遊 旅人の 旅日記

2003年8月5日(火)曇・雨・晴   

上越市滞在(高田へ)
AM 6:00 高田に向かって出発。上越市高田の雁木通り
昨日の 真夏の太陽が照りつけた天気と打って変わって、激しい雨が降っている。一時間半ほどで高田の市街地に着く。
コンビニで高田の史跡を訊ねると、若い男の店長が地図を出し詳しく教えてくれる。よく見ると芭蕉の泊まった宿の跡、芭蕉の句碑のある場所も載っている。お礼を言ってコンビニを出る。


まず駅を目指して歩いてゆくと高田の町の中心街を通る。商店はまだ皆閉まっている。その静かな商店街を、通勤、通学の人たちが三々五々駅の方向から歩いてくる。
<芭蕉の泊まった宿の跡>は駅に向かう通りの、小さな川に架かる橋<高田橋>を渡った左側に記されている。上越市高田の芭蕉が宿とした池田六左衛門宅跡
地図に記されている周辺を何度も歩き、史跡の案内を探してみたが、それらしいものは見当たらない。駅にも行ってみたが目新しい情報は得られなかった。元の場所まで戻る。
表の戸の開いているクリーニング店を見つけ、入って声を掛けると、中から奥さんらしき人が出てくる。
<芭蕉の宿の跡>を探していると話すと、隣の駐車場のゲートところだと教えてくれる。以前は<芭蕉の泊まった宿の跡>の石碑があったが、市の区画整理事業のため取り除かれてしまい今は何も残されていないという。
残念な思いを抱きながらデジカメで駐車場のゲートと付近の画像を撮る。


上越市高田 正輪寺の句碑気を取り直して雁木通りの商店街を歩く。新しい
<雁木の通り>から古い雁木の通りへと続く。古い町並みは雁木の高さが急に低くなる。雪国の厳しい生活の様子を思い浮かばせる雁木通りの佇まいである。
ところどころに<歴史の道しるべ>の標柱があり、町の歴史が説明されている。町を訪れる人にとっては、歴史が解り、大変ありがたい。
しばらく歩いてゆくと 道、町並みが鍵の手に曲がっている。
<鍵の手十字路>と説明されている。これは町中に侵入してくる敵の軍勢を妨ぐために、道・町並みを鍵の手に建設したものと言う。高田の町は戦国時代から徳川の初期において戦略的な考えに基づいて建設されたのである。


<鍵の手十字路>を左に曲がると
<十返舎一九ゆかりの飴屋>と言う飴屋が上越市高田 高田城の外堀のハスの花ある。由緒ありそうな古い造りの店構えである。<粟飴翁飴本舗>と書かれた大きな看板が二階の屋根に掲げられている。十返舎一九が<諸国道中「金の草鞋」>の中で「評判は高田の町に年を経て豊かに澄める水飴の見世」と言っている飴屋である。
粟飴と翁飴がある。水飴を粟飴と言う。翁飴を買って食べてみる。飴と言うよりはゼリーに近い食感である。
店の歴史など聞いた後、芭蕉の句碑のある
<正輪寺>を訊ねると、すぐ裏だと言う。店の横、飴工場の敷地内を通らせてもらう。飴を煮ている良い香りが漂っている。


裏の通りに出て少し行くと正輪寺がある。
<法林山上越市高田 高田城三重の櫓、正輪寺>と書かれた門柱を入ると右側、植え込みの中に、芭蕉翁と書かれた句碑が建っている。宝暦13年(1763年)に建てられた句碑である。
   
景清も 花見の座には 七兵衛
奥には本堂が雨の中にひっそりと建っている。


正輪寺を後にして雨に濡れた静かな町並みを高田城に向かう。少し歩くと、お堀端に出る。お堀一面ハスに覆われている。雨の中 ピンク色をした綺麗な花が咲いている。
榊神社を右に曲ると内堀の向こうに三重の櫓が見える。堀には木の橋が渡されており極楽橋と言う。
高田城 極楽橋袂の<大賀ハスX王子ハス>極楽橋を渡った橋の袂の両側には、大きく素晴らしくきれいな花を咲かせたハスが鉢に植えられ置いてある。
<大賀ハスと王子ハス>を交配したハスと説明されている。


城内の本丸跡を横切り高田城を出る。民家の町並みを地図を頼りに北城神社に向かう。すぐに見つかる。
鳥居をくぐり本殿に向かう参道の左側に句碑が在る。本殿で参拝をした後句碑を見る。二つの句が刻まれている。この句碑はまだ新しい。昭和60年に建てられたと説明されている。
   
薬欄に いづれの花を くさ枕
   文月や 六日も常の 夜には似ず


神社を出て帰路に着く。
上越市高田 北城神社の芭蕉の句碑高田の町をぐるっと一周したことになる。
芭蕉が
「薬欄に いずれの・・・」の句を読んだ<医師・細川春庵邸>の跡は分からなかった。
何も形跡は無かったが、宿・池田六左衛門宅跡が分かっただけでも充分だ。
これで芭蕉の足跡を訪ねた高田の旅は終わりである。ほぼ半日と言う短い時間であり、また雨に降られた行程であったが良い日であった。

2時ホテルに帰着。コインランドリーへ洗濯に行く。
今日洗濯をしておけば富山までは大丈夫だ。
コインランドリーを利用する人たちを見ていると、若い人たちが多い。

今日は一日リュックを背負わないで歩いたが、疲れ方は、ほとんど同じだ。リュックを背負って歩くことに身体が慣れてしまっているのだろうか。

夜、ベッドに入ると、山形の遊佐町吹浦の旅館で出合った上越のハイキング・グループの人たちのことを思い出す。リュックを背負っていれば見つけてくれたかもしれないが、昨日今日とほとんどリュックを背負って歩いていない。
旅の一つの出会い、良い思い出と思いながら眠りに着く。
曾良日記
○ 八日 雨止。立欲。強テ止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下剋、高田至、細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵ヘ寄不シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓テ尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
○ 九日 折々小雨ス。俳、歌仙終。
○ 十日 折々小雨。中桐甚四良ヘ招被。歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方ヨリ晴。
○ 十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下剋、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。
おやすみ処
<高田城> 慶長19年(1614)徳川家康の六男 松平忠輝の居城として、忠輝の義父(舅)伊達政宗が普請総裁となり築いた城である。石垣を廻らさず土塁を廻らし、天守閣がなく、三重の櫓を設けている。四ヶ月と言う短期間で築いたという。
忠輝は慶長15年信濃川中島から福島城(直江津)に移された。川中島と越後あわせて75万石の藩主となったのを機会に、福島城を廃し、高田城を築き居城とした。
大阪夏の陣の前年である。
<松平忠輝> 天正20年(1592)徳川家康の六男として江戸城にて誕生。幼名辰千代と言う。家康は生まれた辰千代の醜い顔を見て「捨てよ」と命じたという。不憫に思った家臣の本多正信が養育先を探し、下野栃木の城主 皆川広照に預けられる。慶長4年(1599)同母弟で家康の七男・松千代が早世したため、その後を受けて長沼松平氏の家督を相続。慶長8年(1603)信濃川中島藩12万石の藩主となる。慶長11年(1606)伊達政宗の長女、五郎八姫と結婚。
将軍家の命に従わなかったり、自由奔放な行動により不運な生涯を送る。晩年は諏訪高島城で過し、92才で没する。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

上越市公式ホームページ

        忠輝の 想いが濡らす 蓮の花 (遊 旅人)