第4日:心象鉄道に揺られて 2004年8月31日(火)
〜ベルリン東郊の電気軌道〜

  ベルリン市(Berlin)について

  <所属州>ベルリン州
  <人口> 338万人
  <面積> 892Km^2

いわずと知れたドイツ最大の都市。そして首都である。
その面積は広く、東京23区(616Km^2)に隣接する川崎市(142Km^2)、
市川市(56Km^2)、川口市(55Km^2)等のをあわせたものに匹敵する。

ベルリンは都市であると同時に一つの州(ベルリン州)である。
それを取り囲むのはブランデンブルク州。
日本にとって縁の深いポツダム市(Potsdam)のほか、オラニエンブルク、
シュトラウスベルク(Strausberg)、フランクフルトアンデアオーデルといった都市がある。

ベルリンの鉄道系市内交通機関はSバーン(国電)とUバーン(地下鉄)。
東西分断で鉄道網もズタズタになったが、現在はその多くが復旧している。
これとは別に旧東ベルリン地区には路面電車網が存在する。
バスも発達しており、2階建車も使われているのが特徴である。

なお、運輸連合は両州に跨っているので、「ベルリン・ブランデンブルク運輸連合(VBB)」である。

タルゴ
●ミュンヘン→ベルリンで乗車したのタルゴ

◆憧れの街へ
目が冷めると、列車は複々線を走っていた。
一体ここがどこなのかわからないが、紅い近郊列車とすれ違ったことから、既にベルリンの近くであることを感じた。
やがて車窓に留置線が見えた。Sバーンの車庫である。
あの長年憧れつづけたベージュに深みのある赤のツートンが横たえている。
微かに期待していた旧型電車の姿はない。案の定、落書き被害をこうむった車輌が時々混ざっている。

ベルリン西南部の駅、ヴァンゼー(Wannsee)で車運車を切り離す為に長時間停車し、ふたたび緑の中の複雑に絡みあったレールを進んでゆく。
ヴェストクロイツ(Westkreuz:西十字)駅で復活した環状線とクロスすれば、
間も無く西ベルリンの代表駅であるツォーロギシャー・ガルテン(Zoologischer garten:動物園)である。
ここで、多くの人が降りていった。やはり、未だに西同士で結びつきが強いのだろうか。

列車は引き続きベルリンの中心地を進んでゆく。右手にはティーアガルテンの広大な緑の奥にジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)が見える。
しかし左手に広がる街並みは、これまで見てきた南ドイツのそれに比べ、明らかに煤けている。 落書きの量も桁違い多い。

線路は、第3軌条集電式(DC750V)のSバーンと路線別複々線の高架である。
駅がレンガ作りの側壁とガラス屋根つきであることをのぞけば、その光景は、どこか東京都心を思い起こす。
それもその筈。東京の新橋高架線は、このベルリンの東西高架線に関わった人物が設計したためである。
Sバーン
●ベルリン東駅に入線する Sバーン481(482)形
 東西統一後、戦前型一掃の為に大量投入された。

近い将来中央駅になるレールターを過ぎると、シュプレー川を渡り旧東ベルリンへ。
通勤客でにぎわう、フリードリッヒ通り(FriedrichStr.)、アレクサンダー広場(AlexanderPlatz)を通過すると、
終着のベルリン東(Berlin-Ost)駅についた。

戦前はパリやロンドンのように、いくつものターミナルがあったベルリンだが、
東西分裂後、東ベルリン側で本線に繋がった形で唯一残されたシュレージェン方面(Schlesischer)駅から改称されたのが、
この東駅(東独時代末期〜再統一初期はベルリン中央駅)である。
しかし、東西高架線に繋がる通過駅の形態であるため、フランクフルト中央駅のようなターミナルとしての貫禄はない。
また、駅の周辺も町外れである。その分、構内の店舗等は充実している。

ここで朝食を食べる。またしてもパンとソーセージ。
たしかに美味いのだが、そろそろ飽きがてくる。
だいたい、パンが大きすぎて口の中が痛い。

◆荒野の中の通勤電車
さて、本日の目的地は、ベルリンの東郊を走る小規模な電気軌道である。
その為に、まずSバーンの案内書を訪れた。

ベルリン・ブランデンブルク運輸連合は、その範囲が大きいため、1日乗車券は都心部からバームクーヘン状に3つのエリアに別れている。
目的地は一番遠いC地帯ということで、全域をカバーするものを購入した。
それでも値段は6.00ユーロ(約810円)。
C地帯はベルリンの中心から25〜40Kmだから、単純に東京に例えれば、
立川・川越・大宮・我孫子・千葉あたりまでの範囲を走る電車とバスにはなんでも乗れることになる。
その威力の凄まじさが解るだろう。

