遊 旅人の 旅日記

2003年8月21日(木)晴れ

福井から武生へ
AM7時出発。今日は武生市まで歩く。
武生までの間には、芭蕉の立ち寄った先、また「奥の細道」の中で詠んでいる句、はない。しかし
「比那か嵩あらはる あさむつの橋をわたりて 玉江の蘆は穂に出けり」と書いている、歌枕の<あさむつの橋><玉江>を探しながら歩こう。<比那が嵩><日野山>と言い、武生市の東南に有り、明日の行程になる。


旧8号を歩き市街を抜ける。真夏の太陽が頭上から照り付けている。
二時間ほど歩くと
<浅水(あそうず)>と言う町名がある。<あそうず>と言う駅もある。すこし行くと<麻生津>と言う小学校がある。
文庫本を開いて<あさむづ橋>の<注>をみると<福井市浅水町の
<浅水川>に架かっている橋>と書かれている。小さな川は2〜3箇所通ってきたが、浅水川と言う川は気がつかなかった。
見落としてしまったかも知れないと思いながら本チェックしていると、あさむづ橋の<注>の隣に
<玉江>の説明がある。<福井市花堂(はなんどう)の虚空蔵川に架かる玉江二の橋がそれと言う>と説明されている。
花堂の地名を地図でよく探してみると、見つかるが、とっくに通りすぎてしまっている。念のためと思い、<菅菰抄>を開く。すると<
玉江のはしは、此順道にて見る時は、あさむづより前に書くべし、福井と麻生津との間に有>と書かれている。「奥の細道」の文の順番は逆だと書いてある。
戻ろうかと思ったがやめる。見つからなくても間違いなく近くを通って来たはずだ、と自分を納得させ、武生に向かい歩き出す。


鯖江市に入ると、浅水川があり、そこに架かっている三六橋と言う橋を渡る。
川は長く流れており、鯖江市に浅水川が流れていても不思議ではないと、当たり前のことを考えながら歩く。
鯖江市を過ぎ武生市に入る。
<紫式部の里>と言う大きなの看板がある。
源氏物語の作者<紫式部>が、父親の藤原為時が、越前の国府があった武生に国守として赴任してきたとき、一年ほど滞在したと言う。生涯でただ一度京の都を離れ暮らした町とのことである。
その紫式部をしのんで、平安時代の雰囲気を持つ、寝殿造りの庭園が造られていると言う。四十一代横綱<千代の山>直筆の額

大きなスーパーマーケットや外食産業の並ぶ華やかな通りから昔ながらの商店街を通り武生駅に向かい歩く。
商店街の後ろには蔵の街が再現されている。良い雰囲気を持つ蔵の町並みである。
武生市も町造り、町の活性化に大変な努力をしている。


今宵の宿の女将さんが、場所が分かりづらいですよ、と言って大通りまで迎えに来てくれる。
確かに分かりづらい場所にあり、また宿の面の構えは普通の民家である。
二階に通されると大きな部屋がある。襖をはずしてしまうと30〜40人が宴会の出来そうな広さになる。
部屋の長押の上に<千代の山>の銘が書かれた大きな古い額がかかっている。お女将さんに尋ねると、昔、横綱の千代の山が書いたものと言う。
大相撲の地方巡業の宿になっていたという。また食事の時など、お相撲さんが30人も集まると二階の床が抜けてしまうのではないかと心配だったと話している。
玄関には、先代の宿のご主人が当時の横綱<千代の山、鏡里、吉葉山>と一緒に写っている写真が掲げられている。
懐かしい横綱の写真である。


夕食は外で食べる。武生は<おろしそば発祥の地>と案内があり、その歴史は400年ほど遡り1,600年頃であるとされている。躊躇なくそば屋に入りおろしそばを食べる。実に美味いそばであった。
夜は、広い部屋で、千代の山、吉葉山、鏡里などの姿を思い浮かべながら眠りに着く。
おくのほそ道
名月は つるかの湊にと旅立 等栽も共に送らんと 裾おかしう からけて 道の枝折(しおり)と うかれ立 漸(ようよう) 白根か嶽 かくれて 比那か嵩あらはる あさむつの橋を わたりて 玉江の芦は穂に出けり
曾良日記
符中ニ至ルトキ、未ノ上刻。小雨ス。即、止。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム

福井市公式ホームページ

越前市公式ホームページ(武生市)