遊旅人の旅日記

2003年6月10日(火)曇り

黒羽から黒磯へ




高久家横、芭蕉塚入り口




芭蕉塚案内板
AM5:25出発。曇っているが、気持ちの良い朝だ。今日は黒磯までだ。17〜18kmと短い距離だがやむをえない。「殺生石」のある、那須湯元温泉までは、一気には歩けない。足の裏も完全ではないし、那須町の芭蕉の泊まった高久角左衛門宅の跡を探し、訪ねてみたい。


昨日訪れた、玉藻稲荷神社のそばを通る。しばらく歩いていると「篠原」と言う地名を見つける。まだそのまま地名として残っているのである。
農家の朝は早い。まだ6時ちょっと過ぎたばかりだというのに、すでに果樹園の下草を刈る作業をやっている。またトラクターで畑を耕している農家の人もいる。農家の大人ばかりではない。7時には小学生が列を作って元気に登校をしている。一斉に「おはようございます」と私に挨拶をして、すれ違って行く。芭蕉の時代には、荒涼とした篠原も、今では田畑、果樹園、山林となっている。

AM7:30黒磯市に入る。黒磯市に入るとすぐに「東野間」という地名がある。芭蕉達は浄法寺図書の馬で、この「野間」まで送られてきた、と曽良日記に書かれている。馬を返す際、その馬方に、一句俳句を頼まれ、短冊に句を書き、渡している。


8時、小高くなったところに、樋沢神社(ひさわ)と言う小さな神社があり、そこで小休止。社の前に大きな石があり、石の上に馬蹄型をしたくぼみがある。傍らに案内板があり、そのくぼみは、「源八幡太郎義家の馬の蹄の跡」である、と解説している。義家が「前九年の役」、または「後三年の役」に奥州討伐のため出兵し、この地を通過した時に作ったものであろうか。たまたま小休止を取ろうと思い、立ち寄った小さな神社に、このような謂れがあるのを見つけ、歩いて旅をしている楽しさ、面白さを改めて感じた.。何も無いところであるが、つい長居をしてしまった。
樋沢神社を出て少し行くと、鍋掛と言う交差点がある。昔の奥州街道「鍋掛の宿」と言う宿場町のあったところだ。交差点を左に曲がり、黒磯市内に向かう。東北線の陸橋を渡り、商店街の並ぶ、市街地の方に出る。電話で宿の場所を確認し、まず宿に向かう。駅前の商店街は、古い面影を残した町造りをしており、良い雰囲気だ。
今日は、ここまで、あまり疲れも感じないで順調に歩いてきた。涼しかったこともある。木陰で休んでいると、寒いくらいであった。西日本は梅雨に入ったという。東日本でもあと二、三日で梅雨入りか。心の中で、<空梅雨になって欲しい>、と願う。出来れば今日のような、太陽が照るでもなく、曇りで明るく、涼しいそよ風が吹いているような日であれば歩くには最高だ、などと都合の良いことを考える。
宿に荷物を預け、名主「高久角左衛門」宅跡を探しに出掛ける。黒磯市ではなく、隣の那須町にある。那須町には高久という名前のついた地名また姓は沢山又広範囲にあると言う。探しあてられるか解らないが兎に角歩いてみよう。市内を走る旧4号なのか、北(東)に歩いて行くと那珂川に架かる橋がある。この橋を渡りしばらく歩くと左手に大きなショッピングセンターがある。さらに歩いてゆくが、田圃、畑、山ばかり続く。小一時間ほど歩くと、右側に民家が見え始める。何かそれらしいものは無いものかと歩いていると、あった。まだ新しい小さな石柱に「芭蕉二宿の地」と書かれている。よく見つかるものだと我ながら感心をする。やはり「高久」という家の前である。屋敷の左側には、「芭蕉翁塚」<杜鵑(ほととぎす)の墓>の石柱と案内板があり、その奥に石段がある。その石段を登ってゆくと、「芭蕉庵 桃青君の碑」が木々に囲まれ、濃い緑の雰囲気の中にひっそりと建っている。戻って屋敷の中に入って行き、玄関で声を掛けると、若奥様らしい人が出てくる。庭にある句碑の写真撮影の許可をお願いし、デジカメで撮影をする。今日は、この高久家を見つけられたことで最高な気分になる。この上もない発見だ。
宿に帰る途中、ショッピングセンターで安い靴下のセットを買って帰る。
市内に入り、駅で少し休み、商店街、また周辺を散策しながらPM4:00頃、宿に戻る。
宿備え付けのコインランドリーで洗濯をする。女将さんに「工事の人たちが帰ってくる前に、風呂に入ってください」といわれ、早めに風呂に入る。夕食は外食。駅前の食堂でとる。腹は減っていたが食べ始めると、あまり食欲が無い。味もいまひとつ感じない。特に体調が悪いというわけでもない。宿に帰ると、宿泊客で、先ほどとは打って変わってにぎやかになっている。
今日は、高久家を見つけたことに満足しながら寝りにつく。


高久家前の石柱


芭蕉塚の「芭蕉庵 桃青君の碑」


おくの細道 曽良日記
これより殺生石に行 舘代より馬にて送らる 此口付のおのこ 短尺(短冊)得させよと乞 やさしき事を望 侍るものかなと
  

 野をよこに 馬挽むけよ 郭公(ほととぎす)

十六日 天気能。翁、舘ヨリ余瀬ヘ立越被。則、同道ニテ余瀬ヲ立。昼及、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ送被。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。雨降リ出ニ依。滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状添被。
十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間ハ大田原ヨリ三里之内 鍋掛ヨリ五、六丁西。
よりみち
高久家  当時、此の近郷36ヶ村の大名主であったと言われている。江戸時代、名主の立場は、藩主、郡代、代官、と同じ役人であった。代官までは武士であるが、名主は農民の身分である。しかし「高久家」ほどの大名主になると、武士よりも実質的には、財産もあり、農民を治める力も持っていたに違いない。藩主、郡代、代官といった武士の身分の者は、現代で言えば、給料をもらうサラリーマンであり、転勤もある。一方、名主は農業に携わると同時に、実質的に村の農民を治めていたのだろう、と思う。
お休み処
平成17年1月1日 那須塩原市が誕生した。黒磯市、西那須野町、塩原町が合併して新市が誕生したものである。東北線沿線、東北道沿いでも、宇都宮、矢板、大田原などの商業、工業都市と趣が異なり、この地域は、隣接する那須町を含め、那須岳の裾野に広がる那須高原の一郭であり、すばらしい大自然に囲まれた、一大リゾート地である。といっても乱開発をすることなく、自然と調和を保ちながら開発を進めている。

黒磯の駅は、那須高原への玄関口である。温泉へ、山登りへ、そのほかいろいろなリゾート施設へ、またレジャー施設へ行き来する人たちでにぎわっている。
駅の売店で懐かしいものを見つけた。サツマイモの入った蒸したパンと、黒パンである。幼い頃、良く食べたものである。あまり無駄遣いは出来ないが思わず買ってしまった。味は残念ながら昔の味ではなかった。もし味が昔のままであったら、まずくて食べられないし、また売れないだろうと思う。懐かしい気分にさせてくれただけで充分だ。

洗濯ものの乾燥について考える。素材が綿のものは、今回のような旅の場合は不適だ。汗などの吸収は良いが、乾きが悪い。乾燥機に入れてもなかなか乾燥しない。時間がかかるということはお金もかかるということだ。また綿は重い。今回、ジーンズのパンツ2本と綿のTシャツ10枚が問題であった。化繊のものが、汗の吸収が良く、乾燥が速く、軽いと後で教えられた。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

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