さて、この案内所で目についたのが、陳列ケースに並べられた山のような本。そして絵葉書。
一体何点あるのやら。神保町の本屋もビックリといったところである。
ドイツ人の乗り物好きは、こんなところにも如実に表れている。

Sバーンのホームに上がると、電車がひっきりなしにやってくる。
その姿は東京の通勤電車と変わらない。列車や駅の混雑を除けば・・・。
その点では非常に親しみやすい光景である。
東駅
●SバーンとRE(地域快速)のペンテルツーグ

目的地のラーンスドルフ(Rahnsdorf)に向かうには、この東駅を始発とするS3系統エルクナー(Erkner)行きに乗ればいい。
そこへやってきたのは、一駅手前のフリードリヒスハーゲン(Friedrichshagen)止まりだったのだが、
東ドイツ国鉄(DR:旧ドイツ帝国鉄道)時代に製造された485型だったので迷わずに乗ることにした。
485形
●485(885)形 DR時代の270形。よーく見ると床下機器に落書きが・・・

車内は改装されたのかピンク色基調のやや派手なもので座席もサイケデリックな柄である。
これには意味があり、落書きにあった時に、その汚れを目立たなくするための方策である
実際、窓ガラスは傷つけに傷つけられており、フランクフルトの比ではない。
この街が荒れていることを、改めて思う。

味気ないブザー音と共に電車は発車した。
両側は操車場の跡地と空き地、窓ガラスもその向こうも荒れている。
オストクロイツ(Ostkreuz:東十字)駅を過ぎると、今度は緑の中に廃工場が並ぶ景色に変わる。
恐らく、東西統合で消えていった国営企業群であろう。
線路はフランクフルト(オーデル)へ向かう列車線と路線別複々線で、敷地にゆとりがある分、
かえって間延びした印象である。そして、相変わらずの落書き・落書き・落書き・・・。
これが旧東欧の現実なんだろうか。やたらすさんだ空気を感じる。眩暈がするほどだ。

◆これは夢か幻か
フリーフドリヒスハーゲンから1駅乗って到着したラーンスドルフは、
都市保存林の深い緑に囲まれた、静かな駅だった。
レンガと鉄柱でできた、古色蒼然としたSバーンの駅は非常に絵になる。
S-bf Rahnsdorf S-bf Rahnsdorf

駅前に出ると、道路以外180度全てが森で、何もない。
その片隅に、目指す電車の停留所は直ぐに見つかった。

道端に機まわし線を持つだけの小さな停留所。手前には、ラッシュを終えて切り離された付随車が止まっている。
そして、奥にはSバーンからの乗り換え客を小さな2軸電車が待っていた。

そのまるで心象鉄道のような光景と、Sバーンの沿線風景とのあまりに激しいギャップに、ただただ茫然とするしかなかった。
まもなく、乗り換え客を乗せた電車は、釣りかけ音を響かせて昼間なお暗い木立の中へと消えていった。
ヴォルタースドルフ電気軌道 ヴォルタースドルフ電気軌道

―――ヴォルタースドルフ電気軌道(Woltersdorfer Strassenbahn)。
全長5.6Kmの小さなトロリーラインである。
この存在は、鉄道ジャーナル2002年12月号の服部重敬/津田和一 両氏の記事で知った。
車輌は全て東ドイツ時代につくられた「ゴータカー(GothaWagen)」と呼ばれる単車で、
美しい風景の中を走る姿に魅せられ、是非とも尋ねてみたかった場所である。

この停留所で撮影していたら、オバちゃんが話し掛けてきた。
こっちのことなどお構いなしに、ひたすら喋りつづけてくる。
当然ながら、何を言っているかチンプンカンプンなのであるが、線路の先の方を指差したりしているので、
多分沿線が素晴らしいとか、そんなことを行っているんだろう・・、と勝手に解釈しておいた。
しかし、ドイツ人のおしゃべり好きを思わぬところで体感することになった。

