遊旅人の旅日記

2003年6月26日(木)曇

多賀城から松島へ
AM5:25出発。雨はあがっている。塩竈市に向かう。宿のフロントの人に塩竈神社の場所を聞き、出発。昨日、多賀城のボランティアの人も、直接ならば多賀城跡から塩竈神社への距離は近いと言っていた。
自衛隊の基地の前の広い通りを塩竈港に向かい歩く。しばらく歩くと港特有の平胆で、広い地域に出る。岸壁に出てしまわない手前で左に曲がり塩竈市街に向かう。線路を越すと本塩竈駅前の繁華街に出る。塩竈神社方面の案内に従い工事中の道を進むと、右に塩竈神社がある。


塩竈神社は、<陸奥の国一ノ宮>として崇敬されてきており、伊達政宗が再建をしている。
参道を入ってゆくと山の斜面にぶつかり参道が左右に分かれる。そのT字路のところに、
<芭蕉止宿の地>の案内板がある。芭蕉が奥の細道に「其夜目盲法師の琵琶をならして・・・辺国の遺風わすれさるものから殊勝に覚らる」と書き、曾良が「宿、治兵へ。法連寺門前」と書いている宿がここにあったのであろう。<塩竈神社別当法連寺>は明治四年に廃寺となったと案内に記されている。
偶然見つけた、「芭蕉止宿の地」の案内に、なぜかものすごく得をした気分になる。


左方向、木々に覆われた緩やかな石段を登ってゆくと左下から登ってくる古い土の道がある。
<七曲坂>といい、塩竈神社の創建当時の古い参道である。鳥居をくぐり、いくつかの石段を登り門をくぐると神社の空間に出る。
大きな、きれいな神社だ。静かである。小鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。頭の上に見える空は明るいが、深山の中の霊験新たかな雰囲気を持っている場所である。
まだ7時少し過ぎたばかりなのに、散歩・ウォーキング途中の人たちが参拝をし、立ち去ってゆく。白装束姿の神社の人たちも活動を始める。朝一番の散歩・ウォーキング・ジョギングの途中、この神社に立ち寄り参拝をし、一日が始まる。山有り、海有り、良い神社有りで、塩竈に住む人たちは幸せだと思う。
唐門を入り拝殿で参拝をする。拝殿に向かって右側に、赤く錆び、柵に囲まれた古い灯篭がある。
「神前に古き宝ー燈有 かねの戸ひらの おもてに 文治三年和泉の三郎寄進と有」と奥の細道にある<文治の燈籠>である。文治三年と云うと1187年と云うから今から816年前のものだ。


参拝を済ませ
「古き宝燈」を見て唐門を通り戻ってくると正面に大きな門がある。待てよ!来たときは、この門をくぐらなかった。門をくぐり石段を下ると、また長い石段がある。こちらが正面の参道だ。境内の案内図を見ると、こちらが表参道(表坂)、私が登ってきたのは東参道(裏坂)とある。また横から入ってきてしまった。芭蕉は表坂を上ってきたようである。「石の階九尋(九仞)に重り 朝日のあけの玉かきを かゝやかす」と書いている。急な石段で202段ある。リュックを背負い、鞄を持って、この石段を上り下りするのは無理だ、足を滑らせたら一気に下まで転げ落ちてしまう。帰りは、さらに違う道を下り、町中に下りてくる。


塩竈神社・東参道(裏坂)鳥居



塩竈神社本堂



塩竈神社・随身門



塩竈神社・文治の燈籠

まがきが島

塩竈湾(千賀の浦)

五大堂
塩竈から松島までは船で行こう。芭蕉も船で行っている。
財布の中身を確かめると1,500円しか入っていない。まだ8時だ。銀行も開いていない。JR本塩釜駅で松島までの乗船賃を尋ねる。1,480円と言われる。助かった。朝飯は抜きだ。すぐに桟橋に行く。次の出発は 8:30。ちょうど良い。
30分おきに松島行き(芭蕉コース)が出ている。所要時間は50分。この船の松島までのコースは、芭蕉が通ったコースと同じと案内がされる。


出発するとすぐに
<まがきが島>の案内がある。島の後ろは煙突の並ぶ工場群だ。次に<千賀の浦>の案内もある。つぎつぎと通り過ぎる島を、デジカメに収めていると、アナウンスをしていた女性が近寄ってきて、しばらくいろいろと島を説明してくれる。今、この船の乗船客は、毎日利用している常連客のようだ。見知らぬ客は私一人だったのかもしれない。


