遊 旅人の 旅日記

2003年6月27日(金)曇り

松島から石巻へ
AM5:25出発。R45を北上。高城川沿いの道を歩く。松島町高城地区である。町並みを過ぎると民家はほとんど無くなる。しばらく行くと行手に高速道路が走っている。高速道路に沿ってR45は右にカーブをする。田圃と緑の多い木々に覆われた山だけの風景の中を7〜8km歩く。芭蕉が「人跡稀に 雉兎芻じょう(ちとすうじょう)の往かふ道そこ供わかす 終に道ふみたかへて」と言っているのはこの辺りのことであろう。そんな芭蕉の姿を想像しながら歩く。
景色がひらけると目の前に川がある。道は堤防の上を走る。対岸には、町並の風景が見られる。
鳴瀬大橋を渡る。良く見ると川は二本流れている。真中に堤防があり、西側は吉田川、東側は鳴瀬川である。別々の川が合流しないで堤防をはさんで平行して流れている。川を渡ると先ほどの風景とは打って変わって、町の雰囲気になる。
地図を見ると曾良日記に出てくる<矢本・小野。根古>と云う地名が今でも周辺に見られる。


仙石線の矢本駅で小休止。こじんまりとした新しい感じの駅だ。しばらく乗降する人々を見ていると、駅員が新しい自動券売機の前で切符の買い方を説明している。また自動改札の説明もしている。そういえば、<岩切>の駅でも同じ光景を見た。この仙石線の沿線では自動改札化を進めているのだ。省力化になり、乗降客にとっては便利になるだろう。


ものすごい爆音が突然聞こえる。音の方角を見るとジェット機が次々と飛び立っている。すぐ近くに航空自衛隊松島基地があるのだ。この周辺の住民は、騒音で大変だろうなとつくづく思う。


石巻市内に向かって行くと、道がR45とR398に分かれる。R398に道をとり少し行くと、また道が分かれる。石巻駅を目指す。標識を見ると左へ行くと遠回り、まっすぐの道が近道のように見える。まっすぐの道を選ぶ。まっすぐの道は山越えだ。かなりの坂道だ。登り始めて後悔をする。このようなときに限って今まで曇に隠れていた太陽が顔を出し、思い切り照り付けてくる。
小康状態だった右足の脛の痛みが出てくる。登ったからには下らなくてはいけない。下りはかなり足に負担がかかる。下り終り、飲み屋街を通り商店街に出る。宿を確認すると<石巻グランドホテル>の前にあると言う。石巻グランドホテルを目指してゆくとすぐに見つかる。
PM1:30宿に到着。荷物をフロントに預け、市内の観光地図をもらい 出かける。



大嶋神社



「袖の渡り」の碑



住吉公園




住吉公園の「巻き石」




日和山・鹿島神社




日和山公園の「芭蕉と曾良の像」
宿を出て、(旧)北上川に向かう。町並みを抜け(旧)北上川に下りてゆくと、大嶋神社がある。正式名<延喜式内社大嶋神社>と云う。曾良が、<住吉の社>と言っている神社である。
参道の横、(旧)北上川に向いて
<袖の渡り>の碑が立っている。ここが昔、船着場のあった<袖の渡り>である。続いて住吉公園がある。小さな島があり赤い橋が架かっている。横に枝を伸ばした松がある。その松の木の下に小さな岩が川の中に横たわっている。<巻き石>と言い、<石巻>の語源になった石と言う。


川の中にある大きな島(対岸と思ったが川の中にある大きな島である。)にUFOのような形をした建造物が見える。
<石ノ森萬画舘>である。石ノ森章太郎の漫画をテーマにしたミュージアムと言う。


川沿いを歩き
<日和山>に向かう。かなり傾斜のきつい坂を上る。こんなにきつい坂でも車が登れるように、スロープになっている。、両側に階段がついており、人が歩けるようになっている。登りきると、茶店があり、<鹿島神社>がある。拝殿に近い鳥居をくぐり階段を登った右側に芭蕉の句碑が在る。
 
