、すごく悲しかったし、悔しかったよ。」 そんな失敗談をすると、子どもは安心したようです。お父さんも怒られたんだ、ということが子どもを安心させたのでしょうか?
私たちの痛み・悲しみ・体験した試練、それが、どこかで誰かを励ましたり、共感出来たりするために、用いられることがあるのではないでしょうか? 神様から分かち合いなさい、伝えなさい、と示された時には、語る責任を果たせる者になりたいと願います。試練の時、神様が私をどのように取り扱ってくださったのか、どのようなみことばを与えくださったのか…そんな神様の導きを語れる者となっていきたいです。
そしてもう一つ、私たちには聞く責任も任されています。1章2節「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。」
(結論)
神様のみことばを聴き続けていく責任、また厳しい試練の中にあっても主が働いてくださっていることを発見し、主の素晴らしさを語る責任を、私たちこれからも果たして参りたいと願います。祈りましょう。

2020年6月21日
「必要を満たす神」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 4章14節-23節

公同礼拝
(序論)
おはようございます。依然として、私たちはコロナの試練の中にあります。目には見えないウイルスや病を警戒し続けなければなりません。この夏、厳しい猛暑が予想される中でも、マスクは着用せねばならず、身も心もすり減る日々が続きます。加えて、長期間に渡る自粛や経済活動のストップにより、厳しい試練に直面しています。会社の経営が成り立たない…主要な業務を手放し、他の会社に業務を移管しました…そんな話が周りから聞こえて来ます。
(本論)
キリスト教会も例外ではありません。「この数か月間、教会会計の赤字が続いています、支えられるように祈ってください」との課題が届いています。コロナ以前には、各地の教会でコンサート活動をしてクリスチャン音楽家たちも、その働きを中断させられています。各地のバイブルキャンプ場も、毎年必ず行ってきた春と夏のキャンプを今年は中止せざるを得ず、経営が厳しくなっています。
厳しい試練の内を歩んでいる私たちに、みことばは語りかけます。ピリピ4章14節「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」
使徒パウロも困難や苦しみを抱えていました。試練に直面していました。宣教師として、各地でイエス様の御救いを伝えたいとユダヤ教の会堂に入って語り始めます、すると、いつも邪魔が入り、「そんな話は聞きたくない、出て行け」と、町から追い出さればかりでした。迫害され続けてきました。牢獄にぶち込まれ、むちで打ち叩かれ、死にそうな目に何度も遭いました。そして命からがらローマにたどり着き、裁判を待つ身です。ローマである程度の自由が保証されているとはいえ、自宅軟禁の捕らわれの身。ときに自分の将来に不安を感じ、ときに孤独を覚える日々です。仲間と思っていたクリスチャンたちが、自分から離れ去っていくのも経験しました。精神的苦痛だけでなく、肉体的にも大きな病い・痛みを抱えています。そんな中、これまで各地の教会から届いていた献金が減り、届かなくなり、経済的に困窮している。
今、パウロはそんな状況だったのではないでしょうか? そんな中、遠くギリシャ・マケドニヤにあるピリピ教会のあなたたちだけは、いつも私のことを祈ってくれている。いつも私のことを気にかけてくれている。パウロ先生のためにと繰り返し、献金を集め、届けてくれた。パウロは「ありがとう」という思いをこの手紙の最後にしたためます。15,16節です。
ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。
また18節にも「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。」と。
「辛いこと悲しいことは、二人で分けあって半分になって、楽しいこととか嬉しいことは、二人で喜んで2倍になるね」という言葉がありますが、ピリピ教会は、ずっと宣教師パウロと喜びを共にしたい、また苦しみも共にしたいと歩んで来ました。パウロがたとえ遠くに行ってしまっても、そこまで訪ねて行って、「食べる物、着る物、薬、旅のために必要な物、学びのために必要な書物、そして献金を」と、ピリピ教会は、支援物資や献金を届け続けて来たのです。
パウロはそれを受け取って、本当にうれしかったと思います。ピリピの美味しい名物・ドライフルーツなどなど、みんなからの思いを受け取って励まされ、勇気づけられたでしょう! 
でも、こう言うのです。17節「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」
「すてきな贈り物をありがとう!うれしいよ。遠く1200キロ以上も離れたピリピの町から、わざわざローマまでエパフロデトに持たせて届けてくれた。本当にすまないね。危険な長旅で、エパフロデとは瀕死の状態にまでなったんだよ。」そんな心からの感謝を覚えながら、パウロは、「届いたプレゼントや献金以上に、うれしいのは、ピリピ教会皆の思いだよ。主のために、主の働きのために、宣教のためにと、思いを寄せ、祈りを合わせ、そして具体的にささげてくれた。そんなみんなの信仰の成長がうれしいよ!」と伝えるのです。ピリピの町に初めて福音を届け、クリスチャンと教会を生み出したパウロならではの親心ではないでしょうか!
そして、この箇所には商売用語・経済用語が使われているのだそうです。17節の「収支を償わせて余りある霊的祝福」、新しい新改訳2017では「あなたがたの霊的な口座に加えられていく実」となっています。
主のためにささげていく、宣教のためにささげていく、それは「あーあ、自分のものが減っていく。無くなっていく。やだなあ、犠牲ばかりで、何の得も無い…」ではないと聖書は言うのです。「献金ばかりしていたら、貯金が尽きてしまって、自分のために何にも買えない、美味しいものも我慢しなきゃいけない…やだなあ」ではないのです。
損得で言ったら得だらけだ。口座の残高が減る一方ではなくて、増し加わって行くんだと言うのです。それは、現実的な損得ではありません。献金したら、ご利益(りやく)で儲かるなんていうこの世的な話ではありません。天に宝を積んでいるのです!18節に「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」と、神様が喜んでくださっているささげもの、だというのです。
それは、イエス様がおっしゃった「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにした」(マタイ25:40)。主へのささげもの、主への奉仕なのです。「空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた」(マタイ25:35,36)
このことをピリピ教会は具体的に、この御言葉をその通り実践したのです。行動を起こしたのです。
そして、ピリピ教会は裕福ではありませんでした。貧しい人たちが多い、経済的厳しい教会でした。
Ⅱコリント8章
1. さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2. 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
3. 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、
4. 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
5. そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。
(結論)
マケドニア地方にあった私たちと同じようなピリピ教会です。特別裕福で、ぜいたくできる教会ではありませんでした。それでも、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とみことばにある通り、ささげていく力を、仕えていく力を、人手を、経済をとすべての必要を神様は満たしてくださったのです。
私たちに対しても満たすと約束してくださっている神様を信頼し、待ち望んで、これからも歩んで生きたいと願います。 
祈りましょう

2020年6月14日
「私を愛してくださる神」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 4章8節-13節

公同礼拝
(序論)
おはようございます。前の教会で伝道師として仕えていた頃、東南アジアのある国を何人かで訪問しました。恩師が宣教師として赴任された国で、そのお働きを見せて頂き、少しでもお手伝いさせて頂くためでした。
その宣教師は、現地で日本語教会の牧師として仕えておられました。高層ビルの一つのテナントが日本語教会でした。様々な立場の方々が集っておられましたが、全体的には裕福な方たちが、着飾って日曜日の礼拝に集っておられるように感じました。お仕事のために現地に駐在されているビジネスマンや奥様、お子様たちが多くいました。日本から訪問した私たちのために、歓迎会のような食事会を開いてくださったのですが、現地のお料理を頂ける高級レストランに連れて行かれ、ドキドキしながらナイフとフォークでエスニック料理を頂きました。
さらに、その宣教師は、日本語教会の牧師と同時に、現地の方たちの教会で協力牧師のような働きもしておられました。しかも、スラム街と呼ばれる貧しく、様々な問題を抱えた方々が住んでいる地域の教会でした。日曜日の午前は日本語教会でセレブな方々とお付き合いされ、同じ日曜の夕方には、スラム街の教会で仕えておられる恩師の姿を思い出しながら、
(本論)
今日与えられたみことば、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。」本当にこう歩んでおられたのだなあと思い出しました。
宣教師として現地で仕えておられる先生方のご苦労とそのお働きの豊かさに感動します。ある意味、「何でも出来る、何でもしなければならない」のが、宣教師なのではないでしょうか? 現地の言葉を習得し、現地の教会で礼拝説教する。現地の文化や習慣の中で共に生きていく。栄養状態が悪い国に行った宣教師は、村の人たちに鶏の飼育の仕方を教え、それを食べさせて、子どもからお年寄りまで、みんなを元気にさせたとおっしゃっていました。現地の方たちに仕えるため、教育や医療・公衆衛生を指導していく、また伝道のために、日本の文化やスポーツ、書道や空手・柔道などを教えていく。マルチな賜物を発揮しておられる宣教師がおられます。
このピリピ人への手紙を書いているパウロも宣教師でした。各国の町々・村々を転々としながら、現地の人たちに福音を伝えていました。パウロも賜物豊かな人でした。知的レベルも高く、ヘブル語・ギリシャ語と数か国語は自由に使いこなしていたでしょう。ユダヤ教・パリサイ派の最高の教育も受けていましたので、旧約聖書研究の第一人者でした。頭だけでなく、手先も器用でした。天幕作りの職人として、どこにいっても仕事をして生活費を稼ぐことが出来ました。体力もあったでしょう。当時の過酷な長旅に耐えうる人でした。
そんな知識・能力・経験が豊富な私だから、「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(私は)どんなことでもできるのです。」とパウロは言っているのでしょうか!何があっても的確に対処できる。マルチなタレントがあって、危機管理能力も抜群、臨機応変に対応できる、そんな「私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」もしもそんな思いで言っているとしたら、相当嫌味な奴で、偉そうで、高飛車な発言です。
パウロは、そういう人ではなかったし、そういう思いはなかったと思います。同じピリピ人への手紙3章4節で、「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です」と自分に与えられた知識や能力を認めつつも、すぐにそれを否定して、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(3:7,8)と語っています。自分の知識・能力・経験なんて「ちりあくた、ごみ同然、屁みたいなもの」だというのです。
別の個所でも「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(Ⅱコリント11:30)と記しています。
つまり、パウロはここでも、自分の能力・経験・テクニック・知識といったもので、私は、どんな中に置かれても生きていける、私にはマルチな賜物があるからと誇っているわけではないのです。反対に、弱さしか誇るものがないような、このような私であっても、あのお方が共にいてくださるので、あのお方が私を強くし、立たせてくださるので、私はどんな境遇にあっても、喜んで生きていくことができると語っているのです。
現代は、ハウツーの知識で満ちています。例えばセレブな人から招待されて、超高級レストランで食事をしなければならなくなったとします。一般庶民の私たちは焦って、すぐに付け焼刃の知識を求めます。どんな服を着ていったら良いのか…テーブルマナーはどうしたら良いのだろうか? どんな会話をしたら良いのか…? 私たちは、インターネットでGoogleに聞いたり、YouTubeの動画で勉強したり、短期間でセレブな立居振舞が身に付くセミナーにお金を払って参加したりするかもしれません。
けれども、そんなハウツー、テクニックを聖書は教えません。 反対にインターネットでは教えてくれない知識、どんなにお金を払っても、この世のセミナーが教えてくれいない「生き方を・生きる指針を・原則を」聖書は私たちに教えているのです。
たとえどんな厳しい貧しさに直面させられたとしても、あるいは超・裕福な日々を過ごすことが許されたとしても、どんな状況でも、ぶれない歩みが出来るために大事なことを、聖書は私たちに伝えるのです。どんな境遇に置かれても、その状況に支配されずに、不平不満ではなくて、感謝や喜びを持って生きることが出来るために、大切なことを神様は私たちに教えたいのです。
それは、このお方によって:イエス様を信頼し、イエス様によって生きていくと言うことです。イエス・キリストにとらえられ、イエス・キリストの中を、イエス・キリストと共に、イエス・キリストのように、そしてイエス・キリスト目指して生きていくのです。
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ4章8,9節)
ここで挙げられている徳目は、一般社会の倫理道徳・良いこと以上のものではないでしょう。神様から与えられるよいものです。神様が私たちに期待しておられる良い心・良い生き方です。みことばから教えられる良いものです。真実さ、誉れ、正しさ、清さ、愛すべきこと、などなど、それらはまさにイエス様のお人柄そのものです。こういったことを日々心に留めていきましょう! 
この世の中の色んな情報が満ちています。良いものもあれば、悪いものもいっぱい入り混じっている、そんなこの世の価値観ではなくて、聖書のぶれない価値観、神様の求めておられる良いものを追い求めて行こう!それはキリストご自身が示してくださった生き方です。キリストを、いつも心に留め、それを目指して行こうと、言うのです。
私パウロも不完全な罪人です。それでもキリストにとらえられ、キリストの中を活かされている。そんな私を見て、学んでほしいと言うのです。
「あらゆる境遇に対処する秘訣」それはハウツーの知識ではありません。テクニックでもありません。どんな状況に置かれたとしても「私を強くしてくださる方」が共にいてくださることを、いつも忘れないことです。
(結論)
どんなことでも出来ると言われています。私たちは置かれた状況に対応して、これまで出来なかったことができるようになることもあります。例えば、雪国に住めば、雪かきが出来るようになり、車のタイヤ交換も出来るようになり、除雪機の操作も出来るかもしれません。小さな頃、アメリカに移り住んで、現地の幼稚園や学校に通えば、英語がしゃべれるようになるかもしれません。
神様は、私たちの内側にそのような賜物:状況に応じて発揮できる力を備えてくださっています。
それでも、同時に出来ないこともたくさんある有限な私たちです。「どんなことでもできるのです。」これは、私たち人間の内側から出てくることではありません。私たちの力によってではありません。天におられる全能の神様の御手によって、私たちを強くしてくださる方によって、私たちは立つことが出来、どんなことでもさせて頂けるのです。
祈りましょう

2020年6月7日
「思いわずらわないで祈る」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 4章1節-7節

