遊 旅人の旅日記
栃木から鹿沼へ | |
AM6時宿を出発。昨日の雨は上がって高曇り。一日休んだため、足の裏を除いては体調は良い。通りがかりの民家の庭から犬がこちらを見て吼えている。最近の犬は吼えなくなった。番犬としてではなく、ペットとしてかっているためだ。中には飼い主が犬のペットになっているような人もみかける。この犬は「犬の本分」をを忘れないで吼えている。「よしお前は良い犬だ」などと思いながら通り過ぎる。 昨日、雨の中を参詣した、大神神社の正面入り口を通る。しばらく歩くと壬生町に入り、道は例幣使街道(旧日光街道)に入る。周りが田圃の風景になる。田植えをして間もない田から、稲の香りを乗せた、若い緑色の、さわやかな風がそよいでくる。また一面の蛙の合唱だ。こんな蛙の声は40年も50年も聞いていなかったように思う。初夏の響きだ。幼稚園に行く子供が「こんにちは」と元気に挨拶をしてすれ違ってゆく。 曾良日記に「壬生ヨリ楡木へ二リ」とある、この辺りから「日光杉並木」の片鱗が見えるようになってくる。また民家には「大谷石」で造った塀、石蔵が見られるようになる。コンビニで休んでいると、50ccのバイクに乗った若者がやってきた。話しかけると、「今年、東京の大学を卒業したが就職できなかった。これから田舎の青森に帰る、今日は仙台まで走るんです」と言う。50ccのバイクでも一日で楽に仙台まで行けるのだ。歩いてゆく私は、たぶん一ヶ月近くかかるだろうと話す。お互いにエールを交換して別れる。 しばらく歩くと、まだ田植えをやっている農家の人達たちに会う。「ずいぶん遅い田植えですね」と声をかけると、「いままではイチゴの作業をやっていて、田植えまで手が回らなかった、コシヒカリと違い田植えは遅くても大丈夫な<月の光>と言う品種を植えている、米よりもイチゴの収入の方が、比べ物にならないほど良い、米は後回しになる」などと説明してくれた。農家もいろいろと大変だ。 野、畑、田の小川には水が豊富に流れ、水草がゆっくりと流れにゆれている。魚も泳いでいる。私達の子供の頃はこのような小川で魚を取って遊んだものだ。周りは蛙の大合唱だ。まだまだ自然豊かな田園風景が残っている。昔なつかしい風景だ。 足の裏が痛い割には元気に歩いている。 「鹿沼土」の生産風景が見られるようになる。ビニールハウスの中で乾燥させている。掘ったばかりは湿ったブラウンだが、乾燥させるときれいな黄金色になる。鹿沼は、この鹿沼土を使った「さつき」の栽培が盛んだ。街のいたるところの家で見られる。「鹿沼土」と「さつき」は全国的にも有名だ。またこの鹿沼で特筆すべきものは、今宮神社の秋祭りに出される「山車」である。山車につけられた彫刻がすばらしい。日光東照宮を造営した宮大工の伝統を受け継ぐ掘り物師(?)が腕によりをかけて掘ったと言う。国の重要文化財にも指定されているとのこと。 ホテルにチェックイン。荷物を置いて出かける。ホテルの人に花木センターの「さつき祭り」を進められるが、私の趣旨と違うため、丁重にお断りをする。 <芭蕉の泊まった>といわれる「光太寺」に行く。東武線新鹿沼駅から並行する商店街を日光方面に進み大きな交差点を左に曲がり、古峰ヶ原街道に入り、東武線のガードをくぐって、すぐ左に入り200m程行くと右の丘の中腹にある。庫裡の入り口から入り挨拶をすると、この寺の奥さんらしい人が応対に出てき、いろいろ説明をしてくれる。多くの芭蕉研究者が訪れて来るらしく、近いうちにしっかりした資料を作る予定だという。 街中に戻り、「屋台のまち中央公園」で展示してある屋台を見学。すばらしい彫刻だ。 帰り道、薬局でマキロンを買って帰る。此の薬局の主人も話好きでしばらく怪我の話で盛り上がる。リュックを背負って歩いても、背負っていなくても足の痛さは変わらない。明日は今市までにしよう。日光まで30km弱。歩けないことは無いが、ずーと上りだ。足も万全ではない。今市で泊まることにする。 |
|
曾良日記 | |
スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方二十間バカリ畠中ニ有。にれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。 昼ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ二十八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。 曾良はよく、このように距離の計算をしている。ほぼ正確である。この日は間々田から、鹿沼まで途中「室の八島」に寄りながら歩いている。すばらしい健脚である。 「吉次の塚」は、稲葉の交差点、セブンイレブンの裏辺りにひっそりとたたずんでいるといわれたが、つい通り過ぎてしまった。 |
|
よりみち | |
芭蕉の笠塚 鹿沼で芭蕉達が泊まったといわれる光太寺境内にある。江戸で出発まえ「笠の緒付けかえて」とあるように、古い笠を持ってきたのである。「四月朔日 前夜ヨリ小雨降。」 宿の寺を出るとき小雨が降っており、芭蕉は、古い笠とわらじを寺に残し、新しい笠とわらじを交換して持っていった。寺では後年、芭蕉が亡くなった事を知り、芭蕉の残していった笠を土に埋め塚を築き供養した。 これが「芭蕉の笠塚」と言われるものだ。 鐘つかぬ里何をか春の暮 入逢の鐘もきこえず春の暮 |
|
お休み処 | |
大谷石 宇都宮市大谷町から採掘される石。耐震性、耐火性に優れ、関東大震災でもその優れた性質が証明されている、と言われる。旧帝国ホテルにも使われていたと言う。今でも採掘を行っているが、此の採掘跡がすばらしい。野球場一個入るほどの空間が地下30mにできており、そこではコンサートや美術展が行われる。イベントスペースとして利用されている。幻想的な雰囲気を持った空間である。 鹿沼土とさつき 赤城山の噴火により堆積した、軽石の一種(鹿沼軽石)。栃木県から茨城県まで扇状に広がっている。鹿沼は地価2〜3mのところから採掘されている。最初は残土として捨てていたという。この土がさつきの栽培に最適と言うことがわかり、「鹿沼土とさつき」の栽培が全国的に有名になった。残土がまさに鹿沼土の色の通り黄金色になったのである。シーズンになると、町のいたるところで、丹精こめて育てた自慢のさつきが見られるようになる。 鹿沼の屋台(山車) 鹿沼は、日光東照宮を造営した宮大工が宿営した町であり、またメンテナンスをするため、その宮大工達が住み着いた町と聞いている。 1800年ごろの鹿沼の屋台は「踊り屋台」といい、踊りを見せるための屋台であった。その後、宮大工達が腕に縒りをかけ、競って彫刻を施すようになり、色をつけ、漆を塗りすばらしく絢爛豪華な屋台になった。その後、質素倹約(?)の政令がだされ、彫刻も白木のものにかわっていった、と云われている。 |
|
鹿沼市公式ホームページ 俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム |
|
青田波 わが世を得たりと 鳴く蛙 (遊 旅人) |