遊 旅人の 旅日記
新潟県青海町親不知、市振から富山県朝日町へ |
今日の行程は<親不知>までと短い。出発はゆっくりだ。 宿で朝食を済ませ、話好きで底抜けに明るい女将の「親不知は洞門とトンネルの連続だから気をつけて歩いてください」と言う見送りの言葉を背に、AM 7:30 出発。雲は有るがすぐに晴れそうだ。まだ台風の様子はない。 R8を富山方面に向かい歩くと、女将が言っていた<洞門>が早くも現れる。 洞門内の海側は窓があり明るいが道幅は狭い。気をつけて歩かなければいけない。 今日は金曜日、幸いにも車の通行量が少ない。しかし車が追い越してゆくときは、すれすれだ。対向車が来ると、追い越す車は私の後ろで待っている。前後に注意を払いながら、目一杯神経を使って歩く。 ニ・三箇所の洞門を過ぎると今度は高架橋になる。高架橋の下は海である。目のくらみそうな高さだ。 再び洞門になり、次はトンネルになる。 トンネルを抜けると海側に句碑が在る。振り返るとトンネルに<駒返トンネル>と書いてある。この<駒返し>という語も「奥の細道」に出てくる。 長いトンネルに入る。電気が寂しそうに灯っている。一層神経を張り詰めて歩く。 トンネルを出ると左側に親不知駅の案内がある。 坂を下ってゆくと線路があり、駅が見えてくる。親不知の駅だ。小さな駅である。ここでホテルに電話をすれば迎えに来てくれるはずだ。 電話をする前に駅の中や周りにある看板を見る。親不知の地図が書かれた大きな案内板がある。 それぞれの地点までの時間が書いてある。よく見ると歩行の所要時間も書いてある。と言うことは親不知を歩く人もいるということだ。 昨日、旅館の女将の言っていたこと、ホテルの人のアドバイスを思い浮かべ、暫く案内板の前で考える。 案内板に連絡先<親不知ピアパーク>とあり電話番号が書いてある。ピアパークに電話をして歩いて通ることが出来るか確認をする。大丈夫だ。所要時間も正確だという。よし、歩こう!。 R8に戻りすこし行くと、高架橋になる。高架橋の途中に大きな施設がある。何があるのだろうと近づいてゆくと<道の駅・親不知ピアパーク>となっている。先ほど電話をしたところだ。海の上に、よくもこのような大きな施設を作ったものだと感心をする。 記憶を辿ってみると、以前、車で北陸自動車道を走ったときに立ち寄ったことがある。海上に渡した高架橋中間の大規模な施設に、今 改めて感心をする。上には北陸自動車道が通っている。絶景の眺めである。 休憩しないで歩き続ける。道が谷を避けるように左 山の斜面に祖ってにカーブをしている。ちょうどカーブのところに展望台がある。ここからの眺めもすばらしい。 谷の向い側、山の中腹に建物が見える。宿泊の予約を入れてあるホテルである。予約をキャンセルしなければいけない。 谷を回りこんでゆくとホテルの前の駐車場に着く。ホテルは道路から少し奥まった高台にある。駐車場は木々が生い茂り格好の休憩の場所である。リュックを下ろし水分を補給しながらホテルにキャンセルの電話を入れる。 駐車場の横の林の中、海岸に下りてゆく道がある。家族連れが楽しそうに下りてゆく。海岸からの高さは100m以上有るだろう。切り立った崖の小道を登り下りするのは、かなりきついと思うが楽しそうだ。 しばし休息をとった後歩き出す。またトンネルを歩く。そしていくつかの洞門を過ぎると<市振>に出る。 無事、親不知を歩きと通したのである。ホッと一安心をする。外は真夏の太陽が輝いている。 自動販売機の並んでいる休憩所があり椅子とテーブルが置いてある。屋根もついている。そこで水分を補給しながら休んでいると、50才くらいの女性が自動販売機にジュースを補給しに来る。 いま親不知を歩いてきたと話をすると、親不知駅より青海側の洞門・トンネルが危なかっただろうという。 確かにそのとおりだった。地元の人は高校生でも大人でも自転車やバイクで平気で通行しているという。 奥の細道を歩いていると話すと、芭蕉の句碑が<長円寺>に、また宿の跡が町中にあると言う。場所も親切に教えてくれる。ありがたいと感謝をするとともに、地元の人はよく知っているものだと感心もする。 句碑のある<長円寺>はすぐに見つかる。松の木に囲まれた静かな佇まいの寺である。松風そよぐ境内の中にひっそりと句碑が建っている。 一家に 遊女も寝たり 萩と月 長円寺を後にし、R8から旧道に入り、真夏の太陽に照らされた町並みを歩いてゆくと、民家の前に<奥の細道 市振の宿 桔梗屋跡>の木の案内柱が立っている。 芭蕉は疲れた身体で、この宿<桔梗屋>にたどり着いたのである。 芭蕉のこの日の行程は<能生>を出発し<親不知>を通りこの<一振>までである。芭蕉にとって長い距離ではない。ただ「けふは 親しらす 子しらす 犬もとり 駒返し なと云 北国一の難所を越 つかれ侍れは・・・」と言っているように、行程のおよそ半分の15km程は親不知・子不知の難所を歩いたのである。 