公同礼拝
(序論)
おはようございます。与えられたみことばに「何も思い煩わないで」とあります。ピリピ4章6節です。でもどうでしょうか? な~んにも心配しないで、な~んにも悩まないで、生きている人なんていないでしょう…。よほど能天気な人か、超楽観的な人か、超ポジティブな人になりなさい!ということでしょうか? いやそうは言われても、日々あれこれ考えて苦しんでいる私たちです。
(本論)
聖書の「思い煩う」という単語は、他の箇所では「心配する」と訳されています。イエス様が語られた「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)の「心配する」も同じ単語です。語源は「心が分裂する・二つに分かれる」なのだそうです。「今晩の夕食、おかずはハンバーグにしようかしら、それとも焼き魚?」といった平凡な悩みは、かわいいのでしょうが…、人生で重大な岐路に立たされた時、進路選択の場面や、就職や転職のタイミングなどで、私たちは、AかBか、それともCかと、あれこれ心の中で考えます。
続けるべきか・辞めるべきか…? 引き受けるべきか・辞退すべきかなど、何が正解か分からず悶々(もんもん)と考えてしまいます。結婚生活や子育ての場面で、どんな家に住もうか?  どの車を選ぼうか? どの保険に等など、選択しなければならないことがあります。ご自身や家族が大変な病気や介護が必要な際には、どの病院に、どの施設にと選んでいきます。様々な情報や人の意見、色んなものを参考にしながら、最善のものを選び取ろうとします。
神様は私たち人を、自分で自由に判断し、選んでいく者として創造されました。神様は、私たち人(ひと)に心や思いを与え、知性や判断力を備えてくださいました。それらを用いて、人は豊かなものを作り出すことが出来ました。しかし同時に人は、それをきちんとコントロールできずに、罪を犯したのです・神様に逆らったのです。最初の人、アダムとエバは、悪魔にそそのかされ、「何が善か悪かを自分で判断できるようになりたい、神様のようになりたい」と禁じられた木の実を食べてしまいました。
人間は「自分の人生は自分で決める」、「何が正義で何が悪かは自分で判断する」と神様抜きで、人生と世界を動かそう・動かせると思い上がって生きてしまっているのです。自分の思い通りに事が進んでほしい、自分の考えが正しいに決まっていると、心のどこかで皆そう感じているのです。
それに対して、聖書は、私たちにいのちを与え、私たちを守り、愛してやまない大いなる神様がおられ、神様があなたの人生の主だ、神様がこの世界の主だと教えています。この世界とあなたの人生の社長は私でもあなたではなく、神様なのです。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」詩篇23篇1節にあるように、あなたは羊飼いではなく羊なんだ、弱くて、頼りなくて、迷いやすくて、いのちをつなぐ水のある場所や緑の牧場に、自分の力では絶対にたどり着けない存在なんだと聖書は教えています。
それなのに、私たちはすぐに「自分の人生は自分のものだ。この家族も私が引っぱっていかなければ。この組織は私の手腕で伸ばしていく。」と自分を過信し、思い上がってしまうのです。自戒を込めて語っています。
その結果、「船頭多くして船山に登る」とことわざにあるように、みんなが社長になりたがる組織はまとまらないでしょう。ぶつかり合ってしまうでしょう。教会も例外ではありません。パウロはピリピ教会に書き送っています。4章2節「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」教会の女性牧師二人に、または女性役員二人に苦言を呈しています。イエス様のために一致してくださいね。福音宣教の実を結ぶという同じ目標を目指しているんだから、同じ心になってくださいね。教会の他の皆さんもちゃんと彼女たちの働きに協力してくださいね、と実に配慮に満ちた、ピリピ教会を思う親心からの言葉です。
もう一度、繰り返しますね。「思い煩う」…それは本当に悩んでいて苦しんでいる状態です。でも、もしかしたら、自分の悩みにのみ埋没し、下ばかり見て、天を見上げることを忘れてしまっている状態ではいないでしょうか? クリスチャンの友人に自分の抱えている悩みを相談した時、「まず祈ってごらんよ、ちゃんと祈っている?」と聞かれ、どきっとした経験は無いでしょうか?
神様を忘れ、神様を信頼することや祈ることを忘れ、「自分で決める、自分が決める、自分で何とかしなくては」と焦って、神様の導きを求めないでいる。神様の導きを待てなくて、勝手に考え、判断し、動いてしまっているのかもしれません。
弱い羊が、まるで自分が羊飼いであるかのような大きな勘違いをしてしまっている。主なる羊飼いに、「私を正しい道に導いてください」と祈ることを忘れ、羊飼いへの信頼を失ってしまっている。日々守ってくださっている羊飼いへの感謝も無くしている。そしてまことの羊飼いに養われ、導かれているんだという大きな安心感も消え失せ、喜びも沸いて来ない、という負の連鎖、悪循環の中に、私たちも時に落ち込んではいないでしょうか! 俺が俺がと主張し合う中で、寛容さ、心の広さ、謙遜さを無くしてはいないでしょうか?
その悪循環から解放して頂きましょう。その負の連鎖から脱出しましょう!
そのために私たちの主、あなたの主、まことの羊飼いなる主イエス様が、どのように生きてくださったのか、どのようなお手本を示してくださったのかに注目しましょう。
十字架に架けられる前の晩、イエス様は悲しみもだえていました。けれどもその苦しみを天に向けて祈ったのです。イエス様は、ゲツセマネの園で父なる神様に涙ながら祈られました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイの福音書26:39)
イエス様が目の前にしていた飲み干さなければならない杯には、爽やかな香りも甘さも一切ありませんでした。苦(にが)くて、恐(おそ)ろしくて、つら過ぎる杯でした。その杯には私たち全人類が犯した全てのおぞましい罪が注がれていました。その罪に対する聖なる神の怒りが注がれていました。そして、神の怒りを全部身代わりに引き受けて十字架で痛めつけられ、死ぬという使命が注がれていました。永遠に深く愛し合っている父と子、父なる神様と御子イエス様の関係が、あの十字架の上では断絶されるという、想像を絶する恐怖が、杯に注がれていました。
できれば飲みたくない、逃げたい、私に負わせないでほしい…主イエス様であっても、そう懇願するほど、十字架は恐ろしく、身が縮む思いがしました。汗が血のようにしたたり落ちるまで、うめき、苦しみイエス様は祈られたのです。「わたしの願うようにではなくて、あなたのみこころのように、なさってください」、と。
私の主は父なる神様あなたです。私の羊飼いはあなたです。あなたのご計画通りに、あなたの導かれる通りに、私をしてください。それに従いますと、主イエス様は十字架への道を選び取ってくださったのです。そして私たちのために救いを成就してくださいました。
私たちが生かされているこの地上の現実、様々な問題・不安・悩み・苦しみや痛みが、いっぱいです。神様は、そんな中にある私たちに語りかけてくださっています。
ピリピ4章6,7節
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(結論)
先週、私たちはペンテコステの主の日の礼拝から共に集まることを再開させて頂きました。水曜日には、祈り会も再開し、午前と午後、いつもの出席者が集ってくださり、私自身本当に励まされました。「この2か月間、どんな歩みでしたか? どんな思いを抱きながら過ごされましたか? 神様からどんな語りかけ、また取り扱いを頂きましたか?」そんなテーマで出席者にお証しをして頂きました。
数名の方がこんな風に語られました。「コロナに対して、出来る予防は家や職場でしてきた。でも必要以上に恐れないことにした。日常生活も普通に送らなければならいし、何よりも私たちは神様に守ってもらっている。何かあっても神様がちゃんと責任を取ってくださるという安心がありますから。」
まことの主、まことの羊飼いなるイエス様は、思い悩む私たち羊に。「人のすべての考えにまさる神の平安」(新改訳聖書第3版)を、「すべての理解を超えた神の平安」(新改訳2017)を与えたいと願っていてくださいます。
思い煩う、それは羊が抱える問題を、羊だけで何とかしようともがき苦しんでいる姿かもしれません。自分の小さな脳みそだけで悩み「ああだこうだ」と考える。または、周りの羊に相談し、知恵を借りて、助けてもらう。それも出来るかもしれませんが、時に正反対の羊たちの意見に混乱し、何が正解か分からなくなり、どうして良いか分からなくなるでしょう。
一番確かで、間違いのない方法は、間違いのない真実なお方、まことの羊飼いに聞くことです。
祈りましょう

2020年5月31日
「我らの国籍は天にあり」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 3章17節-21節

2か月ぶりに公同礼拝再開
(序論)
おはようございます。いつもにぎやかな日曜日の教会堂が、2か月間、静まり返っていました。その違和感と毎週、向き合って来ましたので、今日、皆さんと再会でき、本当にうれしいです。本当に感謝です。まず神様にお祈りをして、み言葉を聞きましょう。
(祈り)
詩篇 50:15 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
天の父なる神様 2か月ぶりにこの会堂に神の家族を呼び集めてくださり、心から感謝致します。「コロナ禍」という前代未聞の試練の中、長い間、自宅にとどまって来ました。あるいは強いられて、また勇気を出して職場に出て行きました、その中には戦いがありました。時に敗れ、燃え尽きそうになりながら、過ごして来ました。何が正解か分からないもどかしさの渦の中にもいます。ウイルスに感染する恐れと同時に、その時、負わなければならない大きなリスクにもおびえています。この先どうなるのか予想もつかない不安も抱えています。心も体も折れそうになりながら、今私たちはあなたの御前にいます。
けれども、私たちの不安や恐れ、もどかしさ、疲れ、それら全てが実は、地上の情報のみに振り回され、人間が自分の頭だけで考え、自分たちだけでなんとかしようとがんばっている、そんなおごり高ぶりから出てくる不安・恐れなのではないかと示されています。
「苦しいなら、苦しいです…と訴えよ」と 天の父は、語りかけてくださっています。その時、人知をはるかに超えた神様の大いなる眼差しを感じさせてください。人間の無力さ・限界をはるかに超えた全知全能なる神様の助けの御手を体験させてください。 
2か月間、私たちは各家庭で・持ち場・立場で主を見上げ、礼拝をささげて来ました。しかし、もしかしたら、私たちの心から、また唇から、祈りが、賛美が消えてしまっていたかもしれません。
どうか御霊なる神よ、今日はペンテコステの主の日です。私たちの心の内に住んでくださり、私たちに、主の素晴らしさを豊かに知らせてください。そして私たちの心に・唇に賛美を授けてください。助け主なる聖霊様、私たちのうめきに、一緒に寄り添ってくださり、天の父への祈りに引き上げてください。
長野福音教会・大切な神の家族お一人・おひとりの、霊と肉とをお守りください。どのような状況に置かれても、救い主イエス様の恵みの中に生かし、神の栄光をほめたたえることができますように。あなたに頼り、あなたに助けて頂いて、この危機の時代を歩み抜くことが出来ますように、私たちをお支えください。
すべてをお委ねし、主の導きを信じ、救い主イエス様のお名前によって、この祈りをおささげします。アーメン
(本論)
私たちの教会墓地の墓石には「我らの国籍は天にあり」と刻まれています。今日与えられたみことば、ピリピ3章20節から取られています。私たちの国籍が天にある。それは、いったい、どういうことなのでしょうか? この地上に住民票や戸籍を持ちながら、同時に天国籍も持って生きている。そのことを意識する時、私たちの信仰・考え方・生き方に具体的にどのような影響が及ぶのでしょうか?
この御言葉は、よくお葬式でよく読まれたり、教会のお墓に刻まれていたりします。とすると、天国の確かな約束があるから、いつ死んでも大丈夫。イエス様を信じていれば天国に行けるからという将来への期待また励ましのみことばなのでしょうか? もちろんそういった側面もあるでしょうが、前後の節に出てくる、私たちに行動を促す言葉を見ますと、17節には、「見ならう者になってください」、「目を留めてください」とあり、20節にも「待ち望んでいます」とあります。全て、今の生き方です。今、何を見つめ、今、何を期待して生きているのかが問われています。
天国に国籍がある者として、今この地で生きていく。それはまず第一に、私たちは何があっても天の王なるお方、神様に完全に守られ、助けられているということです。その確かさの中に、私たちが安心して生きることです。その神様の絶対的な守りを信じて生きることです。
私たちは「天国に行ける」と口にしてしまいますが、みことばはそうは言いません。20節では、「そこから(天国から)主イエス・キリストが救い主としておいでになる」と、向こうから、イエス様の方から、私たちをお迎えに来てくださると教えています。また14節では、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる」と出て来ます。地上の底辺から、がんばって・努力して、天高くへと登って来いよ、ではなくて、天からお迎えが来たり、引き上げてくださったりするのです。
天からのお迎えと言うのは、イエス様が再びこの地上に来られ、主を信じる者たちを天国へと迎え入れてくださる日です。再臨の約束です。その時、ちゃんと救って頂ける権利を・資格を・保障を私たちは与えられているのです。それが天国の国籍を持っているということです。「あなたがたの名が天に書きしるされている」(ルカの福音書10:20)のです。
今年の始め、中国でコロナウイルスが大流行し、世界が戦々恐々とする中、私たちの国の政府はじめ多くの国が、自国民を危険な所から退避させ、帰国させるチャーター機を飛ばしました。武漢から日本の空港まで1回の行き帰りに、1800万円ほどの多額の費用がかかったそうですが、お金は惜しまずにチャーター機を飛ばし続けました。
そして、あのチャーター機に乗れたのは、それを遣わした国の国籍を持っている人たちでした。その後は、近隣の諸国で協力してチャーター機を飛ばし、各国へと帰国させることもあったと聞いていますが、危険地域から脱出出来て、本国に帰還できるのは、まずはその国の国籍を持っている人たちでしょう。どの国の国籍を有しているかということは、重大なことです。
聖書の中の「国籍」という言葉は、ピリピの人たちにとって、優越感を持っている事柄でした。ピリピはギリシャの地にありながら、ローマの植民都市でした。ピリピ住民は生まれながらにしてローマの市民権を持っていたのです。聖書の「国籍」は「市民権」と同じ単語です。ローマ帝国が栄えていたこの時代、ピリピの人たちは、ローマ市民として保護され、特権を享受していたのです。そして「全ての道はローマへ通ず」と言われているように、いざという時には、すぐに立派な街道を使ってローマ軍が駆け付けてくれる、助けてくれる、という保障がありました。
天国に国籍が与えられている。それは私たちにとって、本当に確かな事です。私たちの生き方を力強くしてくれます。何があっても、天から助けが来るのです。
天国に国籍がある者として、今この地で生きていく。そのことは第二に、私たちの心を主イエス様の十字架へと向けさせます。イエス様への感謝・信仰へと向かわせます。私たちが、日本国籍・韓国籍・アメリカ国籍など国籍を与えられている、それは帰化したり、亡命したりした場合を除いて、普通は、何の努力もしないで、持っているものが国籍です。その国に生まれ、その国の親から生まれた。それが理由で国籍が与えられ、国民としての恩恵を受け、権利や義務を有しています。
私たちが天国の国籍を持っている。それは完全に受け身です。私たちが何か努力をしたから天国籍が与えられたわけではありません。神様が私たちを神の国の民にしてくださったのです。いやもっとそれ以上の存在に、ご自身の子に、神の子にしてくださっています。そのために、私たちは何の犠牲も支払っていません。何か立派なことをしたから、何か神の国に多大な貢献をしたから天国籍を頂いたのでもありません。ただただ神様からの一方的な恵み、プレゼントなのです。
私たちの側は、何の犠牲も支払わなかった。けれどもその裏で、神様の側で大きな重い犠牲が支払われていました。御子イエス・キリストのいのちが代わりに支払われていたのです。十字架、そこで裂かれたキリストの肉は、私たちの罪を負って、私たちの代わりに打たれ、傷つけられた御身体でした。十字架、そこからあふれ出たキリストの血は、私たちを赦し、生かすための、キリストのいのちでした。
天国籍、神の国の国籍が与えられた。その権利を・資格を・保障を私たちは与えられている、と先ほど言いましたが、そのためにどれほどの犠牲がささげられ、神様の愛が、赦しが、憐みが、忍耐が私たちに注がれているかを忘れてはなりません。
パウロは、警告します。ピリピ3章18,19節
18. というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うので
すが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19. 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の
恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
キリストの十字架を軽く考えてはいないか!? と聖書は私たちに迫って来ます。
「別に他の方法もあって良いんじゃないかな、世界には色んな宗教もあるしさ」、と考えること。または「十字架も大事だけど、やっぱり自分自身の心の持ちよう、良いことを考え、良いことを日々し続けていくことが救いにつながるんじゃないかな」と言ってしまうこと。
聖書は、そういったもっともらしいことを言う人たちを、十字架に敵対して生きている。その人生の終わりは悲劇だと、警告するのです。
私たちは立派だから天国籍を持っているのではありません。21節に「私たちの卑しいからだ」とあるように、以前として欲まみれで、この世的で、罪に負けてしまう、不完全な私たち、その私のために、主イエス様が十字架に架かってくださった。その絶大な愛のゆえに、私を赦してくださる、私を救ってくださる、そして神の国の国籍を持たせてくださったのです。
「我らの国籍は天にあり」あの墓石の上に白い十字架が立っているように、私たちも生かされ、守られている感謝の上に、主イエス様の十字架を見つめましょう。あの主の御苦しみゆえに、私たちが天国民とされていることを心から感謝しましょう。
(結論)
パウロは卑しい私を、主は救ってくださる。そしていつの日か、天国でイエス様と同じ栄光のからだ、復活の肉体を与えられていることを堅く信じ、期待し、歩んでいました。主の愛と赦しを本当に信じ、それにすがって生きていました。
そんな私を見倣ってください、目を留めてくださいと、17節で勧めるのです。― 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 - 立派な人間だから、大きなことを成し遂げてきたから、知識が豊富だからとか、人間的なことを誇って、私を見倣えと言ったのではありません。
こんな弱さだらけの自分を神様は赦し、生かし、用いようとされている。この私の生き様、信仰、神様の私への取り扱いを見てくれ!皆さんも同じように歩んだら、本当に幸せだよ!本当にそれこそ確かな人生だよ!と私たちにも「ぜひ!」と勧めてくれています。それは、神様からあなたへの招きでもあります。
祈りましょう。
Ⅰコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

