遊 旅人の 旅日記
関が原から大垣へ |
AM5:50「奥の細道」の最終地<大垣>に向け出発。 R21で関が原の町並みを抜けると、右側の小山に<関が原の合戦・徳川家康 最初の陣地・桃配山>の案内がある。関が原の合戦の開戦時、家康が陣を敷いたところである。 また、この<桃配山>は。壬申の乱の時、大海皇子(天武天皇)が陣を構えたという由緒ある山でもある。 関が原町を抜けると<垂井町>に入る。 曾良日記にある「関ヶ原ヲ立。野上ノ宿過テ・・・」の<野上>は地図には載っているが見つからない。 R21の垂井の町並から南に1kmほど入ると、やはり曾良日記に「右ノ方ヘ切テ、南宮ニ至テ拝ス」とある、<南宮大社>がある。 神武天皇の時代の創建というこれも由緒ある神社である。 関が原の合戦で焼失してしまったが、徳川三代将軍家光が再建をしたという。 <美濃の国一の宮>で、建物は国の重要文化財に指定されている立派な神社である。 まだ朝早く、境内は静かである。気持ちの良い境内で小休止。 R21に戻り、大垣に向かう。途中から地方道31(岐阜垂井線)にはいる。この岐阜垂井腺は旧国道のようである。大垣まで6kmと表示されている。真夏の太陽が照りつけ始め、猛烈に暑くなってくる。 昼前に駅の近くにあるホテルに到着。荷物を預け<「奥の細道」むすびの地>を探しに出かける。 市の教育委員会に「奥の細道を歩いて来た者ですが」と電話をすると担当の文化振興課に電話を回してくれる。文化振興課の担当者から<むすびの地>に関する説明が簡潔にあり、詳しくは「奥の細道むすびの地記念館」または<観光案内所>に行ってくださいと親切に教えてくれる。 <奥の細道むすびの地>専門の記念館があるのである。 大垣城の前を通りすぎ、右に曲がるとお堀のような水路に突き当たる。水路に沿って行くと、小さな建物の観光案内所があり、中に70才前後の二人の男性がいる。ボランティアでこの<むすびの地>周辺を案内していると言う。 「奥の細道を歩いてきて、今、大垣に到着したばかりです」と話すと、「奥の細道を歩いて来て、ここ<結びの地>を訪れる人は沢山います」と、さらっと言われる。特に驚いたり、感心した様子は少しもない。 大垣の人々にとって<奥の細道>や<野ざらし紀行>を歩き、このむすびの地を訪れてくる人達は、珍しくもなく、驚くことでも感心することでもないのである。 多くの人たちが芭蕉を慕って訪れて来る場所なのである。 市役所の電話の対応をしてくれた人たちも、驚きも感心もしなかったのも当然のことである。 ただ私が歩いてきた多くの場所では、「奥の細道を歩いている」と話すと、必ず、驚き、感心をしていた。 一瞬、拍子抜けをしてしまう。 今回の「奥の細道」を歩いた旅は、<定年後の人生、第二ステージに向かって、体力、精神力を試し、自分を納得させる旅>であるから、他人が驚き感心をしなくても良いのである。 ボランティアの人の話に耳を傾ける。 <芭蕉はこの大垣には4回訪れており、奥の細道で訪れたのは3回目の時である。大垣市は来年芭蕉生誕360周年記念の行事を行う。また大垣市は芭蕉の門下、蕉風の俳句が受け継がれており、今でも俳句が盛んに行われ親しまれている。芭蕉ゆかりの場所、句碑も数多くある>など芭蕉について詳しく説明をしてくれる。そして<むすびの地>を訪れる人たちの話にも花を咲かせる。 駅前には<芭蕉生誕360周年記念>の大きな看板が立っていた。 無事、奥の細道全行程を歩き終えた安心感からか二時間近くも話し込んでしまう。 お堀と思っていた水路は<水門川>という。その水門川のほとり、旧国道とぶつかる手前に<奥の細道むすびの地>があり、芭蕉と、<谷 木因(ぼくいん)>の銅像が建っている。 木因とは、芭蕉の俳友であり、大垣に俳句を広め、船問屋を営んでいた人である。