第5日:光と影 2004年9月1日(水)
〜ベルリン市内観光〜

◆壁のあった街
私にとってベルリンの印象は、森鴎外でも山田耕作でもない。「壁」である。
その、ベルリンの壁を知ったのはいつのことだったろうか?

子供の頃、未だ海外は遠い場所で、「アメリカ横断ウルトラクイズ」や「なるほど!ザ・ワールド」といった番組が成り立っていた。
しかし、東側諸国、とりわけソ連には厳しい撮影規制と立入規制があって、「撮影許可が下りました」がTVで取り上げる際の枕詞になっていた。
また樺太沖の大韓機撃墜事件は大変衝撃的なニュースだった。
それ故に、幼くとも東西世界の対立と、東側諸国の持つ不透明感は理解できた時代である。

ドイツが東西に分かれて対立していることも、TEEの名と共にヨーロッパの国名を知れば直ぐにわかった。
だが、どうしても理解できなかったのが、ベルリン市は壁で東西に分かれ、自由に行き来できない・・・ということだった。
ベルリンが東西国境上に存在するならともかく(今でもこの勘違いをされている方は多いと思う)、そうではない為である。
その誤解が解けたのは、中学生のときだった。

・第二次世界大戦後、ドイツ全土が戦勝4ヶ国に分割統治されたのと同じく、ベルリン市も4ヶ国で分割統治された。
・米・英・仏がそれぞれ統治した地域が西ドイツと西ベルリンになり、
 ソ連により統治された地域が東ドイツと東ベルリンになった。
・ベルリンは東ドイツの中にあるから、東ベルリンは東ドイツと一体になったが、
 西ベルリンとの間には壁(国境)を築いた。つまり、東ドイツの中に西ベルリンが孤立している。
・壁を築いたのは東ドイツ側で、西側への亡命者対策である。従って西は壁の建設に関与していない。
・ベルリンは(名目上)未だ戦勝4ヶ国の占領下にある。※当時の話

その理解の一部に、ベルリンのSバーンを取り扱った鉄道ファン1987年7月号の記事があった。
そこに並んだ文言・・・壁、検問所、封鎖された駅、自動小銃、ボイコット、廃線・・
私には何もかもがショックであった。
そして、戦前製のSバーン475型電車は、深く、深く印象に残った。

いつかベルリンを訪ねてみたい。その思いは、このときに生まれたのである。

◆どうせ薄情モノですよ!
今日は、19:20発のウィーン西駅行きの列車に乗る予定で、それまで市内各所を巡る。

YHを出たところにある電話機で、自宅に連絡を入れた。
今、ベルリンは夏時間の9時、従って日本は16時である。
独国の公衆電話は、クレジットカードが使えるので便利である。
しかし、どんどんお金が減ってゆくカウンターに恐れをなし、僅か20秒で切った。
このことは、帰国後、「ケチ」「薄情」と罵られることになるのだが、無い袖はふれない。

気を取り直して地下鉄U1のクルフュルステン通り(Kurfülsten Str.)駅へ。このあたりの3駅では、昨日乗ったU2より北に100mのところを走っている。
U1は都心より南側のクロイツベルク(Kreuzberg)地区を東西に貫き、東西分割後も東端のシュプレー川を渡る1駅を除いて西ベルリンに収まった。
だから、ポツダム広場より東へいけなくなったU2は存在価値を失い、この並行区間から東西分断地点の間が休止されていたのである。

次のグライスドライエック(Gleisdreieck)で地上にでると、あとは川沿いにひたすら高架線を走る。
駅の雰囲気はどこか、昔の営団丸ノ内線後楽園駅付近を思い出す。
地下鉄 地下鉄
●HalleschesTor駅を出るU1 634号車 地上から見るとこんな感じ

◆X線検査つき博物館
降りた立ったのはハレ門(HalleschesTor)駅。
このあたりからがクロイツベルクと呼ばれる地域で、旧西ベルリンの東南部にあたる。
トルコからの移民が多く住む。
また、ハレ門はフリードリッヒシュトラーセの南端で、広場の形に合わせた円形の集合住宅が面白い。

