遊 旅人の 一人旅

2003年8月4日(月)晴れ

大潟町から上越市へ
AM7:00食堂で朝食をとる。
何気なく外を見ると、大きなリュックを背負った人たちが上越市方向に向かって歩いている。7〜8人の一団である。同じようなことを考える人たちが世の中にはいるものだと思いながら食事をする。


チェックアウトをしながらフロントの男性と世間話をする。
北陸自動車道が開通してから すでに随分長い年月がたっているが、この開通による宿泊客の動向、地域経済への影響を話している。

海水浴の時期、海には沢山の海水浴客が来るが、日帰りや 大型化した車で夜を明かす人たちが増え、旅館や民宿またホテルで宿泊をする客は減っている。
工事関係の人達も以前は、新潟や長野、富山方面から泊りがけできて工事を行っていたが、今では日帰りの人達が多いと言う。
高速道路の開通によって車の通行量が増え、交通事故が多くなり、排気ガスは増えたが、地元経済には良い影響を与えていないと言っている。

確かに高速道路の開通により、中央と地方の中心都市、また地方の中心都市間では、経済、物流、人の流れが増大し、時間が短縮し経済的効果が高まったであろう。しかし中間の地域はその恩恵に浴していないのかもしれない。これは地域経済にとっては大きな問題である。

今後、政府は小さな政府を推進してゆく中で地方自治体を無責任に見放してしまうのではなく、しっかりとバックアップしてゆかなければならない、などと考えながら宿を出る。


宿を出発してしばらく歩いてゆくと、先ほど見かけた徒歩旅行のグループに追いつく。
七人のパーティで二グループに分かれて歩いている。遅れて歩いているグループは、若い男性二人と、若い女性と、若い人たちのお母さん位の年齢に見える女性の四人。
お母さん位の女性が道路の反対側を歩いている私を見つけ挨拶をしてくる。私も挨拶を返す。
彼らは、ゆっくりゆっくりと話をしながら歩いている。
先行しているグループに追いつく。若い男性二人と若い女性一人の三人である。
三人がこちらを見ていたため頭を下げ挨拶をすると相手も頭を下げ挨拶を返してくる。
ちょうど交差点の信号が変わったため横断歩道を渡り彼等に近づいて話しかける。

私が{奥の細道}を歩いている。東京を、5月29日に出発し、今日で68日目、最終地の大垣には、あと一月ほどで到着予定と話すと、びっくりして私をまじまじと見つめている。
彼らは柏崎を出発しゴールは琵琶湖、夏休みの終わる今月末に到着予定と言う。大学生である。
昨夜は柿崎町の上下浜で野宿をし、今日は上越市の海岸沿いの有間川まで歩き、やはり野宿をするという。ずーと野宿をしながら歩いてゆきたいといっている。持ち物を見ると、野宿用のシート、飯盒、ラジカセなど野宿に必要なものは揃えて持っているようだ。
お互いにエールを交換して別れる。


「黒井ヨリ スグニ浜ヲ通テ・・・」
と曾良が書いている黒井でR8と別れ、今では直江津港になっている浜に向かい歩く。
港に着くと大きなフェリーがゆっくりと出港してゆく。
港から民家の並ぶ町並みを歩き、雁木のある商店街を通り駅に向かう。雪国の商店街の風情だ。
駅で情報を集める。
上越市は中心が二つある。一つは、港、駅を中心として栄えた
<直江津>、一つは、7〜8kmほど南にある高田城を中心に栄えた<高田>である。
芭蕉は
今町(直江津)で二泊、高田で三泊している。

今日は直江津周辺を歩くことにする。ホテルに荷物を預け出かける。



上越市 五智国分寺山門



上越市 五智国分寺 三重の塔



上越市 五智国分寺 本堂



上越市 五智国分寺 芭蕉句碑と三重塔の説明板




上越市 五智国分寺 芭蕉句碑





上越市 越後一ノ宮 <居多神社>





上越市 関川河口にある芭蕉句碑





上越市 聴信寺
地図を片手に、市内に出かける。
芭蕉が宿として紹介されたが最初は断られ、後になって再三の招きがあり訪れた
<聴信寺>、越後の国の国分寺<五智国分寺>、越後の国の一の宮<居多(こた)神社>は地図に載っている。
宿とした、
<古川市左衛門宅><佐藤元仙宅>は判らない。歩いていれば見つかるかも知れない。