2020年5月24日
「目標を目指して」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 3章10節-16節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、
(序論)
おはようございます。新型コロナウイルス感染予防のため、私たち長野福音教会は2ヵ月間、共に集まることを中止して来ました。本当につらい、しんどい二月(ふたつき)でした。「礼拝に集えなくて寂しい、特に賛美歌が歌えないのが…」との声が、あちこちから挙がって来ました。
これまで経験したことがない不安だらけの試練に私たちは直面しています。しかし、このトンネルにも必ず神様が脱出口・出口を用意しておられることを信じ、忍耐し、神様に「どうか再び教会に集うことができますよう」と祈り求めながら、過ごして来ました。
状況が良い方向に向かいつつある中、私たちは来週5月31日ペンテコステの日曜日から、再び集まることを決断しました。オンラインのみでの礼拝、メールや郵送のみでのメッセージ配信は、今日で最後となります。
来週ここで皆さんとお会いできることを心待ちにしています。教会で再び主なる神様を心から礼拝できる、その目標に向かって、今週一週間を過ごして参りましょう。
(本論)
今日与えられた聖書のみことばに、「目標を目ざして一心に走っているのです。」と14節に出て来ます。マラソン選手が42.195キロ先に待っているゴールテープを目指して、長くきついコースをひた走るように、キリストにとらえられた私たちも、キリストと共に、この地上の生涯を歩み続けて行きます。時に走り、時に歩き、時に立ち止まってゴールを目指します。待っているゴールは、11節の「死者の中からの復活」また14節の「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」ことだというのです。
私は、この手紙を書いているのがあのパウロ先生だけに、「へえ、そうなんだー!」、「それがゴールなんだ!」とちょっとびっくりしました。世界中にキリストによる救いと神様の愛を宣べ伝えていたパウロ。そのパウロ先生の目指しているゴールが、イエス様と共に天国に引き上げて頂くことだと言うのです。非常に個人的なことです。自分が救われることです。死んだ後(のち)によみがえらせて頂いて、天国で賞を頂くこと、それが私の最終目標です。それ目指して、私はまっしぐらに突き進んでいるのです、と語るのです。
このことに違和感を覚えませんか? 伝道者であり宣教師であるパウロ先生です。「誰々が救いに導かれることが私の最終目標です。○○伝道を最後まで全うすることが私の目標です」という救霊の情熱ほとばしる目標ではないのです。あるいは野心的な目標、「何千人、何万人に伝道メッセージをすることが私の目標です」とか、「牧師として、何百人を救いに導き、洗礼を授け、クリスチャンとして立たせていくことが目標です」とか、「世界中に何十個の新しい教会を立てて行くことが目標です」とか「うちの教会を大きくし、みんなのモデルとなるような素晴らしい教会を建て上げることが目標です」とか、そんな目標に掲げているのかなと思いきや、ごくごく個人的なこと:自分の救い、天国で賞にあずかること、そこを目指してやっているのです、と語るのです。
今日の聖書箇所と同じように、クリスチャンの人生をアスリート・スポーツ選手に例えている第Ⅰコリントのみことばの中でも、パウロは同じように語っています。
9章23節. 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9章24節. 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
そして9章27節に、私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
人を救いへと導くために、まっしぐらに走ろう。福音を広げるためにみんなも共に走ろう。でも最後に、教えて来た私自身が失格者とならないように。せっかくゴールテープを切ったと思ったのに、ルール違反で失格…そんなことにならないようにと言うのです。
非常に個人的です。個人的救済。私が救われること、それが最終目標。なぜでしょうか?
もちろんパウロ先生は、主イエス様から牧師・宣教師になれとの召しを受け、一人でも多くの人を救いに導きたいと心から願って来ました。
ローマ人への手紙
9章1節. 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています.
9章2節. 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9章3節. もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
10章1節  兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
同朋ユダヤ人たち、私の家族。かつての私のようにイエス・キリストの十字架による救いと復活を受け入れられず、それに反発してばかりいる仲間たち。神様の用意してくださった素晴らしい救い・永遠のいのちを無視している同朋に、何とかして気付いてほしい、救われてほしいと切望していました。そのためには自分が呪われた者となっても良いというほどでした。
けれども、それは私の負い目を返すことだ。イエス様がいのちを捨ててまで私のことを救ってくださった。こんな私を生かし、用いようとされている。その返し切れない愛の負債を返していくことが私の宿命、使命、責務なんだとパウロは自覚していたのです。
Ⅰコリント 9:16 「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」
地上で成功すること、牧師として宣教師として何かを成し遂げること、何冊本を出したとか、何人を救いに導いたとか、何個教会を作ったとか、そういうことは私の最終目標ではない。それらは日々、神様から「しなさい!」と押し出されて、導かれてしていることだ。もちろん、そこに情熱を注いで行っている。でも地上での成功とか、数値目標の達成がゴールではないのです。
もしも地上での成功、数値目標の達成がゴールなら、私たちは簡単に傲慢になったり、反対に自己卑下したりするでしょう。
上手く行っているように感じる時は、「私はすごい!こんなにもよくやった!私のがんばりのおかげだ!」と自分の功績を誇るでしょう。
反対に低迷している…目標の数には全然及ばないと、自分を責める時に、「これは私の努力不足のせいだ、私に責任がある…私なんか駄目だ…役立たずだ」と落ち込んでしまいます。
そんな自分が出来る・出来ないとか、上手く出来たかどうかと言ったことばかりに囚われている私たちにみことばは語ります。ピリピ3章13節、
「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」
うしろのものを忘れ、それは「過去のことは全て水に流して」という自分勝手な姿勢ではありません。「歴史の教訓から学ぶ必要なんてない」という独善的な姿勢でもありません。
パウロにとっての「うしろのもの」とは何でしょうか? 一つは、ピリピ3:4-6にあるクリスチャンになる前のパウロの半生です。良い家柄に生まれ最高の教育を受けたこと。そしてキリスト教会を大迫害したことです。二つ目は、クリスチャンとなり、生まれ変わり、牧師・宣教師として歩んで来たこれまでの歩みでしょう。
誇れるような業績・達成してきたこと、成し遂げたこと、それに囚われていないのです。過去の栄光にすがりついている暇(いとま)もないのです。 反対に思い出すだけで恥ずかしい過去・痛い経験・失敗にも囚われていないのです。
過去を振り返っている、そんな暇もないほど、神様から毎日新しい使命が与えられる。毎朝、なすべき使命が託される。今日の午前はあの人に会って福音を語り、午後にはあの教会に手紙を書きと、前に前にまっしぐらに突き進んで行くのです。
この世での目に見える達成・未達成による評価基準とは違う、神様の評価基準をイエス様も教えてくださっています。
マタイの福音書7章
21. わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22. その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
23. しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
「こんないっぱい良いことをしましたよ!がんばりましたよ」と功績を見せびらかそうとする人に、イエス様は「あなたを知らないよ」と突き放すのです。恐ろしいことです。
パウロ先生は、だからこそ、自分の功績うんぬんではなくて、ただただ「キリストの救いが私に成就しますように」と願い求めるのです。
(結論)
私たちは、日々を一生懸命生きています、誠実に生きたいと願っています。その中で大事なことは、イエス様は私たちが「何が出来たか出来なかったか」ではなくて、「どんなことを成し遂げられたか・できなかった」でもなくて、私たちの姿勢・私たちの態度・私たちの忠実さや心を見てくださっているということです。
マタイの福音書25章14節からには、有名なイエス様のたとえ話「5タラントと、2タラントと、1タラント託されたしもべたち」が出て来ます。イエス様は5タラントもうけた人を人一倍高く評価し、ほめちぎり、2タラント儲けた人は中程度に評価し、ねぎらった。というお方ではありませんでした。どちらのしもべにも全く同じお褒めの言葉を駆けています。
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイの福音書25:23)
私のすべてをイエス様が知ってくださっているとことは、本当に大きな喜びです。あなたの心をイエス様は知ってくださっているのです。「心を込めて行(おこな)ったね。忠実に歩んだね。良い心でやったね」とほめてくださるのです。
私たちの最終目標は、このイエス様に心底喜んで頂くことです。いやもうすでに私たちのことを、私たちの存在そのものを、心を喜んでくださっているイエス様の愛を知ることです。イエス様が喜んでくださる、そのことが私たちの最高の喜びなのです。天国の入り口で、「よくやった。良い忠実なしもべだ」そう褒めようと、私たちを待っていてくださるイエス様に出会うことが、私たちの一番の目標なのです。
祈りましょう。