50分の遊覧の後、松島の船乗り場に到着。まずホテルに直行し荷物を預ける。まだAM9:30である。ホテルでは、まだチェックアウトの客がロビーに沢山いる。
フロントの女性に銀行の場所を尋ねると、申し訳なさそうに、ここから2kmほど行ったところに一軒あるだけだという。歩いて30分だ。たいした距離ではない。先ず銀行に向かう。
この街は、いわゆる<松島>と言われているところは、五大堂や瑞巌寺のある観光の中心となっている場所である。町(行政の)の中心は銀行や役場のある少し離れたところである。
帰りに役場による。中に展示してある資料に一通り目を通し、新聞を読ませてもらい、さらに血圧を測る。     (101-71-49)
観光地に戻り、<五大堂>に行く。この五大堂のある島に渡るには二つ橋を渡る。この橋は<すかし橋>と言い、足元から下の海が見える。この五大堂は坂上田村麻呂が建立、伊達政宗が桃山式建築手法を取り入れ再建したものである。


次に
<瑞巌寺>に行く。正式名<松島青龍山瑞巌円福禅寺>である。天長5年(828年)慈覚大師円仁による創建と言われている。現在の建物は伊達政宗が造営したものであり、やはり桃山建築様式である。また伊達政宗の菩提寺でもある。
門前町の町並みを通り総門をくぐると、鬱蒼とした杉林の中に参道がある。
<瑞巌円福禅寺>の額のかかった中門をくぐると正面に本堂がある。<本堂、庫裡、回廊>は国宝に指定されている。二条城をまねて造ったといわれ、寺にもかかわらっず、書院があり、殿様の部屋、侍が控える部屋があり、戦い(防御)を想定した造りになっている。襖の絵も狩野派の絵師が描いた煌びやかな襖絵である。
帰りは参道ではなく北側にある道を帰る。修行僧が生活をしたという、苔むした洞窟や多くの石像がある。
寺全体が、静寂に包まれ、厳粛な雰囲気を持っており、身も心も洗われる。


瑞巌寺を後にして、
<雄島>に向かう。島と陸地とは<渡月橋>でつながっている。
橋の上で、芭蕉の姿をした人が、色々な撮影機材を構えた、6〜7人の撮影班に囲まれてポーズをとっている。島に渡り道を登ってゆくと、道が二手に分かれる。そこに「奥の細道」の道標と碑が立っている。右の道を行くと一番奥に六角形をした覆堂の
<頼賢の碑>がある。戻ってくると、小高いところに瑞巌寺を中興した禅僧雲居禅師の隠棲した「雲居禅師の別室の跡 座禅石なと有」といっている<座禅堂>がある。二手に別れる小道を左に行くとすぐのところに<芭蕉翁>と書かれた碑と、曾良の句碑がある。さらに歩いてゆくと視界が開け左手に「草の庵」・<松吟庵跡>がある。さらに其の先に<妙覚庵敷>た書いた柱が立っている。雄島は小さな島だが、数々の史跡がある。


船着場まで戻ってくる。4時になっている。昼間賑わっていた広場も、人影がまばらになっている。雨がぱらついてくる。一旦ホテルに戻る。ホテルの部屋からも松島湾の島々が良く見える。
風雪にさらされ、波に洗われ、何千年、何万年と時を経た、自然の造形美に改めて心をうたれる。


芭蕉は、この旅の目的の一つが、松島を訪れることにあったのであるが、その念願の場所を訪れたにもかかわらず、
「予は口をとちて眠らむとして いねられす・・・・」と言って、句を残していない。
「芭蕉の心情や如何に?」奥の細道の謎である。
瑞巌寺・本堂と中門

