遊旅人の旅日記

2003年6月18日(水)晴

郡山から二本松ヘ
今日は、「安積山の花かつみ」「安達ヶ原の黒塚」と芭蕉の足跡をたどる予定だ。
AM5:20出発。駅前で、客待をしている、タクシーの運転手に、安積山に行く道を尋ねる。簡潔明瞭に教えてくれた。都会の町並みを抜け、県道355に出る。旧奥州街道だ。芭蕉が
「此のあたり沼多し」と言っているように今でも「牛が池」「寺池」などの池や、枯れた沼があちこちに見られる。東北線の陸橋を超えると日和田町に入る。「檜皮の宿」である。
7時、安積山公園に到着。こんもりとした小高い丘を中心とした公園だ。芭蕉は
「古今集」の中で、この安積山を歌っている歌の中の「はなかつみ」と言う花を探し廻ったが、知っている人が居なかったといっている。現在は公園の入り口に花壇が作られ、「はなかつみ」が植えられているようだ。私には、どれが「はなかつみ」か解らなかった。曾良日記にある「あさか山有。壱リ塚ノキハ也。」の一里塚がある。安積山を後にしてしばらく歩くと、やはり曾良日記にある「山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。」の高倉を通過。帷子はどこかと、地図で調べると今の地図上では、高倉から南西に約12km程のところに片平町が見つかる。この一帯は、磐梯山からの伏流水があちこちで出ており、良い井戸、良い田があり、良い農作物が取れていたのであろう。


今日は朝から良く晴れ風も無いため暑くなってきた。左手奥(西)はるか遠くに
磐梯山が見える。しばらく歩くと町の中に入る。県道355の標識が無くなってしまった。
のどかな町の中の一軒から金属をたたく音が聞こえてくる。其の家をの中を一人のおばさんが覗きこんでいる。中では、おじいさんが銅版をたたいている。銅版細工をしているのだ。声をかけようと思ったが、無心にたたいていたためやめた。ウインドウの中を見ると、いろいろな細工を施した作品が展示されている。注文先(出荷先)の地名が書いてある。全国から注文を受けているようだ。一枚の銅版からさまざまな作品をたたき出している。すばらしい技術だと思う。しばらく見ていた後、小声でおばさんに、道を聞くと親切に教えてくれた。


11時東北線杉田駅で小休止。駅は休憩をするには最良の場所である。この旅では時々、駅で休憩をしているが、地方に来ると無人駅が多い。この杉田駅も無人駅だ。しかし地元のボランティアの人たちが掃除をし、花壇、植木の手入れをし、トイレもきれいに掃除をしている。当番表や掃除をする箇所のチェックシートがあったりする。
リュックを下ろし、水分を補給しながら休んでいると、一時間に一本の列車が上下、5分違いで入ってくる。電車の入ってきた駅には、短いプラットフォームと小さ駅舎、電柱に架線があり、線路の両側には夏の草が茂っている。周りには、緑の風にそよいでいる田圃が広がり、小山の麓には民家がある。夏の太陽がその風景に降り注いでいる。駅では、数人の人が乗降する。電車が走り去ってしまうと、小鳥のさえずりだけが聞こえる静寂に包まれた、夏の太陽の光の中の風景に戻る。懐かしく、心休まる雰囲気だ。


再び歩き出す。R4になり、ちょっとした峠になる。その峠を下ると二本松の市内に入る。携帯で今夜の宿の場所を確認すると、すぐ近くだ。この二本松市には、菊人形また桜で有名な
「二本松城(霞が城)」がある。その近くだ。標識に従って、R4を左に入る。急な坂道だ。もうすぐだと気を緩めたところに、この急な坂が待っていた。汗びっしょりになりながら、必死に登りきった。坂の頂上から少し下がったところに宿泊場所がある。公共の施設であるが、設備はシティホテルなみで快適だ。宿泊の手続きをし、荷物を事務所に預け、「安達ヶ原」に向かい再度歩く。