2020年5月17日
「価値の逆転」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 3章4節-9節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、
(序論)
おはようございます。
― 「誰と共に生きるのか?」ということで、私たちの生き方は大きく変わります。 - 「誰(何)のために生きるのか?」ということが、私たちの価値観に大きな影響を与えていませんか。 ― 「この人がいるから頑張れる」。その人が好きなことを自分も好きになり、その人の興味関心が自分の興味関心になっていく。― そんな経験があるでしょうか? 
私も独身から夫婦二人の生活に、そして子どもたちが与えられ家族が大きくなっていく中で、様々な影響を受けています。これまで関心を持っていなかった、子ども向けのTV番組や映画などを一緒に楽しんで見るようになりました。
私たちは、誰と共に生きるかで人生の価値観が変わってくる。ならば、イエス様にとらえられ、イエス様を「私の主、私の神」と信じ、イエス様と共に、イエス様に従っていきたいと願っているクリスチャンの人生には、どのような影響が及んでいるでしょうか? イエス・キリストを信じて救われるということは、人生が大きく変わることです。生き方が変わることです。価値観が変わることです。信じた人が全く新しく生まれ変わるのです。
それに対して、世の中の多くの宗教や信心は、「私が事故や災いに遭いませんように」と祈願したり、お守りやお札を持ったり、お払いを受けたりします。また、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・無病息災・志望校合格・恋愛成就などなど、私の願いが叶うことを求めます。
(本論)
もちろんキリスト教信仰も、全知全能なる神様に、「私たちの日々が守られますように」と祈ります。神様に「私たちの家庭や仕事を祝福してください」と祈ります。しかしたとえ、その中に、どんな災いが起こっても、恐れや嘆き・不平不満だけに支配されません。愛なる神様を信頼し、期待し、希望を持つことが出来る。それでも前向きに生きることができる。これこそキリスト教信仰の強さであり確かさではないでしょうか!
イエス様によって救われ、新しく生きるということは、カバンにちょこっと付けて持ち歩くアクセサリーのようなものではありません。気休めでは決してありません。私たちの心、生活、生き方、価値観、進路など、人生すべてがキリストの中に置かれ、キリストにとらえられていくのです。
「私のために、私の願うように」と、自分に向かっていた「ものの見方」から解放され、
「イエス様と共に、イエス様のために、イエス様に向かって、イエス様のように」という新しい生き方へ導かれていくのです。
今日のみことば、ピリピ人への手紙を書いているパウロ先生は、本当にそのことを体験し、実感していました。ピリピ3章5節から『新改訳聖書2017』で見て行きますね。
5. 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
6. その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。
7. しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
8. それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
5節・6節で、パウロは自己紹介をしているのでしょうか? ― 私は、立派な家柄に生まれました。エリート教育を施され、その道ではトップクラスでした、そんな自慢話をしたいのでしょうか? 自分の経歴をひけらかしたいのでしょうか?
そうではありません。反対です。「今までものすごく価値があると信じて来たもの、プライドを持ってやってきたこと、このためにとまっしぐらに歩んで来たこと、それらすべてを否定されるような劇的な変化を、私は体験しました」と証ししているのです。
私たちは、このことに人生をかける意味がある、価値がある、これこそ生きがいだというものを探し求めています。価値があるものを選び取ろうとします。しかし、「実は自分が追い求めていたものが偽りだった、あるいは、はかないものだった…」と気付いてしまい、絶望した経験があるのではないでしょうか!? でもそこで、本物に出会えるなら、本当に価値あるものに出会えるなら、私たちは幸せです。立ち上がれます。本物に出会えたなら、私たちの人生は大きく変わるでしょう。
ご存知の通り、パウロはキリストと出会うまで、自分が正しいと思う道を突き進んでいました。「これが正しい、絶対だ」と判断できる知識も自分には十分備わっていると思っていました。当時パウロが属していたパリサイ派は、厳格なユダヤ教徒の一派でした。人々から、立派な聖人君主と尊敬されていました。そう、パウロの前半生は、立派になることに向かっていました。心のどこかで「人から高く評価されたい、知識人としても、宗教家としても、またこの国のリーダーとしても名を挙げたい、のし上がって行きたい」そんな上昇志向が強かったのではないでしょうか! 私が正しい、私が絶対だと信じて、教会を迫害したのです。クリスチャンたちを逮捕し、牢屋に入れ、その信仰を捨てさせようとしました。
しかし、あのダマスコへの道を進んでいた時、天からの光に打たれたのです。死に絶えていたと思っていた主イエス様が、実はよみがえって、生きておられ、そのお方のほうからパウロに近付き、声をかけ、パウロのたましいをとらえてくださったのです。人生が180度、変えられました。価値観が180度、逆転しました。
イエス様は、私の罪のためにあの十字架で死んでくださった。そして、よみがえって、今も生きておられる。真逆な方向へと突き進んでいた私をとらえてくださった。私をつかんでくださって、本物へと人生を方向転換してくださったのです。永遠に変わらない価値あるものに向かっていけと、その歩みをシフトしてくださったのです
パウロの前半生、人からは高く評価されていたでしょう。それでも本当の安らぎ・平安はありませんでした。神様に愛されている、赦されている、その確信が無かったのです。
しかし後半生、キリストにとらえられたあの時から、パウロは、人から評価されなくても、反対に誹謗中傷されても、何があっても揺るがない喜び、平安、確信を得たのです。主イエス様を信じ、主イエス様との生きたつながりを体験するようになって、人生が変わったのです。周りの環境が変わったのではありません。自分自身が変わったのです。
イエス様は、今日も聖書のみことばを通して、また助け主なる聖霊を通して、私たちの人生と価値観を変革しようとしてくださっています。
3章8節に「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」とあります。「キリストを知っているかどうか」、「どのようなお方と知っているか」が大事です。「私の主」です。一般的な知識ではなく、あなたにとってイエス・キリストがどんなお方なのか、私個人として、イエス様を知っていくこと重要です。
そして8節終わりから9節にかけて、「私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ」とあるように、イエス様を信じて生きるということは、キリストの中を生きているということです。同時に得ている:信じる者はキリストを持っているのです。これは「同居している」関係性です。別々の家にいて、たまに会いにいくそんな関係ではあありません。いつも一緒に住んでいるのです。世帯を共にしている夫婦また親子のような関係です。同居ですから、キリストのいる所を見れば、私たちがいつもいる。私たちがいる所を見れば、そこにキリストもいるのです。
一対(いっつい)の夫婦、親子のように、ともに愛し合い、理解し合い、何でも分かち合って行く、そして似た者同士になっていくのです。私とイエス様の関係でいえば、私たちがキリストに似た者に変えられていくのです。
本当にすばらしいお方、愛に満ちておられるキリストと共にいればいるほど、キリストのことを考えれば考えるほど、私たちはこのお方を深く知ることの素晴らしさに感動し、喜びが満ちて行くのです。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」この素晴らしさには、絶大な価値があります。あまりにも素晴らしいものです。これまで手放せないと執着して来たものが、「ちりあくた」:ゴミ同然に思えるほど、価値観が変わります。
(結論)
こんな私を本当に愛してくださっているキリスト、こんな私のために十字架で身代わりにいのちまでもささげてくださったキリスト、小さき者、弱き者、罪多き者である私をなおも理解し、心底愛し、労わり、支えてくださっている主イエス様を知る時に、このお方を信じる時に、私たちの価値観は一変するのです。
祈りましょう。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 Ⅱコリント5:17

2020年5月10日
「悪い空気に気をつけて」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 3章1節-3節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、
(序論)
おはようございます。私たちの周りの空気。普段は安心して吸って吐いている空気ですが、ここ最近の空気はどんな味がしますか?
「悪い空気」というメッセージタイトルを付けました。二種類の悪い空気があると思います。一つは、かつて公害をもたらしたような、私たちの身体を痛めつける有害物質を含む空気です。毒素を含む空気、悪臭ただよう空気。ほこりやかび、ばい菌が混ざっている空気など。そして今、私たちは目には見えない新型コロナウイルスが混ざっている空気や、そのウイルスにおびえながら生きています。
もう一つは、私たちの心・精神・たましいに悪い影響をもたらす空気です。過度な緊張感や不安、恐れ、お互いに対するいらだちや疑い、ひどい孤独感、大きなストレスなど、皆さんの周りにも心に悪い影響をもたらす空気がただよっていませんか? そういう悪いものが、私たちの肩に重くのしかかり、胸を締め付けていませんか?
今、私たちはどちらの悪い空気にやられそうになっているでしょうか? 後者かもしれませんね。
(本論)
悪い空気に毒されているのは、私自身もです。ピリピ人への手紙について、とんでもない読み間違いをしていたことを告白し、心からのお詫びと訂正をしなければなりません。私はこの手紙を書いていた時、パウロはローマの獄中にあって、こんな状態でしたと間違った状態を伝えていました。 ― 「牢獄の重い扉には厳重にかぎがかかっていて、全く身動きできない状況だ」とか、「今ローマの牢獄にいる。古代の牢獄、昨年見た『映画パウロ』で描かれていたように、ひどく劣悪な環境だったでしょう。― 光が入って来ない地下牢、ねずみが走り回っているような不衛生な環境、食事だってまともなものは出てこない。― そんな牢屋にいるパウロ先生」 ― 
しかし実際には、手紙を執筆するパウロ先生は、使徒の働き28章最後に記されている時でした。自費で借りた家に軟禁状態であったとはいえ、かなりの自由が与えられていたのだということに、はっと気付かされました。
使徒の働き28章
16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵 付きで自分だけの家に住むことが許された。
30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、
31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。
この2年間のどこかでピリピ人への手紙が書かれたという説が有力なのだそうです。ですから、私が語った情景描写は誤りでした。
この最初のローマでの軟禁状態の後、パウロは自由の身になって 宣教旅行に出て行ったとも言われています。都ローマから行きたかったスペインの方まで行けたでしょうか?(ローマ人への手紙15:23)。しかし、下の年表にあるように、ローマ皇帝ネロの下で再び捕えられ再び投獄された:2度目の投獄があったと考えられています。その2度目の投獄があの『映画パウロ』に描かれている過酷な牢屋での姿だったのでしょう。そして殉教したと言われています。

パウロ先生の歩み年表.jpg

私は、今の自分の状況が、あまりにも自由に身動きできないと窮屈に感じていました。がんじがらめに縛らているように思い込んでいました。目には見えない鎖に捕らわれ、重い扉が目の前にあるような思いになっていた。そしてその自分の感覚を、ピリピへ手紙を書いているパウロ先生の状況と、重ね合わせ過ぎてしまいました。悪い空気に囚われ、聖書を読み間違えていました。
ある程度の自由は確保されていたパウロ先生、それでも自宅に軟禁状態で自由にローマ見物というわけにはいかなかったでしょう。絶えずローマ兵の見張っている視線を感じる中での生活でした。
そんな中から、「喜びなさい」という大きな声が聞こえて来るのです。
3章1節
最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
「喜べ!笑え!楽しめ!」と命令されて、私たちは喜んだり、笑ったり、楽しく感じるものではありません。喜びは、自分の内側から湧いてくる感情ですよね。例えば、同じお笑い番組を見ても、ある人はゲラゲラ大笑いし、別の人は苦笑し、他の人は不快に感じるなんてこともあるでしょう。喜ぶ・うれしい・幸せを感じるといったものは、主観的なものでしょう。
主観的だからこそ、パウロは言うのです。「私たちは、どんな状況に置かれたとしても喜べるんだ!」と。パウロ自身が体験したことを私たちにも勧めるのです。「大丈夫!喜べる!喜びなさい!喜ぼう!」と勧めるのです。何度も繰り返すけど、耳にたこが出来るくらい 言って来たけど、それでも言うね「喜びなさい」。 
どうして喜べと言うのか、なぜクリスチャンにそう呼びかけるのかと言うと、私たちは 満たされていないと、主にあって喜んでいないと、おかしなものにだまされてしまいやすいのです。「ああ!イエス様が私を救ってくださった!今生かされているのは、本当にイエス様のおかげだ!」との喜びに満たされていないと、その実感が無いと、私たちは安全でなくなるのです。まがいものにだまされ、それに取り込まれてしまう危険があるからです。
続く2節には、当時の異端者を警戒しなさい、気をつけなさいと、パウロは口酸っぱく警告します
どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
「『十字架の救い、神様の恵みによる救い、一方的な愛のプレゼントを受け取るだけで良い』…そんな都合の良いことばかりじゃだめだよ。あなたも頑張らないといけないよ。聖書を読んでごらん、『割礼を受けなさい』と書いてあるじゃないか!我々ユダヤ人のように 異邦人のあなたがたも割礼を受けなさい。」そうわざわざピリピの町の教会にまで教えにやってくる人たちがいたのです
今は非常時です。私たち正統なキリスト教会もオンライン礼拝を実施しています。同じようにキリスト教の異端のグループもオンラインで勧誘をしかけています。韓国発の「グットニュース宣教会」という異端のグループが、「オンライン聖書セミナー」を開催します と呼びかけて来ています 長野福音教会のメールアドレスにも勧誘のメールが届きました。

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この異端のグループも、ピリピ3章2節の人たちと同じように、「キリストによる救いではなく、悟りを開くことが救い、異端の指導者の教えに従うことが救い」と教えているそうです
同盟教団からこのグループについて、警戒するようにと情報提供がありました。

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(結論)
こういう悪いものにだまされないように、心惹かれないように、流されて行かないように、私たちは、いつも正しい福音・正しいみことばの理解のうちに、留まっていましょう。 満たされていきましょう。そこに真の喜びがあることに日々気付かせて頂きましょう。
ピリピ3章3節 
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
私たちの心の内に住んでくださっている聖霊にうながされ、導かれ、助けて頂いて、今いる所で心から主を礼拝しましょう!大いなる神様を心から崇め、ほめたたえ、礼拝をおささげしましょう!
そして、イエス様がどれほど素晴らしいお方なのか!その御業を、そのみことばを、その愛を日々覚え続けていきましょう!
悪い空気に支配されてしまいそうな毎日を過ごしています。聖霊の息吹、神様のさわやかな息吹によって、悪いものを吹き飛ばして頂いて、主にある喜びを勝ち取って行きたいと願います。
祈りましょう。

