遊 旅人の 旅日記

黒羽滞在



玉藻稲荷神社と鏡が池


源実朝の歌碑と案内板


犬追物跡と案内板


大雄寺


今日は、黒羽町内の、芭蕉が訪れた、玉藻稲荷神社、犬追物跡、浄法寺図書邸跡を中心に、芭蕉に関する史跡、句碑などを見て廻ろう。AM8:00宿を出発。まず「玉藻稲荷神社」に向かう。一昨日歩いた、修験光明寺、白旗城跡、鹿子畑翠桃邸跡の付近を通り、芭蕉の句碑のある西教寺に寄る。


AM9:15玉藻神社に着く。この神社は稲荷との名前がついているだけあり
「九尾の狐」の伝説がある。また境内にある「鏡が池」もその伝説に由来している。そしてこの後行く「犬追物跡」も九尾の狐に関連がある場所であるという。そういえば全くの余談であるが、宇都宮の「九尾弁当(釜飯)」を思い出す。この弁当も九尾の狐に由来しているのだろうか。このような言い伝え、伝説を、見たり、聞いたりするのは大変面白い。想像力をたくましくすると、今にも池のそばに、九尾の狐が現れて来そうな気がしてくる。今でもそんな雰囲気を漂わせている。


参道の横に、鎌倉幕府三代征夷大将軍源実朝の歌碑と案内板が立っている。実朝が九尾の狐と関係があったのかと思い、説明を読んでみると、そうではなく、実朝の歌集「金かい和歌集」の中に、此の那須野が原を詠んだ歌、
「武士の(もののふの)矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原がある、と言う説明である。源頼朝が巻狩などをした所として、鎌倉時代からすでに「那須野が原」は名所であったようだ。芭蕉はその名所である、那須野が原を<「那須の篠原」を分けて・・・>と歌枕でもある「那須の篠原」を引用し、表現したのだと思う。


次に
「玉藻の前の古墳をとふ」の古墳が、この神社の前にあるのものと思い探したが見つからず。これは私が文の意味を間違って解釈したのである。<「玉藻の前」と言う人(?)の古墳を訪ねる>という意味である。いずれにしても古墳は判らずじまいだ。良く本文を読んで理解しておく必要がある。


玉藻神社を後にして、広々とした畑、野原を歩いて行くと、林が見えてくる。その林の前に「犬追物跡」の案内板がある。この名前も間違って解釈をしていた。雉狩りのように、犬が草むらの獲物を追い出し、その獲物を騎乗の人間が、弓矢で射て狩をした場所と思っていたが、そうでは無かった。ここでは離した犬を「九尾の狐」に見立てて、騎乗から弓矢で射て退治する訓練をした場所なのである。犬も災難だったろう。将軍綱吉の時代だったら、人間の方が、お家断絶、即、打ち首になったに違いない。 


犬追物跡を過ぎ、さらに歩いてゆくとR294の右、手前角に、くらしの館、ふるさと物産センターがある。一部の建物は、八溝山にあった古い農家を移築したものである。昔の生活用具、農耕具が置いてある。物産センターは、朝、農家から持ち込まれた新鮮な野菜が豊富にあり、それを目当ての買い物客でいっぱいだ。買い物客の様子を見ながら古農家の縁側で休ませてもらう。
物産センターを出て、那珂川を渡る。このこじんまりとした静かな黒羽町の真中を、大きな那珂川が流れている。町並みは両側にある。古くは、別ゝの町であったのではないかと思う。しかし、芭蕉は、浄法寺図書の屋敷から、対岸の遥か遠くにある、鹿子畑の屋敷までを行き来している。江戸時代は、同じ大関藩の城下町だったのだ。その昔、那珂川は城を守るための川であり、交通、経済活動のための重要な川として利用されていたのである。


きれいに整備された、黒羽城址公園を通り、「芭蕉の館」(黒羽資料館)にゆく。残念ながら、今日は月曜日で休館日だ。よく事前に調べて、歩く日程、行程を建てなくてはいけない。3日間の滞在と言うことで、気が緩んでいたのだ。今後は要注意だ。芭蕉公園内を散策。浄法寺図書邸跡に行く。浄法寺図書は城主大関氏の家老であった為、城内(?)に屋敷をもっていたのだ。城主の信頼、人望があったのだろう、高台にあり、景観も良く、かなり大きな屋敷であったようだ。
芭蕉公園から「芭蕉の道」があり、道沿いには、句碑がある。出口近くに「大雄寺」と言う寺がある。芭蕉の道から降りてくると、町並みに出る。再び那珂川をを渡り、明王寺、常念寺と歩く。この二つのお寺にも句碑が在る。黒羽町はまさしく「芭蕉の里」だ。

芭蕉の館

浄法寺図書邸跡
曽良日記
六日ヨリ九日迄、雨止不。九日、光明寺ヘ招被。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。 十日 雨止。日久シテ照。 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。 十二日 雨止。図書見廻被、篠原誘引被。 十三日 天気吉。津久井氏見廻被テ、八幡ヘ参詣誘引被。 十四日 雨降リ、図書終日見廻被。重之内持参。 十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ参被。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。
お休み処
玉藻稲荷神社  「九尾の狐」の伝説を伝える神社である。この狐は白面金毛、九尾の妖狐である。インド、中国の各地で悪行を重ね、遣唐使の舟に乗って日本に渡ってきた。そして絶世の美女に姿を変え、「玉藻の前」として鳥羽天皇(1107〜1123在位)の寵愛をうけていたが、ある時、帝が宮中で管弦の宴を催していた時、「玉藻の前」の体から、不思議な光が発せられていた。帝は不思議に思い、陰陽師の安部泰成に祈祷を上げさせたところ、「玉藻の前」が九尾の狐の正体を現し、東国に逃げ去った。帝は、三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常に狐の退治を命じた。那須野が原に逃げ込んだ狐が、蝉に姿を変え木に止まっていた。ところが、その蝉は傍らの池に狐の姿として映っていたため退治された、といわれている。その池が「鏡が池」であり、九尾の狐を祀って在るのが「玉藻稲荷神社」である。この神社はそんな伝説を持っている。

犬追物  武士の間で、武技の上達を目的に、流鏑馬、笠懸と共に、鎌倉時代から江戸時代まで、行われてきたものである。室町時代半ば頃からは途絶えていたが、江戸時代になり、島津家が再興し、明治になり、廃絶したという。綱吉の時代には、行われていなかったに違いない。
この<黒羽の犬追物跡>は、謡曲「殺生石」の中に、「三浦の介、上総の介 両人に綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干(狐)は犬に似たれば、犬にて稽古あるべしとて、百日 犬をぞ射たりける。これ犬追物の始とかや」とあり、犬追物発祥の地であると謡われている。 

俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

大田原市公式ホームページ