安積山の「奥の細道」の碑



安積山の解説版(左)とはなかつみ(右)の案内板



安達が原・真弓山観世寺と正岡子規の句碑


二本松城(霞ヶ城)2005,4撮影



観世寺 鬼婆の岩屋1


観世寺 岩屋と鬼婆供養石


黒塚


智恵子の生家(安達町)
町の中を歩いてゆくと、「亀谷」と言う町名が在る。曾良の言う「二本松の町、奥方ノはずれニ<亀ガヒ>ト云町有」であろう。
商店街の中に、太鼓を作っている店がある。広い店内の土間には沢山の木を刳り貫いた太鼓の胴がならべられている。また天井からは沢山の太鼓に張る皮がつるされている。太鼓を売っている店は東京でも見られるが、作っている店を見るのは初めてだ。
町並みを抜けるとR4に合流する。右方面、阿武隈川と東北線の線路を越すと安達ヶ原に至るとの標識が在る。また道路の右側に
「智恵子の生家・智恵子記念館」の看板が見られる。「智恵子抄」の智恵子である。
まず、安達ヶ原の
「黒塚の岩屋」へと思い、橋を渡る。渡り終えたところに、左 安達ヶ原の案内があり、入ってゆくと、「真弓山・観世寺」が在る。門には「鬼女伝説の霊場 奥州 安達ヶ原 黒塚」と書かれている。


しばらく門の前で佇んでいると、横に小さな茶店があるのに気付く。中にいた親父さんに声をかけると、なにやら古い茶色く変色した小冊子を持って出てきて、観世寺のこと、中にある岩屋、黒塚、鬼婆のことを詳しく小冊子を見ながら説明をしてくれた。それまでは芭蕉が見たという「黒塚の岩屋」を見ればよい、と簡単に考えていたのが、説明を聞いた後は、この
「鬼婆」は物語や伝説ではなく実話だと思い始める。
まず門を入ってすぐ左にある、鬼婆が住んでいたという岩屋を見る。巨大な岩が、積み重なっている、というか組み立てられたという感じだが、鬼婆が住んでいたという1270〜80年前に こんな巨大な岩が組み立てられるはずはない。岩と岩の間に、人間が寝泊りできるくらいの空間がある。鬼婆が住んでいたという場所だ。鬼気迫る岩屋だ。「鬼婆供養の石」というものが在る。また「松尾芭蕉・正岡子規参詣の地」の案内も立っている。本堂で参拝をし資料館に入ると、鬼婆の物語、話に基づく掛け軸、鬼婆が使っていたという道具、歌舞伎などでも演じられているため其の資料など展示されている。鬼婆に同情して資料館を出る。
門を出て少し右に行ったところに、鬼婆を埋めたという
「黒塚」がある。曾良が「右の杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らん」と書いている所である。小さな塚に大きな杉の老木が聳えている。
この
「安達ヶ原の岩屋」に少なからず、感慨を覚え安達ヶ原を後にする。


再び阿武隈川に架かる橋を渡り、
「智恵子の生家」に向かう。R4と別れ、安達町市街に向かい、案内に従って、左右左と歩くと、今は記念館になっている、生家の前に出る。。「米屋」と言う屋号の大きな造り酒屋であり、大変な資産家であったようだ。
道の向かい側でデジカメを構えていると、近くの和菓子やさんから60才がらみの男の人が出てきて、智恵子に関する話をいろいろと聞かせてくれる。この「米屋」の家系、智恵子の生まれた経緯、屋号の由来、資産などの話を聞かせてくれる。一般的に智恵子についての知識は、夫の高村光太郎と結婚した後の話である。今日聞いた話は、智恵子の祖父の話から生い立ちまでの話である。たいへん興味深く聞かせてもらった。