雄島・座禅堂と芭蕉碑と曾良の句碑

雄島・松吟庵跡と妙覚庵跡

雄島・頼賢の碑
おくの細道
早朝塩竈の明神に詣ッ 国守再興改られて 宮柱ふとしく 彩てん きらひやかに、石の階 九仞に重り 朝日 あけの玉かきを かゝやかす かゝる道の果 塵土のさかひまて 神霊あらたにましますこそ 吾国の風俗なれと いと貴し 神前に古き宝ー燈有 かねの戸ひらの おもてに 文治三年和泉の三郎寄進と有 五百年来の俤 今目の前に うかひて そゝろに珍し 渠は勇義忠孝の士也 佳命今に至りて したはすと云事なし 誠 人能 道を勤 義を守て佳命を おもふへし 名も又 これにしたかふと云り 日既午にちかし 舟をかりて 松嶋に渡ル 其間ニ里余 小嶋の磯につく 
抑松嶋は 扶桑第一の好風にして をよそ洞庭西湖を恥す 東南より海を入て江の中 三里 せっ江の潮をたゝふ 嶋々の数を尽して そばだつものは天を指、ふすものは波に匍匐  あるは二重にかさなり三重に畳て 左りにわかれ右につらなる 負るあり抱るあり 児−孫愛すかことし 松のみとり こまやかに枝ー葉汐風に吹たはめて 窟−曲 をのつから ためたるかことし 其気色よう然として 美人の顔を粧ふ 千早振神のむかし 大山すみのなせるわさにや 造ー化の天工 いつれの人か 筆をふるひ詞を尽さむ
 小嶋か礒は地つゝきて海に成出たる嶋也 雲居禅師の別室の跡 座禅石なと有将 松の木陰に世をいとふ人も 稀々見え侍りて 落ほ松笠なと 打煙たる 草の庵しずかに住なし いかなる人とは しられすなから 先 なつかしく立寄ほとに 月 海に移りて昼のなかめ 又あらたむ 江上に帰りて宿を求れは 窓を開 二階を作て 風雲の中に旅寝するこそ あやしきまて たへなる心地はせらるれ
                           
曾良
        
松島や 鶴に身をかれ ほとゝきす
予は口を とちて 眠らむとして いねられす 旧庵を わかるゝ時 素堂 松嶋の詩有 原安適 松かうらしまの 和歌を送らる 袋を解て こよひの友とす且 杉風濁子発句あり
十一日瑞巌寺に詣 当寺三十二世の昔 真壁の平四郎 出家して入唐帰朝の後 開山す 其後 雲居禅師の徳化によりて 七堂甍改りて 金壁荘厳 光を輝シ 仏土成就の大伽藍とはなれりける 彼 見仏聖の寺は いつくにやと したはる
曾良日記
出初ニ塩竈ノかまを見ル。宿、治兵ヘ。法連寺門前、加衛門状添。銭湯ニ入。
一 九日 快晴。辰ニ剋、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・まがきが島・都島等所々見テ、午ノ剋松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、残不見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿宿被岩屈有。無相禅屈ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所々ヲ見ル(とみ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五大堂ヲ見。慈覚ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
おやすみ処
芭蕉は念願の松島を訪れ、すばらしい景色を見、雄島の佇まいに心を奪われ、瑞巌寺の歴史、造詣に思いを巡らせながらも句を詠んでいない。
芭蕉は、塩竈から船に乗り、千賀の浦から松島へ向かう。舟の上から、海に浮かぶさまざまな形をした島、島に生える木々など、自然の造形美を堪能し、中国の洞庭や西湖に劣らない景色、と絶賛をしている。
また雄島の雲居禅師の別室の跡を尋ね、出家隠遁生活を送っている人の草庵に立ちより、夕べには、島々が影を落とす水面に月が映り、昼と違ったすばらしさを味わっている。
さらに荘厳な造りの瑞巌寺を参詣し、夜は、海に向け窓を開けた二階造りの宿で、風光明媚な海から吹いてくる、そよ風にあたりながら旅の疲れを癒す。すばらしく心地良い気分をを味わっている。
蕉門の一人
<服部土芳>の「蕉翁文集」の中には
         
島々や 千々にくだけて 夏の海
の句が収められている。芭蕉は満足出来る句 ではなかったため、捨てたものと思われる。 
同、服部土芳は著書・俳論
<三冊子>の中で師のいはく、 絶景にむかふ時は、うばはれて叶不。・・・・まつ島の句なし。大切の事也。」と述べている。
芭蕉も「奥の細道」の中で、「
其気色 よう然として美人の顔・・・・・いつれの人か 筆をふるひ 詞を尽さむ」と述べている。
芭蕉は、どんなに良い句を読んだとしても、松島のすばらしい景色を言い表す事は出来ない、と思ったのであろう。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

塩竈市公式ホームページ

松島町公式ホームページ
            松島や 句も無く寂し 雄島の碑
       島影を 水面に映す 夏の月  
  
                    伊達模様 ルーツを醸す 瑞巌寺  (遊 旅人)