2020年5月3日
「再び会って喜ぶ」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章25節-30節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、
(序論)
おはようございます。先日、同じ長野市内にある仲間の教会からお祈りの課題をお聞きしました。「国際結婚をしている夫婦がいるのですが、奥様がこの1月、母国に帰省された後、新型コロナの影響で出国できなくなってしまった。夫婦が長期間離れ離れの生活をしている。早く帰国できるようになって、夫婦が再会できるように祈ってください」とのことでした。
会いたくても会えない切なさや不安を経験されている方が、今、周りにも沢山おられるのではないでしょうか? ― 単身赴任をしているお父さんが、移動自粛要請を受けて、家族のもとに帰って来られない。― 入院中のお母さんと面会したくても、コロナ警戒の中で会うことが出来ない ― 忍耐が試される期間が長く続いています。これからもしばらく続きそうです。
(本論)
今日のみことばには「再び会って喜び合う」という再会の希望、再会への期待が語られています。パウロ先生が、ピリピ教会の皆さんに「エパフロデトを送り返しますからね。ちゃんとエパフロデトを歓迎してくださいね」とお願いしている内容です。
エパフロデトという人物は、ピリピ教会のメンバーでした。教会の牧師または長老・執事のようなリーダー格の人物だったようです。パウロは彼のことを「私の兄弟、同労者、戦友」と25節で紹介しています。そして彼は、ピリピ教会を代表して、ローマの牢獄に閉じ込められていたパウロ先生を訪問してくれていました。「またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデト」とも、また4章18節には、「エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。」とも記されています。
ピリピのクリスチャンにとって、パウロ先生はこの町にイエス様を紹介してくれた大恩人でした。ピリピ教会の創設者でもありました。その大恩人が、今ローマの牢獄にいる。古代の牢獄、昨年見ました「映画パウロ」で描かれていたように、ひどく劣悪な環境だったでしょう。― 光が入って来ない地下牢、ねずみが走り回っているような不衛生な環境、食事だってまともなものは出てこない。― そんな牢屋にいるパウロ先生のことを心配し、「身体を壊していないかな? 持病は悪化していないかな? 誰かに様子を見に行かせ、しばらくの間、その人をローマの町に留まらせ、パウロ先生の身の周りのお世話係を買って出ようではないか!」ピリピ教会は祈りながら、そう決断したのだと思います。
皆でお金を出し合い、差し入れの食糧や着物なども寄せ合い、手紙や寄せ書きを持たせて、エパフロデを派遣したのだと思います。ピリピ教会皆の思いが彼に託されていました。
そのエパフロデトが、ようやくたどり着いたローマの町で、パウロ先生のもとで危篤に陥ったのです。「彼は死ぬほどの病気にかかりました」(27節)。いったい彼の身に何があったのでしょう!?
先週、オンライン礼拝をささげられた方から、メッセージの内容について、ご質問と訂正依頼を頂きました。「ローマの町からピリピの町までは約1200キロ。当時の歩いての旅で、9日間はかかったでしょう。」と私は語ってしまいました。それに対して、「通常、人はそんなに速く歩くことはできません。時速4キロで1日10時間歩いても40キロほどです。ですから1200キロの距離は、30日はかかることになるのでは」とのご連絡を頂きました。
ご指摘の通りです。私は1日24時間、ひたすら歩き通せるという有りえない前提で、出た時間を単純に24で割っていました。ご指摘頂いたように、30日以上、歩いて・歩いて、途中、イタリアからギリシャまでは船の旅もして、という大移動だったと思います。大雨で身動きが取れない日や、筋肉痛で歩けない日や、港で船が出るのを待っている日なども含めれば、さらに日数は多くかかったでしょう。
エパフロデトは、そんな過酷な旅をして来たのです。エパフロデトという名前は、「魅力的な」とか「ハンサムな」という意味なのだそうです。名前の通りならイケメン男性だったでしょうね。体育会系の筋肉隆々の男性か、あるいは長距離ランナーのような無駄なお肉が一切付いていない、鍛えられた心身を持った男性だったかもしれません。長野福音教会から北海道の北の先端、宗谷岬までとほぼ同じ距離1200キロです。「そこまで行って来てください」と頼むことができ、「はい分かりました」と答えることができる、そんな強い男性エパフロデトであっても、ピリピ・ローマの長くて過酷な旅は、身体を痛めつけました。暑さ厳しい南ヨーロッパでの移動、強い日差しがエパフロデトの体力を奪いました。はやり病もあったでしょう。そして、ようやくたどり着いたローマでの行先は牢獄。不衛生かつ危険な場所。極度の疲れと緊張もあり、エパフロデトは倒れてしまったのだと思います。
「ローマでエパフロデトが倒れた!危篤だ!」との緊急の知らせが、1200キロ離れたピリピにも伝わりました。ピリピ教会を代表して行ってもらっていましたので、教会みんなが心配しました。教会みなで「どうかエパフロデトをお癒しください」と真剣に祈ったでしょう。
そして良かった!癒されたのです!死ななかったのです!再び長旅をして戻れる所まで気力・体力が回復しました。パウロは、心配で・心配でたまらかったであろうピリピの教会のためにも、またエパフロデトの家族のためにも、早く彼を帰らせると決めたのです。おそらくこの手紙、「ピリピ人への手紙」を持たせて、帰らせたのでしょう。
私は、この時の①エパフロデトと②パウロと③ピリピ教会のことをあれこれ想像しながら、「ああ良いなあ、うらやましいなあ」と思いました。
それは、この三者の間に、本当にうるわしい人間関係が見えて来たからです。互いに相手のことを深く思い合っているのです。互いに心配し合っています。また逆に心配をかけさせたくないという配慮もあります。お互いがお互いのために、気遣い、何かをしたいと願っているのです。そして互いに再会したい、顔と顔を合わせて、安心したいと願っています。
パウロはエパフロデトをピリピの教会に送り返すにあたって、細心の配慮をしています。「エパフロデトのことが嫌いになったから、または役に立たないから、送り返すわけで決してありませんからね…反対に彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して、死にそうになりながらも、私に本当によく尽くしてくれましたからね。私のお世話をするために訪れたローマの町で病に倒れ、逆に皆のお世話になりましたが、エパフロデトのことを責めないでくださいね。彼を尊敬してください。大喜びして大歓迎してください」と頭を下げて、お願いするのです。
私は、このパウロの推薦文を読みながら、パウロ先生、ちょっとエパフロデを褒め過ぎていませんか!と、少し嫉妬のような感情を抱いていました。「私の兄弟、同労者、戦友、― エパフロデト」とか、「また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。― 彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。」などと言われています。
皆さんが、実際にこの手紙を受け取ったピリピ教会の一信徒だったと想像してみたら、いかがでしょうか? 自分たちの牧師・リーダーのことを、こんなにも良く評価してくれてうれしい! いっぱい褒めてもらえてうれしいと、あなたは素直に喜ぶことができるでしょうか? それとも、なんでエパフロデトばっかり、高く評価されるか分からない、そんなのは気に食わない、私だって一生懸命やっているんだ、私の功績・私の頑張りを無視しないで頂きたいと、腹を立てるでしょうか? パウロは、そういった人間のねたみの感情に鈍感な男だったのでしょうか!?
そうではないと思います。牧師と信徒たちが、リーダーと兄弟姉妹が、互いに互いのことを思い合い、尊敬し合い、相手の存在を喜んでいる、そんなピリピ教会の様子を知っていたからこそ、このエパフロデト推薦文となったのではないでしょうか!? お互いの失敗・失言・出来ないことをあげつらい、責め合うのではなくて、相手の良い所、相手の素晴らしい所、相手の一生懸命やっていることを認め合い、喜び合い、評価し合っていく、そして教会の他の仲間が褒められることが、まるで自分がほめられているようで、うれしい!そんな教会の雰囲気だったのではないでしょうか!
パウロ先生は、コリントの教会に書き送った手紙の中で、教会はまるで一つの体のようだ、頭(かしら)はイエス・キリスト。そして私たちは各器官だと例え、そのⅠコリント12章26節で、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊(たっと)ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」と教えています。
教会の誰かが苦しんでいるなら、それは群れ全体の苦しみだ。教会の誰かが尊(たっと)ばれ、評価されたら、それは群れ全体の喜びだというのです。世の中では「人の不幸は蜜の味」とか「人の成功は妬(ねた)ましい」言われてしまっています。私たちの心の中にも、そういうどす黒い悪い感情があることを認めた上で、それでも私たちは「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)というキリストにある全く新しい生き方を目指して行きたのです。
そんなうるわしい関係があるからこそ、エパフロデトとピリピ教会は、互いに再会したい、早く会いたいと強く願うのです。再会の日を期待しながら、その日、必ず喜び合えると夢見るのです。28節から「そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。」
2020年の今、私たちは会いたくても会えない現実に直面しています。「人との接触を8割減らしましょう」と呼びかけられています。大人数で会ってはいけないと言われ、寂しい思いをしています。長野福音教会はひと月、集まりを中止しています。けれども、いつかは必ず再会できる、教会のあの人・この人と顔と顔を合わせることができる。あの方の肉声を聞くことができる。その日が必ず来ることを信じて、待ち望みましょう。
そして、その再会が本当に大きな喜びとなるように、私たちの教会の交わりを、今まで以上に良いものに、よりうるわしいものにしていきましょう。そう願い求めながら、会えない中にあっても、互いに連絡を取り合ったり、祈り合ったりしながら、「公同の教会の聖徒の交わり」を持続していきましょう。
再会の希望がある、再会の喜びがある、瀕死の状態のエパフロデトを癒し、立たせ、再びピリピの教会に向かわせてくださった神様の御業を、私たちの内にも行ってくださいと、祈り求めて行きましょう。
(結論)
そしてすべてのことが、神様の御手の中にあること。それも厳しい裁きの御手、恐ろしい怒りのまなざしの内にあるのではなく、愛の神様の赦しの御手、憐みのまなざしの内にあることを覚えていきましょう。
パウロは語ります。27節「ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。」
私たちは今、厳しい現実の中かもしれませんが、それでも生かされている、それは、ただただ神様のあわれみゆえです。神様の愛と守りのゆえです。罪・けがればかりの私を、一方的な恵みで包み、イエス様の十字架の死をもって赦し、滅ぼさずに、生かしてくださっている。そして、こんな私にも期待を寄せ、使命を与え、用いようとしてくださっている。この神様のはかり知れない大きな憐みによって、今私たちがあることを認め、感謝し、力を頂いて、歩んで生きましょう。
パウロは、エパフロデトがピリピ教会を代表して行ったことを2章30節で「キリストの仕事」だと言いました。イエス様は私たちに仕事を与えてくださっています。
マタイの福音書25章
「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」(35.36節)、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40節)
今週、私たちも今、置かれた所でキリストの仕事をさせて頂きましょう。これらの兄弟たち、最も小さい者たちの一人のために、あなたに託されている働きがあるはずです。それはキリストのための働きです。
祈りましょう。

2020年4月26日
「主にある希望」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章19節-24節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、
(序論)
おはようございます。4月に入りまして、スケジュールをあれこれ書き留めていました私の手帳は全く役立たずになりました。教会関係の予定、また子どもたちの学校関係の予定は、ほぼ全て中止か延期になりました。手帳の4月のカレンダーには取り消し線や、赤ペンで記した「中止・延期」のしるしだらけになりました。
そこで、日ごとに変わっていく身の周りの状況を見ながら、一週間単位で家族の予定表を新しく作り直しています。大きな紙に家族5人分の一日一日の予定を書き込んで、それを確認しながら、日々生きています。皆さんはいかがでしょうか?
(本論)
先が見通せない、この先どうなるか分からない、今私たちが体験させられている現実を、聖書の信仰者たちも体験して来ました。このピリピ人への手紙を書いているパウロもそうでした。都ローマの牢獄に捕らわれの身、裁判の被告人でした。― 主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝えて来た。どこに行っても、誰に対しても語って来た。そして町々にクリスチャンを生み出し、教会を生み出して来た。けれども、パウロの語っていること、していることに猛反発する人たちがいっぱいいて、彼らは、パウロのことを一方的にねたみ・憎み、パウロを訴え、裁判にかけて、亡き者にしようと企んでいました。―
牢獄の中で、裁判の被告人の席で、パウロは自分の将来について、二つの可能性を見ていました。一つは楽観的な予測です。2章24節に「しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。」もうしばらくしたら、無罪判決がちゃんと出て、釈放されて、ピリピの町に行けるという確信を持っていました。
と同時に、万に一つの可能性かもしれないが、悲観的な予測もしていました。裁判官は私に有罪判決を下すかもしれない、ひどい場合には死刑判決を出されて、私はキリストの名の故に死ぬ、殉教することになるかもしれないと意識していました。2章17節でこう語っています。
「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
私の血が、私のいのちが、神様の前に供え物となる。つまり殉教するということです。
無罪放免になるか、有罪か…最悪の場合は死刑か、
先行き不透明、どうなるか分からない、自分ではコントロールできない現実の中にいながら、パウロは力強く宣言するのです。「私は、主イエス・キリストの中にいる」と。2章19節の「主イエスにあって望んでいます。」と24節の「主にあって確信しています。」どちらも「主(イエス)の中で」という表現になっていました。英語だと“in the Lord (Jesus)”です。この「主にあって」という言葉から、私は三つのことを教えられました。
まずこの「主にあって」という言葉は、第一に「私は主によって生かされています。」という信仰告白です。主イエス様がいてくださらなければ、私は生きていけないと、心底思っている中から出てくる言葉です。主イエス様と共に生きる時のみ、生きる意味がある。私の中にイエス様がいてくださって、イエス様の中に私がいる。それが、一番の慰め、一番の喜びなんだと本当に感じているのです。獄中という厳しい現実にあっても、嵐に翻弄される船の中にあっても、どこにあっても、私はイエス様の中にいるんだ、それがパウロ先生の揺るがない確信でした。
私の主、私の神であられるイエス様の中で、私には希望がある。目の前は暗い現実かもしれない。牢獄の重い扉には厳重にかぎがかかっていて、全く身動きできない状況だ…しかし死に打ち勝たれた勝利の主イエス様が、私と共にいてくださる、私の味方、私の真の理解者でいてくださる、だから私はピリピの町に戻ることが出来る、必ず行けると希望を持つことが出来るのです。
また「主にあって」という言葉は、第二に「主の御心の通りに。」と願う祈りです。私自身すぐにでもピリピの町に行って、皆さんを励ましたい。また励ましを受けたい。でも今は捕われの身、自由に身動きが出来ない。だから最初に私の代わりに信頼するテモテをピリピの町に送りますからね。19節で、
しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
また23節でも、
ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。
この思いを繰り返し語っています。裁判の結果が分かったら、私の身がこれからどうなっていくのか見通しが付いたら、まずはテモテを遣わしますからね。私の身を案じてくれているピリピ教会の皆さんにちゃんと伝えますからね、念を押して、安心させたいのです。
実際に人が行って、手渡しで手紙を渡すか、口で伝えるしか、伝達手段の無かった時代です。まずテモテを遣わすよ、さらに私自身も行きますからね。でも、そのことすべてが主のご計画に従って、みこころならばということも忘れないでいてください。私の願い通りになってほしい、私の希望通りにではなく、主にあって、主の願う通りに、みこころの通りになのです。
今回、イタリアの都ローマから、ギリシャのはずれの町ピリピまで、どれくらい移動に時間がかかるのか調べてみました。今は便利な道具がありますね。インターネットのGoogle Mapという機能を使って、ローマ・ピリピ間の距離と移動時間を調べました。距離は約1219キロ(長野福音教会から北海道の北の先端:宗谷岬までとほぼ同じ距離です)、そして、ローマ・ピリピの移動は、徒歩とフェリー利用で214時間と出ました。1日8時間歩き続けられたとしても、30日弱、1か月はかかる長旅でしょうか?

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ちょっと隣の町にまで旅に出るという簡単な移動ではないことが分かります。国をまたいで、何日も何日も歩いて、さらに船に乗ってと。危険が、いのちの危険が伴う当時の過酷な旅だっただろうなと推測できます。盗賊や獣に襲われる危険があったでしょう。
それでも会いに行きたい。それでもまずテモテに行ってもらいたい、続いて私も行きたいとパウロは願うのです。何がそこまでパウロ先生を突き動かしていたのでしょうか?
「主にあって」の三つ目の意味です。それは「主の期待に応えて、主の召しに従って行きたい」という強い願いです。 
パウロ先生を突き動かしていた思いは、自分のために、自分を楽しませるためにではありませんでした。

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今は、コロナ感染急拡大、移動自粛要請がなされています。ゴールデンウィークもどこにも出かけてはいけない、観光行楽なんて、もっての他と禁じられています。そんな中、コロナが終息したら、「あそこに行きたい、ここを観光したい、こんなこと、あんなことを」と希望が、夢が語られています。自由になったら、今我慢しているあのこと、このことを。でも、その多くが自分を楽しませること、自分を喜ばせることではないでしょうか!?
主の弟子、使徒パウロは違うのです。テモテを紹介する中で、こう語っています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」 釈放されて自由の身になったら、のんびり温泉旅行にでも行って、心身を癒したいとか、食べたかったあれもこれも食べに行きたいとか、そういったことは思っていないのです。
釈放されて、自由の身になったら、まずあの教会に、この教会に行きたい、あの町の兄弟姉妹に会いに行きたい。そしてあの町でも、この町でも福音を宣べ伝えたい。その思いがパウロ先生を突き動かしていたのです。
それはあのダマスコ途上で、主イエス様と出会ったときから、イエス様にとらえられ、救われ、新しいいのちを与えられた時から、変わらないパウロ先生に与えられた使命でした。その主からの使命に応えて行きたい、主の期待に応えて行きたい、それが主にあって、主のためにというパウロ先生の生き方でした。
使徒の働き26章12節から、パウロ先生の救いと献身の証しです。
12. このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
13. その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14. 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
15. 私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16. 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17. わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
18. それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』「」
キリストのことが大っ嫌いで、クリスチャンを目の敵にして痛めつけ、大迫害を加えて来たパウロ、一番の敵対者だったあなたを、キリストは選んだんだよ。あなたを赦し、あなたに新しい人生を与えたよ。それはあなたのような者をも救い出し、選び出し、福音を伝えるしもべとしてくださる神様の素晴らしい御業を、キリストの素晴らしい御業を、多くの人たちに、世界中の人たちに伝える使命だ!
パウロは、生涯この時与えられたイエス様からの使命に従い続けたのです。
主にあって生きていく。今この非常時、大変な現実にあっても、主の中を生きていく。皆さんにとって、それは具体的にどういうことでしょうか?
 弱い私かもしれない、それでもこの私は「主によって生かされています。」と心から信じ、告白していきましょう。
また私の願い通りになってほしい、私の希望通りにではなく、主にあって、主の願う通りに、みこころの通りにと祈り、願い求めていきましょう。
そして私のためにではなく、主のために。主から与えられた使命のために、今何が出来るのだろうか!今はできなくても、コロナが終息したら、主のために、教会のために、あの人のために、主から託されている使命のために、私は何が出来るのだろうか!?そのことを祈り求めて歩んで生きましょう。自由になれる日を信じ、待ち望んで、その日を主は必ず与えてくださると信じて、今は必要な準備をさせて頂きましょう。
祈ります。

