遊 旅人 の旅日記

2003年6月21日(土)晴れ

飯坂から白石へ
5時25分出発。飯坂温泉ともお別れだ。今日は、白石まで歩く。すでに太陽は高く昇っている。
町を出ると周りに果樹園が広がる。果樹の間を渡ってくる爽やかな風が果樹の香りを運んでくる。すでに農家の人々は仕事を始めている。桃の農園では、桃一つ一つに袋を掛けている。桃、りんご、梨、柿など多くの種類の果物がこのあたりでは栽培されている。福島県は果物王国である。


果物畑を30分ほど歩いてゆくと桑折町(こおりまち)に入る。東北自動車道、東北線、東北新幹線をくぐって行くと道路沿いに<伊達氏発祥の地>の案内がある。また伊達氏初代と言われる<伊達朝宗の墓所>の案内もある。桑折の町並を歩いて行くと、少し右に入ったところに、モダンな建物がある。
<旧伊達郡役所>の建物である。門を入って右側に芭蕉の像がある。芭蕉は飯坂から桑折の宿駅まで馬を借り、乗ってきている。この桑折の宿駅は羽州街道が奥州街道から分岐する基点でもある。


旧伊達郡役所と芭蕉像





越河宿と越河番所跡


万牛沼


斎川宿入口


あぶみすり坂(鎧毀)


田村神社と甲冑堂
6:40 R4に出る。車が激しく走っている。また騒音・排気ガスとの戦いだ。今日は土曜日なのに車の通行量が多いように思う。
田圃を渡ってくる風が気持ちが良い。W排気ガスを飛ばしてくれWと祈る。
道が長い上り坂になる。国見峠だ。勾配が緩やかなため苦にはならない。今日は体調が良い。体調が良いと、考えるよりも体の方が先に進む。「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」だな、などと考えながら歩く。
奥の細道にある
「道縦横に踏て伊達の大木戸をこす」<伊達の大木戸>はこのあたりではないかと、周りを注意しながら歩いていると、峠を少し過ぎたところに大木戸小学校の案内があり、大木戸バス停がある。またその近くに<新 奥の細道 阿津賀志道の自然と歴史を学ぶ道>の看板がある。看板の案内を見たが特に<芭蕉の歩いた奥の細道>に関係するものが見られないと思い先に進む。
東北線の貝田駅で小休止。小さな無人駅だが、良く手入れされ清潔な駅である。貝田の長寿会の人たちが世話をしているようだ。
駅を出て歩き始めると、稲の香りを乗せた風がそよいでくる。この時期は風がさまざまな香りを運んでくる。山を歩くと木や草の香り、民家のあるところでは庭先の花の香りと、自然に体がリフレッシュしてゆく。


宮城県白石市に入る。曾良日記に
「コスゴウトかいたトノ間ニ福島領ト仙台領トノ堺有」と書かれているが今でも同じである。左手東北線の向こう側、山の斜面に<越河番所跡>が見える。越河駅で再度小休止。貝田駅から越河駅まで4km少しあると思うが、一時間で歩いている。
さらに歩いてゆくと
万牛沼がある。万牛山はわからないが、沼の後(横)に有る小山がそうかもしれない。


R4を外れ、
斎川宿への旧道に入る。下り坂になり道路の右側に<あぶみすり坂>の案内柱がある。<アブミコワシト云岩>が有ったところであろう。
さらに下ってゆくと右側に
<田村神社>がある。こじんまりとした神社である。小さな石段を登ると正面に本殿、左手に<甲冑堂>がある。この神社は坂上田村麻呂を祀ってある。甲冑堂の中には、佐藤庄司元治の息子、継信・忠信の妻女 二人が、勇ましい甲冑姿で立っている像がある。


田村神社を出て小さな斎川大橋を渡ると斎川宿に入る。斎川宿を過ぎR4に戻りしばらく歩く。再びR4と別れ白石駅方向の道に入る。
今日は体調も良く、順調に歩いてきた。昨日の朝、体調が悪かったのが、嘘のようだ。


ホテルに荷物を預け、白石城に行く。この城は、伊達政宗の傅役(もりやく)を勤めた
<片倉小十郎景綱>の居城である。白石は江戸時代には仙台藩であり、仙台藩には仙台城と白石城の二つの城があったことになる。


町中に戻ると、名物の
<温麺(ウーメン)>の大きな工場がある。
今日、私は体調も良く順調にあるいた。しかし芭蕉は前の夜、暑さ、蚊、蚤に悩まされたため、翌日は体調が悪く桑折宿まで、馬に乗っている。また桑折宿から白石までも苦労して歩いた様子が書かれている。

宿に戻り、手帳に書いた日記をCD−ROMに落とす。


白石城

おくの細道
短夜の空も やうやう明れは 又旅立ぬ 猶よるの名残 心すゝます 馬かりて 桑折の駅に出ス はるかなる行末をかゝえて かゝる病 覚束なしといへと き旅辺土の行脚 捨身無常の観念道路にしなん これ天の命なりと 気力聊とり直し 道縦横に踏て 伊達の大木戸をこす
曾良日記
三日 雨降ル。巳ノ上剋止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘニリ。折々小雨降ル。
桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)。コスゴウ(越河)トかいた(貝田)トノ間ニ福島領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。左ノ方、石ヲ重テ有。大仏石ト云由。さい川ヨリ十丁程前ニ、万ギ沼(万牛沼)・万ギ山(万牛山)有。ソノ下ノ道、アブミコワシ(鐙毀)ト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信ガ妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。一二三五.
よりみち
伊達の大木戸  場所は福島県伊達郡国見町大木戸と言う非常に理解しやすい地にある。国見峠の大木戸にあると言う。
藤原泰衡(三代 秀衡の子)軍と頼朝軍が戦った古戦場である。
泰衡側は佐藤庄司元治、頼朝側は常陸入道念西(後の伊達朝宗)とが戦い、佐藤庄司元治が敗れる。常陸入道念西は、戦の功績を認められ頼朝から信夫・伊達の両郡を与えられ、常陸(下館)から移って来た。そして伊達郡の伊達を名乗り、伊達朝宗として、伊達家の礎を築いた初代と言われている。

鐙毀坂(あぶみすり坂) 越河宿と斎川宿の間、田村神社(甲冑堂)の近くにある。昔、この道を甲冑姿で馬に乗り通ると、鎧が岩に摺れるほどの険路だったと言う。

御影堂(甲冑堂)  田村神社の境内にある。中には佐藤庄司元治の子、継信・忠信の妻女二人が、夫の甲冑を身に着け、立っている像がある。
これは、佐藤庄司元治の妻・乙和が平家討伐のため義経軍に従い戦った息子達、継信・忠信。二人ともども義経の身代わりになり、この世を去ってしまった。その悲い思いに暮れていた。その姿を、継信・忠信の妻女が見て、「自分達の夫(乙和の息子)は勇ましく戦い、武勲を立て、立派に戦死をしたのです。」と、夫の甲冑を身につけ、母(乙和)を慰めようとした姿と言う。 
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

桑折町公式ホームページ

白石市公式ホームページ