遊 旅人の 旅日記

2003年7月19日(土)雨

鶴岡から酒田へ
今日は、酒田まで歩く。芭蕉は「淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿とす」と「奥の細道」に書いているように、酒田の医師<淵庵(号)不玉(俳名)>、本名<伊東玄順>の家に、足掛け九日間逗留している。酒田の町で、その足跡を訪ねよう。酒田三十六人衆宅絵図


酒田までは、およそ20km。今日の朝も少しゆっくりだ。
昨日とは打って変わって、雨が降っている。本降りにならなければ良いが、と思いながら、AM6:10宿を出発。
R7を北上。雨の中をバイクのツーリングのグループが走ってゆく。今週末は三連休だ、学生も夏休みに入る頃だ。これからは、バイクでツーリングをする人たちが増えてくる季節だ。


不玉亭跡(伊東玄順)コンビニで小休止をしていると、買い物に来た、同じ年頃の男性が「日本一周の旅でもしてるんですか」と声を掛けてくる。芭蕉の「奥の細道を歩いているんです」と答えると、定年を迎え時間はいくらでもあるが、二ヶ月も三ヶ月も<家>を空けられるのは羨ましいという。確かに、その通りかもしれない。10日とか二週間、一ヶ月間くらいまでが限度かもしれない。そういうことを考えると自分は幸せ者だと思う。単身赴任の成果だとも思う。


コンビニを出て歩き始めると雨が本降りになってくる。庄内平野の田園の中をこつこつと歩く。道路沿いに、巨木が立っている。何か謂れのある木に違いないと思うがそのまま通り過ぎる。
しばらく歩くと、前方に高速道路らしきものが道路の上を通っている。その道路の下をくぐってさらに進むと、最上川を渡る。やはり水を満々とたたえ、滔滔と流れている。安種亭今道 寺島彦助宅跡
芭蕉は、鶴岡から、内川、赤川経由でこの最上川に入り、酒田まで川船で下ってきたのである。曾良は日記の中で、鶴岡から酒田までの距離を
「船ノ上七里也。陸五里也ト。」と書いている。船での距離の方が、陸路より二里、およそ8kmも長い。赤川から最上川に出るのに、かなり迂回しなければならなかったのに違いない。
最上川を渡ると市街地に入る。雨が激しくなり、道路が川のようになっている。身体も全身びしょぬれだ。


1時ホテルに着く。チェックインは3時なのだが、フロントの女性が、部屋の掃除が住んでいるか確かめ、チェックインさせてくれる。大助かりだ。部屋で濡れた衣服を着替え、再びフロントに下りてゆく。市の観光地図をもらう。玉志 近江屋三郎兵衛宅跡
駅前が少し寂しい雰囲気のため、町の中心は何処か尋ねると、1kmほど離れた所に商店などが並ぶ、にぎやかな所があると教えてくれる。
酒田は港町として発展してきたため、最上川河口の酒田港を中心として町が形成されて来たのである。
にぎやかな所とは、港に近い所である。
フロントで教えられた道を歩く。国道と言っていたが両側に家が並び、車一台がやっと通れるくらいの狭い道である。続いて、大きなお寺が両側に見え始め、さらに歩いてゆくと急に道が広くなり、きれいな店が並ぶ商店街になる。その先の大きな交差点の角に市役所がある。今日は土曜日で休みだ。
玄関入り口に大きな
<獅子頭>が置いてある。酒田市のシンボルと言う。また道路に面して大きな観光案内図があり、芭蕉の泊まった家、句会を催した家などが書き込まれている。
「酒田三十六人衆絵図」という大きな案内絵図があり、江戸時代発展していた酒田の町の様子が描かれている。本間家旧本邸


