遊 旅人の 旅日記

2003年8月28日(木)曇りのち雨

彦根から関が原へ
AM6:00出発。今日は<関が原>までと距離は短い。
R8の佐和山トンネルを過ぎ
<鳥居本>まで戻り、旧中山道を歩く。鳥居本の宿場の俤を残す町並みを歩く。
宿場町の出口付近には まだ若い松が並木を作っている。十年もすれば立派な松並木になるだろう。


松並木を過ぎ、こつこつと歩いていると一台の乗用車とすれ違う。速度を緩めた車の中から、二人の男達が私の方をを見ている。また道を聞かれるのかもしれないと思いながら歩いていると案の定、車を止め、中年と若い男性二人が下りてきて丁寧な言葉使いで声を掛けてくる。足を止め振り返ると、二人は胸のポケットから警察手帳を取り出して開き、身分証明書のようなものを見せながら、それぞれ「滋賀県警の○○です」と名乗る。
今回は道を聞いてきたのではなかった。
一瞬、事件があり、そのパトロール中に私を見かけ、不審な事や人物を見かけなかったか聞いてきたのかと考える。暫く話をしていたが、実は私を不審者と思ったと打ち明けられる。朝早くから大きなリュックを背負い歩いている姿をみて不審な者と思ったようだ。どうりで車の中から良く見ていたはずだ。最後は笑い話で終わる。
相手は丁寧に「失礼しました。気をつけて行ってください。」と言い、私は「朝早くからご苦労様です。」と言い返し別れる。
最初から最後まで、私を疑い、言動を観察していると言う態度、言葉使いは全く見られなかった。さすがに県警の刑事である。以前どこかで合った、<おい!こら!>式のおまわりさんとは随分違う。


刑事さんたちと別れるとすぐに
<摺針峠>入り口に着く。これから峠越えだと気を引き締めながら、坂道を登り始める。峠と言うよりもちょっとした山への登り道である。彦根市矢倉の旧中山道、摺針峠入り口の石碑
峠の頂上に神社がある。頂上からの下り道には民家が並んでいる。昔は神社の門前町だったのかもしれない。
山間の緑の木々に覆われた気持ちの良い道を歩いてゆくと<道しるべ>がたっている。
<摺針峠・彦根>、左<番場・醒ヶ井>と書いてある。番場・醒ヶ井方面に向かう。
番場の町並の入り口に<番場の宿>の石碑がある。昔の番場は中山道の宿場町の一つであったのだ。
町中を歩いてゆくと、番場の忠太郎はこの町の出身で、墓のあるお寺があるとの案内がある。
番場の忠太郎は物語上の人物と思ったが、モデルとなった人物がいたのかもしれない。
実在の人物であれなかれ、歩いていると、このような話にめぐり合い楽しい。
フッと一軒の大きな家の屋根を見上げると、大きな猿が真っ赤な顔でこちらを見下ろしている。食料を調達しに集落まで下りてきたのであろう。
番場の宿を過ぎ、旧中山道からR21に入る。
樋口、醒ヶ井と歩き、
<柏原>でふたたび旧中山道に入り、中山道・柏原の宿の俤を残す町並みを歩く。
昔の姿を残す家の前には、江戸時代に営まれていた職業が説明されている。一軒一軒見て廻る。


柏原の駅で小休止。遠く関が原方面を見ると、黒い大きな山が見える。その山と山の間に道路と線路が吸い込まれている。空は黒くかすんで道が伸びている山の間も真っ暗である。
駅員に関が原方面の雨の心配を尋ねると、プラットホームまで出て行って関が原方面の空模様を見て来る。大丈夫、雨は降っていないと言う。
駅を後にして町並みを抜け、黒い大きな山に向かいR21を歩く。ずーと、ゆるい上り坂だ。山の間に入ると左右に大きな山が重なっている。滋賀県から岐阜県関が原町の<今須>の宿に入る。


旧中山道、彦根ー番場間、摺針峠にある道標小一時間ほど歩くと
<不破の関>の案内がある。旧道の坂を下り、今度は登ってゆくと右側に<不破の関跡>がある。
芭蕉の
<野ざらし紀行>で詠んだ句「秋風や 藪も畠も 不破の関」の句碑がある。
R21側の不破の関の資料館のある公園で小休止。。
R21を関が原の町中にむかう。大きな関が原の観光案内図がある。
<関が原の戦い>の布陣、町全体に広がっている史跡が書かれている。関が原町は歴史の町である。
機会があったら、じっくりと関が原の戦いを研究してみるのも面白そうだ。

関が原の駅で小休止、出発しようとリュックを背負い始めると、急に土砂降りの雨になる。背負ったリュックを下ろし雨のやむのを待つ。30分ほどで小止みになる。
駅を出て役場に向かう。役場で芭蕉と曾良の足跡について尋ねるが分らなかった。
それも当然である。関が原町は日本の歴史を左右した、合戦の町である。
それでも何か見つかるかもしれないと思い、町中の道から路地を歩いていると、関が原の合戦時の<本多忠勝の陣跡>が、住宅に囲まれた、路地裏の畑の一角にポツンとある。
徳川家康を支えた四天王の一人、本多忠勝の陣がこんな路地裏にと、当時と現在が頭の中で混同し、思わず微笑んでしまう。
関が原の合戦では、東軍(家康軍)の陣形の重要な一翼を担った場所であったに違いない。
関が原の戦いはさておき、今は「奥の細道」である。頭を切り替え宿に向かう。
明日はいよいよ<奥の細道最終地大垣>に入る。
曾良日記
帰テ、摺針ヲ越、関ヶ原ニ至テ宿。夕方、雨止。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム

関が原町公式ホームページ