電車はSバーンにあわせて20分間隔である。
やがて森の中から、ヘッドライトを輝かせて別の電車がやってきた。客数はそれなりといったところか。
車内の木目が美しい半鋼製。こんな車輌でも4人掛けと2人掛けのボックスシートなのはお国柄だろう。
ちょとした遊覧電車の趣もある。

Sバーンからの乗り換え客が、数人やってきた。いよいよ出発である。

◆ヴォルタースドルフ電気軌道点景
ヴォルタースドルフ電気軌道

 この先は、こちらのページをご覧ください。


◆似て非なる隣人
ヴォルタースドルフで夢のような一時を過ごした私達は、フリーフドリヒスハーゲンへ向かった。
地図でみるとわかるが、ヴォルターズドルフ電軌の北側に、同心円状に平行する別の電車が走っている。
これが、シェーナイヘ・リューダースドルフ電気軌道(Schöneicher-Rüdersdorfer Strassenbahn 略称はSRS)で、路線延長はこちらの方が倍以上がある。
普段はデュワグカー(ハイデルベルク市電の中古)とタトラカーが走っている。

フリーフドリヒスハーゲンはラーンスドルフと異なり、南側にはベルリン市電乗り入れ
商店が建ち並び賑やかである。しかしSRSはDBのガードを挟んで反対側からひっそりと出ている。
軌間は1000mm。日本国鉄の1067mmゲージより、僅かに狭いだけである。
しかし、はじめて見たその印象は、レールの太さのせいなのか随分狭く感じられ、762mmの軽便鉄道を連想させた。
SRS

こちらも20分間隔運転で、丁度停車していたデュワグカーに乗り込んだ。
10分ほどして発車。
そして、ヴォルターズドルフの用な景色を想像・・・・していたのだが、何か違う。
たしかにグリーンベルトの森を突っ切るのだが、こちらは複線軌道で隣にはクルマがびゅんびゅん飛ばす幹線道路がある。
何より森そのものに鬱蒼とした感じが無い。北海道の防風林のような感じである。
その、森を抜けると車庫があり、やがてシェーナイヘの街になる。
が、ヴォルターズドルフのような閑静な・・というイメージはなく、東京の周辺にたとえるなら新座のような近郊地帯の感じがする。
ここまで、併用軌道は僅かで、路肩の専用軌道が多い。

それが終わると、いきなり車窓から人家が消えて、なだらかな丘陵地帯となる。見渡す限り何にもない。
気分はまさに、「お〜か〜を〜越え〜て〜行ッこうよ」である。
この急な景色の移り変わりはいかにもドイツらしいが、ベルリン近郊の路面電車にも存在することは想像だにしなかった。
やがて、リューダースドルフの市街地へ。
バスバンホーフ(BusBahnhof:バス駅)という名の電停が中心地のようで、ちょっとした商店が建ち並んでいる。

街は直ぐに途切れ、再び幹線道路に沿った専用軌道で丘陵地帯を駆け上ってゆく。
沿線は閑散とした住宅街である。
どこに行くんだろうと・・と思っていると、いきなりループ線が現れて、終点 Alt-Rüdersdorfになってしまった。
放り出された場所は、農家とガソリンスタンド以外なんにもない。
振り返れば、丘の上では発電用の風車がクルクルと廻っている。
Alt-Rüdersdorf Alt-Rüdersdorf

拍子抜けとは正にこのことである。ヴォルターズドルフに比べ、なんとも俗っぽい印象がぬぐえない。
せめて次に来るタトラの走行写真くらい撮ろう・・と、隣駅まで歩いたものの、
バケツをひっくり返したような雷雨が降って来た。まったくついていない。
タトラカー
●豪雨の中 坂道を駆け上がるタトラカー BrückenStr.にて

そのタトラカーに初乗車である。
「鉄の箱」という例えがぴったりの車体。車内は昔の国際興業のバスのようなパイプイスが並ぶ。
発車すればそんな見かけからは想像できないような、急加速・急減速をする。
味も素っ気もない車体に強引な乗り心地は、この車輌が東側諸国のものであることを感じさせた。
しかし、そのような思い・・つまり東欧に共産諸国が存在したことを連想するのは、私達の世代が最後なのかもしれない。

