遊 旅人 の旅日記
福島市内から飯坂温泉へ | |
今日は、飯坂温泉までだ。飯坂は福島市内である。距離もそんなに遠くない。ゆっくりで良いと思ったが、AM5:30出発。もうこの時間で太陽が、がんがん照りつけている。飯坂に行くにはこの信夫山を越さなければならない。R4を仙台方向に歩いてゆくと川にぶつかる。 この川は會良が「イガラベ(五十部)村ハヅレニ川有。」と言っている川であろう。松川と言う阿武隈川の支流だ。芭蕉はこの松川を渡らず、阿武隈川を「岡部ノ渡リ」で渡って文知摺石を見に行っている。 堤防の上を上流にむけ歩き、住宅地を歩き、山を登り、そして下る。やっと飯坂方面に行くR13にぶつかる。R13をしばらく飯坂方面に歩くが、すぐに大きなショッピングセンターの軒先で休む。体調がよくない。少し寒気がし、腹の調子もよくない。原因をチェックする。昨夜はかなり暑かった。エアコンの微調整が効かずちょっと冷えすぎていた。また珍しく女房のほうからTELがあった。(これは体調とは関係ないかもしれない。)昨日、「月の輪大橋」からの帰り道すでにひどく疲れを感じていた。原因は昨夜ではない。その前に疲れが溜まっていたのだ。だんだんと体調の調整が行われ慣れてくるのだろうと納得する。 東北自動車道を過ぎ、線路を越すと右方面飯坂温泉の標識がある。標識に従い右に曲がり、少し歩くと医王寺の案内が在る。 AM8:00医王寺に到着。この医王寺は、藤原秀衡の家臣で信夫郡を領していた<佐藤一族>の菩提寺であり、「瑠璃光山医王寺」という。まだ朝早いため入り口の料金所には誰もいないが、そのまま入らせてもらう。入って左側に鐘楼と瑠璃光殿(宝物殿)があるが宝物殿は開いていない。向かい側の白い塀で囲まれた中には 入る事が出来る。門を入ると本堂がある。本堂の手前左に芭蕉の句碑がある。参拝をして本堂を出、200mほどの並木の参道を行くと正面に薬師堂がある。「鯖野の薬師」である。薬師堂の後に<佐藤元治・乙和夫妻の墓>があり、その右側に<継信・忠信兄弟の墓>がある。さらに薬師堂の左裏手には、継信・忠信の母・乙和の植えたと言う<乙和の椿>がある。 境内は木々に覆われ太陽の光がさえぎられているため、かぜも涼しく気持ちが良い。そんな中、宝物殿まで戻って入り口の石段にリュックを下ろし腰を掛け、単行本「奥の細道」を読んでいると、2台のマイクロバスで20人ほどの観光客がぞろぞろと入って来る。案内の僧侶が出てきて説明を始める。宝物殿が開き団体が入っていったのでそれについて一緒に入る。僧侶が詳しく説明をしている。団体客は半数の人くらいしか聞いていない。私はずっと聞くいて歩く。<義経の笈><弁慶自筆の書(写経)>も展示されている。人工のもので芭蕉が350年前に見たものと同じものを見ているのだと思うと感慨ひとしおである。芭蕉の像もある。 |
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医王寺を出て飯坂市街に向かう。周りはさくらんぼ畑が広がっている。さくらんぼの赤い色が緑の葉に映えてきれいだ。 小さな川を渡り、公園のようなところを過ぎ町並みをしばらく歩くと飯坂駅前に出る。芭蕉の像が立っている。今時珍しい‘宿の客引き’のような人達が見られる。宿にTELをして場所を確認する。宿の方からその「‘客引き’には気をつけてください」と注意がある。 宿に向け温泉街を歩いてゆくと、<芭蕉の宿泊した宿の跡>と言う案内を見つける。少し急な石段を下りてゆくと川べりに出る。小さな公園があり芭蕉の句碑が建っている。もし芭蕉が、この場所にあった宿に泊まったとしたら、奥の細道にあるように、非常に不快な場所に泊ったことになる、と言うより最悪の場所に宿があったことになる。芭蕉の泊まった当日は雷が鳴り、かなりの雨が降っており、蚤と蚊に悩まされた、と言っている。蒸し暑さも相当なものだったろう。土地の高さは川の水面から50cmほどしかない。そのため今でも湿気が多くじめじめしている。蚊の発生するのには最良の場所である。温泉に入ったことが台無しになってしまったと思う。芭蕉の人間的な面が描かれているところだ。不運の芭蕉を思い浮かべながら、自分の宿に向かう。 宿に荷物を置き、佐藤庄司元治が居城としていた<大鳥城跡>の場所を聞く。「3kmほどだが上り坂でかなりきついよ」と言われる。また「城跡に上る道沿いには紫陽花がきれいに咲いているだろう」とも言われる。いろいろと親切に教えてくれる。 小一時間ほどで城跡に着く。山の上にあるが、周りに堀はない。戦国、江戸時代の城のイメージとは違って、館城というイメージだ。 佐藤元治は奥州藤原氏の血を引く一族であり、白河方面まで広大な領地を所有し、また勢力を持った領主(庄司)であったようである。 今は館ノ山公園となっており、大鳥神社がある。途中の坂に紫陽花はあったがまだ少し早いようだ。広々とした館跡には松が植わっており、松風が騒いでいる。城跡には松が良く似合う。 城跡を後にして町中に下りる。温泉街の外側はきれいに整備されている。公共の施設らしい建物「パルセいいざか」に入って休む。 町中には、多くの共同浴場があり、中心部に「鯖湖湯」と言う共同浴場がある。前には大きな樽の載った櫓があり、横には「鯖湖神社」と言う神社がある。この「鯖湖湯」に芭蕉が入ったと言われている。 今日は少し早いが宿に帰る。 白河の「庄司もどしの桜」は佐藤庄司元治が息子達、継信・忠信を、義経の平家討伐軍に合流させ、武運を祈り見送った場所である。また、この医王寺は佐藤兄弟の悲運を物語る佐藤一族の菩提寺である。芭蕉は、この二箇所を訪れ、佐藤兄弟の話に心を打たれ、佐藤一族から奥州藤原氏へ、さらに義経へと思いを馳せてゆく。 |