まず五智国分寺に行く。この国分寺は1,200年ほど前(天平13年)聖武天皇が越後の国の国分寺として建立したものと言う。
ここでもやはり境内の後ろの入り口から入ってしまう。
本堂に参拝をした後、親鸞聖人の旧跡
<竹之内草庵>と言う所に行く
。中を覗くと草庵の片隅で上半身裸のお坊さんが食事をしている。大きな声で私に向かって「どうぞあがってお参りをしていってください」という。暗い建物の奥を見ると像がある。親鸞の自刻像だそうである。
お坊さんは私が靴を脱いで草庵に上がり、自刻像を参拝して帰ってくる間ずっと親鸞の話をしている。靴を履きかけると「ゆっくりして行きなさい」と言いながら近づいてくる。
どうしてここに来たかと訊ねるから、「奥の細道」を歩いていると答えると、自分も奥の細道を歩こうと計画をしている、どのように歩けばよいか教えて欲しいと言いながら、色々と書き込んである地図と、ノートを持って来る。地図とノートを見るとかなり良く調べている。
車で行くつもりだが、まず山寺から松島、平泉などを訪れたい、どのようにコースを組めばよいか、などと質問をしてくる。
私の歩いてきた状況を話し、地図をみながら、車で走る場合の道順、時間、距離などを検討する。

「奥の細道」の話が一通り終わると、それぞれ個人の話になる。
大変なお坊さんである。ここに来る前は北海道の、ある大学で親鸞の研究をしており、数々の本を書き、英語に翻訳をし、外国の親鸞を研究している人たちにも教えていたという。
そうしている内に自分が親鸞に没頭してしまい、今ここで親鸞の自刻像を守りながら、お坊さんをすることになってしまったと言っている。
豪快で知識、人生経験豊かなお坊さんである。


一時間ほど話をしていると、5〜6人の中年の女性が覗きに来る。お坊さんが説明をするからあがってくださいというと、その人たちは、あまり興味なさそうに帰って行ってしまった。
このようなお坊さんの話を聞くと人生のためになると思うのだが、もったいない。
お礼を言って帰ろうとすると、境内に芭蕉の句碑があるから案内しますといって、山門近くの句碑まで案内をしてくれる。



山門を出て、芭蕉も訪れた、越後の国の一の宮・居多神社に行き、参拝をして戻ってくる。静かな住宅地を歩き関川の河口に出る。
こじんまりとした社がある。その敷地の片隅に芭蕉の句碑がある。

  
文月や 六日も常の 夜には似ず

句碑を後にして聴信寺に向かう。境内に入ると蔵(土蔵)のような本堂がある。同じようなお寺が村上市にもあったと思い出す。
しばらく境内で休んだ後、芭蕉が泊まった古川市左衛門宅跡、佐藤元仙宅跡を訊ねて市街地を歩くが見つからず、ホテルに戻る。


今日は、親鸞聖人の旧跡<竹之内草庵>で豪快なお坊さんと話しをし、人生について多くのことを学ばせてもらい、心が洗われたような、すがすがしい気持ちになった。良い一日であった。
曾良日記
黒井ヨリ スグニ浜ヲ通テ、今町ニ渡ス。聴信寺ヘ弥三 状届。忌中ノ由ニテ強テ止不、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。帰不。再三及、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。
○ 七日 雨止不故、見合中ニ、聴信寺ヘ招被。再三辞ス。強招クニ暮及。昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙ヘ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。
よりみち
春日山城跡 戦国の武将<上杉謙信>の居城である。上越市街地の西にある。今は、城郭等建造物は残っていない。広大な山城である。謙信はここで生まれ育ち、国主となり、越後の国を治めた。
五度にわたる武田信玄との
<川中島の合戦>の折には、この春日山城から出陣したのである。

居多神社  この神社は、親鸞聖人が越後の国に流罪となり、最初に参拝をした神社といわれる。
境内には親鸞にまつわる七不思議のひとつ
<片葉の葦>が群生している。この<片葉の葦>は親鸞が早く免罪になるようにとの句を読んだところ、生えていた葦が一夜のうちに片葉になってしまったといわれる。
広い敷地を持つ神社である。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

上越市公式ホームページ
    親鸞を 守る御坊の 説く教え (遊 旅人)