約10分ほど歩くと、ユダヤ博物館である。
展示館は窓が殆ど無い銀色の建物で、上から見ると何度も折れ曲がった複雑な形状をしている。
現代建築家の による設計だそうだ。
尚、2002年9月11日に開館予定だったが、流石に延期になったとのこと。

展示館には入り口はなく、道を隔てたところにある、やや古めの建物から中に入る。
すると、そこにはX線検査機。こんなものを置かねばならない所に、
この町と世界でユダヤ民族が置かれている立場を実感する。

展示館とは地下通路で繋がっているのだが、実はここがミソである。
上り勾配になっている上に上下左右の4辺が平行に成っていない。
ユダヤ民族が歩んだ不安定な歴史を体感する為と聞いた。
確実に三半規管がやられる。実際、立っているだけで眩暈を感じた。

展示の内容は、ユダヤ人の歴史を延々と紹介するものである。
ヘブライ文字に始まり、日用品からあらゆる学問に至るまで、多岐に渡っている。
当然ながら説明文はドイツ語と英語だけである。
ない知識をフル稼働して読解を試みるわけだが、正直、かなりの疲労である。

理解活動を半ば放棄していたそのとき、飛び込んできた画像に私の心は止まった。
1920年代のベルリンの休日を撮影した映写フィルムである。
ワイマール時代のこのとき、大衆消費と大衆文化が開花し、ベルリンは今のニューヨーク並に華やかだった。
映像の中に溢れる人々の表情は明るい。その中には、Sバーン475形も出てくる。
この数年後、ドイツと世界は暗黒に陥ることを思うと、何か切ない感じがする。

ベルリンにも光に満ちた時代があった。
同時に、その時代の多くの部分でユダヤ人が活動していたことを、暗に示しているようだった。

このあとはホロコーストの展示があるのだが、その記述は予想より、かなり少なかった。 しかし、別棟のモニュメントは強く印象に残った
真っ暗な地下室から天井を見上げると、その遥か高い場所に小さな窓があって、
そこだけ光がある・・それは、第二次大戦中のユダヤ人の絶望を表したものだった。

ユダヤ博物館
●ユダヤ博物館 手前がエントランス。奥の銀色の建物が展示館

◆ユダヤ→壁 歴史の来た道
ユダヤ博物館を出ると、正午を既に廻っていた。
読解が進まないのでこうなってしまうのである。
次の目的地はフリードリッヒシュトラーセのベルリンの壁博物館、なにやら因縁深い歴史を辿っている感じである。

ふたたび約10分ほど歩くと、壁博物館である。
かつての壁際に建つビルの一部を使った、比較的小さな規模のものである。、
ベルリンが東西に分かれていたときから存在し、壁の歴史と、それを超えて西側に脱出した亡命手段を展示してある。

狭い館内には所狭しと展示物が並べられている。そして隙間は全て説明の文字で埋められているといっても 過言でないほどである。
従って密度は相当に濃い。
しかし、もう私の外国語処理機能はオーバーヒート状態であるから、理解しやすい写真や図などを中心に見ることになる。
それだけでも迫力は充分である。
実際に亡命で使われたトランクや車。素彫りのトンネルの掘削記録。
そして失敗を捕らえた写真には1989年とあるから、壁の崩壊直前に起きたものだ。
つまり、壁の崩壊は突如としてやってきたことを示している。

壁に象徴される東側の体制から逃れようとする決死の行動は、わたしたちの想像を越えている。
最後の展示である壁の崩壊したそのとき・・も、こうした背景を順番に辿った上でみると、
第三者による世界史的解説とはまた違ったものとして見えてくる。

館内は人で溢れ返っていた。そのだれもが展示を真剣な眼差しで見ていることが印象に残った。
それだけに文字が読めない・・内容の誤解があっても訂正できないもどかしさを感じる。

