遊 旅人の 旅日記
鶴岡から温海へ |
朝、目を覚ました時、激しく降っていた雨も、出発のAM 5:15には小降りになる。 ホテルで大山に行く道順を教えてもらう。 大型の飲食店や娯楽店舗が並んでいる県道332を温海方面に向かう。県道47と交差する。そこを右折しR7を横切り、さらに線路を越してしばらく行くと大山の地名がある。 <大山>に来たは良いが<丸や義左衛門>の屋敷跡など全くあてが無い。尋ねようにも、朝 早いため家々は閉まっている、歩いている人もいない。 静かな大山の家並みをしばらく歩いてみるが、見当たらなく、あきらめる。 芭蕉の宿泊した<大山>に来ただけでも良いではないかと自分を納得させる。 県道336を由良方面に向かう。畑、小山の緑に囲まれた道をしばらく歩くとR7と合流する。遠くに見える山々が、麓に白い雲をなびかせ、曇り空の中に、くっきりと青紫色の姿を見せている。すがすがしい風景だ。 バス停で休んでいると、70才位のおばあさんが来て話を始める。 芭蕉の「奥の細道」を歩いていると話すとびっくりしていたが、その人は3年前まで東京の品川に住んでいたが、定年退職したご主人が脳梗塞で倒れ、それを機会に、故郷の鶴岡に帰ってきたという。 鶴岡市内までは、バスが一時間に一本しかなく、交通は不便だが住めば都と言っている。 定年後帰ってゆく田舎のある人は幸せだ。しばらく定年後の話、田舎暮らしの話をして分かれる。 由良峠を下って行くと右側に海が見えてくる。 <三瀬>を過ぎ海岸沿いの道に出る。<小波渡(コバト)>に入り旧道を歩くと<オミジャ>と言う霊泉がある。この霊泉は、<奥州信夫郡の佐藤庄司基晴が義経を慕い北陸道を歩いて来たが、この地で病に倒れてしまった。同道していた孫の信道が、基晴の遺命により、この霊泉を礎に小波渡村を開村した>と説明されている。 <堅苔沢(かたのりざわ)>に入ると、<奥の細道・鬼かけ橋>の標柱、<奥の細道・堅苔沢>の看板がある。これらの地名・名称は曾良日記にも出てくる。 波渡崎を過ぎしばらく歩くと、<温海町>に入る。五十川(いらかわ)駅の駐車場で小休止。駅といっても駅舎が無い。地下道がありプラットホームに直接出るようだ。今や鉄道の駅の形も様々だ。 R7は海岸に沿って走っている。海の上を通っているところもある。<塩俵岩>と言う注連縄がかかっている岩がある。 小さな公園があり、大きな芭蕉の句碑がある。「あつみ山や 吹浦かけて 夕すゞみ」の句が書かれている。 <芭蕉遺跡 温海>の案内板があり、<温海に着いたのは、・・・鈴木惣左衛門宅に旅装をといた。その家は浜温海の旧国道筋で。○○宅の祖先に当たる。>と説明されている。 温海の町に向かって歩いてゆくと、海の中に背の高いとがった岩が見える。<暮坪の立岩>と言う。先ほどの塩俵岩といい、この暮坪の立岩といい、素晴らしい自然の造形美である。曾良日記の中にも「色々ノ岩組景地有」と言う文章が見られる。 <鮭と佐渡の見える町>という標語が掲げられた看板がみえる。佐渡が見える所まで来たのかと感慨を深くする。 温海の町の近くまで来ると、旧道が左に分かれている。旧道の町並みを歩いてゆくと左側に<鈴木惣左衛門屋敷跡>の標柱が立っている。今でも子孫が住んでいると先ほどの<芭蕉遺跡>の案内板に書かれていた。 雨が降り出す。降り出すといってもいっぺんにバケツの水をひっくり返したような降り方である。温海温泉駅に飛び込み、小降りになるのを待つ。10分ほどで小降りになる。再び歩き出すと今宵の宿は駅のすぐそばである。 昨日、宿泊の予約の電話をしたとき、温泉ではないが良いかと聞かれる。温海と言うと温泉で有名な町だ。宿泊の予約をしてくる客の多くが、温泉と思って問い合わせをしてくるようだ。 PM4:30 宿に到着。元気の良い女将さんが迎えてくれる。洗濯物があったら出してくださいといわれるが鄭重にお断りをする。 リュックの中身を取り出し整理していると、風呂の案内をしてくれる。 風呂から あがってくると別の部屋に夕食の用意がされている。 大きなテーブルに料理が目一杯並んでいる。大きな旅館と違って、皆 今出来上がったばかりの料理である。ありがたい。 ご飯は要らないというと、うちのお米は日本一の農家が作ったお米だから是非食べて欲しいという。女将の知り合いの農家で、全国のお米の品評会で、日本一になった農家の米だという。ありがたくご馳走になる。本当に美味いご飯だった。明日の朝のおにぎりも作ってくれるという。 心温まる、安らげる宿である。心身ともに満足して床に就く。 明日はいよいよ、東北地方と別れ新潟県に入る。 山形県に入ったのは7月8日だから足掛け19日間山形県を歩いたことになる。芭蕉は42日間かけている。芭蕉にとって「奥の細道」とは山形県を歩く事であったとも思える。 |
曾良日記 |
○二十六日 晴。 大山ヲ立。酒田ヨリ浜中ヘ五リ近し。浜中ヨリ大山ヘ三リ近し。大山ヨリ三瀬ヘ三里十六丁、難所也。三瀬ヨリ温海ヘ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有。未ノ剋、温海ニ着。鈴木所左衛門宅ニ宿。弥三良添状有。少手前ヨリ雨ス。暮及、大雨。夜中、止不。 |
よりみち |
旅の途中でパソコンから消えてしまった画像を取り直しに行った2004年夏、気になっていた<大山>に行って見る。町の様子は、一度歩いているため、おおよその地理は解る。駐在所、公民館と尋ね歩き、<丸や>と言う古い醤油屋さんにたどり着き、奥さんから芭蕉の泊まった宿について話を聞く。 当時<丸や>と言う家は、ニ軒あり、はっきりとした史実はないが、芭蕉の泊まった家はもう一軒の<丸や>さんです。そちらの<丸や>さんが、芭蕉が泊まった言い伝えがあると言っていたという。今は、その<丸や>さんはなくなってしまっている。 昔から芭蕉を訪ねて多くの人が、現存するこちらの<丸や>さんを、訪ねてくると言う。 双方の菩提寺の勝安寺が近くにあるといわれ尋ねて行く。 お寺が3軒並んでいる。通り沿いの豆腐やさんで、勝安寺を教えてもらい、訪問する。 住職の奥さんが出てきて住職は出かけているから詳しいことは解らないがといいながらも色々な話を承った。 当時の過去帳には二軒の<丸や>姓の記録があるが、今は、もう一軒の<丸や>さんは、石碑等も特定できなくなってしまっているという。 芭蕉の宿泊した<丸や>さんも、どちらかは判からないという。 芭蕉の足跡については、酒田から最上川の河口を船で渡り、海岸に沿って歩き、鶴岡の町に入らないで大山に着いたか、または酒田の最上川の河口から船に乗って加茂港(鶴岡市)に着き、大山に来て泊まったと、二通りのことが考えられるが、定かではないという。 |
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 鶴岡市公式ホームページ |