2020年4月19日
「私がいない今はなおさら」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章12節-18節

共に集まっての公同礼拝を中止する中で、、、、
(序論)
おはようございます。今、日本の多くの子どもたちが長期の休校という感染予防の措置が取られる中、家庭で過ごしています。「学校に行かなくても良いからラッキー、楽しい」と口にする近所の子たちもいますが、それでも毎日、家にい続けるのも飽きて来るでしょう。何よりも、学校で先生から直接学ぶことが出来ない、また仲間たちと一緒に体験して、学ぶことできないのは、大きな損失だと思います。子どもを持つ親として、本当にそう思います。
今日のみことばピリピ2章12節にあり、またメッセージのタイトルにもした「私がいない今はなおさら」ということを、世界中の学校の先生たちが、また子どもたちが、今、実感しているのではないでしょうか?
(本論)
今回のコロナ騒動が起きる以前、普通に学校で勉強でき、普通に会社に通って仕事が出来ていた頃は、こうでした。
学校の先生の目が光っている時は、緊張してまじめにやる。先生が見ている時は、真剣に課題に取り組む。でも自習授業とか、先生がいない時には、手を抜いたり、さぼったり、友だちとふざけたりする。
会社でも上司の目が自分に向いている時は、ちゃんとやる。またはお客さんがいるときには、気を引き締めて仕事をする。でもそうでないときは、気を緩めてしまう。
皆さん、どうでしょうか? 「いいや、そんなことはない!」と反論するまじめな方、いつも一生懸命な方もおられるでしょう。「勉強や仕事は、人の目を恐れてやらされているわけではない!やりたいからやっているんだ!!」という方もおられるでしょう。
それでも修学旅行の時、夜、宿で友だちと枕投げとかして大騒ぎをしている時に、「先生が来たぞ~」と誰かが言った瞬間に、静まり返った部屋の中にあなたもいたのではないでしょうか!?
今日与えられたみことばは、ピリピの教会に宛てられた手紙です。パウロ先生という大きな存在が、今そこにはいない。ピリピの町にはいない状態で、この手紙は届けられ、読まれました。遠くヨーロッパにまで、ギリシャのピリピにまで海を渡ってキリストの救いを届けてくれたパウロ先生、この町にクリスチャンを誕生させ、教会を立ててくれた大恩人でした。
しかし悲しいことに、今パウロ先生と顔と顔を合わせて、直接話すことが出来ない。じかに教えてもらうことが出来ないのです。パウロ先生は迫害され、逮捕され、今都ローマで裁判にかけられていました。そんなパウロ先生の身を案じて、遠くローマの牢獄にまで、危険を冒して訪ねてくれたピリピ教会のリーダーがいました。エパフロデトという人です(2:25)。パウロ先生は、ローマの牢獄で、ピリピの教会からの贈り物・支援物資を受け取って、彼らの思いに感動し、本当に喜びました(4:18)。そして、かの地の教会の様子が気になっていましたので、「今、ピリピ教会はどうなっているの? あの人はどうしているの? 伝道は進んでいるの? 信徒たちはちゃんと聖書から学んでいるの?」等々、つぶさに聞いたようです。ピリピの兄弟姉妹たちが、福音を信じ、神様の愛によって生かされていること。迫害や試練があっても、信仰に立ち続けている彼らの姿を知って、パウロ先生は喜びました(1:5-7)。
でも、そんな中、ピリピの教会リーダーから聞かされた情報で、パウロ先生を悲しませたことがありました。それは教会の中に一致できない人間関係がある。協力し合えない関係があるということでした。「あの人とあの人の仲が悪くて、いつもぶつかりあってしまう。周りがはらはらしてしまう…どうしたら良いでしょうか?」そんな相談がパウロ先生のもとに届いたのかもしれません。
4章2節に「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」とあります。教会の二人の女性リーダーの関係がぎくしゃくしている。一致してほしい、「主にあって」;あなたがたのために十字架に架かり、死ぬまでしてくださったキリストによって一致してください。パウロは心込めて願いました。
さらに2章2節には、
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」とお願いしています。そう言わなくてはならない問題がピリピ教会にあったのしょう。不一致が、思いの違いが、目指す目標の違いがあった。だからこそパウロは、「自分が自分がと、自分の思いだけを押し通そうとする自己中心さを捨てなさい、周りを見なさい、他の人のことも顧みなさい」と言うのです。「あなた方の主イエス様だって、自己主張をしたり、自分の思いを押し通すことは一切なさらなかったじゃないか!」
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」
どこまでも父なる神様の御心に従おうと、従順であられたイエス様、徹底的に身を低くされたイエス様を、あなた方も見詰め直しなさい。あのイエス様の姿勢にならいなさい、パウロ先生は強く・強く訴えかけたのです。
その流れ、教会という共同体に一致を呼びかけた。その文脈の中で、今日の2章12節も読み解くべきなのでしょう。
12.そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいる   ときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
「自分の救いの達成に努めなさい」と言われますと、「救われるために、罪赦されて天国に入るために、滝に打たれるような修行をしなさい…とか、何か特別なことをしなさい、がんばりなさい。」と言われているように勘違いしてしまいそうですが、そうではありません。
「自分の救い」と訳されていますが、正確には「あなた方の救い」です。今日のみことばで呼びかけられている人たちは、みな「あなた方」です。特定の誰か、個人ではなくて、教会全体、教会という群れに向けてパウロ先生は呼びかけています。
つまりこの12節も、ピリピの愛する兄弟姉妹の皆さん、私がピリピに行けない今、そこには行けない状態にあっても、教会を一つにしたいというイエス様の真剣な思いに身震いするほど感動して、おののきながら、主の教会の一致のために努めてください、という訴えなのです。
しょうもないことでぶつかり合ったり、いがみあったりしないで、一緒に仲良く過ごしなさいと勧めているのではないでしょうか。教会の中に思いの違いがある、方向性の違いがある、やりたいことが違っている、そんな現状を聞かされても、パウロ先生は前向きに語りかけます。
13. 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14.すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。
教会の本当のリーダーは、牧師でも・役員でも・立派なあの信徒さんでもありません。神様が教会の中心です。神様のみこころを尋ね求め、そのみこころに従おうとするなら、神様はあなたがたに一つの志を与え、事を行わせてくださるはずだ。その示されたみこころを、神様からのこの教会への期待と受け止めて、文句を言わないで、仕えていきなさい、パウロ先生はそう実践を迫るのです。
私たちは今、非常時を生かされています。教会にとって3週間連続で公の礼拝を中止せざるを得ない日が、まさか来ようとは思いもしませんでした。今、私たちは、教会に来たくても来ることが出来ない現実に直面しています。いつも日曜日には、当たり前のように顔と顔を合わせて来た。世間話をし、身の上話を分かち合い、喜びも悲しみも長く共にしてきた、祈り合って来たあの人この人と会いたくても会えないのです。
そんな中、今日のみことばから、私たちに与えられている4つのチャレンジ
① 恐れおののいて、教会全体の救い(健全さ、愛の交わり、一致などなど)が達成されるように努めていく(12節)。
② 神様から示されたみこころに従って、一つの目標に向かって、そのことを、つぶやかず、疑わずに行う(13,14節)。
③ 曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で(この世の中にあって)世の光として輝く(15,16節)。
④ そして、お互いの存在をいっしょに喜び合う(17,18節)。
この4つのチャレンジを今、私たちはどのように受け止め、どのように実践して行ったら良いのでしょうか?
コロナ騒動がこんなにも大きくなってしまったから何も出来ないと、手をこまねいて見ているしかできないでしょうか? 実際に教会に集えないから、会いたくても会えないから、どうしようもできないと、あきらめてしまうでしょうか? コロナウイルスから、自分と家族の身を守るだけでもう精一杯だ、人のことなんか考える余裕はない…本当にそうでしょうか?
聖書は言います。「私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、」パウロ先生は、ピリピの町に行きたくてもいけない、その場に牧師である自分がいられない状態でした。直接教えたくてもできない、思いを伝えたくても会うことは出来ない現実の中にいました。ローマの牢獄で縛られ、身動きの取れない状況でした。「Stay home(家に留まれ)」ではなく、「Stay Rome(ローマに留まれ)」、「Stay Prison(刑務所にいろ)」でした。
それでもパウロ先生の思いは遠くピリピに届くのです。このような手紙をしたためることを通して、さらに祈ることを通してです。
(結論)
今、直接会えなくなっている中で、ウィングス(教会学校)ではスマートフォンのLINEというサービスを使って、教会の子どもたちや家族の近況を分かち合ったり、祈りの課題を共有しています。実際に教会で教会学校が出来ない現実の中で、動画で教会学校を配信している教会を紹介し合ったりしています。
パウロ先生の時代よりもはるかに便利に、早く、簡単に、思いを・近況を伝えあえる道具が沢山周りにあります。葉書1枚、電話1本、メール1通、教会の仲間たち、祈りに覚えているあの方この方に、寄せ合って行きませんか? もちろん相手の状況を考えながら、迷惑にならないようにという配慮も必要でしょうが、会いたくても会えない今だからこそ、お互いに不安や恐れ、先行きの見えない悩みや試練を抱えている今だからこそ、互いを知り、分かり合い、祈り合うことをしていきましょう。
たとえ場所は違えども、離れていても、キリストにあって私たちはつながり合えます。祈ることを通して、互いに祈り合うことを通して、私たちはつながっています。
ピリピ
1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
お祈りします。

2020年4月12日
「高く上げられたキリスト」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章6節-11節

イースター礼拝説教
新型コロナ感染者が再び長野市内で確認された(4月10日)ため、共に集まっての公同礼拝を中止する中で、、、
(序論)
子どもの頃、駄菓子屋さんで憧れて見ていた商品があります。買いたいなあと思うのですが、いつも先に安いお菓子を買って食べてしまうので、お小遣いが無くなってしまい、買えないものでした。輪ゴムの反動で飛ばす飛行機です。
「なつかしいなあ」と童心に帰る、元男の子たちも多いのではないでしょうか!?発泡スチロールのような素材で出来た飛行機の先端にプラスチックの鼻のようなものが付いていて、その鼻の先に強い太めの輪ゴムをひっかけます。そして思いっきりゴムを引っぱって、飛行機を離しますと、飛行機が遠くまで飛んでいくのです。ゴムが元に戻ろうとする反発力を利用しているのでしょう。

