遊 旅人 の旅日記

2003年6月23日(月)晴

岩沼から仙台へ
6時、宿を出発。今日は仙台までと距離は短い。
仙台までの間に、芭蕉が
「笠しまの郡に入れは 藤中将実方(とうの ちゅうじょう さねかた)の塚は いつくの程ならんと・・・・・・・・此比の五月雨に道いとあしく 身つかれ侍れは よそなから なかめやりて過るに みのは笠しまも」と書いている。途中、道筋の近くに、歌人<籐中将実方>の塚があったら、寄って行こう.。


6:40東北線館腰駅に寄る。駅前に大きな観光案内の地図がある。笠島に笠島廃寺跡、愛島(めでしま)に実方中将の墓が描くかれている。曾良が
「笠島(名取郡内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有」と言っているように、今のR4から見ても4kmちょっとありそうだ。芭蕉は、雨のため道が悪く、また疲れていたため、遠くから<中将実方の塚>に思いを馳せただけで、通りすぎている。私も行くのは止め、仙台に向う。


名取駅前を歩いていると増田の町名がある。三ノ輪(箕輪)は駅よりずっと西に地図で記されている。
R4の旧道は通勤時間帯のため車が渋滞している。名取から仙台まで電車の駅は、南仙台ー長町ー仙台と三つの駅がある。
しばらく歩くと仙台市に入る。南仙台駅前の町名「中田」を過ぎ、名取川にかかる名取橋を渡る。東北線・東北新幹線の線路を過ぎると、大きなビルが林立し、大都会の雰囲気になってくる。
長町駅前のビルの一階の休憩所のようなところで小休憩。


仙台は大都会のためポイントを抑えて行動しないといけない。地図で仙台駅、県庁、市役所を確認する。
今夜の宿は市役所の近くだ。先ず宿に向かうことにする。大きな都市の場合、駅または市役所の近くに宿をとると、効率よく行動できる。


広瀬川に架かる広瀬橋を渡る。この橋は、<日本で始めての鉄筋コンクリート製の橋である>と案内板に書いてある。
市福祉プラザで小休止の後、仙台の街のど真ん中といってよい、R4をあるく。仙台駅前の大通りを過ぎ市役所、県庁などのある官庁街まで行く。ホテルは官庁街の中にある。



広瀬川より仙台市を望む


亀ヶ岡八幡宮入り口と石段


亀ヶ岡八幡宮の本殿



仙台城跡にある正宗の銅像と碑



仙台城跡から仙台市街の眺望



おくの細道
あふみ摺 白石の城を過て 笠しまの郡に入れは 籐中将実方の塚は いつくの程ならんと 人にとへは これより遥 右に見ゆる山際の里を みのわ笠嶋と云道祖神の社 かたみの薄 今に侍ると をしゆ 此比の五月雨に 道いとあしく身つかれ侍れは よそなから なかめやりて 過るに みのは笠しまも 五月雨の折にふれたりと
  
笠嶋は いつこさ月の ぬかり道
名取川を わたって 仙台に入 あやめふく日也 旅宿を もとめて 四五日逗留す
ホテルに荷物を預け、伊達氏の氏神と言われる<亀岡八幡宮>に向かう。
仙台の道路は広く、良く整備されている。R48(広瀬通り)を歩いてゆくと、広瀬川にかかる大きな橋がある。橋の上から下を見ると河川敷は公園になっており、大きなスポーツセンターなどの施設が見える。橋を渡るとサッカー場があり、木々に囲まれた東北大学の教養学部がある。住宅団地を通り、ちょっとした商店街を過ぎると、亀岡八幡宮がある。


鳥居をくぐり、石段を登る。330段の石段である。一気に上るにはちょっときつい。
参拝をして下りて来ると、ワイシャツにネクタイを締め、革靴を履いた45歳くらいのサラリーマン風の男性が、汗を拭き拭き登ってくる。何段あるのか聞いてきたため、330段あると答えたが、まだ半分ほどのところだ。この神社に目的があって来たというような様子ではない。のぼり切れるだろうかと思いながら、
<仙台城(青葉城)>に向かう。


仙台は<杜の都>というだけあって、緑が多く爽やかな街である。先ほどのサッカー場のところを右に曲がり青葉山公園・仙台城に向かう。少し勾配のきつい坂を上り公園の中に入ると、さらに坂がきつくなる。道は舗装されてはいるが山登りの感じだ。


今は当時を偲ぶ、建物は、復元された大手門の
<隅櫓>だけである。
伊達政宗は、城の象徴である天守閣を造らなかった。しかし、この高さと、眺望であれば、天守閣は要らない。天然の要害・巨大な平山城である。東北地方を一手に治める大藩主にふさわしい城である。


芭蕉が城を訪れたのは四代藩主伊達綱村のときである。
政宗は武将として優れていたが、詩歌にも非凡な才能を持っていたといわれる。数多くの歌が残されている。


今、城跡では、大規模な石垣の修復工事をやっている。もし建物も復元されたらすばらしいだろうなと思う。
高台からは仙台市外が一望できる。

茶店で仙台銘菓の
<萩の月>を一つ買う。お茶を出してくれたので、赤い縁台に座り、木々を渡ってくる爽やかな風に当たりながら食す。

帰りは桜ヶ岡公園を通り、けや木並木をを通り、ホテルまで帰る。
街中には木が多くすばらしい町だ。

コインランドリーを教えてもらい、洗濯に出かける。
洗濯と夕食を済ませホテルに帰り、インターネットを使おうとしたが、回線がつながらない。仙台市のど真ん中で、県庁、市役所のすぐそばにもかかわらず、電波が届かない。大きな建物に囲まれた、ホテルの一室のためかもしれない。あきらめて日記だけ整理をする。
曾良日記
〇笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ見不。
〇名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋ニツ有。左ヨリ右ヘ流也。
〇若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門。
おやすみ処
伊達政宗(1567〜1636) (身長159,4cm、血液型 B型)少年期に天然痘に罹り右目を失明する。初代<伊達朝宗>から数えて16代目の伊達家当主であり、伊達62万石を築いた仙台藩・初代の藩主となる。
政宗は、仙台城築城に際して<日和山(石巻)>、<榴ヶ岡>、<青葉山>の三つの候補地を持っていたが、幕府から<青葉山>に築城の許可がおり、ここに天守閣の無い城を築いた。
政宗の正室<愛姫(めごひめ)>との最初の子は男児が生まれてくるものと思い、名前を男子の名<五郎八>と考えたが、女子だったため<姫>を着け
<五郎八姫>と名付ける。この<五郎八姫>は、後に、家康の六男<忠輝>と結婚させられるが、後に<忠輝>の改易により離婚させられる。 
七人の側室を持ち、十一男四女を設ける。外国人の側室もいたと
<山岡荘八>は作品に書いているが、これは山岡荘八の創作。
家康・秀忠・家光の三代に仕え、宝永3年(1636年)70歳をもって、江戸藩邸で没す。
辞世の句は
「曇りなき 心の月を先だてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」
また
「たとえ病で失ったとは言え 親より頂いた片目を失ったのは不幸である」と言う政宗の思いから、死後作られた木像や画には、やや右目を小さくして、両目が入れられている。
墓所は仙台市青葉区の瑞鳳殿にある。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

仙台市公式Webサイト(ホームページ)
      政宗が 今も息づく 青葉城  (遊 旅人)