町の中の食堂で夕食をとり、銀行によって、宿に帰る。

今日は、「安達ヶ原」「智恵子の生家」を訪ね、鬼婆の恐ろしい話もあったが、人間の心にも触れた一日であった。
おくの細道
等躬か宅を出て五里計 檜皮(ひはだ)の宿を離れて あさか山有 道よりちかし 此あたり沼多し かつみ刈比も やゝちかふなれは いつれの草を 花かつみとは云そと 人々に尋侍れとも 更知人なし 沼を尋 人にとひ かつみかつみと 尋ありきて日は山の端にかゝりぬ 二本松より右にきれて黒塚の岩屋一見し 福嶋に泊る
曾良日記
五月朔日 天気快晴。日出ノ此、宿ヲ出。壱里半来テ ヒハダノ宿、馬次也。町はずれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱リ塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いずれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、ふしん也。二本松の町、奥方ノはずれニ亀ガヒト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。ソノ向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タゝミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右の杉植し所は鬼ヲウズメシ所成らん、ト別当坊申ス。天台宗也。それヨリ又、右ノ渡ヲ跡へ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリニ本末ノ方ヘ本道ヘ出ル。二本松ヨリ八町ノめヘハニリ余。黒塚ヘかゝりテハ三里余有べし。
おやすみ処
はなかつみ (学名  ひめしゃが < 姫射干/姫著我>)  湿気のある林や斜面に生息。常緑の多年草。葉は剣状。草丈20〜30cm程。4〜5月ごろ直径5〜6cmの白紫色の花をつける。本州から九州にかけ分布する。
上掲の安積山の画像の「はなかつみ」の案内板の足元に、二株ほど(手前に沢山植わっているものではなく)それらしいものが見られる。芭蕉がこの「安積山」を訪れたのは、今の月日に直すと、私が訪れた日とちょうど同じ6月18日になる。「はなかつみの花」が咲くのは4・5月ごろと言うから、「花かつみ」を見つけても、すでに花の咲く時期は終わっていたのだ。
現在「はなかつみ」は郡山市の花に指定されている。

かつみ (まこも  真菰・真薦)イネ科の大形多年草。沼沢に大群落をなし自生。高さ1〜2m、秋、茎頂に50cmの穂を出し、上部に雌花をつける。葉は筵とし、果実と若芽は食用。万葉集に「真菰刈る大野川原の水隠(みこもり)に・・・・・・」と歌われている。

芭蕉は安積山を訪れ
「みちのくの 安積のぬまの 花かつみ かつ見る人に 恋やわたらむ」(古今集)の歌を思い浮かべ「花かつみ」を あさか沼 中心に探したのだ。「安積のぬまの 花かつみ」とあるから当然「此あたり沼多し かつみ刈比も」となり「沼を尋 人にとひ かつみかつみと 尋ありきて」となるが結局見つからなかったのである。
当時から
「かつみ草・花蒋いづれとも知らず、只 あやめ なりといひ、真菰 成といひ、説ゝおほし」と言われ「花かつみ」は不明であったようだ。

「安達ヶ原」「黒塚」「鬼婆」の話は、すでに1000年頃には世に知られていたようだ。
「みちのくの 安達の原の黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」(拾遺和歌集 平 兼盛)があり、1,
200頃には、新古今和歌集にも歌われていると言う。
現在では、歌舞伎、謡曲で演じられている。    悲しくも、恐ろしい話である。
芭蕉は、安達が原について
「黒塚の岩屋一見し」の一言で済ませてしまっている。「無常観の中に風狂の精神を求める」芭蕉にとって、鬼婆の話はあまりにも、人間臭過ぎたのかもしれない。「花かつみ」を探すような、自然に触れる心・精神の方を大事にしたのだろう。
正岡子規はここで句を読んでおり
「涼しさや  聞けば昔は 鬼の家」の句碑がある。
俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム

二本松市公式ホームページ
    鬼婆の 魂宿る 安達が原   (遊 旅人)