遊 旅人の 旅日記

2003年7月8日(火)雨

鳴子温泉から最上町赤倉温泉へ
AM5:20出発。右足の脛の痛みは多少あるものの歩くのに支障はない。
今日も本降りの雨が地表に降り注いでいる。最近では、多少の雨では歩くのに問題はない。


鳴子町の温泉街を歩く。役場を通り過ぎ、鳴子温泉駅を過ぎ少し行くと、R47のバイパスと合流する。道が少しづつ上り坂になっている。カーブした所に橋が架かっており、橋の手前左、川に下りてゆく道がある。
<鳴子峡入り口>の案内がある。橋を渡った所にも案内板があり、こちらは鳴子峡の遊歩道が書かれている。今日は鳴子峡を歩いて楽しむ余裕はない。


橋を渡って少し行くと、道の右側に
<尿前の関(しとまえ)>標柱が建っている。ちょうど勾配のきつい坂道がカーブしている所である。
雨が降っていて、見通しが悪いため、注意をして道を渡る。幸い早朝のため車の通りは少ない。
案内に従い道を下ってゆく。高い木々に覆われており、また雨が降っているため、夜のように暗い道だ。「昼なお暗き杉の並木」そのものである。右側柵の中に
<尿前の関>がある。関所の規模としてはかなり大きい。
敷地は雨でぬかるんでいる。靴を半分ぬかるみにとられながら奥に歩いてゆくと、芭蕉の像や、<尿前の関>の説明板がある。
関所入り口(門)の向かい側には出羽街道・中山越の石柱、また説明板と地図がある。出羽街道は暗い杉の林の中に伸びており、その道を入ってゆくと、芭蕉の句碑の標柱がありその奥に句碑が建っている。


曾良は日記に
「川向ニ鳴子ノ湯有。」と書いている。芭蕉達は鳴子温泉には寄らないで、川(江合川)をはさんで対岸(北側)を通っていた出羽街道を歩いて、この<尿前の関>に至ったのである。
また芭蕉は、この関を越す様子を
「なるこの湯より 尿前の関にかゝりて 出羽の国に 越むとす 此道 旅人稀なる処なれは 関守に あやしめられて 漸にして関をこす」と「奥の細道」に書いている。当時、この出羽街道は伊達藩から出羽の国に通じる主要な道であり、また<尿前の関>は伊達藩に出入国する人・物を取り調べるための重要な関所であったのである。
芭蕉は伊達藩から出国するための手形を持っていなく、色々と詮索され、通過するのに難儀をしたのだ。
主要な街道といっても、今見ることの出来る保存されている街道は、「昼なお暗き杉の並木」に囲まれた、<けもの道>に毛の生えたような道である。当時の街道の様子も、現在 見られる状態と大きな違いは無かったであろう。
昔の人達は、過酷な道を旅して歩いたものである。
R47に戻りカーブの坂道を上ってゆくと、道路の右側に<尿前の関>の大きな標柱があり、駐車スペースが設けられている。


トンネルを過ぎると、駐車場、土産物屋が並んでいる。さらに歩いてゆくと、鳴子峡を渡る橋がある。川面からどのくらいの高さがあるだろうか、すばらしく高く、眺めの良い橋である。鳴子峡が一望できる。橋を渡ると、大きな駐車場とレストハウスがある。展望台まで行き、今度は今渡ってきた、橋のほうの景色を眺める。すばらしい眺めだ。雨に煙った緑の景色も幻想的で良いが、秋の紅葉の鳴子峡の眺めは、もっとすばらしいに違いない。渓谷を散策する遊歩道に下りてゆく道がある。今日は、上から眺めるだけで我慢をする。しばし景色を堪能し、鳴子峡を後にする。



