遊 旅人の 旅日記
金沢から小松へ |
AM5:10出発。少し早めの出発である。今日は、芭蕉が思いを深めた<小松>まで歩く。 むっとする空気が漂っているビル街を小松、福井方面に向かって歩き出す。今日は暑くなりそうだ。 <野々市>でR8と合流する。朝の空気が少し爽やかになってきた。 松任市に入り24時間営業の大手スーパーで小休止。 最近では,、地方の都市近郊で、大規模複合ショッピングセンターをよく見掛ける。ここもその大規模複合ショッピングセンターの一つである。その中のスーパーマーケットは24時間営業である。 9時を過ぎると猛烈に暑くなってくる。 R8は盛土をして造成されており、両側に側道がある。北側の法面は比較的太陽に照らされている面積が少ない。少しでも太陽の熱を避けるため北側の側道を歩く。 10:40吉田村史跡公園と言う小さな公園で小休止。水分を補給する。 ふたたび真夏の太陽の照りつける、田園風景の中を歩き始る。 PM1:30小松駅に到着。まだ新しい立派な駅である。 宿に電話をすると、すぐ近くである。まだ少し早いが、宿に向かう。宿に到着すると部屋に案内してくれる。 宿の主人に、「芭蕉の足跡を訪ねたい」と話すと、芭蕉のことは詳しく知らないがと言って、小松市内の観光地図で句碑のある場所などを教えてくれる。 芦城公園、丸の内公園町に向かう。この一角には市役所もある。今日は土曜日で市役所は休み。 宿、駅、市役所の位置関係を確かめながら歩く。 町の中は古い町らしく細い道が幾通りも通っている。 道で出会った人に<建聖寺>の場所を聞くと「後ろに小学校があり、木の見えるお寺」と教えてくれる。 教えられた方向に歩いてゆくと木の生えている家は随所に見られる。後ろに小学校があると言われても前に大きな建物があればわからない。 何とか迷わないで見つかる。 門前に説明板がある、この<建聖寺>は芭蕉が小松に来て滞在した場所のひとつであり、小松市指定文化財になっている<立花北枝>作の<芭蕉の木像>があると書かれている。 門を入り庫裡に声を掛けると若い男性が出てくる。ご住職は外出中と言う。「<奥の細道>の芭蕉の足跡を訪ねて歩いている」と言うと本堂に通される。 芭蕉は小松に来て、この寺に一時滞在したと言う話を聞かせてくれる。また<芭蕉の木像>を持ってきて見せてくれる。高さ18cmの木像の姿である。金沢の俳人であり刀研師である、蕉門十哲の一人の<立花北枝>の作と言う。およそ300年前に彫られた像である。 芭蕉ゆかりの地に石やコンクリートまた銅像は見かけるが、300年も前に彫られた木像を見るのは初めてである。 このような貴重なものは、実際に歩いて訊ねてみないと見ることは出来ないと思う。感激をし暫く言葉を失い木像を見つめてしまう。 暫くたって、写真を撮らせて欲しいと、お願いをすると、快く許可してくれる。ありがたく木像をデジカメに収める。 しばし「奥の細道」を歩いて旅をしている話をする。そして感心をされる。 本堂を辞し境内の芭蕉の句碑を見て、門を出、改めて説明を読んでいると、このお寺の奥さんらしい人が帰ってくる。会釈をし挨拶をすると「ごくろうさまです。」と挨拶が返ってくる。 次に、通りを曲がり折れして歩いて行くと<日吉神社>に行き着く。町名が<本折町>と言う。町を歩いてきた道の状況を振り返ると、ぴったりの町名だなどと考えている。 この神社も横の入り口からはいる。 芭蕉が訪れた頃、この日吉神社の神官は、俳人の<藤村伊豆守章重>が務めており、その藤村伊豆の屋敷で句会「山王句会」が催された。その時の発句が「しほらしき 名や小松吹 萩薄(はぎ すすき)」である。その句碑が境内にある。 句碑の前には<芭蕉留杖の地>の円柱の石碑が建てられている。 さらに民家の町並みを辿ってゆくと上本折町に<多太神社>がある。この神社には木曾義仲軍に討たれた<斉藤実盛の甲>また<錦の切(帷子)>があり、国の文化財に指定されているという。 参道には甲の像があり、また芭蕉の像もある。 芭蕉像の台座には、芭蕉が小松を立つとき奉納した句、「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」の句が刻まれている。 この句は、芭蕉が、この神社に奉納されている実盛の甲を見て、斉藤実盛と木曾義仲の間の悲しい出来事、数奇な出会いに心を痛め読んだ句である。 芭蕉は、この小松で俳句愛好家達に引き止められ、三泊したのち、山中に向かう。山中に八日したのち、<生駒万子>に会うため、小松まで戻って来ている。そして大聖寺に向かうのである。当時、小松には、俳句の愛好家が数多くいたようである。 |
奥の細道 |
小松と云処にて しほらしき 名や小松吹 萩薄(はぎ すすき) 此所太田の神社に詣 斉藤別当真盛(実盛)か 甲錦の切あり 其昔 源氏に属せし時 義朝公より給はらせ給ふとかや けにも平士のものに あらす 目庇より 吹返しまて 菊から草の ほりもの 金を ちりはめ竜頭に鍬形打たり 真盛射死の後 木曾義仲 願状にそへて 此社に こめられ侍るよし 樋口の次郎か 使せし事共 まのあたり 縁記に見えたり むさむやな(むざんやな)甲の下の きりきりす |
曾良日記 |
一 二十四日 快晴 金沢ヲ立。 小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。 餅・酒等持参。申ノ上剋、小松ニ着。竹意同道故、近江ヤト云ニ宿ス。北枝之随。夜中、雨降ル。 一 二十五日 快晴。小松立欲、所衆聞テ北枝留以。立松寺ヘ移ル。多田八幡ヘ詣デゝ、真盛が甲冑・木曾願書 ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅ヘ行。会有。終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。 一 二十六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生方ヘ招被。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終テ 帰ル。庚申也。 一 二十七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志格等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚 持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真盛が句也。予・北枝之随。 |
おやすみ処 |
斉藤実盛 越前丸岡の生まれ。 当初、源義朝や源義賢に仕える。義賢は義朝の子・義平に討たれるが、義賢の子・<駒王丸>は。実盛に助けだされ、木曾山中の中原兼造の元に送られる。駒王丸は木曾山中で育ち、後<木曾義仲>となる。 実盛は義朝の武将として保元・平治の乱を戦うが、義朝が滅びた後は平治に仕える。 義朝の子・頼朝が挙兵しても平治に留まり、平維盛の後見役として仕える。 維盛は倶利伽羅峠の合戦で義仲軍に敗れてしまう。実盛は京に敗走の途中、加賀の国<篠原の戦い>で義仲の武将<手塚光盛>に討ち取られる。 このとき実盛は、自分が救った義仲と戦わなければならない運命に心を痛め、白髪を黒く染め戦に臨んだのである。 義仲は<篠原の戦い>で、討ち取った相手の武将が<斉藤実盛>であったと聞き、首実験の首を洗ってみる。すると黒い髪が白髪に変り、実盛の顔が出て来る。 義仲は自分の命の恩人の首を討ち取ったことを嘆き悲しみ、この多太神社に、供養と戦勝を祈願して、<実盛の甲と帷子>を奉納したのである。 「実盛」は謡曲にも謡われている。 |
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