遊 旅人 の旅日記

2003年6月22日(日)晴

白石から岩沼まで
AM5:15出発。今日は岩沼まで歩く。30km程と少し距離が長い、早めに宿を出る。良い天気だ。風が無く少し蒸し暑い。白石市内を出てR4を歩く。日曜日のため車の通行量も少ない。遠くに見える蔵王は頂にまだ雪を残している。


大河原町に入ると、道の両側にロードサイドビジネスの大きな店舗が見られるようになる。
9:30岩沼まで13kmの標識が出てきたところで小休止。かなり快調に歩いてきた。今日の行程の半分を少し過ぎたところだ。後4時間ほどだ。再び歩き出す。
しばらくすると右側に突然大きな川が見えてくる。阿武隈川だ。久しぶりである。「元気か」と声を掛けたくなる。しばらくR4と平行して流れる。白河で最初に会った阿武隈川とは違って大河に成長している。もうすぐ河口である。「ここまで付き合ってくれて有難う」と心の中でつぶやく。


R4では、若者の運転する車が競争をしている。事故を起こして人に迷惑を掛けなければ良いがと案ずる。
また大型のバイクが悠々と車を追い抜いてゆく。気の早い大学生は夏休みに入ったのかもしれない。しっかりした服装で、後ろに大きな荷をつけ、中には野宿用(?)のシートを積んで走っているライダーもいる。


道が長い下り坂になると、目のまえが急に開け住宅の風景が広がる。遠くに工場も見えてくる。
11:00ホームセンターの建物の横の日陰で休んでいると、突然一つの扉が開き中年の女性の従業員が出てきて、私を見て「わっ!びっくりした」と言っている。いつもはこんなところに人はいないのだろう。「ごめんなさい、ちょっと休ませてください。」と謝罪とお願いをする。


さらに岩沼市内に向かって歩く。陸橋の下を常磐線の特急<日立>が走ってゆく。そうだ、ここはもう仙台に近いのだ。東北線だけではなく常磐線も走っているのである。さらに歩いてゆくと今度はR4とR6が合流する。R4と東北線は、東京ー宇都宮ー郡山ー福島ー白石ー岩沼ー仙台にいたる。R6と常磐線は東京ー水戸ー日立ーいわきー原町ー岩沼ー仙台にいたる。国道、鉄道のどちらも岩沼で合流している。特に不思議でも何でも無い事といわれそうだが、独りで勝手に「すごいなあ」と感激する。
1:30ホテル着。チェックインをさせてくれる。荷物を置いて
「竹駒神社」「武隈の松」を訪ねに出かける。




竹駒神社参道入り口(第一の鳥居)



竹駒神社(随身門)



竹駒神社(唐門)と<茅の輪>くぐり




竹駒神社(芭蕉句碑)



二木の松(武隈の松)



二木の松(武隈の松)の案内



武隈の松のある公園の芭蕉の句碑
宿の人に竹駒神社の場所を聞いて出かけるが、R4にも案内が出ている。すぐ近くだ。曾良日記に「岩沼の入り口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ<別当ノ寺>ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。」とある。岩沼は竹駒神社の門前町から発展したと言うから、芭蕉の歩いた頃の奥州街道は、今のR4とほぼ同じ場所にであったのだろう。今では、入り口を入ると、最初に市役所が有り、そのすぐ横に<別当ノ寺>と思われる<竹駒寺>がある。さらに500mほど行くと<竹駒神社>がある。そして神社の北200m程のところに<武隈の松>がある。今では、竹駒神社と竹駒寺の位置が、曾良が言っているのと逆の位置関係になっている。


この竹駒神社は京都の伏見稲荷、茨城県の笠間稲荷とともに日本三大稲荷として知られている。
創建は承和9年(842年)、小倉百人一首にも名を連ねる
<小野たかむら>が陸奥守として着任した際の創建と言う。
赤い鳥居と石の鳥居をくぐると次に古い大きな木造の門がある。
<随身門>と言い、1812年(文化9年)に建築されたと言う。次に少し新しい門がある。<唐門(からもん)>といい、1842年(天保13年)に建築されたと言う。この門は総檜造り、唐破風造りの向唐門(前後が唐破風のある唐門)である。二つの門いずれも岩沼市の文化財の指定を受けている。
唐門の前に注連縄の大きな輪がある。参拝者がこの輪をくぐっている。横に輪の意味が書いてある。
<茅輪(ちのわ)くぐり>と言う。この輪をくぐり、お祓いをして身を清めた後、本殿に参拝をする、ということらしい。「正面から左、右、左と三回くぐり本殿に向かって礼をする」と説明がある。私は境内のあちこちを見ながら本殿に向かったため、この輪に気付かなかった。本殿に参拝の後、正面の参道を帰ろうとして初めて気がついた。改めてこの輪をくぐり本殿に向かって参拝をする。
どうも私は何事においても正面からでなく横から取り組む傾向がある。「今後は先ず正面から取り組み、その後に、横でも後ろからでも取り組んだ方が良い」と反省する。