「尿前の関」入り口



「尿前の関」の芭蕉像



「尿前の関」向かい側に伸びる出羽街道



「尿前の関」出羽街道芭蕉句碑





鳴子峡レストハウス展望台からR47の橋を見る




鳴子峡




鳴子峡




中山平・中山越え出羽街道




中山平・出羽街道、中山越え




封人の家(旧有路家住宅)
道が平坦になる。山々に囲まれ、雨に煙る田圃、畑の景色の中を、順調に歩く。のどかな風景だ。中山平である。
所々に家が見られるようになると、その家ゝから蒸気が噴出している。
<中山平温泉>である。あっちこっちの家から、もうもうと温泉の蒸気が噴出している。相当 温泉の湧出量が大いに違いない。その吹き上がる温泉を見ながら歩いていると、<出羽街道・奥の細道>の案内がある。案内に従いR47からはずれ、坂道を登ってゆくと、道路脇に<出羽街道・奥の細道>の標柱がある。やはり木々に覆われた暗い林の中に、急な下り坂の出羽街道がある。
R47に戻り歩いていると、今度は急な山の斜面を下りてくる<出羽街道・奥の細道>がでてくる。この道は階段状に踏み固められており、一段一段細い丸太で滑り止めがされている。


中山平温泉を過ぎてしばらく行くと、高い所を線路が横切っている。随分高い所を通っている鉄道だと思いながら歩いていると、道が上り坂になる。
<中山峠>である。芭蕉が「大山を のほって日既暮・・・」と書いている、この大山とは、この中山峠のことと言う。
出羽街道の この鳴子から中山峠の区間は大変な難所であったといわれるが、時々出会った出羽街道を見れば成程とうなづける。


宮城県から山形県最上町に入る。
道路の上に温度計が掲げられてあり、気温13度と表示されている。リュックを背負って歩いているから寒さは感じない。
峠 と言うから、長い上り坂を登りきると 次は下り坂になると、無意識に期待をしていたが、ここでは、上りきった所は、平坦な土地で、民家が並んでいる。そしてそこに
<封人の家>があった。
奥の細道に
「封人の家を見かけて舎りを求ム 三日風ー雨あれて よしなき山中に逗留す」とあり、また曾良が「十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿 (和泉庄や、新右衛門兄也)」といっている家である。


まだ9時前である。
<封人の家>は、まだ開いていなく、また工事中のため、足場が組んであり、一部工事用シートで覆われており、見学することは出来ない。前にあるレストラン兼土産物屋も開いていない。
やはり開いていない農産物・特産物直売所のような店先で、リュックを下ろし、休ませてもらう。ウィークデイでもあり、雨も降っている。まだ人影は全く見当たらない。観光バスが来て、ちょっと止まったが、すぐに行ってしまった。


身体が急激に冷えだし、寒くなる。今日は、念のためと思い、長袖を着てきたが、それでも寒くなってきた。簡易型のレインコートを思い出し、それを着る。そして再び歩き出す。
川沿いの道になり、雨風とも強くなってくる。大型トラックが猛スピードで走っている。トラックの運転手から見れば、交通量が少なく見通しが良いため、距離と時間を稼ぐちょうど良い区間なのかもしれない。


しばらくトラックの風圧に耐えながら歩いてゆくと、左方面、尾花沢の標識が出てくる。
今日の宿、赤倉、また
<山刀伐峠(なたぎりとうげ)>は同じ方向だ。尾花沢方面、左に曲がり橋を渡らなければならない。
今日もかなり雨風が強い。「大きな橋を渡る時になると、どうして雨風が強くなるのだろう」と考えてしまう。橋にアレルギーを感じているのである。
しかし渡らないことには先に行けない。意を決して渡る。石巻で北上川を渡ったときほどではなかったが、やはり風で傘を何度も飛ばされそうになる。渡り終わってホッとする。


道の両側にまだ新しい、いくつかの工場が建ち並んでいる。工場団地を過ぎ、スキー場の看板などを見ながらしばらく歩くと、赤倉温泉の案内がある。今まで歩いてきた主要道路から別れ、旧道のような道に入って行く。今夜泊まる宿が見つかるが、まだ12時前である。


宿に声を掛けると、快く迎え入れられ、部屋に通してくれる。
濡れた衣類をすべて取り替え、昼飯をと思い、宿の人に尋ねると、ちょうど出前に来ていた蕎麦屋さんが、車で自分の店に連れて行ってくれる。
車に乗ったのは45〜6日振りである。
頭の中で<この旅で車に乗ってしまってよかったのだろうか>と、しきりに考えている。
店の蕎麦は、お世辞抜きに美味かった。


