遊 旅人の 旅日記

2003年8月20日(水)晴れ

丸岡町から永平寺経由福井まで
リュックを背負い、フロントに行くと、昨日と同じ元気なおじさんが一人の客と話をしている。
永平寺までの道順を聞く。歩いて行くと言うと二人でびっくりしている。それでも、親切に「丸岡城の横の道を行けばよい」と大雑把に教えてくれる。


AM5:15出発。この丸岡町は、江戸時代の芭蕉研究家であり、<奥の細道菅菰抄(すがごもしょう)>の著者である、蓑笠庵梨一(さりゅうあん りいち)が人生の後半の18年間を過した町である。
丸岡城を見ながら町を抜け、畑の中の道を歩き、福井医科大学の前を通り、左にカーブをすると、突き当たりに
<越前竹人形の里>の看板があり、大きな竹人形が立っている。ここは<竹人形>が特産品である。永平寺正門


山の麓に沿った道が永平寺町に入る。右方向に
<永平寺>まで7.5kmの案内があり、<九頭竜川>を渡る。
朝とはいえ真夏の太陽が照りつける中、すでに10km近く歩いてきた。まだ7kmもあるのかと一瞬がっくりする。
永平寺の町並を通り過ぎると、道が山に向かって、少しづつ登りになる。
新しく出来た道と交差する手前のJAで小休止。水分の補給をする。一息入れた後出発。きれいに整備された道になる。起伏が多くなり、山が迫り、木陰が多くなる。小さな社の石段で小休止。永平寺町に入って随分と歩いてきた。
やがて門前町に到着し、土産物店の並ぶ町並みを通り過ぎると、永平寺の入り口<正門>がある。福井県松岡町天竜寺芭蕉の句碑


今日は正門から入る。永平寺を訪れるのは三回目である。
参拝者の入り口に行くと、拝観料を払うところに三人の案内人がいる。
リュックをロッカーに入れようとするが、大きすぎて入らない。案内をしている人に話すと、親切に事務所入り口の衝立の後ろに置かせてくれる。

拝観料を払い中に入ると静かな落ち着いたお寺の空間が広がる。時間をかけゆっくりと七堂伽藍を巡る参拝順路を歩く。静寂に包まれた雰囲気・空気に浸っていると、心が洗われてゆく。
日本の神社仏閣、キリスト教の教会、イスラム教のモスク、宗教の違いはあれ、いずれをとっても心に安らぎを与え,、気持ちを落ち着かせてくれる場所である。また、その建物様式はいずれも、素晴らしい。
福井県松岡町天竜寺の芭蕉塚
リュックを預けた場所に戻ってきて、案内の人たちと暫く話をする。修行僧の話も聞かせてくれる。
修行のときの履物については、草鞋と地下足袋をTPOに合わせて掃き分ける。地下足袋も金具のついたものや、スパイクの打ってあるものを、歩く場所の状況に合わせて履き分ける、地下足袋は膝の下まである長いものであるという。冬の修行は雪の積もった山中を歩かなければならないから大変だ。
そういえば月山に登ったとき、登山道を整備していた人たちも、雪渓の上で、スパイクを打った長い地下足袋を履いていた。


福井県松岡町天竜寺の芭蕉の像色々な話を聞かせてくれた案内の人たちにお礼を言い、預かってもらったリュックを背負い、爽やかな気持ちになり永平寺を後にする。
「松岡町の
<天竜寺>は、新しい道の手前、遺跡の発掘をしている峠を越してゆくと良い」と教えてくれた。
門前町の蕎麦屋で
<永平寺そば>を食べる。美味い蕎麦である。
今朝、休んだJAの手前、新しい道の手前まで戻る。小休止。
峠を越そうか、下の道を遠回りしようか思案するが、永平寺の人たちが教えてくれた
<越坂峠>を越すことにする。
峠の中腹では遺跡の発掘作業をしている。二本松山古墳と言う遺跡の発掘調査である。
峠は道幅が広く、両側がしっかりとした、苔むした石垣で築かれ、歴史を感じさせる峠道である。
あまりきつくない快適な峠である。内心ホッとする。
下り坂の途中に<この道は永平寺の開祖道元禅師の通った道>と案内がある。やはり歴史のある道であった。
峠を下りきった所の八百屋の店先で、水分の補給をしながら小休止。
店の人に天竜寺の場所を尋ねると、通りまで出てきて教えてくれる。福井市左内公園の<芭蕉宿泊の地・洞哉宅跡>の碑


天竜寺はすぐに見つかる。
境内に入いると、
<芭蕉の句碑><芭蕉塚><筆塚><北枝との別れの像>などがある。
金沢から芭蕉を慕って一緒に歩いてきた
<立花北枝>と、この天竜寺で別れたのである。
庫裡に声を掛けるが誰もいない。やむを得ず勝手にデジカメのシャッターを切っていると、住職が出てくる。
「奥の細道を歩いている者で、写真を撮らせて頂いています。」と話すと、出かける様子だったが庫裡に戻り、冷たい飲み物を持ってきて、本堂に案内をしてくれる。
福井市左内公園<洞哉と左内町>の解説板「私は出かけますが、ここに芭蕉の資料があるから見ていってください。ゆっくりしていってください。」と言い残し、車で出かけてゆく。
ありがたく本堂に上がり、沢山の資料、また芭蕉の像を拝見させていただく。

