遊 旅人の 旅日記

2003年7月1日(火)曇り

平泉滞在
今朝は、久しぶりに宿で朝食をとり、ゆっくりとする。
体力的には休息日のような感じであるが、気分的に、朝の4時間余を無駄にしたような気がする。しかし朝5時半などという時間には中尊寺も開いていないだろう。今日はゆっくりと、
<中尊寺><金鶏山>を巡り、早めに帰り、日記と画像の整理をしようと気持を納得させる。


AM9:30宿を出発、先ず金鶏山に向かう。毛越寺と中尊寺をむすぶ道路から山に向かう道に入り、さらに右方向、田圃の中の道を行くと、金鶏山入り口に着く。
手前に千手堂があり、案内板に藤原三将軍の位牌が安置されていると記されている。そのすぐ上に、義経の奥方<北の方>と幼児の墓がひっそりと建っている。義経が自害する前に、義経自ら妻子を殺害したという。この悲しい母子の運命を、そのまま表しているような、寂しい二人の墓である。殺害された高館の、<義経堂>の近くに置いてあげたら良いのにと思う。
金鶏山の頂上に向かう。かなりきつい傾斜になる。この金鶏山は人工の山である。三代秀衡が富士山に模して築き、山頂に黄金で造った鶏を埋めたと言われる。今では山頂には小さな塚が有り、その上に小さな石の祠があるのみである。それにしても、よくこれだけの山を築いたものである。

爽やかな木々の緑の空気の中、山を下り、<義経妻子の墓>の前を通り中尊寺に向かう。



金鶏山入り口の千手堂



金鶏山入り口の義経妻子の墓



金鶏山への参道と山頂の祠




中尊寺参道(月見坂



金色堂(覆堂)



中尊寺・芭蕉像



旧覆堂



中尊寺・鐘楼
中尊寺の参道入り口まで来ると、先生に引率された沢山の小学生が、賑やかに参道を下ってくる。
境内に入ると すぐ上り坂の参道になる。
<月見坂>と云う。参道沿には伊達藩が植樹したと云う杉の老木がそびえており、その中に、数々の御堂がある。御堂の一つ一つに参詣をしながら登ってゆく。一番奥まったところの左側に<金色堂の覆堂>が見える。しばらくこの覆堂のある風景の中で休息をとる。
  
五月雨や 年々降て 五百たひ(自筆本の句)
 (五月雨の 降のこしてや 光堂)


しばらくの休息の後、
<覆堂>に入る。中には燦然と輝く<金色堂>がある。現在の金色堂は覆堂の中で、さらにガラスで覆われている。金色堂は1124に建造され、鎌倉幕府の北条氏が1288年に覆堂を設けている。金や貝などの自然の素材で装飾しているため老化・劣化が激しいのであろう。今の金色堂は昭和37年から6年の歳月を費やし解体修理をし、当時の姿を、そのまま復元しているという。平成2年に覆堂の改修工事も行われたという。覆堂は何回か改築しているようだ。
金色堂の中央に清衡、左に基衡、右に秀衡の遺体が安置されており、また泰衡の首級が納められているという。
東北の地も藤原清衡・基衡・秀衡の三代100年ばかりの間、戦もなく平穏な時代であったのであろう。その平穏な日々も頼朝の討伐による藤原氏滅亡とともに終わってしまった。そのことを芭蕉は
「三代の栄耀一睡の中にして・・・」と表したのである。


金色堂を出るとすぐ横に、芭蕉の句碑が在る。さらに奥に行くと
<経蔵>がありその先に芭蕉の像が建っている。義経のこと、藤原氏三代の事などを考えながら佇んでいる、という姿である。
芭蕉の思うことを想像しながら歩いてゆくと
<旧覆堂>がある。古いがっしりした木造の建物である。その昔は、この覆堂の中に金色堂があったのである。藤原氏が滅びた後も、金色堂が建造されてこの方900年近く、いずれの時代も大事にされてきたのである。
<白山神社><能楽堂>をめぐり、元の道に戻り、、泉水のある茶店のようなところを見て月見坂、入り口へと戻ってくる。午前中 少なかった観光客も今では、沢山見られる。


昼食をとり、道の向かい側にある
<平泉文化史館>に行く。藤原氏の歴史、平泉の民族の歴史、生活様式・用具など色々な資料が展示されている。
この平泉の人々は、藤原氏が築いた社会の基盤をしっかりと守り、領主・藩主が代わっても、その伝統を永々と受け継ぎ、想像以上に豊かな生活様式を保っていたのではないかと思われる。
平泉文化史館を見て、新しい発見をした思いがする。爽やかな気分になり宿に帰る。