ちなみにここの名物が、壁の破片を入れた絵葉書。
ええ、お上りさんですから、買いましたとも。
ベルリンの壁博物館 ベルリンの壁博物館
●右側の看板があるところがベルリンの壁博物館(左) 博物館の前に置いてあるベルリン壁(右)

◆西→東 栄光のフリードリッヒシュトラーセ
この時点で1:30である。時間がだんだん押し迫ってきた。
壁博物館の前の道、フリードリッヒシュトラーセを北上する。

博物館の隣にあるのはかつての検問所・チェックポイントチャーリー。最もこれは観光用に復元されたものだから、昔のイメージとは異なる。
その北側は幅100m程度の空き地がある。
ここが正に壁の跡地で、道路にはそれがあった場所を示すラインが引かれている。
壁の東ベルリン側には緩衝帯として空地が設けられていた。その場所はだいぶ再開発が進んだが、
ところどころ、こうした空地になっている。
チェックポイントチャーリー ベルリンの壁のあと
●旧西ベルリン側から見たチェックポイントチャーリー。奥が旧東ベルリン
 右の写真はベルリン壁の跡を示すライン。

この先の一帯が戦前からのベルリン中心地である。
整然とビルが並び、その1Fは賑やかな店が並ぶ。
東京者には、まるで銀座を歩いている気分で親しみが持てる
同行のH1氏曰く、周辺のビルは軒並み改装または改築しているとのこと。
恐らく共産時代は四角い窓だけが並ぶ、味気ない景色だったのだろう。
ここもまた、空白の50年を取り戻そうと必死なのである。
フリードリッヒ通り フリードリッヒ通り

水道管 また、通りの中央には地下鉄(U5)の駅の入り口が並ぶ。
地表から浅いところにある島式ホームなので、入り口を作ったら道の真中になっちゃいました・・ということなのだろう。
それで済ませるあたりは、いかにもドイツ人らしい合理性である。
この駅も東西時代は、地下鉄自体が西に所属していたため、閉鎖されていた歴史を持つ。

一つ裏道に廻れば、そこは工事現場。
頭上を這う仮設の水道管は、改築の進むベルリンを象徴した風景と言える。
車 ●こんなクルマもいました

◆菩提樹の下で
さて、次の目的地は、韓国に一緒に行った友人にが「絶対に行け!」といわれたノイエバッフェである。
現地につくと、隣にフンボルト大学があることから、彼が何故ここに来たかは推して然るべし・・なのである。

ところで、恥ずかしながらこの建物が、何であることを知らなかったが
正式名称を「戦争と暴力支配の犠牲者のためのドイツ連邦共和国中央慰霊館」という。
つまり、ナチスや共産国家の強権政治により亡くなった人々の慰霊堂である。
日本式に手を合わせた。

さて、彼からは「ここにある詩を読んで来い(それも原文で)」という指令を受けていた。
が原文は2秒でリタイヤ、結局、日本語の訳文を読んで内容は理解したが、重たく深いものだった。
しかし、一番の感想は十数種類の訳文の中で「漢字文化圏は文字の量が少なくて済むのがいいなあ・・」 というたことである。

ノイエフバッへ フンボルト大学
●左:ノイエバッフェ 右:フンボルト大学

隣のフンボルト大学では古本市が行われている。こういうものには足を止めるのが流儀というもの。
すると、Sバーンの絵葉書セットが出てきた。有無を言わずに全在庫を2人で購入した。
ほかにもトラバント改造写真集などわけのわからんものがあったが、程々にして切り上げる

ここからは西へ向かう。「舞姫」に出てくる、ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden:菩提樹の下)である。
緑が心地よい。そしてビルの谷間の向こうをSバーンが走り抜けてゆく。
フリードリッヒシュトラーセが銀座なら、ここはさながら数寄屋橋だろう。
そんななか、沿道に人だかりがある。何かと思えば携帯電話のニューモデル発表のようだった。
洋の東西を問わず、若者の求めるものに大した差はない・・ということか?