芭蕉は「曾良日記」に森岡と書いている丸岡からこの松岡の天竜寺に入り、ここから永平寺に向ったのである。
この天竜寺から永平寺に行くとなると、やはり、先程、自分が歩いてきた越坂峠を越したに違いない、と想像をたくましくさせる。


天竜寺を後にして福井市に向かう。10km弱の道程である。真夏の太陽がじりじりと照りつける。水分をいくら補給しても、細胞に吸収されてしまうのか、蒸発してしまうのか、汗となって出てこない。福井市左内公園<芭蕉と月の句>
pm3:30福井駅前の宿に到着。まだ新しいこじんまりとしたホテルである。エアコンが効いていて涼しい。心身ともに生き返った気持ちがする。

リュックを置いて、芭蕉の宿泊した
<等栽>の家があったと言われる<左内公園>に出かける。
宿で場所を聞いており、すぐに見つかる。
園内の一角に
<芭蕉宿泊の地・等栽宅跡>の碑がある。また<等栽と左内町><おくのほそ道図><芭蕉と月の句>の案内・解説板が掲げられている。
碑には<洞哉(等栽)という人は貧しい暮しをしており、芭蕉が訪れたとき枕がなく、寺院の建築現場で木片をもらい芭蕉の枕にした。芭蕉は、その洞哉の人柄が気に入り、二泊した後、連れ立って
<敦賀>に向かった。>と記されている。


福井市左内公園<おくのほそ道の旅>の図「そうか、もう敦賀か」と思い、「おくのほそ道」の全行程図を改めて眺める。
昨夜、女房に、たまたま、あと何日ぐらいかかりそうだというメールを送っている。
この行程図を見て、「すごいな、こんなに歩いてきたのか。」と自分で、改めて感心をし、感慨を深めている。
ここまで
<おくのほそ道の最終地・大垣>を目標にして歩いてきたが、特別、意識して歩いてきた訳ではない。
毎日毎日、一日一日少しずつ、行程を歩いてきただけである。
その小さな一歩一歩の積み重ねが最終地を近づけているのである。
<千里の道も一歩から♪>だ。水前寺清子の<365歩のマーチ>のメロディーが頭に浮かんでくる。
少しづつでも着実な歩みがゴールへと結びつくのである。少しでも前に進めばゴールは近くなる。一歩を踏み出さなければ何事も始まらない。一歩前に進むことが大切なんだなどと、この年になって、今更と思いながらも<一歩>の重みを感じているのである。
今日は、大垣まで、どのくらいの日数で到着するか、改めて検討してみよう。
最後まで慎重に、心して歩かなければいけないと気を引き締める。
西に傾いた真夏の太陽を背に、宿に向かう。
おくのほそ道
丸岡天竜寺の長老 古き因あれは 尋ぬ 又金沢の北枝と云もの かりそめに見送りて 此処まて したひ来ル 所々の風景過さす おもひつゝけて 折節 あはれなる作意なと 聞ゆ 今既 別に望みて
      
物書て 扇引割 名残哉
五十丁 山に入りて 永平寺を礼す 道元禅師の御寺也 邦機千里を避て かゝる山陰に跡を残し給ふも貴き故 有とかや 福井は三里計なれは 夕飯したためて出るに たそかれの道 たとたとし ここに等栽と云 古き隠子有 いつれの年にや 江戸に来りて 予を尋 遙 十とせ余也 いかに老さらほひて有にや 将(はた) 死けるにや と人に尋侍れは いまた存命して そこそこと をしゆ 市中ひそかに引入て あやしの小家に 夕顔 へちまのはかゝり 鶏頭 はゝ木ゝに 戸ほそを かくす さては 此うちにこそと 門をたたけは 侘しけなる女の出て いつくより わたり給ふ道心の御坊にや あるしは このあたり何某と云ものゝ方に行ぬ もし用あらは尋給へと云 かれか妻なるへしとしらる むかし 物かたりにこそ かゝる風情は侍れと やかて尋あひて 其家に二夜とまりて・・・  
曾良日記
一 八日 快晴。 森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方二十丁計ニ道明寺村有。少南ニ三国海道有。ソレヲ福井ノ方ヘ十丁程往テ、新田塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三、四丁西也。新田塚ヨリ福井、二十丁計有。巳ノ刻前ニ福井ヘ出ヅ。
         木洩れ日や 鐘板ひびく 杉木立

    静かさや 僧歩みゆく 衣(きぬ)の音
    
  (遊 旅人)
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム

永平寺町ガイド

福井市公式ホームページ