ラーンスドルフ通り(RahnsdorfStr.)で降りて、車庫を覗いて見ると、ここにも保存車がいた。
こちらもゴータカーである。
また同時代に作られボギー車もいるのだが、これは「ガイコツ状態」で置かれていた。
ゴータとデュワグ ボギー式レコカー
●(左)車庫に集うゴータカーと、ハイデルベルク時代のままのデュワグ
  (右)ボギー車の抜け殻・・・

・・・やはりヴォルタースドルフのような独特の世界観?は、ここにはない。
ちなみに再度電車に乗り込んだ停留所の名前はDorfstrasse。つまりは「村通り」。
こんなところにも、この路線の性格が出ているような気はする。
SRSのデュワグカー
●車庫前を行くデュワグ。


◆城東にはトラムが似合う
フリードリヒスハーゲンに戻ってきた。
またしても昼飯を胃に入れていない。そこで手近にあったケパブ屋のお世話になる。
なにせ生野菜が不足気味なので、これでも有りがたい。
しかし、いくらハムが美味いとはいえ、生野菜がないと生きていけない日本人は、基本的に草食獣なのだと実感する。

さて、Sバーンで市内へ直帰してもいいのだが、折角なのだから路面電車に乗ってみることにした。
ここには60・61の2系統が通っているが、生憎60番は駅前で路盤を掘り返されて運休中である。
そうなると61番であるが、こちらは一つ南側の路線を走るSバーンのシェーネヴァイデ(Schöneweide)駅へ連れて行ってくれる。
距離も適度に長いので、これ幸いと乗ることにした。
ベルリン市電
●フリードリヒスハーゲンの街を行くベルリン市電
 道路には、きちんとした駐車帯が設けられている。

ベルリンの路面電車は、市内中心部では東西分断により悉く消えてしまったが、
旧東ベルリン地域には網の目のように張り巡らされ、未だドイツ最大の規模を誇る。
東京で言うなら江東・墨田区内の路線が残り、さらに江戸川区内にもたくさんの路線があるような感じである。

この系統も郊外と郊外を結ぶ路線で、新小岩と門前仲町の間に路線があるようなものである。
余談だが、オイルショックがもう4年早ければ、東京で今もそんな景色を見ることができたかもしれない。

車輌はタトラの重連。発車時には朝乗ったSバーンと同じブザー音。そして赤い警告灯が点滅する。
先ほどのショーナイヘの車輌より、更にドギツイ走りをする。
ムォーーーンというその走行音は、日本では、ちょっと聞けない音である。

沿線はやや広い幹線道路のセンターリザベーションだったり、あるいは裏町の路地だったり、意外に変化に富んでいて面白い。
ただ、全体的に街並みは地味な感じで、今はどこもかしこも劇的ビフォーアフターの最中である。
降りて撮影してみるのも良かろうと思ったのだが、時間の関係で許されない。
街並み
●未だ街は東から西への改装中 シェーネヴァイデにて

ベルリンには、このタトラ型の単車と連節型のほか、日本でも熊本や岡山でおなじみの
アドトランツの低床車がいる。かの、物議をかもした「世界都市博」が開催されていれば
臨海副都心を走るハズだったシロモノである。
まあ、アドトランツは日本でも乗れるからいいや・・なんて思っていると、H1氏曰く、
「欧州との乗り心地の差を比べてみるのも一興かと・・・」。
欧州の狂いのない軌道を走ることが前提で作られた低床車である。
なるほど。その点で面白そうだったが、時既に遅し。諦めざるを得なかった。
連接もどきタトラ
●ベルリンの角タトラにはもう一タイプある。
 一見連接車に見えるが、実はボギー台車を固定したような2軸車の2両固定

◆ベルリンの光と影 前夜(環状線篇)
そろそろ、宿に向かわねばならぬ。
ここは東ベルリン、目指すユースは西ベルリン。従ってその間には東西の境界があった。
だから、そのルートも痕跡を辿るものにしたい。

まずはやって来たS45に乗る。S4ではじまる系統は環状線およびその分岐系統で、
この電車もバウムシュレンヴェグ〜ケルニシェハイデ(Köllnisheheide)〜ノイケルン(Neuköln)の連絡線を経由し環状線に入る。
その連絡線に入ったところに手前に壁があった筈なのだが、痕跡はわからなかった。