なお、この時点で何か忘れているなあ・・・と思っていたのだが、それがベルリン大聖堂で
あることに気づいたのは、帰国してからだったというお粗末ぶり・・・。
ウンターデンリンデン

◆確かに歴史はあったのだが(1)
ウンターデンリンデンを抜けると、そこはブランデンブルク門である。
先にドイツを訪問した友人からは、その下を2階建てバスで抜けてどーたらこーたらと聞いていたのだが、 歩行者天国になっていた。
ブランデングブルク門は、正にベルリンを象徴する建築物である。
しかし、東西時代は門の西側に壁が築かれたため、西側は勿論、東側からも近寄れなかった。
ゆえに、分断と統合の象徴になったわけである。
ブランデンブルク門
しかし、その時代の暗さも、崩れた日の歓喜も、微塵も感じなかった。
私の中で、そのシーンを回想することで漸く、ここで様様なことがあったことを思い出すのみである。
今後、世界が平和なまま50年程度が過ぎたなら、恐らくパリの凱旋門やロンドンブリッジと同じ感覚で
見ることになっているようにさえ思う。

門を抜けると、広大なティーアガルテンの緑が続いている。つまり西側には建物がない。
それが、ポツダム広場のように視覚的な東西の差を感じない=歴史を感じない原因になっていると思う。
ただ、片隅にあった亡命犠牲者追悼のモニュメントだけが、この場所で起きた悲劇を物語っていた。
ブランデンブルク門

◆確かに歴史はあったのだが(2)
時間はない、疲労も激しいとくれば、戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)に登る気力もなく、
おのぼりさん専用バスとも言える100系統の車窓から見つめるだけである。
ここはティーアガルテン。宮殿の跡だから、まあ、皇居外苑か北ノ丸公園を突っ切るようなものと思えば適当である。

抜けた先がツォー。東西分裂時代に、西側の中心として発展した場所である。
その名の通り「動物園前」ということもあり、上野に雰囲気は似ているが、街並みはもう少々上品な感じでもある。
まあ、銀座が東側に行ってしまったので、残りの都心の機能が全部ごちゃ混ぜになってしまったという感じか?

ここに来たのは、西側の中心を見たかったから・・というのもあるが、いちばんの目的は
カイザーヴィルヘルム教会である。
ベルリンの原爆ドームとも言われるが、つまり戦争で破壊されたままの姿をとどめている。
ただし、ドームと異なるのは、1階のガラスなどは新しいものが嵌められて、それなりに動態で使われていることだろう。
カイザーヴィルヘルム教会

そしてもうひとつ、これが特別な存在になっていないのである。
ドイツでは新しい町の向こうに旧い教会があるのは自然な風景であるが、
この痛々しい姿の教会もまた、景色に溶け込んでいるのである。
また、周りには露店が並び、欧州によくある賑やかな広場になっていた。
それが、むしろこの場所で過去と現在が連続していることを物語っているような気がした。

ツォー駅前のワゴン車では魚を売っていた。
久しぶりに見る鮮魚である。しかし、その種類は非常に少ない。
だからこそ、魚を食べる寿司は珍しいものであり、異文化の象徴になっているのかもしれない。
ZOO駅●ツォー ロギシャーガルテン駅 入線中の列車はワルシャワ行き


◆Sバーンが背負ったもの
残り1時間30分。かなりきわどくなってきた。
最後の目的地へ向かうため、Sバーンに乗り込む。

とりあえず2つめのレールテ方面(Lehrter)駅のホームに降りる。
路線の位置を変更し、2006年の完成を目指し中央駅として整備中である。
高架線だけではなく、ずっと荒廃していた地平の線路も復活に向けて整備中である。

