遊 旅人の 旅日記

2003年6月30日(月)晴れ一時小雨のち曇り

花泉から平泉へ
AM5:20 宿の女将に見送られ出発。晴れて気持ちの良い朝だ。R342を一関方面に向かって行く。町を外れてしばらく行ったところに、<宿場町 金沢 入り口>の看板がある。昨日、宿の主人が言っていた<古い町並み>が残されているところだ。曾良は「(馬ニ乗)一リ、加沢(金沢)。三リ、・・・」と書いている。各々の家に趣のある門燈が掲げられている。ほのぼのとする雰囲気の町並みだ。その町並みを抜け田圃と畑の中の道を進むと、R342にぶつかる。


R342沿いのコンビニで小休止。今日は体調が良い。山々の緑も冴え、田圃を渡ってくる風も気持ちが良い。
鶯の鳴き声が、澄みわたった朝の空気を通して聞こえてくる。今の季節になっても、鶯は「ホーホケキョ」と鳴いている。
昔、季節を過ぎた鶯は「ホーホケキョ」とは鳴かないと聞いた記憶がある。もっとも<鶯の季節>と言うのも、はっきりしない話ではある。
私の生家は静岡県の遠州灘に沿った小さな町である。梅の花は正月を過ぎると咲き出し、鶯は、ニ月から三月ごろの春先にかけ鳴いていたように思う。そのため<鶯は冬から春先の鳥>とのイメージがある。
そういえば、先日、鹿沼や今市、日光や矢板の森・山を歩いた時も、鳴いていた。
また鶯の鳴き声は、混声、合唱は無く、常に一羽だけの声のように思う。
どちらにしても、気分を爽やかにしてくれる、鳴き声だ。


道が長い登り坂になる。昨日も高原のアップダウンの激しい道を歩いてきた。曾良日記に
「・・・、加沢(金沢)。三リ、皆山坂也。」と、このあたりの道路の状況が書かれている。
道を登りきったところで一関市に入る。山には多くの松の木が植えられている。ところどころに形の良い松の木が見られる。
坂を下りしばらく歩くと新幹線の高架が見えてくる。懐かしい感じがする。高架をくぐると道がT字路になり、右、一関市街方向に進む。ここではR342は新幹線と東北線に挟まれて一関市内に向かっている。東北線の列車が通る。新幹線が、高架を轟音を立てて走り去ってゆく。自然に囲まれて歩いてきたのが、一気に文明社会に引きずり込まれたような感じになる。


東北線のガードをくぐると市内に入る。一関市のメインストリートである。<一関駅>を右に見て、商店街を進むと、またT字路になる。左・平泉方向に行く。磐井川にかかる磐井橋があり、橋の手前、左手に
「松尾芭蕉 二夜庵跡」の大きな看板が目に飛び込んでくる。
曾良が
「一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。」と言っている宿泊場所<金森家>があったところである。芭蕉たちは、登米からこの一関に、夕方に入り宿をとっている。到着した翌日、平泉に行き、その日に帰ってきて、もう一泊している。
磐井橋を渡ると、大掛かりな道路工事をしている。そこの信号機を右に曲がる。しばらく歩いて、東北線山目駅で小休止。小さな無人駅である。
駅は最良の休憩場所である。ほとんどの無人駅は、トイレ、ベンチ、自販機が備えられている。
10分ほどの休憩の後、再び平泉に向かい歩き出す。12:10平泉の宿に到着。
































荷物を宿に預け、<毛越寺>に向かう。
門を入るとすぐ左側に、芭蕉の句碑が在る。
中に進むと、緑のじゅうたんを敷き詰めたような、趣のある木々が立ち並ぶ広大な
<浄土庭園>がある。
二代藤原基衡の時代には、絢爛豪華な伽藍が立ち並んでいたと云う。
遣水があり、曲水の宴を楽しんでいる優雅な姿をした人達が出てきそうな情景である。


毛越寺をでて、すぐ近くにある役場に寄る。展示されている資料に一通り目を通させて頂く。血圧計を見つけ、血圧を測る。(125-77−53)役場を出ると、雨が降ってくるが、すぐに止む。
<無量光院>を目指す。田圃の中にひっそりと跡がある。他の史跡が良く整備されているのと比較すると、ちょっと寂しい思いがする。発掘調査中なのである。この無量光院の建物の形は、宇治の平等院を模して建てられたと案内板に説明されている。池の跡、建物の礎石、中島などが見られる。


残念な気持ちを引きずって、義経の居館があった
<高館>に向かう。小高い山に登ってゆくと頂に<義経堂>があり、中に甲冑姿の義経の像がある。この義経堂は1683年に建てられたと言うから芭蕉の訪れる6年前だ。
義経が
<泰衡>に攻められ自刃したところでもある。
芭蕉は、この高館にのぼり、家臣の献身的な戦いにもかかわらず、悲運な最後を遂げた
<義経>への想いが泪を誘い、時の過ぎるのを忘れてしまったと「奥の細道」に書いている。
そしてここでよんだ句が

  
夏草や 兵共か 夢の跡

である。その句碑が建っている。
眼下には武蔵が立ち往生をして最後を遂げたという
<衣川>、その向こうには、<清衡>が1万本の桜を植えたという<束稲山(たばしねやま)>が望まれる。曾良が<桜山>といっている山である。今では躑躅の名所という。