20200412 2章611節「高く上げられたキリスト」-1.jpg

 (本論)
どうして、そんな話をするのかと言いますと、今日与えられたピリピのみことば ー これまで3回に渡って、同じみことばからイエス様がしてくださったことを見て来ましたが、― 特に9節の「それゆえ神は、この方を高く上げて」とのみことばを思い巡らす中で、あのゴム飛行機が浮かんで来たのです。主イエス様が成し遂げてくださった聖なる御業を、子どものおもちゃと比べるなんて、大変失礼であることは重々承知の上で、それでも両者は似ているなあ!と思ったのです。
ピリピ2章6-8節で聖書は、イエス様が徹底的に低きところ、低きところに降ってくださったことを語って来ました。
 6. キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
 7. ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
 8. 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
神の御子イエス様は、天の王座を降りて、この地上に来てくださった。持っておられた神の偉大な権威も力も栄光も、すべてを内に隠して、我々と同じ完全な人間になってくださったのです。
絶対者なる神が、不完全で弱さだらけの人間になるということは、「ご自分を無に」するに等しいことだった。しかも「仕える者の姿」=「奴隷」の立場にまで、いやもっと、あのむごたらしい十字架にはりつけにされるような「極悪非道な犯罪者、死刑囚」の立場にまで徹底的に低く・低くなってくださったのです。
180度、まったく違う存在になってくだったのです。そうなる必要のまったくないお方なのにです。
 ― 全てのものから礼拝され、栄光を受けるべきお方が、ご自分を卑しくされた。私たちのために徹底的に身を低くして、仕えてくださいました。
 ― 永遠に存在しておられるお方が、死なれたのです。完全に命を失い、墓に葬られたたのです。
 ― 嘘偽り・汚れ・邪心・自己中心さなど罪の一つもない聖なるお方が、我々の罪をすべて担って、十字架で身代わりに打たれ、罰せられ、死んでくださったのです。
キリストは、天の父の御心に従って、自らを徹底的に低くしてくださった。それが8節までの内容です。ところが、9節から一変します。最も低い所に降られたイエス様が、最高に高い所に、天の極みにまで引き上げられるのです。
 9. それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
 10. それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
 11. すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
あのゴム飛行機も上に高く・高く飛ばそうと思えば、その前に下に・下に強く引っ張らなければなりません。ロケットのようにまっすぐ宇宙に飛んでいくなんて、ありえないでしょうが、それでも、ちょっとは上に向かって飛ぶでしょう。
徹底的に低い所にまで降ってくださったので、イエス様はそこから天の極みまで、最高の高みに引き上げられたのです。
そしてゴム飛行機が、飛行機自身の力によってではなく、ゴムの戻ろうとする力で飛んでいくように、十字架で死なれたイエス様が、3日目によみがえらされ、40日後に天に昇って行かれたのも、自力ではなくて他力でした。ご自分の力ではなく、天の父の力によってでした。
ピリピ2章6-7節までは、「キリストは」とイエス様が主語になっています。イエス様が、徹底的にご自身を低くしくださった。けれども9節からは、「それゆえ神は」と天の父が主語になっています。十字架で死ぬまでしてくださった御子イエス様を、天の父は復活させ、そして天に引き上げたのです。
それは、まさに天の父が、御子イエス様が地上で成し遂げてくださったことを、「良し」とされたということです。イエス様が十字架で死なれたことによって、神様の人類を救う壮大なご計画が「成し遂げられた!」。「よくやった、良い忠実な息子よ。天に帰っておいで」と、天の父が大喜びして、愛するひとり息子を復活させ、抱きしめるように天に迎え入れてくださったということなのです。
今日はイースターです。2000年前、十字架で私たちのために死なれたイエス様は、墓に葬られ、3日目によみがえらされました。
私たち日本人は、「キリストがよみがえった!」、「イエス様は復活された!」と表現しています。しかし、聖書の元々の原語を見ますと、実はみんな受身形、受動態で表現されているんです。「よみがえらされた」です。英語だとちゃんと「He is risen(リズン) 」、「Christ is risen」と受動態になっています。
つまりイエス様は他力で復活させてもらったのです。天の父によってよみがえらされたのです。これはイエス様が完全に一度、自力を失わってしまったということではないでしょうか! もう自分では何もできない状態に ー 息もできない、心臓も動かせない ー そんな完全に無力な状態になった。本当に死なれたのです。恐ろしい闇の世界、死者の世界「よみ」に落とされたのです。そのもう何も出来なくなったイエス様を、天の父はよみがえらせ、天国に招き入れてくださいました。
使徒信条で私たちはこう告白しています。
 「そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。
 主は聖霊(せいれい)によってやどり、おとめマリヤから生まれ、
 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
 十字架につけられ、死んで葬(ほうむ)られ、よみに下り、
 3日目に死人の中から復活し、天に昇(のぼ)られました。
 そして全能の父である神の右に座し、
 そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。」
(結論)
私たちもいつかは、全く無力な存在になる日が来ます。何も出来ない。どうしようも出来なくなる日が来ます。ー 息もできない、心臓も動かせない ー この地上での最後の日がやって来ます。死を迎える日が必ずやって来ます。
その時、あのゴム飛行機が、ゴムの力で高く・高く飛ぶように、私たちは神様の御力によって、イエス様の御救いによって、天へと引き上げて頂くのです。私たちもよみがえらせて頂けるのです!!
イースターの朝、この素晴らしい約束をしっかりと確認していきましょう。神様の確かな約束を、自らのものとしてさせて頂きましょう。
使徒信条はこう結ばれています。
「また、聖なる公(こう)同(どう)の教会、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン」
最後に先週、私が体験したことを、皆さんに分かち合いたいと思います。先週は、私にとって本当に大変な一週間でした。新型コロナの感染拡大を気にしつつ、今日のイースター礼拝をどうしようか悩み、心配しました。教会の役員さんと相談しながら、今日のこのような形になりました。
けれども、新型コロナ以上に大変だったのが、うちのことでした。先週月曜日、上の双子のお兄ちゃんたちが無事に小学校に入学しました。これまで我が家のためにお祈りくださり、支えてくださって、本当にありがとうございます。うれしい入学式にも参加しました。
その後、小学1年生の親になるって、こんなにも大変なんだ!!ということを実感しました。朝、娘の幼稚園のお弁当と子どもたちの朝食を用意し、子どもたちをたたき起こす。身支度をさせてから、小学校まで一緒に歩いて付いて行く。それから娘を幼稚園に連れていく。しばらくすると学校からの帰宅時間、決められた場所まで子どもを迎えに行く。それからお昼ご飯を食べさせ、学校からの配布物を読んで、明日のランドセルの準備をし、夕方、娘を幼稚園に迎えに行く。あいまに買い物を済ませて、夕食を食べさせ、お風呂に入って寝かせる。その後、夜な夜な学校から支給された教科書・ノートに、また色鉛筆とクレヨン1本1本に名前を付ける。(幸いにも「お名前シール」という便利なものがあるので助かりました!)でも小学校からだけでなく、幼稚園からも色鉛筆とクレヨンが支給されましたので、計3人分でした。やっても・やっても終わらない作業でした。提出する書類もいっぱいでした。ばたばた走り回っていた、そのおかげでテレビやニュースなどの情報にいっぱい触れることなく、新型コロナ拡大の恐怖をさほど感じることなく、過ごしてしまいました。世の中にただよう緊張感に触れて、ああ自分は世間からずれていたんだなと感じるほどでした。
そんなバタバタな日々、疲れた心と身体を休めようと、子どもたちがいなくなった時間に、とある出先で、椅子に座り、聖書日課のテキストを開きました。目の前はガラス張りの壁でした。みことばと解説を読んで、祈ろうと思ったとき、鼻をかみたくなりました。強めに鼻をかんでしまったせいか、鼻血が出て来ました(汚い話で済みません。)うつむいて祈ろうと思ったのですが、鼻血ですから、顔を上げて祈りました。そこには天窓があって、きれいな青空と浮かんでいる雲が見えました。
その青空と雲を見た時、「ああ天の神様は、あそから私たちを見てくださっているんだ、私のことを大きな目で見守ってくださっているんだな」ということを実感させられました。何とも言えない慰め、励ましを頂きました。
もちろん神様がおられる天は、青空の中でもなく、雲の中でもなく、宇宙のどこかでもないでしょう。私たちの目にはまだ見えない別次元の霊的な世界、神様の世界、天国とはそういうところなのでしょう。
それでも、うつむいてばかりの私に、神様は空を見上げなさい、天を見上げなさいと、鼻血を通して導いてくださいました。大きなわたしのまなざしを感じなさいと、神様を感じさせてくださいました。
日々、うつむきたるなる現実だらけです。恐ろしいことだらけです。
それでも、「上を向いて歩こうよ。涙がこぼれないように」ではないですけど、天高く昇られ、私たちのことを、大きな・大きなまなざしで見守り続けてくださっているイエス様を、私たちは感じて行きたいと思います。心を高く向けて、天のイエス様を見詰めて行きましょう。
お祈りします。

2020年4月5日
「十字架の死にまで」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章6節-11節

(序論)
軽井沢からの急カーブだらけのきつい下り坂、碓氷峠を下り終えたところに、群馬県の横川という場所があります。峠の釜めしで有名な横川駅がある場所です。そこをもうしばらく車で走って行きますと、1枚の案内看板に目が留まりました。「磔(はりつけ)河原(がわら)入口」という文字が…!気になったので、帰って来て調べますと、「昔、碓井(うすい)の関所(せきしょ)破(やぶ)りをした人々が罰としてここで磔(はりつけ)になった。しかし犯罪者はともかく、大多数の庶民は止むにやまれぬ事情により関所の通り抜けや、男女の駆け落ち等により、関所破りの罪で捕えられた。そしてこの刑場でつゆと消えていった」そうです。
江戸時代でしょうが「関所破り」という当時の法を犯した人が、一番重い刑、死刑に処せられたのです。河原で磔にされた罪人(ざいにん)は、25,6回も槍でつかれて息尽き果てたそうです。耳をつんざくような叫び声が辺り一帯にこだましたでしょうね。その恐ろしい死に様を、大勢の村人や街道を行きかう旅人は、息を潜めて見物したそうです。磔の刑は、見せしめでもあり、関所破りをしたらこんなにも恐ろしい目に遭うんだぞという警告の意味合いもあったのでしょうね。 
(本論)
私たちは今日、私たちのために磔の刑に処せられたお方を見上げます。私たちに代わって、身代わりに磔にされ、殺されたお方を見つめます。2020年の受難週の主の日の礼拝です。私たちは、2000年前の当時の人たちのように、このお方を馬鹿にして見下したり、あるいは、「おいたわしい…」と同情して、十字架を見たりはしません。
ピリピ2章8節(新改訳:第三版)
「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
― 勇敢に死に向かってくださったイエス様を、あこがれをもって見つめます。
― あそこまで苦しめられ、あざけられ、身も心もぼろぼろにされなければ、ならないほど、イエス様の肩に負わされた私たちの罪がすさまじいことを自覚します。
― ご自分のいのちを守り抜こうとは、一切なさらず、どこまでも、私たちのために死んでくださったイエス様を感激しながら信じ、涙でいっぱいになったこの目で見つめます。
― ご自分の願い・ご自分の思いを捨てて、父なる神様との約束を果たすために、神様のみこころに徹底的に従ってくださった、イエス様を感動しながら見つめます。
イエス様は、法を犯すどころか、神様の前に一つも罪の無いお方でした。完全に聖なる神の御子イエス様が、2000年前、エルサレムのゴルゴタの丘の上で一番重い刑に、一番残酷な刑に、服されました。
それは、罪の奴隷となっていた私たちの罪の鎖を、目には見えない鎖ですが、それを代わりに引き受けてくださり、その鎖をご自身の身体に巻き付け付けて、私たちの身代わり罰を受けるためでした。私たちの代わりに死んでくださり、私たちの代わりに滅びを引き受けてくださったのです。
ピリピ2章8節(新改訳2017)
「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」
先週、私たちは完全に神であるお方が、天の王座から下りて来られ、あのベツレヘムの馬小屋で完全な人となって生まれてくださった。このことは、神が「ご自分を無にし・空しくし、無きに等しい者となる」ことだったんだとみことばから確認しました。すべのもの創造者であり支配者である神様と、我々人間との間には、考えられないような大きな開き、違いがあるのです。神の子イエス様は、それを乗り越えて、一番低い所にまで、私たちと同じ、この地上の現実にまで下りて来られたのです。
その歩みはさらに徹底して進みました。本来、イエス様は永遠に存在される神様です。その不滅のお方が、死の苦しみと恐怖を耐え忍び、いのちを注ぎ尽くしてくださいました。  イエス様は生きとし生けるものすべてのものの生も死もつかさどっておられるお方です。この大いなるお方が、自らの身体といのちを十字架の上でささげてくださったのです。
けれども、このイエス様の大いなる十字架の死は、当時の人たちにとっても、また現代を生きる人たちにとっても、二つの思いで受け止められてしまうでしょう。一つは、あまりにも痛々しく、むごたらしいので、見たくもない、考えたくもないという反応です。ローマ帝国の政治家また哲学者のキケロは、「十字架という考えは、ローマ市民には、知らないものでなければならない。この考えが、ローマ市民の思い、目、耳によぎるようなことはしてはならない」と記しています。それほど残酷で忌まわしい極刑でした。
もう一つは、「呪われた死だ、破滅の死だ、そんなふうに死に絶えた者が、本当に神様なのか!救い主なのか!」というつまづきです。聖書自身も申命記21章22、23節で、
「22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、
23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬
しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。
あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」と語っています。
しかし、この十字架の死は、実は勝利の死だったのです。パウロは、同じ申命記のみことばを引用しながら、ガラテヤ人の手紙3章13節で高らかにこう宣言しています。
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
私たちを贖い出す、救い出すための十字架だったのです。イースターの事実、イエス様が死に勝利し、復活し、墓の中から出て来てくださった事実が、その救いの完成を、その救いが確かであることを証ししているではありませんか!
イエス様は、本当に恐ろしい経験をしてくださいました。人類の罪を代わりに背負って十字架へ、そこで、父なる神に罰せられ、呪われた者として死なれるという絶望や恐ろしい暗闇を経験してくださいました。
家族に惜しまれ、おだやかにベッドの上で、苦しむことなく息を引き取るというような死の尊厳、私たちが望むような死に方は、すべてはぎ取られました。
私たちが嫌悪し、軽蔑し、あんな極悪非道な犯罪者はね…と、一段も二段も高い所から見下すような、犯罪者・死刑囚の身にまで、イエス様は低く低くなってくださいました。
イエス様にしかできないことです。イエス様にしかできなかった救いの方法です。私たちは今一度、この主の御業によってのみ赦され、救われ、生かされていくんだということを信じ、大きな感激と感謝と喜びを持って、この救いを頂いていきたい、自らのものとしていきたいと願います。
(結論)
2020年の受難週礼拝は、これまで一度も経験したことが無い特別な日曜日となりました。新型コロナウイルスが長野市にもということで、決めていた通り、皆で集まっての礼拝は中止と致しました。皆さんには、動画の形で、また原稿の形でメッセージをお届けします。たとえ離れていても、同じ思いで神様を見上げ、礼拝をおささげしたいと願っています。それでもやはり、一緒に会堂で賛美し、顔と顔を合わせて、ここで過ごすということができません。とても残念ですし、悲しいことです。来週のイースターには、ぜひ再開をしたいと心から願っています。
2000年前のイエス様の十字架の場面もそうでした。12人の弟子たちの大多数は、逮捕されたイエス様を見捨てて逃げ出しました。裁判の場にまでついていったペテロだって、3回も「あんな奴は知らん、俺とは無関係だ…」と保身のため、イエス様を否定し、逃げ出しました。ただ一人ヨハネしか十字架の主をその目で見届けることが出来ませんでした。
私たちも同じです。今日の礼拝に集えない、ということだけでなく、生きていく中で、私たちは自分のこと、自分の生活のこと、仕事や家族のことだけに追われてしまっています。誰かのために、社会のために、こんなことをしたいな、時間や力を注ぎたないと思っても、そうできない現実を抱えています。世の中の痛みや苦しみを、なかなか自分自身のこととはできない限界や弱さを感じています。今回の新型コロナのこともそうです。世界の痛み・苦しみ・不安に対して、私たちはその当事者にはなれない、いやなりたくもないと思っています。いつも部外者か、観客か、批評家か、無関心な通りすがりの人間になっている、そんな私たちです。
でもただ一人、違うお方がいるのです。イエス様です。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださるイエス様だけは、いつも私たちの当事者でいてくださいます。私たちの日々の歩みに、喜びにも悩みにも、何かを達成できている時にもあるいは諦めざるを得ない時にも、いつも共にいてくださるイエス様なのです。生きるときにも死ぬ時にも、イエス様が片時も離れずに、私の内に住んでくださっている。私の当事者でいてくださる。「底知れぬどん底だ、もう駄目だ」という中に落ちてしまった時にも、「いや、それよりもっと深い所に、もっと辛い現実にまで、私は落ちたよ、でもそこから勝利したよ、だから大丈夫」と励まし支え、御手を伸ばしてくださるイエス様なのです。

そして、このイエス様は、「昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル13:8)

祈りましょう。

2020年3月29日
「自分を空しくしたキリスト」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章6節-11節