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おくの細道 | |
月の輪の渡しを越て 瀬の上と云宿に出ッ 佐藤庄司か旧跡は ひたりの山際一里半計に有 飯塚の里(飯坂) 鯖野と聞て尋ね尋ね行に 丸山と云に尋あたる 是庄司か旧舘(大鳥城)也 麓に大手の跡なと 人の をしゆるにまかせ 泪を落シ又かたはらの古寺(医王寺)に一家の石碑を残ス 中にも二人の嫁かしるし 先あはれなり をんなゝれ供 かひかひ敷 名の 世に聞へつるもの哉と袂をぬらしぬ 墜涙の石碑も遠きにあらす 寺に入て ちやを乞へは ここに義経の太刀 弁慶か笈をとゝめて什物とす 弁慶か 笈をもかされ かみ幟 (笈も太刀も 五月にかざれ かみ幟)五月朔日の事也 其夜飯塚(飯坂)にとまる 出湯あれは湯に入りて宿をかるに土坐に筵を敷て あやしき貧家也 ともし火もなけれは ゆるりの火かけに 寝床を まうけてふす 夜に入て 雷鳴 雨しきりに降て ふしたる上に 雨もリて 蚤蚊にせゝられて眠らす 持病さへ おこりて消入計になん |
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曾良日記 | |
瀬ノ上ヨリ佐場野へ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ入不。西ノ方へ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本ヅヽ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福島ヨリ弐里。こほりヨリモ弐里。瀬ノウエヨリ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福島ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト行可。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福島ト出タル由。昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。 | |
よりみち | |
佐藤庄司元治 奥州藤原氏の一族であり、藤原秀衡の家臣。伊達、信夫、白河までの広大な藤原氏の領地(荘園)の管理を任され、また最前線の.砦としての役割を果たしていたようだ。 佐藤継信(元治の子) 源頼朝の平家討伐に義経の家来として参戦。屋島の合戦で、義経を敵の矢から守り、身代わりとなり戦死をする。 佐藤忠信(継信の弟) やはり義経の家来として参戦。壇ノ浦の戦いまで戦い抜く。義経と行動を共にするが、義経を奥州に逃れさせた後、北条時政に攻められ、京の六条河原で自刃を遂げる。その時、忠信は身代わりとなるため、義経の装束を身に着けていたと言われる。 乙和の椿 医王寺の佐藤庄司元治・乙和夫妻の墓の傍らにある椿。乙和は二人の息子を失い、悲しい生涯を送った。乙和の母としての悲しい気持ちが、植えた椿の木にこめられた。その為その椿は蕾のまま花を咲かせずに落ちてしまうと言われる。 |
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おやすみ処 | |
体調について 歩き始めた時、剥けてしまった足の裏の皮は、完全に復活している。やわらかいプラスチックと言うか、ゴムを張ったように硬い皮が出来ている。しかし足の指には常に、どこかに靴擦れが出来ている。この靴擦れの痛さは気にするほどの痛さではない。ただ右足の小指が昨日から、中のほうで、びしびしと痛んできている。少々歩き辛くなっている。 リュックのストラップによる肩の痛さは無くなっている。次第に歩くことに体の機能、精神が慣れてきているようだ。 |
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俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム 福島観光協会 |
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川端や 虫に囲まれ 石碑建つ (遊 旅人) |