遊 旅人 の旅日記

2003年6月25日(水)雨のち曇

仙台から多賀城へ
朝から雨が降っている。昨日痛くなった、脛の痛みを確かめてみる。昨日ほどの痛みは無い。
今日は多賀城までと距離は短い。しかし見るところは盛りだくさんだ。注意して歩こう
<十符の菅菰>と云うブランドの菅菰を編み、材料の菅を栽培していた地<十符の奥の細道>、また<多賀城跡><壷の碑><野田の玉川><沖の石><末の松山>、そして<浮島>などである。


AM5:35出発。ホテルを出、少し北に行ったところにある大きな交差点を多賀城市方面に右折。しばらく進むと道幅が狭くなり、さらに行くと、県道8号になる。右方面、北仙台駅の標識を過ぎ、少し行ったところの牛丼屋で朝食をとる。まだ7時前にもかかわらず、工事現場に向かう3組ほどの職人の人達が、車から降りて入ってくる。


食事を済ませ、小一時間ほど歩くと七北田川に架かる岩切大橋がある。この橋を渡り、左、七北田川沿い、上流に向かい歩く。八坂神社があり、その先に、近代的な佇まいの東光寺と云う寺がある。東光寺の入り口に
<おくの細道>の碑がある。このあたりが、芭蕉が「<おくの細道>の山際に十符の菅有」と言っている十符の菅が栽培されていた所であろう。今は菅など見るべくも無いが、山際に栽培されていても不思議ではない風景である。


県道8方向に戻る。この県道8を横切り、岩切駅まで行く。こじんまりとした、きれいな駅である。ちょっと遅い、通勤、通学客で混んでいる。
小休止した後、多賀城に向け出発。岩切駅の踏切を渡るとまもなく多賀城市に入る。しばらく行くと、左、
<多賀城政庁跡>、右、<多賀城跡>の案内がある。まず、多賀城政庁跡に行く。建物の礎石と、築地塀が残っている。広大な敷地である。8世紀頃の東北を統治する中枢的役割を果たしていた拠点であり、九州の大宰府と並び、重要な政庁だったのである。
これだけ広い敷地に建物が復元されたら壮観だろうなと思いながら、政庁跡を下り多賀城に向かう



多賀城市・岩切の東光寺と「おくの細道」の碑



多賀城政庁跡



多賀城政庁跡の築地塀跡

壷の碑

多賀城跡のあやめ

多賀城廃寺跡
芭蕉が奥の細道に「壷碑 市川村多賀城に有」といっている、多賀城跡の<壷の碑(つぼの いしぶみ)>に向かう。ここの町名は今でも<市川>である。
こんもりとした小山である。山全体が城だったのである
沢山の見学客が来ている。ボランティアの説明員は大忙しだ。
小山の中腹に小屋があり、その前でボランティアの人が説明をしている。<壷の碑>である。この碑は、歴史的、文化的に大変重要なものと説明を受ける。
芭蕉もこの碑を見て
「行脚の一徳、存命の悦、き旅の労をわすれて泪も落るはかり也」と、大変感動をしている。ボランティアの人から、<壷の碑>の拓本のコピーをもらう。
小高いところに有った休憩所で休んでいると、ボランティアの人が来て多賀城の史跡、市内の名所、俳句の話、周り一面に咲いている<あやめ(今はあやめ祭りの最中)>のことを話してくれる。
一緒に聞いていた女子大生は、千葉から来たのだという。
私が「群馬県桐生から来た」と言うと、ボランティアの人が「自分の弟は館林に住んでいる、館林の躑躅はきれいだ」という。私が「館林の躑躅を、まだ見たことが無い」と言うと「是非一度見に行ってください」と言われる。
しばらく世間話をして別れようとすると、見学者が沢山いて、大忙しなのに、小山を一緒に下り、あやめの畑を通り、わざわざ道路まで来て見送ってくれた。お礼を言って別れる。
東北線国府多賀城駅に向かう。地名に
<浮島>とある。
改築したばかりなのか、<コンクリートの打ちっぱなし>のきれいな駅である。連絡通路を渡り駅の反対側に出ると、
<東北歴史博物館>がある。これも立派な建物である。
ボランティアの人に教えられたとおりに歩く。駅前の道を左に曲がり岡に登る。しばらく行くと、
<多賀城廃寺跡>がある。東北学院大学といわれたのだが、それらしいものは見当たらない、どうも道を間違えてしまったようである。
住宅街で地図を見ていると、50歳ほど男性が近づいてきて道を教えてくれる。なんとか町まで下りる。買い物帰りと思われる女性に再び「野田の玉川」を尋ねる。すぐ近くだ。今はコンクリートで整備されてしまっていると言う。
やがて、それらしい川に出る。橋に<野田橋><野田の玉川>と書かれている。昔は歌枕として知られた川も今では、コンクリートで川底まで整備され、水辺の公園という感じである。
川沿いに歩いてゆくと所々に橋が架かっている。
<おもわく橋>まで川沿いを歩いて野田の玉川と別れる。


雨が降り出す。多賀城駅で遅い昼食をとる。雨が本格的に降り出している。
<末の松山>に向かう。あまりにも激しい雨のため橋の上から見る周りの景色はかすんで見える。
「末の松山は寺を造りて末松山と云」と奥の細道で言っている寺は今では「末松山宝国寺」と云う。
寺を出て右に曲がり、すこし行ってさらに右に曲がると、住宅のど真ん中に、自然の石と松の風景が忽然と現れる。
<沖の石>である。何百年もの時代が移り、歴史が変わっても、この風景は変わらず保たれてきたのだ。
沖の石から、宝国寺のちょうど境内の裏手にあたるところの丘に二本の松がある。このあたりが
<末の松山>といわれたところであろうと、寺の前にあった案内板に記されている。


<野田の玉川>、<末の松山>、<沖の石>みな歌枕として良く知られたところと言われている。
芭蕉はこの「奥の細道」の旅では、歌枕を尋ね歩くのが目的の一つなのである。


数々の歌枕を後にして今宵の宿に向かう。激しい雨の中、黙々と川の堤防の上の道を歩く。
小一時間ほどで宿に着く。全身びしょぬれだ。
フロントでチェックインのカードを書いていると、係りの女性が、「あら、群馬県の桐生ですか?」と聞いてくる。「そうです」と答えると「一月ほど前までここで一緒に働いていた女性が桐生に嫁いで行ったばかりですよ。」と言う。しばらく世間話をしたのち、「大浴場にもう入れますよ」といわれ、早速、雨で冷え、一日の歩行で疲れた体を癒しに大浴場に向かう。

今日は、二度も群馬県に関係のある人達と会ってしまった。偶然と云うものは、重なるものだと改めて思う。芭蕉が言っている
<行脚の一徳 存命の悦 き旅の労をわすれて 泪も落るはかり也>の文が心に沁みる。

昨日、痛んだ右足の脛は今日はあまり気にならずにすんだ。痛みの原因はわからないが、歩行に支障なければ深く考えることも無い。
明日はいよいよ松島だ。万全の体調で行きたい。



野田の玉川と「おもわく橋」



末松山宝国寺と「末の松山」の松



沖の石
おくの細道
彼画図にまかせて たとり行は おくの細道の山際に十符の菅有 今も年々十符の菅菰を調て国守に献すと云り 
  壷碑 市川村多賀城に有
つほの石ふみは 高さ六尺余 横三尺計か 苔を穿て文字幽也 四維国界之数里を印ス <此城 神亀元年按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也 天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣あさかり修造而 十二月一日>と有 聖武天皇の御時にあたれり むかしよりよみ置る歌枕多くかたり伝ふといへとも 山崩川流て道あらたまり 石は埋て土にかくれ 木は老て若木にかはれは時移り 代変して其跡たしかならぬ事のみ ここに至りて うたかひなき 千歳の記念 今眼前に古人の心を閲す 行脚の一徳 存命の悦 き旅の労をわすれて 泪も落るはかり也 それより野田の玉川 沖の石を尋ぬ 末の松山は寺を造りて 末ー松-山と云 松のあひあひ皆墓原にて はねをかはし枝をつらぬる契りの末も 終には かくのこときと かなしさも増りて 塩かまの浦に入逢のかねを聞 五月雨の空聊かはれて 夕月夜かすかに 離か嶋も程ちかし あまの小舟こきつれて 肴わかつこゑこゑに 綱手かなしも よみけむ歌の こゝろもしられて いとゝ
あはれ也 其夜目盲法師の琵琶をならして 奥上るり(奥浄瑠璃)と云ものを かたる 平家にもあらす 舞にもあらす ひなひたる調子打上て 枕ちかう かしましけれと さすかに辺国の遺風わすれさるものから 殊勝に覚らる
曾良日記
八日 朝之内小雨ス。巳ノ剋ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ剋、塩竈に着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。
おやすみ処
壷碑(つぼの いしぶみ)  「新古今集」頃までの歌枕としては、坂上田村麻呂が<弓はず>で「日本中央」と彫ったという古碑をさしていたと言われる。後に、仙台藩四代藩主・伊達綱村がこの多賀城跡を整備をした時に発掘された現在の碑をさすようになったといわれている。
この碑には
<この城は神亀元年(724年)按察使兼鎮守府の将軍、大野朝臣東人が造ったものである。天平宝字六年(760年ごろ)参議であり、東海東山節度使で、按察使鎮守府将軍であった藤原恵美朝臣朝かり が、修理をした  天平宝字六年十二月一日>と書かれている。
その文の前に多賀城から各地への距離が次のようにかかれている。
            多賀城  去 京一千五百里
                去 蝦夷国界一百二十里
                去 常陸国界四百十二里
                去 下野国界二百七十四里
                去 まっかつ国界三千里(渤海)

この碑は、坂上田村麻呂が蝦夷を征討し、征夷太将軍となり、鎮守府を胆沢城に移す(802年)40年ほど以前に作られていたのである。 
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

多賀城市公式ホームページ