まだ三時である。今日は体力も使っていない。また頭も爽やかだ。日記とデジカメの画像を整理するのにはちょうど良い。
画像は容量が大きいため、そのつどデジカメからパソコンに取り込みCDに落としている。しかし日記は、持ち歩きながら書いているノートから、毎日パソコンにインプットしているが、CDには落としていない。二週間分ほどがパソコン内に溜まっている。これをCDに移そう。
画像はCDに問題なく落としたが日記がどこかに消えてしまった。何処を探しても見つからない。頭の中が真っ白になり、冷や汗が出る。乏しいパソコンの能力をもって、マニュアルと首っ引きで、あらゆる手を尽くしたが見つからない。二週間分の日記が消えてしまったのだ。NECとマイクロソフトのサービスセンターにTELをしアドバイスを受けるが見つからない。しかし日記でよかった。ノートを見て再度、インプットし直そうと、あきらめる。


パソコンのトラブルがあったとしても、今日は気分的に余裕があったのか、夕食時にビールを飲む。一月半ぶりのアルコールだ。酒は元来好きな方なのだが、<体力勝負の、歩いての旅>と云うことで、飲むのを自重してきた。久しぶりのため、さぞ美味いだろうと思って口をつけたが、これがひどく不味い。ビールとはこんなに不味かっただろうかと思ってしまう。コップに一杯飲んだだけでやめてしまう。
2〜30人の外国人のグループが入ってきて、私の周りに席を取り、にぎやかに食事を始める。瞬く間に、周りが英語の会話で満ち溢れる。中尊寺の観光にきたのだ。


明日からの行程のスケジュールを考える。一気に<栗駒町>までと考えるが一日の行程にしては長すぎる。<一関>に一泊することにする。近すぎるが、距離、宿泊場所の有無を考えるとやむをえない。

おくの細道
兼て耳驚したるニ堂開帳す 経堂は三将の像を残し 光堂は三代の棺を納メ 三尊の仏を安直(安置)す 七宝散うせて 玉の扉 風に破れ 金の柱 霜風に朽て 既 頽廃空虚の草村となるへきを 四面 新に囲て 甍を覆て 風雨を凌 暫時 千歳の記念とはなれり

 
五月雨や 年々降て 五百たひ (五月雨の 降のこしてや 光堂) 

 蛍火の 昼は消つゝ 柱かな

曾良日記
高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ行不。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ開不。金鶏山見ル。シミン堂、無量劫院跡見。申ノ上剋帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿す。
おやすみ処
5月29日に東京を出発して33日、私の頭の中のスケジュールでは、全行程を<東京〜平泉><平泉〜新潟><新潟〜大垣>と三段階に分けて考えている。その第一段階を歩き終わった。

大きな病気・怪我もせず、順調に歩いてきた。<「奥の細道」を踏破するため>のトレーニング・体調の調整など行わないで、ぶっつけ本番で歩き始めた為、当初は、全行程を歩き通せるか否か、体力に確固とした自信はなかった。
ここまで歩いてきて、やっと、リュックを背負い、バッグを持って歩くことに身体が慣れてきた。右足の脛(骨)が痛むものの、暑さ、寒さにも耐え、雨の対策も要領を得、さらに平地でのリュックの重さなど、あまり気にならなくなってきた。
歩くペースも出来てきた。
今までは人から「何処まで行くのか」と云う問いかけにも「平泉まで行こうと思っている」としか答えられなかった。しかし今、平泉まで歩いて来て、<大丈夫だ、歩き通せる>という自信が湧いてくる。これからは<東京から「奥の細道」を辿って歩いて来た。大垣までの全行程を歩くつもりだ>と答えられそうだ。

現役時代、特に身体を鍛えるということはなかった。しかしここまで、33日間ほとんど毎日、20〜30km歩き続けることができた。体重は10kgほど減っている。ベルトの穴が3つほど縮む。出発の時、目一杯腹をへこませて穿いたジーンズのパンツも今は楽に穿けるようになっている。血圧は低めに保たれている。
人間の身体とは丈夫なものだ、また順応性があるものだと改めて思う。
しかし、まだまだ長丁場である。無理をしないで慎重に一日一日大事に歩いてゆこう。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

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    義経の 妻子寂しい 金鶏山  
    光なく 人もまばらな 旧覆堂
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