雲折々 人を休める 月見かな

一帯は
<日和山公園>と言う。城跡でもある。北上川が眼下に流れ、石巻港から石巻湾まで見渡せる。神社に参拝をし公園内を歩くと、芭蕉と曾良の像を見つける。
芭蕉も、この同じ日和山に立ち、
「こかね花咲と よみて奉りたる 金華山海上に見渡シ 数百の廻船 入江につとひ 人家 地をあらそひて 竈のけふり 立つゝけたり 」と当時の町、港の繁栄振りを書いている。


この北上川は、陸奥地方の米をこの石巻まで運びだす重要な輸送路であり、河口の石巻は、江戸・大阪に回米するための一大集積地であった。
さらに古くは、金華山で採れた砂金を奈良、京都に積み出していた重要な港であったのである。
金華山(陸奥山)のある島の磯からは砂金が採れ、聖武天皇のとき献上されたという。この砂金は東大寺大仏の箔代にされたと言う。続日本紀に
「聖武天皇 天平21年 陸奥小田郡の黄金貢」と書かれていると言う。


芭蕉は、奥の細道の中では、「道をたがえて」と言っているが、この石巻周辺には数々の歌枕があり、もともと訪れようと思っていたのではないかと思う。

おくの細道
十二日 平和泉と心指 あねはの松 緒たえの橋なと 聞伝えて 人跡 稀に 雉兎芻じょうの往かふ道そこ共わかす 終に道ふみたかへて 石の巻といふ湊に出ス こかね花咲と よみて奉りたる 金花山 海上に見渡シ 数百の廻船 入江につとひ 人家地をあらそひて 竈のけふり立 つゝけたり おもひかけす かゝる処にも来れる哉と 宿からんとすれと 更 宿かす人なし 漸々まとしき小家に一夜を明して 明れは又しらぬ道まよひ行 袖のわたり 尾ふちの牧 まのゝ かやはらなと よそめにみて はるかなる堤を行 
曾良日記
 十日 快晴。 松島立(馬次ニテナシ。間ニ十丁計)。馬次、高城村(是ヨリ桃生郡。弐里半)、小野(四里余)、石巻、仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共与不。刀さしたる道行人、年五十七、八、此体を憐テ、知人ノ方ヘ壱丁程立帰、同道シテ湯を与可由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵へと尋、宿借可之由云テ去ル。名ヲ問、小野ノ近ク、ねこ村(根古)、コンノ源太左衛門殿、教如、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云へ上ル。石ノ巻中残不見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト<渡波>云)・遠島・尾鮫ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡り、鳥居の前也。 
おやすみ処
石巻の宿 芭蕉たちは石巻では<四兵>に宿をとっている。
「奥の細道」の中で芭蕉は
「宿からんとすれと 更 宿かす人なし 漸々 まとしき小家に一夜を明して・・・」と言っているが、曾良日記では、行き掛かりの、57,8歳の親切な武士<コンノ源太左衛門>に「四兵ヘと尋、宿借可之由」と宿を紹介され、この<四兵>に泊まったと記されている。
後で(私の旅が終わって日記を整理しているとき)判かったことであるが、この
<四兵(沼倉という旅籠)>は私の泊まった宿の前にあった、石巻グランドホテルの場所であり、現在、そのホテルの横に<芭蕉一宿の地>の碑があると言う。目の前にあったにもかかわらず見逃してしまった。


芭蕉は、紀行文・俳文の作風として
「笈の小文」の中で<抑(そもそも)、道の日記といふものは、・・・・其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたり、などいふ事、たれ々もいふべく覚侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば云事なかれ。>といっている。つまり紀行文と云うものは、旅の事実をその通り書いても意味が無く、黄山谷や蘇東ハの新しさ、珍しさが無ければ書くべきでないと言っている。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

石巻市公式ホームページ