遊 旅人の 旅日記
今市から日光へ | |
AM6:05宿を出発。今市の町、そして杉並木を抜けると、前方にかすんだ男体山が現れる。 道路沿いのガソリンスタンドから、Tシャツとジーパンをきちっと着た体操の選手のような体格の良い人が近づいてくる。良く見ると某民放のアナウンサーにそっくりな温和な顔をしている。<「奥の細道」を,歩いて旅をしようと思っている。東京を発ってちょうど一週間、今日は日光に泊まる予定>と話すと<歩いて旅をしている人を時々見かける、非常に羨ましい、自分は学生時代各地を歩いて旅をしたことがある、55才になったらガソリンスタンドを子供に譲って、歩いて日本を一周するのが夢だ>と言う。若い頃の夢を抱き続け,人生を頑張り、チャンスが来たときに実行に移す、このような人は自分の夢を必ず実現できる人なのだろう、と思う。しばらく世間話をし、エールを交換してわかれる。相変わらず車の通りが激しい。気をつけて歩こう。 AM7:50今夜泊まるホテルに着く。荷物を預け出かける。まず駅に行く。どんなところに行っても、駅、観光案内所、市町村役場、図書館はその土地の情報を得る最良の場所だ。 日光には駅が二つ並んである。一つはJR日光駅。もう一つは東武日光駅。JRは東北線の宇都宮経由で、東武は浅草から直接、日光に入ってきている。東部日光駅の駅舎のほうが立派だ。 今日は荷物を背負っていない為か、足の裏も快調である。駅前から商店街を歩いてくると、外国人の姿が目に付く。ベンチで休んでいる中年の夫婦、パンフレットを見ながら楽しそうに歩いている女子大生位の二人連れ、一人でリュックを背負って急ぎ足で歩いている若い男性、さらに若い女性の三人組、皆外国の人たちだ。日本人の旅行客はほとんど見あたらない。外国から来た人たちは、日本での旅行を、一日24時間フルに使い、楽しもうとしているのだろう。私は、これから、裏見の滝、含満が淵、東照宮、養源院と歩く予定を立てる。 |
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駅前からメインストリート(R119)を東照宮に向かって歩く。日光市役所の手前あたりから町名が「下鉢石町」「中鉢石町」「上鉢石町」となる。芭蕉の泊まった「仏五左衛門の宿」は「鉢石の宿」と言う宿場にあり、今の「上鉢石町」辺りとされている。「鉢石の宿の跡」が、史跡として残されていると聞いていたが、つい見落としてしまった。鉢石の通りを東照宮に向かって歩くと、T字路の交差点にぶつかる。左に行くと東照宮入り口、「中禅寺湖」方面、右に行くと美術館、社務所方面。この交差点手前の橋が大谷川にかかる日光橋。すぐ左手(上流)にかかる朱塗りの橋が世界遺産に登録されている「神橋」である。 東照宮入り口方向にしばらく進むと、バスターミナルがあり、その前に泉水のある小さな広場がある。バスターミナルの事務所から出てきた女性が歩道に水をまき始めた。「この水は飲めますか?}と聞いたところ「美味しいから飲んでみてください。」と返事が返ってくる。試しにと思い飲んでみた。これが美味かった。まろやかな味の水だ。男体山から来る水だろうか。日光市にしても、今市市にしても、水の豊富な町で、側溝にも水があふれんばかりに流れている。 商店街(土産物店)を通り、上り坂を上ってゆく。田母沢会館を過ぎ日光高校の先、右方向「裏見の滝」の標識が得る。それに従い、右、やまの方向に入ってゆく。左下の雑木林の中からせせらぎの音が聞こえてくる。40分程歩くと滝の入り口に着く。舗装道路は終点だ。ここからは山に登ってゆく道と、滝に向かう路がある。滝の道を200mほど行くと緑の木々の間から滝が見え始める。緑の空間の中、幾筋もの金色の光が差し込み、その向こうに白い滝が見える。真中に一本太い滝があり、左側にすだれをかけたような細い滝が広がっている。右にも思い出したように小さな流れが見られる。滝壺の近くまで降りてゆく。滝のしぶきが周りの緑を煙らせ、冷気が全身を包み、心も体もリフレッシュする。芭蕉はここで「暫時は滝にこもるや・・・・」の句を読んでいる。また「奥の細道」に「岩窟に身をひそめ入て 滝の裏より見れは うらみの滝と申伝え侍る也」と書いているように、当時は滝の裏側まで行くことが出来たようだ、それで裏見の滝と名付けられたそうである。 カメラの撮影機材を持った二人が熱心に滝に向かってシャッターを切っている。しばし滝の雰囲気の中に身を委ね、英気を養い帰路に着く。 途中、畑仕事をしている人と、通りがかりの知り合いの人であろうか、大きな声で話をしている。趣味の数の話だ。通りがかりの人が、趣味は多い方が良い、趣味の数だけつきあいも広くなり、友達も増える、一つだけの趣味だと飽きてしまう、などと話している。その通りだ良いことを言っているな、と思いながら通り過ぎる。 あしの裏が痛くなり、痺れてしまっている。裏見の滝で岩場、石の上を歩いたためだ。 |
