遊 旅人の 旅日記

2003年6月7日(土)晴れのち曇り

矢板から黒羽へ




那須神社参道



那須神社山門



那須神社金丸塚
AM5:30ホテルを出発。すでに太陽は15°程の高さまで昇っている。少し雲はあるが暑くなりそうだ。朝のすがすがしい空気の中をきれいな鶯の声が渡ってくる。R4を北上。歩道がなくなってしまったため、平行している道を歩く。すぐにR4から反れてしまいそうになったためにR4に戻る。相変わらず、ものすごい交通量だ。平泉まではこのR4とは右になり、左になりしてずーっと付き合って行かなければならない。


まず大田原を目指して歩いていたのだが、道路標識から大田原の文字がなくなってしまった。道沿いでおとり鮎の販売所にいた70才前後と思われる二人の年配の人に道を尋ねる。親切に二人で教えてくれた。二人とも気品を持った、目に輝きのある精悍な風貌、がっしりした体格をしている。一人は昔の市川歌右衛門に似、もうひとりは白髪をきれいに刈り込んだ坊主頭で柳家小さんのような風貌をしている。これから鮎つりに行くのだろう。


しばらく歩くと箒川と言う川にぶつかる。那珂川の支流である。橋の手前のちょっとした空き地に赤色燈を点滅させたパトカーが止まっている。本物のパトカーだ。中に二人の警官が乗っている。「ご苦労様」と声をかけると、若い方の警官が話しかけてきた。歩いて旅をしていることなど、世間話をした後、激励され別れる。まだAM6時少し回ったところなのに警官も大変だ。今日は土曜日、行楽へ、鮎釣りへと沢山の車が朝早くから走っている。中にはマナーの悪いドライバーもいることだろう。橋を渡ったところに、県警のワンボックスカーが止まっている。先ほどのパトカーの相方だ。
遥か下の川には沢山の釣り人がいる。


R4と別れ大田原方面に向かう。市街地に入る手前のバスターミナルで小休止。市内の道をチェック。市の中心部を通り、しばらく行って右に折れ、黒羽に向かう。AM9:40、ちょっとした林の木陰で小休止。太陽がでていない為、暑さは無い。木陰はさらに涼しくて気持ちが良い。民家の個人の林のようだ。昨日歩いたR461と合流する。ここでは黒羽街道と言う。
AM11:00那須神社(金丸八幡神社)に着く。この神社は那須与一ゆかりの神社である。当時、那須氏一族は大田原周辺広大な領地を支配しており、源平合戦の折、那須与一は、源義経の家臣となっている。1185年(元暦2年)2月、屋島の戦いの折、那須与一は、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願わくは、あの扇の真中射させてたばせ給え」(平家物語)と祈念し、平家方の、小船に掲げた扇の的を射落とした。そして頼朝から、激賞され褒美として、多数の荘園を得ている。芭蕉は、この神社は、与一が扇の的を射落とす際、祈念した神社であることに感動をし参拝している。神社には、与一が奉納した太刀が秘蔵されているという。今は、ちょっと寂しい感じのする神社になっている。


12時少し過ぎに黒羽町に入る。「芭蕉の里 黒羽町」の看板が出てくる。PM1時旅館に到着。リュックを預けすぐに出かける。まず「修験光明寺と云有・・・行者堂を拝す」とある光明寺を探しに出かける。町をはずれ田畑の中の道をしばらく歩くと右側に民家と木の生い茂っている小高いところがある。そこに小さな光明寺跡の案内板を見つける。笹を分けて登ってゆくと、木々に囲まれて、修験光明寺の説明板と芭蕉の句碑が在る。この寺は那須与一が建立したものと記されている。今では、修験道場、また寺が建っていたという面影は全くみられない。


歩いてきた道をさらに先に進むと狭い農道のような道になってしまう。そこに白幡城跡の案内板がある。鬱蒼とした杉林である。芭蕉とは関係なさそうだと思いデジカメに画像だけ納め引き上げてくる。城跡と言うより砦のあとのようだ。