レールタ―駅

次のフリードリッヒ通りで南北地下線に乗り換える。
東西時代は東西高架線のSバーンはここで分断されていた。西側のSバーンは東側のこの駅では
地下鉄と南北地下線の乗り換えだけが許され、駅の外にでるには検問所を通過しなくてはならなかった。
構内にも壁があったそうだが、今や、その時代の面影はどこにもない。

地下ホームにさえ本屋があるのが面白いが、目をくれる暇もなくやってきた電車で南北(地下)線を 北に向かう。
地上に出ると、廃止された複線線路が寄り添ってきた。
北駅(戦前はシュテティン方面駅)から北に向かっていた路線の跡である。北駅の跡がどうなっているのか気になるところだ。

目的地は、Sバーンの環状線と南北線の乗換駅のゲズントブルンネン(Gesundbrunnen)である。
東西分断時代末期、西側に位置したこの駅は、広い掘割の中に沢山の廃線跡が並び、
僅かに2線分、南北線の駅だけが使われていた。
その写真は、酷く荒廃した風景として私の中に残っていた。

今、その写真と同じ地点に立てば、南北線と復活した環状線は方向別の2面4線となり
真新しい施設が眩しい。そして、その隣には列車線用の駅が建設中である。
振り向けば広大な敷地に北へ向かう線路と東西の線路が交錯し、巨大なデルタを描いていた。
全てが完成した暁には、鉄道ファンにとって最高のスポットになるだろう。
ゲズントブルンネン駅
●ゲズントブルネン駅 右(北側)にSバーン環状・南北の2面4線、左が建設中の列車線の駅
 列車線はレールター地上駅・ポツダマープラッツ駅を経由してパーペ通へ抜ける。
 なお、もともとは北からSバーン北部方面、北部方面列車線、Sバーン環状線の島式ホームが並んでいた。

そして、環状線に乗る。
このゲズントブルンネン駅から西側2駅分、ヴェストハーフェン(Westhafen:西港)までの間が壁の建設および西側での廃線で
ズタズタになったSバーンのうち、現在のところ、最後に復旧した区間である。
その日は2002年6月、漸く分断前の環状線が41年を経て復活したわけだ。
路線の建設・電化・破壊・復旧・分断・廃止・再建・・・、正にベルリンの現代史そのものである。

ベルリンのSバーンといえば、3枚窓でリベットゴツゴツの475(DR:275)形電車。
私は未だに、この電車を思い出す。
ワイマール期、ナチスドイツ、壁の建設と長い暗黒時代、そして奇蹟の東西統一、
その背景には、必ずこの電車の姿があった。
ここまで、街の光と影を象徴した電車は、日本では広島電鉄の被爆電車程度しか思い浮かばない。

しかし、日本の省線モハ31〜40あたりと同世代の電車である。
他の都市ではとうの昔に引退していてもいいはずの電車が、1990年代まで生き延びたのは、
壁が存在していたからに他ならない。

つまり、壁建設後もDR(ドイツ帝国鉄道=東ドイツ国鉄)により運営された西側Sバーンは、
市民のボイコットに遭い投資もままならず、ボロボロの状態にあった。
そして最終的には、多くの路線が休廃止の憂き目に遭うのである。
それどころか東側も資金不足から、ベルリンオリンピック時に製造された477(DR:277)形
(通称オリンピック電車)を含め旧型電車が多数現役であった。

しかし、東西統一で40年の時間を一気に取り戻そうとしたとき、
Sバーンの旧型車は、ズタズタの路線網と共に、その停滞の象徴だった。
だから、環状線の路線網が昔日の姿に復したそのときに、475形が存在しなかったのは、至極当然のことだった。

憧れの475や477に乗ることができなかったのは残念だけれど、
むしろ、再興したSバーンの姿を目にできたことのほうが、私にはうれしかった。

ゲスントブルネン〜シェーンハウザーアレ
●ゲズントブルネンからシェーンハウザーアレ(シェーンハウゼン路)方面を見る。
 左(北方向)に伸びるのはオラニエンブルクやベルナウへ向かう路線で
 かつてはその中央に壁があった。従って、画面奥の建物がある辺りは旧東側になる。