芭蕉ゆかりの場所を探しに行く。皆、近くである。通り沿いに
<奥の細道・不玉宅跡>の大きな標柱を見つける。標柱の案内に従ってゆくと、石碑と<芭蕉遺跡・不玉宅>の案内板がある。芭蕉が、足掛け九日間逗留した、<医師・伊東玄順>の屋敷跡である。
句会を催したと言う、
<安種亭今道・寺島彦助>宅跡、<玉志 近江屋三郎兵衛>宅跡も道路沿いに、標柱が建てられており、すぐに見つかる。
<不玉宅>は通りから少し入った所だが、寺島宅、近江屋は両方共通り沿いにある。双方共、酒田の豪商であり、富豪である。通り沿いに大きな店を構えていたに違いない。
寺島彦助は浦役人も務めていたという。


旧鐙屋酒田は古くから栄えた町だ。この市役所周辺だけでも、武家屋敷の
<本間家旧本邸>、史跡として国の指定を受けている廻船問屋の<旧鐙屋(あぶみや)>がある。雨の中、沢山の観光客が見物に訪れている。私は、中には入らないで、外から眺め、デジカメで画像だけ収める。
次に、酒田と言うと真っ先に出てくる、倉庫、
<山居倉庫>を目指す。
広い通りが新井田川にぶつかり、その川沿いの道を右に入ると対岸に倉庫が並んでいる。絵葉書や写真で見る、お馴染みの倉庫の風景である。
11棟並んでおり、一号倉庫は庄内米歴史資料館になっている。ここにも多くの観光客が見学に訪れている。


市内を見物しながらホテルに戻る。山居倉庫
ホテルの目の前に
<本間家美術館>がある。先ほどは、<こんなところに美術館がある>位にしか思わなかったが、本間家旧本邸を見た後だけに、知らんふりして通るわけには行かない。本間家四代光道の別荘跡という。建物、工芸品、古書などが展示され、見事な庭園も見られると言う。
今日は酒田で、半日では有るが、有意義な時間を過した。
鶴岡と酒田、今度は観光目的で、ゆっくりと歩いてみたい。
おくの細道
川舟に乗て 酒田の みなとに 下ル 淵庵不玉と云 医師の許を 宿とす
      あつみ山や 吹浦かけて 夕すゝみ
    暑き日を 海に入レたる 最上川
曾良日記
一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面調被、遣被。又、ゆかた二ツ贈被。亦、発句共も見為被。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留主ニテ、明朝逢。
○ 十四日 寺島彦助亭ヘ招被。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
よりみち
酒田三十六人衆宅絵図(本文中、最初の画像) 酒田の町の絵図で、表通りには三十六人衆と呼ばれる廻船問屋の大店が軒を連ねている。
酒田の町づくりは、1521年頃から始められたという。織田信長や秀吉の生まれる前、信長の義父・斉藤道三が活躍していた時代である。後の戦国時代から江戸時代に掛けては、和泉の堺、筑前の博多、伊勢の桑名などと並び栄えていた港町と言われている。
今の、市役所、本間家旧本邸、旧鐙屋の並ぶ通りが本町通りと呼ばれ、発祥の地と言う。
昔は一の丁から七の丁まであり、三十六人衆を中心に多くの廻船問屋があり、出羽の国の米、紅花、海産物を、関東、関西方面と交易し大いに繁栄していたという。特に、<鐙屋>は、三十六人衆のなかでも、三人の町年寄りの一人として活躍をし、酒田の町の発展に尽くしたという。
一方、町の行政は、廻船問屋の経済力を背景に、自由都市<堺>の制度に倣い、自治組織を確立、合議制による町政をしいていたという。

本間家旧本邸 本間家三代光丘が、江戸幕府の<巡見使>を迎えるため、本陣宿舎として建て、庄内藩主酒井家に献上した屋敷である。2,000石格式の長屋門、書院造りを供えた武家屋敷である。
巡見使・・・江戸幕府が諸国に派遣し、地方政治を観察した役人。将軍の代替わり毎、地域別に派遣されていた。)

<見所>本間家旧本邸 鐙屋 山居倉庫 本間美術館 土門拳記念館など、多くの史跡、見所がある
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

酒田市公式ホームページ