遊 旅人の 旅日記

2003年7月12日(土)雨のち曇のち晴

天童から大石田へ
5:25出発。今日は また雨だ。10日に歩いた道を<大石田>に向かって歩く。村山市に入りしばらく歩くと雨が上がる。空も雲が切れ、ところどころに青空が見えてくる。
天童に向かうときには見あたらなかった、曾良日記に書いてある
<元(本)飯田>と言う地名を見る。
AM 11:30 R13と県道120の合流地点・
<土生田>の交差点に到着。先日休憩したところだ。標識を見ると<大石田>は左方面になっている。
地下道でR13を渡る。天気がよくなり猛烈に暑くなってくる。しばらく地下道の日陰で休む。ひんやりした風が通り気持ちが良い。


真夏の太陽になっている。田圃、畑、山の緑が、太陽の光を浴び生き生きとしている。そんな景色の中を歩き始める。しばらく行くと道が、田圃の中に伸びて行く、きれいな道と、緩やかに丘に登ってゆく道の二手に分かれる。標識は無い。地図を見たが、そこまで詳しく載っていない。しばらく躊躇していると、軽トラックがやってくる。その軽トラックを止めて、運転していた人に大石田に行く道を尋ねる。田圃の中の道が大石田に行くバイパスだと簡単に教えてくれる。丘に登って行く道は何処に行くのか聞かなかった。バイパスと言うからには、旧道があるに違いないと思いながら、教えられたバイパスを歩く。大石田付近の最上川(上流を見る)


しばらく歩くと、下り坂になり少し右にカーブをしている道の先に突然、鈍い光を放った広大な平面が見える。川だ。<こんなところに、こんなでっかい川が出てきた。何という川だろう>と、びっくりし、考えながら近づいてゆく。立ち止まり、しばらく雄大な流れを見つめる。
<最上川>である。「奥の細道」で<山寺>の次に書かれているの<大石田・最上川>の段である。<今日は、大石田に向かって歩いているんだ。最上川が出てきてびっくりするほうがおかしいぞ。>と自分自身に言い聞かせながら歩く。力強い流れを見ながら、しばらく最上川に沿って歩く。岸から岸まで川幅一杯に、満々と水をたたえ、悠然と流れている。大河である。恐ろしささえ感じる。
大石田付近最上川(下流を見る)広大な流域に降り続いた雨を集め、流れているのだ。水量も通常よりも、かなり多くなっているに違いない。
芭蕉がこの大石田の高野一栄宅に来たのは旧暦五月二十八日である。今の暦に直すと七月十四日である。ちょうど同じ頃である。芭蕉も、やはりこのような悠々と流れる最上川を見たのであろう。そして
「さみたれを あつめて早し 最上川」と詠んだのである。
今、力強く滔滔と流れる最上川を目の当たりにして、芭蕉が増水した最上川の様子を詠んだ、この句がよく解る気がする


一時半、大石田駅前にある今宵の宿に到着。荷物を置いて先ず
<向川寺>に向かう。町の中、いたるところで工事を行っている。宿の若女将が、町の説明をしてくれながら、「長年の懸案だった、町の整備がやっと始まった。」と言っていた。道路、民家、商店街、公共施設など皆いっぺんにやっている感じだ。
町並みを通り抜け、最上川の堤防の上の道を歩く。小一時間程歩くと左方向<向川寺>の案内がある。最上川を黒滝橋で渡るとまもなく向川寺に着く。黒滝の向川寺・参道
鬱蒼とした杉並木の参道を歩いていると、50cmほどの蛇が私の前を這って、草むらに入ってゆく。自然にいる蛇を見たのは50年ぶりくらいになるだろうか。私の生家の庭には、青大将や、やまかがしがいてよく見かけたものである。
数段の石段を登り門を入ると本堂らしき建物がある。ちょっと寂しい佇まいである。人の住んでいる気配は無い。芭蕉の訪れた頃は由緒ある寺として繁栄していたのであろう。


大石田最上川に面する塀蔵向川寺を後にして、町に向かう。帰りも堤防の上の道を歩く。堤防が市街地に入ると、その堤防に塀を設け、白壁の絵が書いてある。川の内側に下りる階段があり、下りてみると、ズーと白壁の絵が続いている。
昔、最上川の舟運は、この地方の物流の大動脈であり、川沿いの大石田はその重要拠点として栄えた町なのである。大きな舟問屋も数々有ったに違いない。昔栄えた俤を残し、また今、町おこしをしようと白壁(
塀蔵と言う)の絵を設けたのであろう。町の人たち皆で町おこしをし、頑張っているエネルギーを感じる。


