遊 旅人の 旅日記
金沢市滞在 |
ホテルで朝食を済ませ、AM8:15 市役所に向かう。 R157を歩き、町の中心<香林坊>交差点を<兼六園>方向に曲がると、左手に石川県庁、右手に金沢市役所がある。 まだ始業前である。庁舎の前のベンチで始業を待つ。職員が次から次へと出勤してくる。 始業と同時に教育委員会に行く。突然行ったにもかかわらず、親切に対応してくれる。文化財保護課に案内され、芭蕉に関する色々な資料を持ってきて説明をしてくれる。 市内にある芭蕉の句碑等は、観光交流課の担当と言うことで担当課に案内され、担当者を紹介してくれる。 ここでも親切、丁寧に教えてくれる。句碑設置の状況・調査の話があり、それらを紹介したパンフレット「文化のこみち」は今、作り変えの最中で、新しいパンフレットは9月に出来上がる予定と言う。 芭蕉が金沢に留まった状況、句碑のある場所等を地図で詳しく説明してくれる。 朝、始業直後の忙しい時間帯にもかかわらず、金沢での芭蕉の足跡について多くのことを教えてもらった。丁重にお礼を述べ市役所を後にする。 金沢での芭蕉の足跡を訊ねる意義は終わってしまったような気分になる。 心身ともにすっきりした気分になり市役所を後にする。 香林坊から<犀川>方面に向かってR157を歩いて行くと、片町交差点がある。角に北国銀行がある この北国銀行の前に<芭蕉の辻>の石碑がある。芭蕉の宿泊した<宮竹や喜左衛門宅>跡である。 芭蕉が金沢に来て会うことを楽しみにしていた加賀の俳人<小杉一笑>の家は、その向側あたりにあったと言われたが判らない。 犀川に向かい<犀川大橋>を渡り左堤防沿いに歩くと句碑が在る。 ここは「奥の細道」にある「ある草庵にいざなはれて」、また曾良が「庵ニテ一泉饗」と言っている<松玄(幻)庵> のあったところであろうか、定かではない。 河畔から町並みに向かい坂を上ってゆくと<成学寺>がある。 「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」 の句碑が在る。 次に<本長寺>に行く。 「春もやゝ けしき調ふ 月と梅」 の句碑がある。 さらに民芸品、お土産物店の並ぶ通りを歩き<願念寺>をめざす。この願念寺が見つからなかった。 観光客で賑わっている、民芸品のお土産物店で訊ねると、<妙立寺>というお寺の後ろにあり、妙立寺の境内を通って行けると云う。参拝客、観光客のにぎわう妙立寺の境内を 通り抜けると<願念寺>がある。 このお寺は、蕉門の俳人<小杉一笑>の菩提寺であり<一笑塚>がある。 芭蕉は金沢を訪れ、一笑に会うのを楽しみにしていたのであるが、前年の霜月六日に亡くなってしまったと聞かされひどく落胆する。 <一笑の兄のベッ松>は芭蕉が金沢を立つ前々日の7月22日に、この願念寺で追善の句会を開く。 その句会で読んだ句 「塚もうこけ 我泣声は 秋の風」 の碑がある。 一箇所で あまりゆっくりとしていると今日一日で金沢を廻りきれなくなる。 ふたたび香林坊に戻り、県庁と市役所の間の道を兼六園方向に歩く。 兼六園は観光客であふれている。 兼六園の中にあるという句碑には行かない。 金沢城と兼六園の間の道を歩く。駐車場に入る車が渋滞している。ものすごい人と車の波である。 周りの景色、状況をきょろきょろと見ながら歩いていると、車から、また歩いている観光客から道を尋ねられる。「私も観光客だから判らない」と言って断る。また道を聞かれてしまった。 <石川門>の下を通り、坂を下ったところの変則的な交差点を左に曲がり、検察庁の横を通り過ぎると、大きな通りと合流する。すぐに橋にぶつかる。浅野川にかかる浅野川大橋である。 芭蕉が金沢について最初の宿<京や吉兵衛>はこの辺りにあった、と言うから橋の手前左側の公園のようなところを歩いてみたがそれらしいものは見あたらない。 近くにある久保市乙剣宮を目指す。神社に行くのではなく、神社の隣にあるという<研屋彦三郎宅跡>に行くのである。 研屋彦三郎とは、曾良日記に「竹雀・一笑へ通ズ、良(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。」とある牧童<立花北枝(刀研師であり蕉門十哲の一人)の兄>のことである。