次に鹿子畑邸跡に行く。やはりひっそりと畑の中に、小さな墓石が並んでいる。傍らに大きな看板があり、この地で詠んだ芭蕉達の句が書かれている。芭蕉はこの黒羽には13日間ほど逗留している。浄法寺図書(桃雪)、鹿子畑豊明(翠桃)に歓待され、両氏の屋敷を宿泊所として、黒羽の各地を訪れ、多くの句を詠んでいる。その中の代表的な句が掲げられているのであろう。ちょうど、二台の車で来た7〜8人の年配の人たちが、看板と墓石を見ながら、なにやらいろいろと話をし始める。俳句の同好会の人たちのようだ。この黒羽町は俳句を愛するひとたち、芭蕉に興味を持っている人たちにとっては、大変興味深い町に違いない。明日は芭蕉の参禅の師が修行をしたと言う雲巌寺へ行く予定。




修験光明寺跡の句碑



鹿子畑翠桃邸跡と墓石群



白幡城跡
おくの細道
黒羽の舘代浄坊寺何某の方に音信ル おもひかけぬ あるしのよろこひ 日夜語つゝけて某弟 桃翠なと云か 朝夕勤とふらひ 自の家にも伴ひて 親属の方にもまねかれ 日をふるまゝに ひとひ郊外に逍遥して 犬追ものゝ跡を一見し 那すの篠原をわけて 玉藻の前の古墳をとふ それより八幡宮に詣 与市宗高扇の的を射し時 別ては 我国氏神正八まんと ちかひしも此神社にて侍るときけ 感応殊しきり覚らる 暮れは桃翠宅に帰る 修験光明寺と云有 そこにまねかれて行者堂を拝
         
夏山に 足駄をおかむ 首途哉
           (夏山に 足駄を拝む 門出かな)

     
曽良日記
ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。大田原ヘニリ八丁。大田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモニリ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。 四日 浄法寺図書ヘ招被。
よりみち お休み処
浄法寺図書(桃雪)・鹿子畑豊明(翠桃)  黒羽一帯は、領主が那須氏、大田原氏、大関氏と代わり、芭蕉の訪れた当時は大関氏が藩主であった。その家老を務めていたのが、浄法寺図書である。彼は鹿子畑の長男であるが母方を継いでいる。鹿子畑は弟の豊明が継いだ。ということでこの二人は兄弟である。桃雪・翠桃は俳号である。この元禄ニ年というと<犬公方>との異名を持つ、五代将軍綱吉の時代である。江戸時代の文化が花開いた頃である。戦がなくなり平和な世の中になり、武士の中にも俳句に親しむ人たちがいたのだ。徳川300年の中でも、一番安定した時代であったのに違いない。それにしても、関が原から90年と言う短い期間で、日本全国平和な世の中を、よく築くことが出来たものだ。徳川幕府の力の大きさ、今で言えば改革実行能力の大きさを、つくづく感じさせる。

修験光明寺 修験道の開祖「役の行者・小角」が祀られ、行者が用いた一本歯の足駄が安置されていたといわれる。「夏山に・・・」の句は、芭蕉が行者堂を拝し、これからの長旅の安全を祈り、行者の健脚にあやかろうとして詠んだものと言われている。 
芭蕉は「奥の細道」のなかで書いているように、黒羽周辺を良く歩いている。健脚である。城内にある桃雪の家から翠桃の屋敷まで3〜4kmはある。玉藻神社、那須神社ににいたって7〜8kmはある。隣の家、近所の家に行くような感覚で出かけている。歩く以外に交通手段が無かったとはいえ、強靭な体力の持ち主だったに違いない。


現在の道路標識は、地元の人で、地理をよく知っている人たちのためにあるのではないか、と思われる状況に良く出くわす。日本全国いたるところで、そのような現象が見られる。目的地の地名がなくなってしまうのだ。目的地まで、あと5〜10kmというところまで来ると突然、目的地の地名がきえてしまう。ここからが大事なのにと思い始める頃である。何のための標識なんだろうかと思う。車の場合は次の標識まで5〜6km走っても、軌道修正または戻っても5〜6分で済む。しかし歩いていると一時間以上かかる。大変な時間と、体力の損失だ。慎重に歩かなければならない。
俳聖 松雄芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

大田原市公式ホームページ