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土産物店の並んでいるところまで戻り、東照宮とは反対側、大谷川方面に道を入る。大谷川の橋を渡り、しばらく行くと含満児童公園という小さな公園がある。公園の中の道を進んで行くと、慈雲寺と書かれた門がある。中に入ると左側に本堂があり、その先道の山側にお地蔵様が並んでいる。「お化け地蔵」と呼ばれている。その奥右側に大谷川「含満が淵」がある。大きな岩と岩の間を川の水が、水しぶきを上げながら、ごうごうと流れている。淵と言うから水が淀んでいるのかと思えばそうではない。今の時期水の量が多いのかもしれない。岩と水流、周りの木々の緑の調和がすばらしい。水と緑のある風景は気持ちをさわやかにしてくれる。しばらく岩と戯れている水流、周りを覆っている緑の済んだ空気を楽しみ、東照宮に向かう。地蔵のところで、数を数え始めたが、途中でやめてしまった。 東照宮を正面から入り、「三猿」の彫刻のある「神厩」の前を通り、「陽明門」にゆき参詣、「二荒山神社」、家光の墓所である「輪王寺大猷院」、下新道を通り道沿いの資料館(博物館)?に寄り、庭にある芭蕉の句碑を見て「輪王寺」に行く。輪王寺から細い道を通り美術館、社務所のところに出る。社務所の横に「養源院」跡がある。芭蕉は江戸浅草の江北山宝聚院清水寺から、東照宮を参詣するための紹介状を持ってきたのである。今は案内板と杉林の中に二基の石塔が建っているだけである。 実は、私の家から、この日光までは、車で一時間半ほどで来るため、何度となく来ている。今回は歩いて「奥の細道」の足跡をたどっているということもあって、今までのように建造物を見て参詣する、というのではなく、大きな自然の中の建造物、またその雰囲気に興味、関心を持って、訪れたのである。芭蕉の詠んだ「あなたふと青葉・・・・」の句は、空を覆い隠している高い杉の濃い緑、、広葉樹の若々しい緑、道路の両側には苔むした石塁、濃淡の緑の空間の中、ところどころに金色をした日の光が差し込んでいる。芭蕉は、そのような東照宮の風景の中に、荘厳さ、厳粛さ、すがすがしさを感じ詠んだのであろう。その風景は今も、300年前も変わっていないのではないだろうか。また一方では、「千歳未来をさとり給ふにや、・・・・・・四民安堵の栖穏なり。」と平和な社会を築いた、家康の功績をたたえている。 今日は、木々の緑と太陽の光と水の調和を存分に味わった一日であった。 朝8時ちょっと過ぎにホテルを出て、すでに夕方5時に近い。よく歩いた。ホテルに帰りチェックインをし、しばらく休んで食事に出かける。ホテルで食事をすると予算をオーバーしてしまうため、外食をする。今回の旅は歩くのが目的のため、我慢、我慢だ。外に出るとすでに商店はほとんど閉まっている。明かりの点き始めた街の向こうに、茜色に染まった夕暮れの空を背景に、男体山と女峰山のシルエットが浮かんでいる。 |
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おくの細道 | |
三十日 日光山の麓に泊る あるしの云いけるやう 我名を仏五左衛門と云 万正直を旨とする故に 人 かくは申侍るまゝ 一夜の草の枕も打とけて休み給へと云 いかなる仏の濁世塵土に示現して かゝる桑門の乞食順礼こときの人をたすけ給ふにやと あるしのなす事に心をとゝめてみるに 唯無知無分別にして正直偏固のもの也 剛毅木訥の仁にちかきたくひ 知遇の清質尤尊ふへし 卯月朔日御山に詣拝す 往昔此御山を二荒山と書しを空海大師開記の時 日光と改たまふ 千歳未来をさとり給ふにや 今此 御光一天にかゝやきて恩沢八荒にあふれ四民安堵の栖穏也 猶憚多くて筆を指置ぬ あなたふと 青葉若葉の 日の光 黒髪山は霞かゝりて雪いまた白し 剃捨て 黒髪山に 衣更 (曽良) 同行曽良は河合氏にして惣五郎と云 芭蕉の下葉に軒をならへて 予か薪水の労をたすく 此たひ松嶋象潟の眺共にせむ事をよろこひ 且は「き」旅(きりょ)の難をいたはり 旅立暁 髪を剃て墨染にさまをかへて 惣五を改て宗悟とす (よっ)て黒髪山の句有 衣更の二字力有てきこゆ 二十余丁山を登って滝有 岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧(たん)に落 岩窟に身をひそめ入て滝の裏より見れは うらみの滝と申伝え侍る也 暫時は 滝にこもるや 夏の初 |
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曽良日記 | |