こちらはすぐに見つかる。 市役所の人は、曾良日記に出てくる<源意庵>もこのあたりにあったのではないかといっていた。 浅野川大橋に戻り、橋を渡り、<宝泉寺>に向かう。 途中、昔ながらの街並みを再現している、<ひがし茶屋>街を通る。風情のある良い町並みである。 茶屋町を通り抜け高台に向かい坂道を登ってゆくと<宝泉寺>がある。この境内からは金沢の町全体が見渡せる絶景の場所である。高台を下り、ふたたび茶屋町を通り、R159に出て、羽咋方面に1kmほど歩くと<小阪神社>の案内がある。この神社には、<芭蕉翁巡錫の地>の石碑がある。 時計を見るとすでに三時30分である。思わず時間を費やしてしまった。 芭蕉が足を伸ばした、<宮ノ越>は、今の金沢市金石町あたりと言う。現在、<本龍寺>と言うお寺に句碑が在るという。海岸近くであり、ここから6km程の距離がある。行って帰ってくると三時間近くかかる。行くのをあきらめる。 全体的に、少しゆっくりとしすぎた。市役所で紹介されたところすべてを一日で巡るのは私にとって無理であった。 芭蕉の句碑のうちでも、兼六園内、また金石町など5箇所程は行かなかった。 しかし願念寺、芭蕉の辻、研屋彦三郎宅跡等の足跡を訪ねた金沢での一日は充実したものであった。 親切に芭蕉の足跡を教えてくれた、市役所の皆さんに感謝をしながら帰路に着く。 ホテルに戻り、コインランドリーに行く。 金沢は伝統を守り、古いものを大事にしながら、新しいものを取り入れ 発展してゆく町、温故知新の気持ちが伝わってくる良い町である。 |
奥の細道 |
ここに大阪より かよふ商人 何処(かしょ)と云ものあり それか旅宿を ともにす 一笑と云ものは 此道に すける名の ほのほの聞へて 世に知人も侍しに 去年の冬 早世したりとて 其兄 追善を催スに 塚も うこけ 我泣声は 秋の風 ある草庵に いさなはれて 秋すゝし 手毎にむけや 瓜天茄 途中吟 あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風 幸 |
曾良日記 |
京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ、良(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。 一 十六日 快晴。巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町、宮竹や喜左衛門方ヘ移ル。段々各来ル。謁 ス。 一 十七日 快晴。翁、源意庵ヘ遊。予、病気故、随不。今夜、丑ノ比ヨリ雨強降テ、曉止。 一 十八日 快晴。 一 十九日 快晴。各来。 一 廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。 一 二十一日 快晴。 高徹ニ逢、薬ヲ乞。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。十徳二ツ。十六四。 一 二十二日 快晴。高徹見廻。亦、薬請。此日、一笑追善会、於□□寺興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気 故、未ノ刻ヨリ行。暮過,各ニ先達テ帰。亭主ベッ松。 一 二十三日 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、行不。江戸ヘノ状認。鯉市・田平・川源等 ヘ也。徹ヨリ薬請。以上六帖也。今宵、牧童・紅爾等滞留願。 |
おやすみ処 |
一笑(小杉一笑) 江戸初期、金沢の片町で茶屋を営んでおり、通称・茶屋新七と言われる。俳人・松永貞徳を祖とする貞門派で活躍をするが、後に芭蕉の蕉門に移り、加賀俳壇の有力者として世に知られる。芭蕉の来訪を待たず元禄元年十一月六日没す。 立花北枝 研師を業とした。芭蕉が金沢来訪時、兄の牧童(研屋彦三郎)とともに入門。後に加賀蕉門の中心的存在となり、蕉門十哲の一人と言われる。 |
友禅の 心つたえる 人と町 (遊 旅人) |
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