その木因の船問屋は銅像の向かい側、今はパチンコ屋になっている場所にあったのではないかと説明があった。 芭蕉が「長月六日になれは 伊勢の遷宮おかまんと 又ふねに乗て」と言っている、伊勢に行く時、船に乗った船着場は、銅像から旧国道を渡り50m程下ったところに有ったと言う。 この旧国道は、垂井から大垣市に来るとき歩いてきた道であるが、ここは通らなかった。少し手前で駅の方に入ったようだ。 両側の並木の間、また川面を爽やかな風がそよぎ、真夏の暑さを ひと時忘れさせてくれる。 銅像の前に戻り、<奥の細道むすびの地記念館>に向かう。 記念館の中には芭蕉に関する沢山の資料が展示されている。 説明員が見学客を案内し、資料の説明をしている。 外に出ると夏の日差しは傾いてきている。 観光案内所に顔を出し、先ほどの人達にお礼を言ってホテルに向かう。 ホテルにチェックインをして部屋に入る。 <奥の細道・全行程を歩きとおした>と言う喜び、達成感、感慨はなぜか沸いてこない。 <終わってしまった。明日からは、もう歩く目標がなくなってしまった。>と言う寂しい気持ちの方が強く沸いてくる。 夜、女房に電話をする。無事、大垣に着いたこと、リュックを宅配便で送ること、31日に帰ることを話す。 すすけて薄暗くなった蛍光灯の灯る一軒の食堂でビールを飲みながら、久しぶりにゆっくりと、食事をする。 明日は、大垣に留まり、市内の句碑を巡ろう。 |
おくの細道 |
露通も このみなと迄 出むかひて みのゝ国へと伴ふ 駒を はやめて 大垣の庄に入は 曾良も伊勢より かけ合 越人も馬を とはせて 如行か家に 入集る 前川子 荊口父子 其外 したしき人々 日夜とふらひて ふたたひ蘇生の ものに あふかことく 且よろこひ 且なけきて 旅の ものうさも いまた やまさるに 長月六日になれは 伊勢の遷宮おかまんと 又ふねに乗て 蛤の ふたみに別 行秋そ |
曾良日記 |
一 十四日 快晴。関ヶ原ヲ立。野上ノ宿過テ、右ノ方ヘ切テ、南宮ニ至テ拝ス。不破修理ヲ尋テ 別竜霊社ヘ詣。修理、汚穢有テ別居ノ由ニテ逢不。弟、斉藤右京同道。ソレヨリスグ道ヲ経テ、大垣ニ至ル。弐里半程。如行ヲ尋、留主。息、止テ宿ス。夜ニ入、月見シテアリク。竹戸出逢。清明。 一 十五日 曇。辰ノ中剋、出船。とう山・此筋・千川・暗香ヘノ状残。翁ヘモ残ス。如行ヘ発句ス。竹戸、脇ス。未ノ剋、雨降出ス。申ノ下剋、大智院ニ着。院主、西川ノ神事ニテ留主。夜ニ入テ、小寺氏ヘ行、道ニテ逢テ、其夜、宿。 ○十六日 快晴。森氏、折節入来。病躰談。七ツ過、平右ヘ寄。夜ニ入、小芝母義・彦助入来。道ヨリ帰テ逢テ 玄忠ヘ行、戌刻及。其夜ヨリ薬用。 ○十七日 快晴。 ○十八日 雨降。 ○十九日 天気吉。 ○廿日 同。 ○二十一日 同。 ○二十二日・二十三日 快晴。 二十四日 晴。 ○二十五日 巳下刻ヨリ降ル。 ○二十六日 晴。 二十七・八・九 晴。 九月朔日 晴。 二日 晴。大垣行為。今、申ノ剋ヨリ長禅寺ヘ行テ宿。海蔵寺ニ出会ス。 ○三日 辰ノ剋、立。行乍春老ヘ寄、夕及、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵ヘヲ呼ニ遣セドモ行不 。予ニ先達テ越人着故、コレハ行。 四日 天気吉。源兵ヘ、会ニテ行。 五日 同。 六日 同。辰剋出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上剋、杉江 ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・玄忠由軒来テ翁に遇ス。 |
身も心 無事に踏み入る むすびの地 (遊 旅人) |
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム 大垣市公式ホームページ |