断崖絶壁の下、波の打ちよせる岩場を、岩穴に入り波をよけ、岩を登り また下りて、石に足をとられ、海水に濡れ、やっとの思いでその難所を越え、市振に辿り着いたのである。 心身ともに疲れ果ててしまったに違いない。 夜は、疲れた体を休めようと早めに床に就くが、襖一枚隔てた隣の部屋から話し声が聞こえてくる。伊勢神宮に参拝に行く遊女達と、見送ってきた老人の会話である。その話を聞きながら眠りに落ちてゆく。 そんな宿での情景を詠ったのが、長円寺の句碑に刻まれた句である。 市振の駅で小休止。パソコンで今宵の宿を検索するがインターネットは圏外で使用できず。携帯電話で検索をする。 市振(青海町)の次の町は富山県になる。 富山県の最初の町、朝日町に宿をとる。駅を出てR8を富山方面に歩き<市振の関所跡>を通り、少し行くと県境になる。 新潟県内<越後路>は13日間の旅であった。<新潟県よ長い間 有難う。>と心の中で叫ぶ。 富山県に入り旧道を歩く。 生暖かい風が吹いてくるとともに、今まで青く輝いていた真夏の空が突然、厚い雨雲に覆われてくる。 台風の風、雲行きだ。雨もパラパラと落ちてくる。 落ち着いた町並みを歩いて行くと海に出る。強風の中、暫く海岸線を歩いてゆくと、道は田園風景の中に伸びてゆく。 暖かく湿った風が山側から猛烈に吹いてくる。雨交じりの強風の中、黙々と田圃、畑中の道を歩く。 つい先ほどまでの真夏の空は何処に行ってしまったんだろう。山の木々も大きく揺れている。 4時宿に到着。雨は少なく びしょぬれ濡れにならなくてすんだ。今日はもう出かける予定はない。富山県の行程を検討しよう。 部屋で休んでいると、早めに現場から引き上げて来た工事関係者の人たちが、明日の天気、台風の進路を気にしながら賑やかに帰ってくる。 私も明日は台風の様子を見て、ゆっくり出発しよう。 |
奥の細道 |
越中の国 一ふりの関に至る 此間九日 暑湿の労に神をなやまし 病 をこりて事をしるさす 文月や 六日も常の 夜には似す 荒海や 佐渡によこたふ 天河 けふは親しらす子しらす犬もとり駒返しなと云 北国一の難所を越て つかれ侍れは 枕引よせて寝たるに 一間隔て面の方に 若き をんなの声 二人計と きこゆ 年老たる おのこの声も交て 物語するを きけは 越後の国新潟と云処の遊女成し 伊勢に参宮するとて 此関まて おのこの送りて あすは古里に かへす文したゝめ はかなき言伝なと しやる也 白波の よする汀に身を はふらかし あまの この世を あさましう下りて 定めなき契 日々の業因 いかにつたなしと 物云を聞々寝入て あした旅たつに 我々にむかひて 行末しらぬ旅路のうさ あまり覚束なう悲しく侍れは 見えかくれにも 御跡を したひ侍らん 衣の上の御情に 大慈の めくみを たれて結縁せさせ給へと なみたを落す 不便の事には おもひ侍れ共 我々は所々にて とゝまる方おほし 唯人の 行にまかせて行へし 神明の加護 必つゝかなかるへしと 云捨て出つゝ あはれさ しはらく やまさりけらし 一家に 遊女も寝たり 萩と月 曾良に かたれは 書とゝめ侍る |
曾良日記 |
大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中剋、市振ニ着、宿。 ○十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。 |
おやすみ処 |
芭蕉は越後の国、<中村>から<一振>まで14日間かけて歩いた行程をを「鼠の関をこゆれは 越後の地に歩行を改て 越中の国 一ふりの関に至 此間九日 暑湿の労に神をなやまし 病 をこりて事をしるさす」と、これだけの短い文で済ませてしまっている。また句は、前述の三句だけである。 越後の国での行動の謎である。 <歌枕>を訊ね、また師と仰ぐ西行の足跡を訊ね歩いた「奥の細道」、越後路には芭蕉の求めるものが見当たらなかったのかもしれない。 奥の細道を実際に歩いた、江戸中期の芭蕉の研究家<蓑笠庵 梨一(さりゅうあん りいち)は著書「奥細道 菅菰抄(すがごもしょう)」の中で次のように述べている。 <越後のうちには、歌名所かってなく、たまたま古蹟旧地ありといへども、いづれも風騒家の取べきものにあらず。殊に往来の道筋には、しかじか風流の土地なく、奥羽の致景佳境につづけんには、何をよしとして書べきや。且無用の弁に、紀行の長々しからむ事を恐れて、かくは はぶき申されし成べし。是亦 道の記の一躰ならんをや。> 越後の人にとっては大変失礼ではないかと思われる記述をしている。これはあくまでも蓑笠庵梨一の推測である。 芭蕉本人は「越後の地に歩行を改て 越中の国 一ふりの関に至る 此間九日暑湿の労に神をなやまし 病 をこりて事をしるさす」と書いている。 越後路に入り、雨の日が多く蒸し暑い日が続き、旅の疲れが出て心身ともに優れず、文を書き、句を詠む気力がなくなってしまっていたと思われる。 |
俳聖 松雄芭蕉。芭蕉庵ドッドコム 糸魚川市公式ホームページ |
親不知 波を見定め 走る磯 |