ベルリンの鉄道路線の変遷

日本で発行されている旅行のガイドブックを見ると、ベルリンの代表駅はツォーで、続いてベルリン東駅ということになっている。
そして、欧州の他の都市に見られるような行き止まり式のターミナルがないことが特徴として揚げられている。
しかし、それらは東西分断の結果であり、戦前のベルリンにはパリやロンドンの様に、いくつものターミナル駅が存在していた。

戦前のベルリンの鉄道路線図
注)地下鉄・路面電車・私設鉄道は除く

1838年に開業したベルリン最初の鉄道は、南西に位置するポツダムへの路線。
そのターミナルは市街地の西南端に設けられ、大陸式に目的地を表す「ポツダマー駅」(以下便宜上ポツダム方面駅と表す)と名付けられた。

続いて、ハンブルク、シュテティン、アンハルト、フランクフルト(オーデル)等への鉄道が開業し、
同様に目的地の名称を付けたターミナルが整備された。
現在、現代美術館になっているハンブルク方面駅、
そして大戦の爆撃で破壊され、駅舎の一部だけが保存されているアンハルト方面駅も、その一つである。
(なお、フランクフルト方面駅はその後の路線延長に伴い、シュレージェン方面駅となる)

これらのバラバラの鉄道を結節する鉄道も整備された。
当初(1851年頃)は、各ターミナルを直接結んでいたが、レールテやゲルリッツ方面の鉄道が開通した、
1870年代には、ターミナルから一駅ほど郊外よりを結ぶようになった。
これが、環状線(Lingbahn:リングバーン)である。

その後、1882年には、東方面へのターミナルであるシュレージェン方面駅から、
シュプレー川沿いに都心を高架で横断し、西〜南西へ抜ける路線ができた。
これが、都市線(Stadtbahn:シュタットバーン)で、Sバーンの語源の一つになったとされる。
こうして、ベルリンの鉄道網の形がほぼ出来上がった。

さて、鉄道は本来、長距離の交通機関として整備されたものである。
それに都市内交通用の列車を走らせることになった。これがSバーンである。
当初は全て蒸気機関車の牽引による客車列車だったが、旅客の増加および他の交通機関への対抗策として
1925〜1929年にかけて主要路線の電化(第3軌条式・DC750V)が行われ、高床式の電車が走るようになる。

上の図は、1940年、つまり戦前の鉄道の最終形態である。
電車Sバーン運行区間は、その殆どが列車線との路線別複々線で、充実された内容であることがわかる。
また、シュテティン方面〜アンハルト方面の南北地下線が開業している。
これは、第三帝国時代に計画された鉄道改良計画の一部である。
Sバーン関連では、アンハルト方面〜ゲルリッツ方面や、
レールテ方面(地上)〜ポツダム広場〜パーペ通りにも地下線が建設される予定だったが、未成に終わった。

幹線ターミナルは、ポツダム方面(ポツダム線)、アンハルト方面(アンハルト線・ドレスデン線)、レールテ方面(レールテ線・ハンブルク線)、シュテティン方面(プロイセン北線・シュテティン線)、シュレージェン方面(シュレージェン線・プロイセン東線・ブリーツェン線※)、ゲルリツッツ方面(ゲルリッツ線)の6箇所が存在した。
(※ ブリーツェン線のみブリーツェン方面駅)。
この時、レールテ方面駅の北東側に隣接するハンブルク線のハンブルク方面駅と、ゲスンドブルンネン駅の南東でプロイセン北線の(旧)ベルリン北駅は、貨物駅だった。

このように充実した内容を持っていた鉄道であるが、敗戦によりベルリン市が戦勝4ヶ国に分割統治された影響を
直接的に被ることになる。
すなわち、幹線ターミナルは、東ベルリンに残ったものがシュレージェン方面とシュテティン方面。
しかし、シュテティン方面駅はその北側が西ベルリンになったので用を成さない。
これにより、東側のターミナルはシュレージェン方面駅だけになってしまった。

その他の駅は西側になったが、東ドイツ・東ベルリンの中の孤島である西ベルリンにとっては
正に無用の長物。更に、全ての駅が東西の境界線近くということもあり、
そのまま放置され、空き地になった。SバーンやUバーンの駅名に面影を残すのみとなる。

壁建設直前のベルリンの鉄道路線図
注) ベルリン市内の列車線に関しては、相当の推測が含まれています。
  原則として、旅客列車運行区間のみを扱っています。

上は、壁建設直前の路線図である。
当時、東西ドイツ国境は封鎖されていたが、東西ベルリンの国境は比較的自由に通行できた。
国有鉄道は東ドイツはDR(ライヒスバーン:帝国鉄道)、西ドイツはDB(ブンデスバーン:連邦鉄道)に別れたが、
ベルリンは、東西ともに、東ドイツのDRが運営していた。

さて、ベルリン市内の幹線鉄道は東西分断の影響を受け、頭端式ターミナル駅がほぼ消滅している。
またシュレージェン方面駅とシュテティン方面駅が、それぞれ東駅と北駅に改称されている。
これは、オーデル川・ナイセ川以東が、ポーランド領になったため、シュレージェン地方やシュテティンが同国領になったことと、関係があると推測する。

一方、戦前のターミナルとは別に、二つのターミナル駅が登場する。
ひとつはオストクロイツより更に東側のリヒテンベルクで、ここから東欧各地へ向け多数の長距離列車が運転されていた。
もう一つがシャルロテンブルクとレールター(都市線)の中間にあるツォー。
戦後、西ベルリンの中心として栄えたここが、新たに西側のターミナルとしての役割を果たすようになるが、
駅としては、中間駅の形態のままである。

一方、電車Sバーンに関しては、戦前の路線網をほぼ維持している。
また電化区間の延長、シュトラウスベルク北駅などへの路線延長も行われている。

郊外に目を向けると、私設鉄道の国有鉄道編入が行われ、路線が若干増えている。
そして、外環状線の機能強化が行われている。
つまり、ベルリンの北・西・南側から、西ベルリンを通過せずに東ベルリンへ入る迂回路が 整備されたのである。
「ベルリンの壁は突然建設された」といのは事実だが、その下準備は、遥か以前からコツコツと進められていたのである。


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