この先が西ベルリン時代の1980年代に廃線になっていた区間である。
しかし、環状線といっても山手線を想像してはいけない。
平行して列車線が存在し貨車が多数留置されている。まるで(昔の)鶴見線である。
しかも反対側にはテンペルホーフ空港がある。だから雰囲気は外環状線、つまり武蔵野線のほうが近い。

パーペ通り(PapeStr.)駅は、アンハルト方面(Anhalter)を起点とし、アンハルトやドレスデンへ向かう鉄道との交点である。
戦後はSバーン(S2)を除き廃止状態になっていたのだが、今、列車線の復活工事中でこの駅も大改造の最中である。

その次は、西ベルリン時代に市庁舎があったシェーネベルク(Schöneberg)である。ここで乗り換えた。
ポツダム方面(Potsdamer)駅を起点に南西へ向かう鉄道との交点である。
その路線は、やはりSバーン(S1)以外は休廃止状態にある。

ここに来たのは訳がある。私がベルリンのSバーンの存在を知った、鉄道ファン1987年7月号の記事(宇都宮浄人「ベルリンのSバーン」)の中で、
休止された環状線の乗換駅として掲載されていたのがこの駅だったためである。
その記事で東西ベルリンの壁の建設状況を知り、同時にその姿を知りたくなったものである。
そして、この駅にも興味を持った。17年の歳月を経て、漸くたどり着くことができた。
シェーネベルク シェーネベルク
●鉄道ファン1987-7 96ページに載っている写真と同じアングルで 右写真のエスカレーターを登ると環状線ホーム

今、そこに掲載された写真と同じ地点に立つ。殆ど変わっていないようだった。
当時封鎖されていたエスカレーターが稼動していることを除けば・・。
それは環状線の復活、ひいては東西ベルリンの統一がなされたことを意味する。
1987年といえば、ゴルビーのペレストロイカとグラスノスチで鉄のカーテンの向こう側が次々明らかになっていた。
とはいえ、東西統一なんて思いもしなかったときである。
その後の時代の急速な変化を思わずにはいられなかったと同時に、生きている環状線が、見られることに感謝するものである。
しかし、この駅には戦後60年の長きにわたり使われていない列車線の複線が平行してる。こちらが復活する日は来るのだろうか。
シェーネベルク
●復活した環状線の電車と休止状態のポツダム方面の列車線

◆ベルリンの光と影 前夜(ポツダムマープラッツ篇)
 シェーネベルクから北へ向かう電車に乗った。
ヨークシュトラーセ(YorkStr)駅の先で地下に潜る。これがナチス時代の1939年に完成した南北地下線である。
その名の通り、南側のポツダム方面(環状線およびヴァンゼー方面)駅を起点にしていたSバーンと、
北側のシュテティン方面(Stettiner 現在はノルト(Nord)駅)を起点にしていたSバーンを都心を貫通する地下鉄で結んだもの。
その思想は、西ドイツで1970年代に誕生したSバーンと一脈通じるものがある。
なお、アンハルト方面駅とポツダム方面駅は隣同士で、南海難波と関西線湊町というと解り易いだろう。

この地下に潜る区間、何処かで見覚えがあるなあ・・と思っていたが、帰国後、名鉄の新名古屋〜栄生であることを思い出した。
建設時期も、その性格も似ている。

傷だらけの窓から地下区間の外を見ると、案の定落書きの嵐である。代官山トンネルの比ではない。
その中でレールの動きを追うと、S2系統がさらに下層から立体交差で合流してきた。
同一断面に6線くらいのスペースがあり、随分複雑な線形・配線である。
そして2面4線のアンハルター駅が現れた。だが、ここは工事中。徐行で通過した。
ベルリンでは統一後から、どこかしらで、このような工事が行われ、駅にはモグラのイラストが書かれた工事運休の張り紙が必ずある。
(どうも、その月に起きた列車火災と関係がありそうだが)。

 次のポツダム広場(PotsdamerPlatz)で下車した。
第二次大戦以前は、先述のポツダマー駅が存在し、ベルリンでも有数の鉄道ターミナル、そして中心地だった。
しかし、大戦後、東西の境界が広場の中心に通ったため、東西どちらから見ても僻地になってしまった。
故に戦争からの復旧もロクに行われず、町として機能してなかったのであるが、
東西統一後、往年の輝きを取り戻すべく大規模な再開発が行われている。
ドイツを代表する企業としてダイムラー、そして外国の代表企業として日本のソニーが選ばれ、進出している。