高館を後にして
<中尊寺>に向かう。もうすぐPM5:00だ。今から中尊寺を見るには時間がない、と思いながらも中尊寺に向かい歩いてゆくと大きな松の木の下に、<武蔵坊弁慶之墓>と書いた石碑がある。衣川で立ち往生した弁慶の遺骸を葬ったところである。五輪の塔を立て、松の木が植えられたようだ。五輪の塔は今はない。石碑の後ろに塔の石らしきものが置いてある。
何代目の松の木になるのだろうか、力強い松の木が、石碑を覆うように立っている。


あすは、じっくりと
<中尊寺>を見学しよう。平泉郷土舘のまえを通り、<金鶏山>の麓の道を宿に向かう。

おくの細道
三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は 一里こなたに有 秀衡か跡は 田野になりて 金鶏山のみ形を残す 先 高館にのほれは 北上川南部より流るゝ大河也 衣川は和泉か城を めくりて高館の下にて大河に落入 泰衡等か旧跡は 衣か関を隔て 南部口を指かため ゑそを ふせくと見えたり さても義臣すくって 此城に籠り 功名一時の草村となる 国破れて山河あり 城春にして 青ゝたりと 笠打敷て 時の うつるまて なみたを 落し侍りぬ

    
夏草や 兵共か 夢の跡

    卯花に 兼房みゆる 白毛哉  (曾良)


曾良日記
(馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
十三日、天気明。巳ノ剋ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。
よりみち
毛越寺 天台宗の寺 850年・円仁の開基 1105年 二代藤原基衡が再建 中尊寺をしのぐ大きな寺であったという。金堂円隆寺をはじめ40余の大伽藍があったが、度々の火災で建物は焼失し、今では、金堂や講堂などの礎石や遺構が、ひっそりと残っている。浄土庭園は平安時代を忍ばせる、美しさを見せている。池に面して常行堂があり、また校倉造りの開山堂がある。



無量光院 三代藤原秀衡が宇治の平等院に範をとって造営したという寺院。やはり火災により焼失。今では一帯は水田となっているが、池の跡、建物の礎石、池の中の中島がわずかばかり残っている。
おやすみ処
義経のチンギスハン伝説 義経は頼朝の兵に追われたが、蝦夷に逃げ延びる事が出来た。そして海を渡りモンゴルに入り、チンギスハンになった、と云う伝説である。
<判官びいき>と云う言葉があるように、当時、義経は多くの人々に慕われていたと言う。そのような時に<義経は最後、自刃して果てた>と知れ渡ると、人々に与えるショックは非常に大きい。そこで、<自刃したのは義経ではなく、影武者であり、本人は逃げ延びた>と云う話を作って人々を安心させた、と言うものである。600年近く後になる江戸中期、芭蕉の研究家<蓑笠庵梨一(さりゅうあん りいち)(1714〜1783)>は「奥の細道菅菰抄(すがごもしょう)」のなかで次のように書いている。

鎌倉ヨリ義経追伐ノ聞エアリ。是ニ於テ、三子ヨク父(藤原秀衡)ノ遺命ヲ守リ、国衡、泰衡ハ、高館ヲ攻メ、忠衡は、義経ニ代リ、自殺シテ焼死シ、人ヲシテ其形ヲ知ラシメズ。近臣亀井、片岡、弁慶ガ徒ヲモ、亦各人ヲ代ヘテ戦死セシメ、義経ヲバ、近臣ト倶ニ蝦夷ヘ送ル。其後国衡、泰衡、兄弟モ亦終ニ頼朝ノ為ニ亡ボサル。義経ヲ蝦夷ニテハ、ギクルミト云。後ニ義経、中華ヘ渡リ、名ヲ義行ト更メ、仕テ列侯トナリ、義行王ト称ズ、ト云リ。・・・・・・・・・今ノ中華ハ、韃靼人ノ治ニテ、世ヲ清ト云う。其ノ先ハ義経ヲ祖トス。故ニ世号モ亦清和源氏ノ清ヲ取ト。乃チ清朝ニテ撰述セシ図書大成ト云書ニ載スト聞ヌト。按ズルニ、今清朝王城下ノ戸戸、義経ノ画像ヲ門柱に粘事、蝦夷志ニ見エテ、玄武房ノ談ト符合ス。義経高館ニ死セズ、蝦夷ヲ経テ、中華ノ渡ル事ハ、実ニシテ明カナリ。

加沢(金沢・花泉町)から一関までの道 私は<花泉>を発ち金沢の宿(加沢)を通りR342(一関街道)に出て、この道が<芭蕉達が歩いた道>に違いないと思い込み、ひたすら<一関ー平泉>へと歩いてきた。しかし、地図をよく見ると、金沢から一関までは、私の歩いてきた道(一関街道)とは違う道に、<道・100選 奥の細道ゆかりの道>と明記されている。こちらの道が芭蕉達が歩いた道なのだ。何度も地図を確認したにもかかわらず見落としてしまった。
旅を進めて行く中で、「奥の細道」「曾良日記」に出来る限り忠実に歩こうと思っているが、当然、今の道とは異なる場合が多い。同じ場合もある。旧道が保存されていても、歩くことが出来る道・歩くことが出来ない道がある。しかし今回は、地図に書いてあるにもかかわらず見落とした、単純であるが重大なミスをおかしてしまった。反省することしきりである。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

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