遊 旅人の旅日記

2003年6月6日(金)晴

今市から矢板へ













AM5:30出発。R119を宇都宮に向かってしばらく歩くと左方向、矢板(R461)の標識がある。その標識に従って左に曲がり大谷川を渡る。50分ほど歩くと、矢板まで24kmとの標識が出てくる。周りの景色は、林、森、小高い山、田圃、畑が続いている。その中にたまに農家がある。日本の典型的な農村の風景である。芭蕉も「これより野越にかゝりて直道をゆかむとす遥一村を見かけて行くに」とあり、その当時からこのあたりは集落があまり無かったのだろう。


信号機のある「轟」と言う交差点の角のコンビニで休む。地図で歩いている道を確認、どうも芭蕉の歩いた道とは違う道を歩いている。一本北側にR121がある。芭蕉は日光から今市方面に歩き、今市の手前で大谷川を渡り瀬尾を歩いている。そして現在のR121に入り、川室、大渡と歩いている。現在のR121は立派な道路である。私の歩いてきたR461は国道といっても見た目は村道である。良く地図を確かめるべきであった。しかし大渡で双方の道は合流している。このままR461を歩くことにする。


そんなことを考えていると、突然コンビニの店員がピンクの消化剤を噴射させた消火器を持って飛び出してくる。「どうした!}と声をかけると、「消火器が爆発した」という。良く聞くと、「棚に在ったものが消火器の上に落ち、爆発した」と興奮しながらいっている。落ちてきたものが偶然レバーを押してしまったのだろう。店の中も、店の前の駐車スペースも消化剤でピンク色に染まってしまった。火事でなくてよかった。しばらくして店員は店の中に戻って行った。買い物に来た女性客は状況を見てそのまま帰ってしまうが、男性の客は平気で店に入り買い物をしていっている。この状況では、店内の多くの商品が、消化剤によってピンクになってしまっているであろう。
大渡でR121と合流。ここで鬼怒川を渡る。大谷川、鬼怒川とも利根川に注いでいる。
小学生、高校生が挨拶をしてすれ違ってゆく。今日は比較的順調に歩いている。民家は点在するが、変化の無い風景が続く。車の通行量だけが激しい。歩道が無く、申し訳程度の路側帯があるだけだ。気をつけて歩かなくてはいけない。AM11:10塩谷町役場で小休止。



「遥に一村を見かけて行に・・・農夫の家に一夜をかりて」
と芭蕉が書いているように、遥か遠くの村を目指してゆくうちに、雨が降り出し、日も暮れてきた。やむ終えず農家に宿を求めたのが、玉入(現在の塩谷町玉入)の里である。今では「芭蕉通り」の道標が道端にある。また芭蕉の泊まったと思われるところに、「芭蕉一宿」の碑がある。


再び歩き出すが、しばらく歩くと食堂を見つけ昼食をとる。少し昼には早いと思ったが、食事は、食堂を見つけたところでとっておかないと、次はいつ見つかるか解らない。朝は調子がよかったが、急に疲れが出てくる。特にかかとが痛くなり、あがらなくなってきている。今日は足の裏は比較的良い。一つがよくなると、一つ悪いところが出てくる。ずっと、この繰り返しかもしれない。昨日、明日訪れる予定の黒羽町に宿が見つからなかったため、宿泊センターに依頼しておいた、その返事が入ってくる。早速、予約を入れておく。
上り、くだりの坂の連続だ。昨日楽をしたためか今日はかなりきつい。それでも木陰が多く、助かる。遥か遠く田圃のかなたに矢板の町が見えてくる。目的地が見えているのに、なかなか着かないというのも非常に疲れる。町並みには着いたが、ホテルは東北線の矢板駅の反対側と聞いている。これも疲れをさらに増幅させた。PM3:50ホテル着。夕食をとりに出かけるまで、部屋で休む。
虫干しの意味とチェックのため、リュックの中身を全部ベッドの上に広げる。曽良日記と、自分で作った行程表で明日歩く行程を確認、デジカメの画像をパソコンでCDに落とし、日記をやはりCDに入れ、女房にメールを打つ。これは毎日の最低限の日課になっている。明日は黒羽だ。芭蕉は黒羽には13日間ほど滞在している。








おくの細道
那すの黒はねと云処に知人あれは これより野越にかゝりて 直道をゆかむとす 遥に一村を見かけて行に 雨降り日暮るゝ 農夫の家に一夜をかりて 明れは又野中を行 そこに野飼の馬あり 草刈おのこに なきよれは 農夫といへ共 さすかに情しらぬにはあらす いかゝすへきや され共此野は東西縦横にわかれて うゐうゐ敷旅人の 道ふみたかへむ あやしう侍れは この馬のとゝまる処にて馬を返し給へと ちいさきものふたり馬の跡 したひてはしる ひとりは小娘にて 名を かさね と云 聞なれぬ名の やさしかりけれは
    
かさねとは 八重撫子の 名成へし        曽良
頓て人里に至れは あたひを鞍つぼに結付て 馬を返しぬ
曽良日記
鉢石ヲ立、奈須・大田原へ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリニ十丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカゝリ、大渡リト云 馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲ カリ橋有。大形ハ船渡シ。船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。同晩玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家 入テ宿カル。同三日 快晴。辰上剋、玉入ヲ立。鷹内ヘニリ八丁。鷹内ヨリ ヤイタヘ壱リニ近シ。
お休み処
この今市から矢板への道は、芭蕉が「これより野越にかゝりて」「遥に一村を見かけて行に」「明れは又野中を行」「され共此野は・・・・道ふみたかへむ」と書いているように、通行の難所であったと思われる。今でも野、山、森、田、畑が連なり、当時の往来はさぞ大変だったのだろうと、その様子が伺われる。しかし当時からこのルートは矢板、黒羽、那須また仙台方面から日光に至る、主要なルートだったのである。今では国道となっている。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム