遊 旅人 の旅日記

仙台滞在
今日は、仙台市内を歩く。
AM7:00ホテルを出発。外は雨が降っている。リュックを背負っていない為、雨が降っていても楽だ。
まず、国分寺跡を目指し歩き始める。仙台駅に近づくにつれ、通勤・通学の人の流れが多くなってくる。皆、急ぎ足で歩いてゆく。仙台駅前の「立ち食い蕎麦屋」で腹ごしらえをする。
駅の地下道を通って宮城野通り口に出る。町名は宮城野区榴岡である。大都会の場合、町名、道路標識、道路名、主要(公共)施設などを地図でしっかり確認しながら歩かないと、迷ってしまう。地図は仙台市内の地図9枚をコピーしたものである。


8:35 国分寺跡という石柱のあるところに到着。町名は、曾良日記が
「玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行」と書いている<木の下>の町名である。

雨もあがる。跡というだけ有って、建物はほとんど無く、地面はきれいな黄緑の草に覆われ、周囲に木が植わっている。
その中を歩いてゆくと朱塗りの少しはげたお堂がある。仙台三十三観音の二十五番札所
<準胝堂(じゅんていどう)>である。さらに立派な<薬師堂>があり参道を出口に進んで行くと、古色蒼然とした、<仁王門>がある。今日はまた、国分寺跡に裏から入ってきてしまった。あらためて正面の仁王門から入って薬師堂まで行く。境内の心字ヶ池畔に芭蕉の句碑がある。
  
あやめ草 足に結ん 草履の緒


国分寺跡を出て国分尼寺跡に向かう。住宅街の中の空き地の草むらの中に
<国分尼寺跡>の石柱が立っている。石柱の、道を挟んで反対側に鬱蒼と木が生い茂った大きな寺がある。国分尼寺とある。


芭蕉は「奥の細道」で
「宮城野の萩茂りあひて、秋のけしきおもひやらる」と言っているように、古くから多くの歌人が訪れ、歌を読んでいる名所、<宮城野>を訪れたかったのであろう。そしてここを訪れ、萩の花の咲く<宮城野の秋の景色>を思い浮かべている。
仙台市内には、今も、区名、町名に宮城野や白萩という名が残っており、歴史を感じさせ、また解りやすい住居表示になっている。



仙台国分寺跡と石柱


仙台国分寺仁王門


仙台国分寺薬師堂



仙台国分寺 準胝堂(じゅんていどう)


仙台国分寺跡 芭蕉句碑


仙台国分尼寺跡石柱


榴ヶ岡天満宮


仙台東照宮
国分尼寺を後にして、少し歩くと、すばらしく大きな<宮城原公園総合運動場>がある。その運動場の正面を左に入ってゆくと<榴ヶ岡公園>がある。公園内にある大きな噴水の前のベンチで小休止。


突然、強烈な痛みが右足の脛の真中辺りを走る。今日は、リュックは背負っていないし、転びもしていない。右足に特別に負荷のかかることは何もしていない。いろいろ考えてみたが原因は思いあたらない。しばらく休んで歩き出すが、歩くたびに、びしびしと脛の骨が痛む。


<榴ヶ岡天満宮>
はこの近くにあるだろうと思い、右足を引きずるようにして探すが見つからない。
公園を出ると、大通りは工事中である。足が痛く思うように歩けないため、工事をやっている、大通りを避け、静かな細い通りを歩いてゆく。すると右側に<榴ヶ岡天満宮>がある。脛の痛みに耐え石段を登る。芭蕉と曾良が言っている「天神」である。
天満宮と言うと大宰府天満宮を頂点とし、菅原道真を祀ってある神社である。ここには
<筆塚>があり、短歌の彫ってある石碑が沢山ある。


参拝をし天満宮を後にする。今日は少し寒い。今朝は通勤している人も、男は、ほとんどが背広を着て、女性は長袖を着ていた。半袖で歩いているのは、制服姿の高校生と私くらいなものだった。日中になれば少しは暖かくなるだろうと思っていたが、かえって寒くなってきているようだ。右足の痛さは軽くならない、足を引きずるようにして歩き、
<東照宮>に向かう。
あまり目印になるものの無い町中を、地図と町名を頼りに、一時間ほど歩いて<東照宮>に着く。