(序論)
おはようございます。私たちは昨年秋の台風19号襲来と千曲川の大氾濫以降、「中止になる、中断させられる、延期する」といった突然の予定変更を繰り返し・繰り返し経験しています。今年に入ってからも中国・武漢発の新型コロナウイルス感染拡大により、「予定が立たなかったり、中止に・延期に・自粛・規模縮小・内容変更」といったことに追われています。
ある方が、「この年になって、生まれて初めてという経験を、こんなにも立て続けにするとは思いもしなかった」とおっしゃっていました。
(本論)
「思いもしなかった。」それが私たちの本音です。「まさかこんなことになるなんて、まさかこんなことが起こるなんて」、想像すらしていませんでした。全くもって想定外の出来事です。計画したこととは、全くもって違っています。
それが有限な存在である人間の本音でしょう。分からないことだらけ、未来にどんなことが待っているのか、今日この後どんなことが起こるのかも分からない人間です。できないこともたくさんあります。すぐにこのコロナウイルスが終息して、また元通り、安心して暮らせるようになりたいのですが、まだそこに至るには忍耐が求められています。長期戦を強いられそうです。
そんな中、私たちは自分の弱さを感じざるを得ません。肉体的な弱さと同時に、心の弱さです。不安と緊張を長く強いられることにもう耐えられない心の弱さを、私も感じています。信仰も揺さぶられているでしょうか? 神様の愛、神様の慈しみ深さを疑うことなく信じ、主と共に歩んでおられるでしょうか? 世の中から多くの情報が飛び込んでくる中、主の御声を聴くことができているでしょうか? 主に祈っているでしょうか?
主イエス様も2千年前、中断される、中止にするという大きな決断・大変な経験をしてくださいました。永遠に神でおられるお方が、本来ならば永遠に変わらないお方が、そのお姿を・お立場を変えてくださったのです。その変化は激変、急変、急降下、真っ逆さまに転落とも言える驚くべきものでした。
ピリピ2章6節,7節、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」
三位一体なる神の、御子なるお方であるイエス様。神として天ですべてものをご支配されている大いなるお方が、その位をなげうって、この地上に降りて来られました。神様としての全能の力も、権威も、神様としての輝く栄光も、すべてを隠して、いやそれを持たずに、クリスマスの日、何もできない一人の赤ん坊になって母マリヤの胎の中から誕生されました。その後も輝かしい神の御子のお姿は隠し、貧しい大工の息子として、小さなナザレ村で育ってくださいました。
天の王座に留まり続けることを中断してくださったイエス様です。しかし、それは想定外でも、思いがけない出来事でもなく、みな神様のご計画通りでした。700年も前に預言者イザヤは、救い主イエス様の到来を語っていました。今日の聖書交読にも「しもべ」となられ、弱き人に仕えてくださるイエス様が預言されています。さらに創世記の最初、アダムとエバが、罪を犯してしまった時にも、すでにエバの子孫=人類の子孫から、悪魔の頭を踏み砕くものが登場するんだと、イエス様の到来が神様によって約束されていました。
さてピリピ2章6節と7節には、2つの姿という単語が対照的に使われています。6節の「神の御姿」と7節の「仕える者の姿」です。どちらも同じ単語です。私たちは「姿」と聞きますと、姿かたち・外見をイメージしてしまいますが、聖書の元々の言葉には、「本質」という意味があるのだそうです。「身分」と翻訳している聖書もありました。神の本質を持っておられるイエス様が、神様そのものであられるお方が、2000年前のクリスマス、人となって表れてくださった。その日から、イエス様は仕えるものそのものになってくださったのです。
人間のふりをした、仕えるものの格好をした、まねをしたのではありません。
私たちは高貴な立場の人が、その身分を隠して一般庶民のなりをする。そういった姿に変装するというのは、馴染みの時代劇のストーリーでよく知っていますよね。水戸光圀、徳川家の先の副将軍が越後のちりめん問屋に変装し全国行脚、徳川吉宗、江戸幕府8代将軍が徳田新之助に変装して町中で火消しとして働く暴れん坊将軍、そんなストーリーは知っています。でもそれらは作り話ですし、ただ地位ある人が一般庶民のなりをしている、変装しているに過ぎません。
私も時々、人間違いをされます。ホームセンターなどで買い物をしていますと、他のお客さんに、「店員さん、○○ってどこにあるの?」と従業員に間違えられます。えー、違います。わたし店員じゃないんですけど…と訂正しますが、例え、私が店員さんのように「あの商品ですね、あそこですよ。ご案内しますね」と言っても、店員のまねをするしかできません。どこかでまねをしている。本物じゃないことはばれるでしょう。
イエス様は、そんな軽いことをなさったのではありません。ふりをしたり、まねをしたのでもありません。その本質そのものが、人格、存在そのものイエス様と言うお方そのものが、完全な神でありながら、同時に完全なる人間となられたのです。人間になってくださったのです。
しかも良い身分の、恵まれた立場ではありません。仕えるもの、もとの単語を見れば、これは「奴隷」という意味です! 奴隷の身分に、奴隷そのものになられたというのです。驚くべきことです! 普通考えればあってはならないこと、ありえないようなことです。総理大臣の息子が、大統領の息子が、天皇陛下の息子が、奴隷になる。ありえないような低賃金で、過酷な重労働を強いられる。汚かったり、危険だったり、臭かったりするひどい環境で酷使されている。
イエス様がしてくださったことは、それ以上のことでしょう。天の王座におられた神の御子が、地に降りて来られ、しかも一番低い立場に、一番弱い立場に立たれたと言うのです。私たちは人間ですから、人であるということはある意味当たり前のことです。自己肯定感を持ちましょうと言われたり、一人の人としての存在価値・存在理由を持っています。しかし、神が人になるということは、全く別次元の存在に成り下がるということ、まさに「ご自分を無にしなければ、ご自分を空しくしなければ、ご自分を無きに等しいものにしなければ」、起こりえないことなのです・
また、しもべに、奴隷に、と聞きますと、イエス様のどんな言動が思い浮かぶでしょうか! 最後の晩餐の席で、誰もがやりたがらなかった、仲間たちの汚れた臭い足を洗うという仕事、本来は奴隷がやる仕事を、率先してやってくださったイエス様のお姿でしょうか? または、よみがえったイエス様が、ガリラヤ湖のほとりでたき火を起こして、パンや魚を用意して、失意落胆していた弟子たちに、「さあ、一緒にご飯を食べよう」ともてなしてくださったイエス様のお姿でしょうか? 「仕えられるものにではなく、仕える者になった」というイエス様の言葉にも表われているでしょうか?
今回、ある牧師の説教集を読む中で、「奴隷の姿に」 そこには「罪の奴隷になっている」人間の立場にまで、どうしようもない人間そのものにまで、イエス様は降りて来てくださった という一文wpに触れ、はっとさせられました。
私たちは罪の奴隷です。なすべき正しいことができず、やりたくない悪しきこと・罪を繰り返しています。まるで罪という者に、また悪魔にがんじがらめに縛られて自由を奪われているような存在です。
イエス様は聖なる神様ですから、罪は一切犯されませんでした。それでも人の弱さ、どうしようもなさ、汚さなど罪の現実を間近にみてくださいまいした。
そして私たちを縛っている目には見えない鎖を全部ご自分で引き受け、ご自身に巻き付けて十字架へ向かってくださったのです。
本来は、私たちを罰することの出来るお方が、代わりに罰を受けたのです。 
本来は、裁判官も席におられるべきお方が、被告人の席に着て代わりに私がと申し出てくださいました。
本来は死刑執行官であるお方が、死刑囚の席に代わりに着いてくださったのです。
(結論)
今日の中心聖句を幾つかの聖書で最後に読み比べてみたいと思います。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」
(新改訳第3版)
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」
(新改訳2017)
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
(新共同訳聖書)
「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着なさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。」(リビングバイブル)
「キリストは初めから神と本性において等しい存在であったが、その等しさに執着することをいさぎよしとせず、一切の栄光を捨て、進んで僕の身となり、われわれと同じ人間の姿となってこの世に現れた。」(柳生直行訳)
私たちのためにそこまでしてくださった主イエス様をしっかりと見つめ、信じて歩んでまいりましょう。
祈りましょう。

2020年3月15日
「他の人を顧みる」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 2章1節-4節

(序論)
おはようございます。新型コロナの世界的拡大を前に、「非常事態宣言」が出されている国々や、地域が増えています。

(本論)
マタイの福音書24章12節で、イエス様は、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と、終わりの時代の特徴を預言されました。愛が冷たくなる…まさに厳しい今のこの現実も、そうではないでしょうか?
いつ終わるとも知れぬ苦しみ・試練・危機感・不安や恐れが渦巻く世の中にあって、私たちは、まず自分を守ること、まず自分のために獲得することだけに必死になってしまっています。空になったスーパーやドラックストアの商品棚を見ると、私たちも正直、焦りを感じます。
他(ほか)の人のこと、自分とは立場が違う人のこと、他国(たこく)の人々のこと、弱さを抱えておられる方々のことを気付いたり、考えたり、想像する心のゆとりを失ってはいないでしょうか?
また人のことを考える際にも、もう自分自身がいっぱい・いっぱいになってしまっていて、「何で、あの人はちゃんとやってくれないんだ…!?」と、その人が自分にとって役に立つか立たないか、ちゃんと自分の願う通りに行動してくれるかどうか、といった判断基準で人を評価してしまっています。
そんな私たちにみことばは語りかけています。ピリピ2章3,4節
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
「自己中心」を、…新しい翻訳聖書『新改訳2017』は、「利己的な思い」と訳しています。自分にとって都合が良いか悪いか、損か得かと、私たちは、いつも自分を中心に考えています。また虚栄もあります。人からちゃんと評価されたい、良く見られたい、変だとは思われたくない、馬鹿にされたくない、そういった思いは消えません。
そんな自己中心さや、良く見られたいという願望を抱えたままの人間が、私たちが、互いに支え合って、互いにいたわりあいながら、互いに思い合いながら、一緒に生きていくためには、いったいどうしたら良いのでしょうか? 
今日の内容は、特に教会に向けて、クリスチャンたちに向けて語られていますよね。すてきな教会であったピリピ教会のクリスチャンたち、それでも「問題の無い教会は無い」、と言われるように、人と人との間で誤解や、対立や、好き嫌いと言った人間的なものがあったようです。
2節に、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と語られている。そう指摘しなくてはいけない問題がピリピの教会にもあったのでしょう。ピリピ4:2にも「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」 そうパウロから、名指しされている女性伝道者たちの間に、2人のリーダーたちの間に一致できない、いざこざがあったと推測できます。
一致できない現実があった、愛ではなく「いさかい」があった、互いを思いやれない無関心があった。みんなの心が、思いが、方向性がばらばらになっている、そんな悲しい現実があったのでしょう。
ピリピの教会から、パウロのもとにやって来た使者の報告を聴きながら、パウロ先生は、ピリピの皆さん、教会はそうであってはいけないよ。外からの迫害が迫っている中で、内輪もめしている場合じゃないだろうと、戒めたのです。
イエス様の十字架という、とてつもない命の犠牲によって、罪を赦して頂き、神様の愛と憐れみによって救って頂いた。そして神の子とされ、聖霊に導かれて生きているはずの私たちなのに、それなのに、私たちは相変わらず自分中心で、利己的で、「自分が正しいんだ、あの人はおかしい、間違っている」と、人を批判ばかりしてしまうのです。同じ主にある神の家族として、兄弟姉妹として、受け入れ合うことができないのです。まだまだ聖化され切っていない・キリストの似姿には程遠い私たちです。ずっと工事中の私たちです。
そんな私たちだからこそ、神のことばに取り扱わって頂かなければなりません。慰められ、励まされるみことばと同時に、正され、戒められるみことばも聞き続けなければなりません。工事中の私たちですから、ドリルのような心を・自我や頑なさを砕いて頂くみ言葉も打ち込んでいただかなくてはいけないのでしょう。ともに集まり、ともに礼拝をささげ、互いに顔と顔を見合わせて、ともに神様に近付いていきたいと思います。
毎週日曜日、礼拝の最後に、牧師はⅡコリント最後のみことばにある祝福の祈りをして、皆さんを送り出します。
「どうか主イエス・キリストの恵み、父なる神のご愛、聖霊の親しい交わりが、私たち会衆一同の上に、豊かにに限りなくありますように。アーメン」。
三位一体の神様の守りの中で、三位一体の神様の愛の中で、三位一体の神様の御救いの中で、生かされていきますように、そう祈られて、皆さんは世の中に遣わされていきます。厳しい戦いの現場に、試練の現実世界へと遣わされていきます。
今日のピリピ2章1節も、その三位一体の神様にある祝福の現実を思い起こさせようとしていると考えられます。「父なる神様」と言葉には出て来ませんが、三位一体の神様を見つめなさいと、教えているのではないでしょうか?
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
私たちは、御子イエス・キリストから励ましを受けています。「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束して下さるイエス様が、あなたから片時も離れずに、あなたを励まし・力付けてくださっています。痛み苦しむ時、わたしを見なさい、わたしもそれを体験したよ、そう言って、一緒に重荷を担い、励ましてくださいます。 
また、父なる神様の大きな愛が、あなたを慰めます。孤独を感じ、つらくなってしまう時、誰からも大事にしてもらっていない、自分は誰からも必要とされていないんじゃないか、そんな思いにさいなまれる時にも、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と言われる父なる神様がおられるのです。あなたのために大事なひとり子を送ったよ、あなたをどうしても救い出したい。あなたを愛しているよ。ひとり子の命を身代わりに差し出すほど、あなたは高価で尊い存在なのです。
また御霊、聖霊は、私たちの内に住んでくださり、私たちを慰め、励まし、導いてくださっています。私たちがイエス様を見つめ続けることができるように、信仰を保ち続けることが出来るように、御霊は私たちに働きかけています。御霊は、私たちのためにその時々に必要なみことばを指し示し、弱い私たちを助けてくださっています。私たちの祈りをも導いてくださっています。
父・子・聖霊なる神様の二重・三重の守り・励ましの中で、私たちは今を生かされています。そして聖書は、この父・子・聖霊なる神様が一体なるお方なんだ、父・子・聖霊と神様は三つの存在を持ちながら、唯一の神様だというのです。その思い・方向性が一つであり、父・子・聖霊は互いに愛し合うというその愛において、完全に一致しておられるのです。
父・子・聖霊は、三者三様で、自分勝手にばらばらな思いで、ばらばらに動くことは決してありません。対立しあうことなど絶対にありません。いつも同じ思いで、同じ方向に向かって、御業を成し遂げられる三位一体なる神様なのです。このお方によって救われ、とらえられ、生かされている私たち・私たち教会です。そこには、三位一体の神様の内にあるような愛が、互いへの愛とあわれみが、必ず生じるはずだ、聖書はそう語るのです
自分さえ良ければいいと考えてしまう時、自分が正しいと主張したくなる時に、人の良い面ではなくて、欠点や至らなさばかりが目に入って、その人を批判し、見下してしまう時に、誰かを毛嫌いし、憎悪の感情を抱いてしまう時に、私たちは、特にイエス様を思い出しましょう。イエス様のことばを、イエス様が、してくださったことを思い出しましょう。
マタイの福音書20章
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
(結論)
主なる神様が、全世界の人に崇められ、仕えられるべきお方が、貧しい一人の人間になってくださいました。一番低い所にまで降りて来てくださった。すべてを私たちのために差し出し、人のために仕え、時間も思いも、いのちまで私たちに差し出してくださった。
その思いに、そのお姿に、日々、近づいていきたいと願います。
祈りましょう。

2020年3月8日
「キリストのために苦しむ」  高橋宣広牧師

 ピリピ人への手紙 1章27節-30節

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