宿に帰ると、若旦那が、「風呂はいつでも入れる、濡れた衣類を洗濯するから全部出してくれ」と云う。遠慮をしたが、結局、濡れたもの全部洗濯をしてもらった。大助かりだ。

風呂は温泉である。風呂から上がり、部屋でストーブをつけ、今日一日の整理をする。
右足の脛は大分よくなっている。今日は全く痛みを感じなかった。温泉が効いたのかもしれない。明日は
<山刀伐峠>越だ。気をつけて山登りをしよう。


夕食でも、この上なく歓待して頂いた。
「今日、主人が釣ってきた魚です」「この土地の名物です」「今日採って来た山菜です」「ここで作っている果物です」などといいながら、次々と料理が運ばれてくる。普通の旅館では、出てこない料理がどんどん出されてくる。畳一畳ほどの食卓が一杯になってしまった。とても食べきれないと思ったが、すっかり平らげてしまった。
感謝感激である。明日からまた頑張ろうと活力が沸く。

おくの細道
なるこの湯より 尿前の関にかゝりて 出羽の国に越むとす 此道 旅人稀なる処なれは 関守に あやしめられて 漸にして 関をこす 大山を のほって 日既暮けれは 封人の家を見かけて 舎リを求ム 三日風ー雨あれて よしなき山中に逗留す
      
蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕もと
曾良日記
壱リ半尿前。シトマヘゝ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意之有可也。壱リ半中山。
○堺田(村山郡小田島庄小国之内)。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五、六丁先ニ堺杭有。
○十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿(和泉庄や、新右衛門兄也)。
よりみち
尿前の関(しとまえのせき) 「義経記」に兄、頼朝の怒りを買い、追われる身となった義経は、身重の<北の方>や家来一行と、北陸・越後を通り、出羽の国に入る。<鼠ヶ関>から庄内を経、最上川を遡り、<本合海>から亀割峠に差し掛かかった。その時、北の方が急に産気付き、<亀若丸>を出産する。今その場所には亀割子安観音が祀られていると云う。瀬見には温泉があり、弁慶が発見したといわれている。<瀬見温泉>周辺には、小国川に架かる義経大橋また弁慶大橋など、義経にまつわる地名や史跡が多いという。
義経一行は、出羽街道をさらに東に向かう。そして
<亀若丸>が初めて尿をしたところが この<尿前(しとまえ)>の地であり、地名の由来になったと言い伝えられている。
<尿前の関>は伊達藩の管轄下にあり、人・物の出入が厳しく取り締まられた。
伊達藩の記録によると、他領に出ることを禁じたものとして、錫、貴金属類、兵器、雉以外の鳥類などであり、女性の出国は厳しく制限されていた。他領から入ることを禁じていたものは、米、大豆、穀類、塩であったと記されているという。
ただ、このような取締りは、絶対に禁止された、というものではなく、許可を得れば、通過の許可が得られたようである。
関の役割としては、今で言う、税関、出入国検査、国境警備、警察機能を兼ね備えたものであったのであろう。


封人の家 (旧有路家住宅) 芭蕉達が、出羽街道の難所の中山越を果たし、堺田にたどり着き、宿を求めた所である。
当時、代々 庄屋を勤めた由緒ある家柄と言われる大きな家である。人の生活する、座敷、板の間、土間があり、土間には竈・水屋がある。その横、板の間と向かい合った所に厩がある。 人も馬も対等に同じ屋根の下に暮らしていた様子がわかる。
おやすみ処
鳴子・鬼首(おにこうべ)温泉郷  鳴子、東鳴子、川渡(かわたび)、中山平、鬼首の五つの温泉地からなる。承和4年(837)胡桃岳の火山の噴火によりできたといわれる東北地方屈指の温泉郷である。鬼首温泉には、高さ15mにも吹き上げる、間欠泉がある。
<鳴子峡> 鳴子から中山平の間にある大谷川の渓谷。大谷川の激しい流れに侵食された断崖に、全長3kmに渡って遊歩道が続く。初夏の新緑、秋の紅葉には絶景が見られる。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

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