遊 旅人の旅日記
日光から今市に戻る | |
昨夜、今日のスケジュールを考えた。芭蕉の歩いたと思われる道、今市の手前を左に入り、矢板ー日光の旧日光街道(R121)を一気に、矢板まで歩いてしまうか、または、今市まで戻るか。日光ー矢板間は32〜34kmある。まだ足の裏の状態はよくない。今市まで戻ることに決定。 AM8:30ホテルを出発。今日はゆっくりだ。距離も短い。のんびり行こう。しかし歩くのに、あまりゆっくり歩くと、リュックの重さで、ふらついて、かえって疲れてしまう。歩くときはしっかり足と腰に力を入れて歩かないといけない。リュックもまだ肩に食い込んで痛い。 日光の町を出てしばらく歩くと、道が二手に分かれている。左に行くと旧道だ。道の分かれるところに、「日光杉並木の物語」と言う看板があり、杉並木の由来が書いてある。 旧道の杉並木を歩いてゆく。車は進入禁止なのか全く入ってこない。歩くには快適な道だ。自転車に乗った若いカップルが挨拶をして通り過ぎてゆく。50才代であろうかウォーキングをしている女性がやはり挨拶をして通ってゆく。また小型のリュックを背負った自転車でツーリングをしている若者が走り去ってゆく。気持ちの良い朝だ。この杉並木には排気ガスも見えない。左下に川が流れている。良い雰囲気の杉並木だ。鹿沼ー今市間の杉並木もこのように整備をすれば良いのにと思う。道路脇の小さなベンチに腰を下ろし、しばし休む。徳川家康の遺訓「人生とは、重き荷を背負って、長き道を行くが如し」が頭に浮かんでくる。実際、歩く厳しさと、人生とが重なり合い、まさにその通りだ、と実感する。いろいろ考えをめぐらせているうちに、<芭蕉達は着替えなどはどうしたのだろう>と考える。「奥の細道」本文の、旅立って最初の日の記述に、「痩骨の肩にかゝれる物 先くるしむ・・・・・さすか打捨かたく日々路頭の煩となるこそ わりなけれ」とあり、着るものと言へば、紙子と浴衣と雨具だけである。もっとも、当時はこれだけ持って旅に出られれば充分だったかもしれない。私は、8日分持ってきている。8日分あればどこかで洗濯できる。もっとも芭蕉は現代風に言えば、著名人・有名人である。全国に知人・門下生は沢山いる。何処に行っても洗濯したり、調達でき、そのような点ではあまり心配の無い旅だったのであろう。 |
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AM10:00杉並木の横に公園がある。「杉並木公園」である。中に入ってゆくと、萱葺き屋根の家がある。昔の名主の家を移築したものである。中に土産物、特産品を扱っている売店がある。売店を管理している女性が、「先日虫が出て消毒したばかり、まだ消毒の臭いが残っているが、申し訳ない」という。家の外を見て回っていると、座敷に箒をかけていた年配の男性が、私の姿を見て、「縁側が涼しいから休んでいきなさい」といってくれる。お言葉に甘えて縁側にリュックを下ろし、休ませてもらう。涼しくてほっとする。昔の日本の家屋というものは、見ているだけでほっとする。 この公園は、上今市駅まで続いているという大きな公園だ。歩くと15分ほどかかる、園内には、世界の水車が14個あり、お線香を作るため、杉の葉を粉にする水車もあるという。 PM2:00頃ホテル着。一昨日と同じホテルだ。再び市内散策に出かける。今市宿市縁広場、報徳二宮神社をめぐりホテルに帰る。 |
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よりみち | お休み処 |
今市市に報徳二ノ宮神社と言う神社がある。二宮尊徳のお墓がここにある。二宮尊徳、二宮金次郎である。私達小学校・中学校の頃は、何処の学校にも、校庭に、薪を背負い、本を読みながら歩いている姿の像があった。苦労をして勉学に励むというシンボルではあったが、詳しいことは知らなかった。 幼い頃から仕事、勉学にいそしみ、24才で家を再興し、その手腕を見出され、各地で農業振興の依頼をされ、業績を上げた、農政のエキスパートである。今の栃木県二宮町に住み、後には今市に住んで晩年を迎えた。この神社には尊徳に関する多くの資料が保存されている。 |
日本の家屋は、夏涼しく住めるように考えられている。夏は、障子、襖を取り外してしまうと、天井と床の間は、柱、戸棚、階段、壁など一部の建具が残るだけである。風通しは非常によくなる。林の中にいるのと同じだ。これが湿気の多い日本の夏を快適に過すことが出来る日本の家屋の特徴だ。冬は、この今市・日光周辺は猛烈に寒くなる。しかし、戸、障子、襖を立て、火鉢、炬燵、地方によっては囲炉裏で暖が取れる。この「今市杉並木公園」の名主の家もその特徴を良くあらわしている。 各部屋、場所に名前がつけられている。座敷、茶の間、中の間、板の間、縁側、土間、仏間、床の間、神棚、手水場、湯殿、離れ、お勝手、井戸端、竃(ヘッツイ)、等々。 今では使われなくなったものもあるが、懐かしい名前である。 |
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 日光市(旧 今市市)公式ホームページ |
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