芭蕉の世話になった高野一栄はこの大石田で舟問屋を営んでいた人である。芭蕉は高野一栄の家に逗留し、舟で最上川を下る日和を待っていた。その間に、
一栄、川水の地元の俳句愛好者と曾良そして芭蕉の四人で句会を開き、歌仙を一巻残したのである。<川水>は当時大石田村の大庄屋であった高桑金蔵(加助)である。大石田・舟番所跡
芭蕉はやむを得ず、一巻き残したといっている。しかし、この大石田で俳句を熱心に愛好する人たちに囲まれ、教授を請われ、かえって感激したのではないかと思う。
そんなことを考えながら、高野一栄邸は川沿いに有ったに違いないと堤防上の道を大石田・高野一栄邸跡の「芭蕉翁真蹟歌仙<さみだれを>の碑歩いてゆくと、堤防の外側に高野一栄邸跡の案内を見つける。鉄製の非常階段のようなものがある。その先を見ると個人の住宅の庭のようである。案内があるということは、入っても良いのであろうと判断をして、階段を下りてゆく。個人の住宅の裏庭の片隅というところである。「奥の細道」の標柱には
<高野一栄邸跡>と書いてある。一栄邸に泊まった状況の説明板と<芭蕉翁真蹟歌仙「さみだれを」の碑>がある。
芭蕉の訪れた頃の高野邸は、大きな米蔵が並び、最上川を行き交う船の、米や紅花の積み下ろしの役をし、繁盛していたことであろう。


高野邸を後にして、その先、まだ何かあるに違いないと思い歩いてゆくと、舟番所跡がある。その先は、塀蔵も終わりになっている。
橋を渡って、対岸から塀蔵を眺めてみると、壮観である。大石田・塀蔵の遠景
大石田の町は江戸時代の元禄七年頃もっとも栄えていたと言うから、その5年前の芭蕉の訪れた元禄ニ年はすでに、かなり栄えていたに違いない。さまざまな思いをめぐらせながら宿に向かう。


宿に戻り、風呂に入り、夕食の時間まで、今日一日の整理をしていると、若女将が、冷えたスイカを持ってきてくれる。ほてった身体に清涼感が伝わる。

食堂兼居間のようなところで夕食をとっていると、大女将が入ってきて、今、日帰りのバス旅行から帰ってきたばかりだという。松島から平泉、鳴子を廻ってきたという。日帰りのコースにしては、かなりきつい行程ではないのかと聞いたら、このくらいの行程は強行軍ではないという。
大女将と世間話に花を咲かせる。芭蕉のことも良く知っている。
毎年、大石田を訪ね、この宿に泊まる、俳句の愛好家がいるとも言っている。

一人の男性が入ってきて食事を始める。良く見ると日本人ではない。髪は白っぽいブラウン、もみ上げからあご、鼻の下と薄くひげに覆われている。俳優のチャック・ノリスに似ている。しっかりと正座をして、箸を上手に使い食べている。食べ終わると、BSで「おしん」を見たいからテレビをつけてくれと言う。私は話しかけようとしたが、あまりにも熱心にテレビの「おしん」を見ていたためやめる。

今日、大石田に来て、雨により 満々と水をたたえ流れる、力強い最上川に逢うことができた。芭蕉も同じように増水した最上川を見て
「さみたれを・・」の句を作ったのだろうと思うと、それだけで満足だ、などと感じている。

部屋に戻り明日の新庄までの行程をチェックする。「奥の細道」には
「もかみ川乗らんと 大石田と云処に 日和を待・・・」と書いてある。ここから船に乗り最上川を下ると新庄からそれてしまう。新庄に行くつもりは無かったのか、などと想像するが、結局、芭蕉は陸路を新庄に向かっている。
明日は、その新庄まで歩く。新庄には学生時代一緒にアルバイトをしていた友人がいた。今、音信が途絶へ30年近くたつ。話に聞いていた懐かしい町である。
おくの細道
もかみ川乗らんと 大石田と云処に 日和を待 ここに古き俳諧のたね 落こほれて わすれぬ花の むかしをしたひ 芦角一声の 心をやはらけ 此道に さくりあしして 新古ふた道に ふみまよふと いへとも 道しるへ する人 しなけれはと わりなき 一巻を残しぬ このたひの風流ここに いたれり
曾良日記
一 二十八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内蔵ニ逢。立寄ば持賞ス。未ノ中剋、大石田一栄宅ニ着。両日共危シテ雨降不。上飯田ヨリ壱リ半、川水出合、其夜、労ニ依テ無俳。休ス。
一 二十九日 夜ニ入小雨ス。発、一巡終テ、翁両人誘テ黒滝ヘ参詣被。予所労故、止。未剋帰被。道々俳有。夕飯、川水に持賞。夜ニ入、帰。
○一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ遊被、帰、物ども書被。
よりみち
最上川の舟運 最上川は平安時代から物資の流通経路として重要な地位を占めていた。後に流域の数々の難所の開削により、庄内米を江戸に運び、また紅花を京や江戸まで運ぶ舟運が益々栄えるようになった。
中でも紅花は、京の都で、西陣の友禅染の染料として使われ、また絵画の絵の具として、さらには化粧に使われたのである。紅花は産地である村山地方から大石田まで陸路を運び、大石田から舟積みし、酒田を経由し、京また江戸まで運んだのである。
最上川の中流部・村山地方の入り口に当たる大石田は、舟運の中継地として、酒田と並び大きく繁栄し、それに伴い荷宿商人が発展し、最盛期の元禄時代には「紅花大尽」と呼ばれる豪商が数多く生まれたという。その代表的な人物が、尾花沢の
「鈴木清風」である。
芭蕉は尾花沢に滞在中「清風」には大変世話になったのである。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

大石田町公式ホームページ