この東照宮は二代伊達忠宗が東照大権現(家康)を伊達家の守護神として祀ろうと、1649年(慶安2年)三代将軍家光に願い出、許可を得、5年の歳月を経て、1654年完成したものである。
参道に入り鳥居をくぐると小さな朱塗りの橋がある。両側に灯篭の並んだ石段を登ると、どっしりとした
<随身門>があり、門をくぐると本殿がある。
全体として日光、久能山、上野の東照宮のようなきらびやかさは無いが立派な佇まいである。
かなり幕府に気遣いをしながら建てたのではないかと思う。


雨が少し降り出し、帰路に着く。まだ時間は早い。芭蕉の泊まったと言う国分町の、
<大崎庄左衛門宅跡>、また、曾良の言う「国分町ヨリ立町ヘ入、左ノ角ノ家の内」と言う<画工加衛門宅>を探しに行こうと思ったが、足の痛みに気力も無くなり、ホテルに帰る。
夕食は、再度出かけるのも大変と思い、コンビニで弁当を買って、ホテルの部屋で食べることにする。


昨日・今日と仙台の街を歩いた。緑の多い良く整備された、すばらしい街だ、このような街つくりは、現代に始まったことではなく、伊達政宗の頃から人々の心の中にあるもの、また歴史が、脈々と受け継がれ、そして、今の仙台が築かれてきたのではないかと思う。

明日の朝までに、足の痛みがなくなっていれば良いがと思いながら床に就く。



おくの細道
ここに画工加右衛門と云ものあり 聊(いささか)心あるものと聞て 知る人になる このもの年比(としごろ) さたかならぬ 名ところを考置侍れはとて 一日案内す 宮城野の萩茂りあひて 秋のけしきおもひやらる 玉田 よこ野 つゝしかおかは あせひ咲比也日かけもゝらぬ松の林に入りて ここを木の下と云とそ むかしも かく露ふかけれはこそ みさふらひみかさとは よみたれ 薬師堂天神の御社なと おかみて其日はくれぬ 猶松嶋塩かまの 所ゝ画にかきて送る 且紺の染緒つけたる草履 二束はなむけす されはこそ風流の しれもの ここに至りて 其実を あらはす
     
あやめ草 足に結ん 草履の緒 
曾良日記
五日 橋本善衛門殿ヘ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニテ宿ヘ断有。須か川吾妻五良七ヨリ之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衛方ヘ届。甚兵衛留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ知不。其後、北野や加衛門(国分町ヨリ立町ヘ入、左ノ方ノ角ノ家の内)ニ逢、委知ル。
六日 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂、古ヘ国分尼寺之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵ヘ入来。冊尺ならびに横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋、わらち゛二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。
よりみち
陸奥国分寺 天平13年(741年)聖武天皇の勅命により建立される。寺の開基は行基。七重の塔はじめ七堂伽藍・三百坊を数える大寺院であったという。
頼朝の、奥州藤原氏討伐の際の戦火によりすべて消失。
伊達政宗が、慶長10年から3年の歳月をかけ、現在の、薬師堂、仁王門、鐘楼を造営する。
おやすみ処
伊達騒動と浪曲 伊達騒動(寛文事件<寛文11年・1671年>)と云うと伊達藩四代綱村、幕府は将軍家綱のときである。60年近く昔になるが、私の祖母は浪曲が好きでよく聞いていた。その中に<伊達騒動>を演じたものがあり、伊達騒動・原田甲斐・仙台平(袴の生地)、萩などの言葉を聞いたような記憶がある。そのため私の知識の中には、仙台・伊達藩と云うと伊達政宗よりも伊達騒動に関する単語の方が早く記憶されている。

山本周五郎の「樅の木は残った」は、伊達騒動の中心人物<原田甲斐>を物語ったものである。

芭蕉が仙台城を訪れた、元禄ニ年(1698)は、四代藩主綱村のときであり、まだ騒動の名残が完全に治まりきらない頃であったのである。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

仙台市公式Webサイト(ホームページ)
        伊達候の 森の都は 萩の町  (遊 旅人)