◆最後にみたベルリンの壁
オストクロイツで乗り換え、ベルリン東駅に戻ってきた私たちが最後に向かったのは
駅前から川沿いに伸びるイーストギャラリーである。

保存された壁に、芸術家が絵を書いたものである。
従って、昔日のような緊張感をあまり感じない。
しかし、壁の高さとネズミ返しは、非常に威圧感のあるものだった。
これが灰色のまま、延々と続く光景を想像すれば、
イーストサイドギャラリーベルリンの暗黒時代は視覚的にも相当な威圧感があったと思われる。

まあ、本当はノード駅近くにある昔のままの壁を見てみたかったが・・・・
やはりベルリンに1日なんざ無謀というよりアホである。
イーストサイドギャラリー
●ベルリン東駅前のイーストサイドギャラリー、壁の向う側はシュプレー川

さて、残り時間は20分である。
駅の2Fにある本屋で、お待ちかねの本買い大会である。
地図だのSバーンだの路面電車だの占めて80ユーロ分を買おうとレジへ向かう。
しかし、カードが使えない・・・その上レジのおばちゃんは英語がわからん!!!
パニック状態に陥りながら、財布の中を覗き込み、とりあえず買える分だけ「ビッテ!」と指示して購入。

そのあと、駅の構内の両替へ急行。この時点で列車の発車まで8分。
約200ユーロの資本をつくり、再び本屋にリターン。改めて本を買った。
残り3分!。

H1氏がコインロッカーから荷物を引き出すと、3人でホームへ走った。
こういうときは改札のない構造に感謝する。
目の前のウィーン行きの列車に飛び乗ると、間も無く発車した。
やれやれ・・・。

アレクサンダー広場、フリードリッヒ通り、レールター、ツォー、シャルロテンブルク、西十字・・・
昨日朝と逆回しでベルリンを離れてゆく。
歴史を取り戻そうと走りつづけるこの町は物凄くエネルギッシュであった。
長いこと憧れだったベルリンは、ひたむきに生きる大切さを私に教えてくれた気がする。

しかし、一方で統一後、様々な問題が顕在化している。
失業率の増大は破壊主義に繋がっているといえるだろう。
街のいたるところに落書きがはびこり、電車の窓は傷だらけ。
そしてネオナチの存在は、鉄道駅での恐喝や殺人といった問題を引き起こしている。
それらを乗り越えたとき、ベルリンは本当の輝きを取り戻すのかもしれない。

◆食い物の恨みは
さて、乗った車輌は2等コンパートメントである。
同じ部屋には、ツォーから乗ってきたロシア系ドイツ人のピアニストが乗ってきた。
恰幅のいいその男性としばし談笑のあと(まあ言葉は通じないけど)、
食堂者へ行こうということになった。

で、列車の前へ向かっていったら・・・・自転車搭載車
逆に進んでも・・・なんにもない。
そこで乗務員らしき人に呼び止められると、なんとその車掌室のようなところが
食堂車というではないか。

どうやら時刻表に出ていたワインカップのマークは、飲み物コーナーがあるという意味だったらしい。
で、ティーバックで出した紅茶を差し出されて、ハイ終了!
だいたいにおいて昼飯がろくなモノを食っていない。
一気に疲れが出た。

「ヨーロッパなんだから、どっか頭端式の駅で長い時間停車するだろう・・」
という期待は虚しく、真夜中のニュルンベルク以外そんな駅は存在しないのである。
仕方ないので、H2氏が事前に東駅で買ってあった中華焼きそばを分けることに。
こうしてドイツ最後の夜は、ひもじく暮れてゆくのであった・・・・・。
自転車 ●荷物車を改造した自転車塔載車。この場合は立てかけ式。

◆ベルリンの鉄道路線の変遷へ

▲ 第4日 へ ▼ 第6日 へ

▲ 表紙へ