四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上剋、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日曇、午ノ剋、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。太楽院ヘ使僧ヲ添被。折節太楽院客之有、未ノ下剋迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四。同二日 天気快晴。辰ノ中剋、宿ヲ出。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク午及。 | |
よりみち | お休み処 |
東照宮 <・・・また秀忠に向き直り、淡々とした様子で死後の処置の相談に入った。・・・出来るだけ早く秀忠は、遺体を久能山に移し葬るべきこと。・・・「一周忌を過ぎたらの、下野の二荒山に小堂を建てて勧請してくれるように・・・これによって家康は関八州の鎮守になりたい。」>これは「徳川家康」(山岡荘八)の一節で、家康が秀忠に遺言を託す場面である。 久能山東照宮 1616年(元和2年)家康薨去。二代将軍秀忠が家康の遺言に基づいて創建したもの。一年間程、家康の墓はここにあったと思われる。翌年、東照大権現の「神号」をもらっている。静岡市の駿河湾に面した、絶景の場所にある。正面からは、1159段の階段を上ってゆく。北側からは日本平からロープウェイで行くことが出来る。眼下には駿河湾が開け、山の斜面には、一面に、石垣イチゴの畑が広がっている。 日光東照宮 家康が薨去した翌年、1617年(元和3年)秀忠により創建される。遺言どおり一周忌の後、建てたのである。三代将軍家光の時、新たに建替えられ、今日のような絢爛豪華な社殿群となった。また後に、五重塔などが次々と建てられ、今日のような、より多くの社殿群を形成するようになった。今では、世界遺産として登録されている。 世良田の東照宮 徳川の発祥の地である群馬県新田郡尾島町世良田にある。三代家光が日光東照宮の奥社を移築したものである。徳川と言う地名は今もある。家康は先祖発祥の地名を採って松平から徳川に変えたと云われている。 上野東照宮 1627年(宝永4年)やはり家康の遺言により、天海僧正と藤堂高虎が造営したもの。 東照宮と言われるものは、このほか各地に見られる。 養源院 1626年(宝永3年)水戸頼房の養母、英勝院が、妹であり家康の側室であった於六(おりく)の方の菩提を弔う為建てた寺である。養源院とは於六の方の院号。 |
「日光」の名前の由来について 芭蕉は「此の御山を<二荒山> と書きしを、空海大師開基の時、<日光>と改め給ふ。」と書いている。「二荒」は「にこう」と発音できる。「にこう」→「日光」と改めたと言っているのである。「二荒山」とは「男体山」のことであり、頂上には二荒山神社の奥社がある。もともとの「ふたら」は「補陀落」と書き、観世音菩薩の治める浄土であると聞く。観世音菩薩の治める浄土に「男体山」と男という字を使うのもおかしいと思うのだが。 眠り猫 陽明門を入って右に行くと奥社に通じる坂下門がある。その門の上部にある。江戸初期の彫刻師「左甚五郎」により彫られたものである。「ふとどき者はここから先は通さぬ」と言う意味の、番犬ならぬ番猫なのか。猫は目を閉じてじっとしていても、眠っているのではないらしい。無駄な動きをしないで、じっとエネルギーをためているのだそうだ。そういえば本当に寝るときは、横になり足を伸ばしてしまっている。犬に比べ省エネタイプの動物だ。 三猿 神厩舎にある。神厩舎は東照宮最初の門、「表門」を入ってすぐ左手にある。今は馬は入っていない、と思う。此の建物の上部側面に三匹の猿がいる。「見ざる、聞かざる、言わざる」である。しかし此の三匹の猿は彫刻の一部である。というのも、この彫刻は物語になっており、猿の一生を描くことで人の生き方を教えているのだそうだ。神厩舎の周りに、8ページ(8シーン)に渡って展開されているという。 東照宮の各建物に施された彫刻を研究してみると面白いと思う。有名なのは、陽明門の柱、一本だけ模様が逆さまに彫られている。この意味は、すべて構築物は完成した時点から劣化、退化が始まる。そこで陽明門は、一本の柱の彫刻をさかさまにすることによって、、まだこの建物は未完成です、劣化、退化は始まらないでください、と言う願いがこめられているのだそうである。 また彫刻の中には、先人の教え、生き方を物語っているものがあり、お願いをすれば説明をしてくれる神官がいると聞く。 東照宮から北に行くと「いろは坂」、「華厳の滝」「中禅寺湖」「竜頭の滝」「戦場ヶ原」「日光湯元温泉」と名所が続いている。一年を通してすばらしいところだが、新緑、又紅葉の日光は特にすばらしい。 |
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 日光市公式ホームページ |
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二荒山 麓に眠る 大権現 木洩れ日や 光まばゆい 東照宮 含満の 淵に導く 化け地蔵 (遊 旅人) |