境内にある芭蕉の句碑を見て、
<武隈の松>に向かう。
境内の横の門から街に出る。住宅街を少し歩くと、広い通りに出る。左に曲がり、少し行くと<武隈の松>がある小さな公園になっている。
芭蕉が
「根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。」と言っているように地面から1m程のところから二股に分かれ同じように成長している。
   
桜より 松は二木を 三月越シ


今の松は1862年(文久二年)に植えられた七代目の松と言う。また、能因法師・西行をはじめ多くの歌人に読まれ、陸奥の歌枕の中でも、詠数の多さでは屈指の銘木であると言う。芭蕉もこの松を見てさぞ感慨を深くしたことであろう。


今日は快調に歩いてきた。体調も良い。明日は大都会の仙台に入る。
芭蕉はこの仙台で、多くの門弟、歌人に会っている。出来る限り芭蕉の歩いた後を辿ってみよう。
    
おくの細道
あふみ摺白石の城を過て・・・・・・・・
        岩沼宿
武隈の松にこそ 目覚る心地はすれ 根は土際より二木に わかれて むかしの姿 うしなはす と しらる 先 能因法師おもひ出 往昔 むつのかみにて下りし人 此木を伐て 名取川の橋杭にせられたる事なと あれはにや 松は此たひ 跡もなしとは よみたり 代々 あるはきり あるひは植次なとせしと聞に 今将 千歳のかたち とゝのひて めてたき松の けしきに なん侍し
      
たけくまの 松みせ申せ 遅桜 と 挙白と云ものゝ 餞別したりけれは
           
桜より 松は二木を 三月越シ 
曾良日記
四日 雨少止。辰ノ剋、白石ヲ立。折々日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈の松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
よりみち
交通網と町について考える。
白石市
 仙台藩白石城の城下町として発展してきた町である。今では新幹線「白石蔵王」の駅があり、東北線の「白石駅」、更には東北自動車道の「白石IC」がある交通の要衝の地である。蔵王と言う一大観光地への入り口の町である。

岩沼市 現在は、R4とR6が市内で合流している。また東北線と常磐線も合流している。さらには仙台空港もある。江戸時代またそれ以前は、
<東(あづま)街道><浜街道>がこの岩沼の宿で分岐しており、<東街道>は江戸時代に、奥州街道として整備されたと言われる。そして<浜街道>は太平洋側沿いに、ほぼいまのR6と同じと考えればよいのであろう、水戸を通り江戸に至っている。
岩沼の宿は、この二つの街道の分岐点であり、仙台の街に入る手前の宿場町であり、仙台藩のうち最も大きな宿場町であったと言われる。


奥州街道が整備される以前の東街道は陸奥にいたる重要な街道として機能しており、頼朝が奥州平泉に攻め入ったのもこの東街道と言われている。
道路網は世界の古今東西を問わず、戦略的、交易、文化の流れに重要な役割を持ってきた。日本においても、すでに平安時代、奥州平泉と都(京)の間の交通は、金売吉次の交易を見ても解るように、かなり活発に行われていたようである。
江戸時代に入ってからは、諸大名の参勤交代が、全国の交通を盛んにする大きな原因となり、江戸を中心として、
<東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道>の整備が行われた。
各街道の宿駅では
<問屋場>があり、人馬の継ぎ立て(駅制)が行われ、大名の宿泊する本陣や、商人宿などの宿泊設備が設けられていた。芭蕉が各地を歩いた元禄の頃には、かなり詳細な全国の地図も書かれており、我々が想像する以上に、交通網、町は発達していたのではないかと思われる
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

白石市公式ホームページ

岩沼市公式ホームページ