それでは、このSバーンはどうだったか・・というと、壁の時代に南北地下線は西側に組み込まれていた。
しかし、ポツダム広場駅は壁の真下になってしまったため、
隣のウンター・デン・リンデン(Unter Den Linden)駅などと共に出入口を封鎖され通過駅になっていた。
だから、ここは30年の時を経て復活したのである。

さて、2面4線のホームから階段を上り、ひとつ上の地下通路にでる。
その壁は工事現場のようにスチレンボードで覆われていたが、誰が蹴ったのか穴が空いていた。
中をのぞくと・・・・・・・

そこには、地下商店街の廃墟があった。
暗闇の中に煉瓦が散乱する、その不気味な光景に、思わず言葉をなくした。
この街の下には、確かに栄華と暗黒の織り成す歴史が塗りこまれているようだ。
そして、それを直視しながらも黙殺して、前へ進もうとしているのかもしれない。

隣には地上と吹き抜けになった、近代的な地下広場になっている。東京と同じ、再開発地によくある光景である。
その吹き抜けはさらに下層につながり、建設中のプラッとホームがある。
Sバーン用の新駅かと思ったら、これは列車線の駅になるらしい。
つまり、休廃止状態の(西)ベルリンの列車線のうち、北側のレールテ方面(地上)駅と南側のアンハルト方面駅を起点とする路線を復活させ、
その間をティーアガルテンの真下を貫く地下線で連結するのである。
ポツダム広場がベルリンの鉄道中心地として栄華を取り戻す日も近いのだろう。

地上に出ると、多くの人がごった返している。が、その街並みに目を向けると、
東側の味気ない建物と、再開発で完成したソニーセンターの「ガラスの城」が
広場を挟んで、見事に対峙している。そのコントラストは強烈だった。
結局東西が政治的に統一されても、街並みや歴史の統一まではできない・・ということ。
それは、人々の心も同じであろう。なにより、私達が感じることのできない痛みである。
DB
●DBのビル。左側はソニーセンター。当日の夜撮影

工事中の広場の片隅から地下鉄のU2系統(旧称A線)に乗った。ベルリン最古の地下鉄である。
が、壁の時代にはこのポツダム広場を挟む東のオト=グローテヴォウル通り(Otto-Grotewohl Str.)と
西のノレンドルフ広場(NollendorfPlatz)間が休止になっていたという曰く付きの区間である。

地下鉄とは言うものの、地上から階段を1階分下りれば、そこはもうプラットホームである。
例によって改札はないから、正にバス・路面電車感覚で乗れる。
タイルで作った駅名標、やってきた電車は黄色。どことなく、昔の銀座線のようで懐かしいが、それもその筈で、
銀座線はこのベルリンの地下鉄を手本の一つとしている為である。
(H1氏によれば、車両は米国フィラデルフィアのスケッチ品とのこと)
地上の鉄道も地下の鉄道も、東京のそれはベルリンにルーツ(のひとつ)があるわけだ。

直ぐに地上に出る。
アンハルト方面駅とポツダム方面駅に続いていたであろう、広大な操車場跡の空き地が目に入る。
ちなみにアンハルト方面駅は、爆撃で破壊された駅舎のファサードだけが保存されている。
(しかし、これも工事中だった・・・・・)。

この区間の2号線は完全にレールがはがされ、磁気浮上鉄道(Mバーン)の実験線になったり、
路面電車の保存線になったりして復活に時間を要し区間だ。
また、下車したビューロウ通り(BülowStr.)駅は商店街になっていた。
それでも、最終的に構造物まで潰さなかったのは幸いだった。
日本なら、確実にビルかマンションか道路になっているだろう。

駅の周辺は商店が建ち並ぶ普通の空間だが、やはり東地区に比べ充実している観がある。
街並みも、どことなく華やかさを感じるが、ビルの建て方などは乱雑である。

やや距離があったが、ベルリンのYHについた。
しかし、改めて地図を見ると、ポツダム広場から直で歩いてきても変わらない感じだった。

このあと、東駅に荷物を取りに戻って、ついでに夕食となった。
その店は中華系移民の開く焼き蕎麦のファーストフード店。
欧州で東洋人を見たら日本人よりも中国人のほうが多いかもしれない。
華僑はどこでも強い。
夜の東駅
●夜のベルリン東駅にて


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