遊 旅人の旅日記
芦野から白河へ | |
今日は、「白河の関跡」を訪れる。関東地方と別れ、東北・福島の地に入る。ここからが「奥の細道」だ。心身ともに引き締めてゆこう。芭蕉も「心もとなき日数重るまゝに白河の関にかゝりて旅心定まりぬ」といっている。「ここまで来てようやく長旅をする決心がついた」といっているのである。また古の人たちが、関東の最北、東北の入り口である、この関を超えるにあたって、感慨をこめた歌をそれぞれ残していっている。芭蕉はそのような古人の思いを心に描きながらこの白河の関跡を訪れているのだ。今でも東北と言うと、関東以西を思い浮かべ、また旅をするのと違った、神秘的、未知の世界を思い浮かべ、心を躍らせるのは私だけだろうか。 AM5:25出発。フロントの人が、あまり坂がきつくない道を教えてくれる。R294に出て芦野の町を通り、遊行柳を左手に見ながら北上。 しばらく歩いてゆくと、歩道の植栽の手入れをしている人に声を掛けられる。「国道だから国が管理をしないといけないと思うのだが、木を植えっぱなしで誰も管理をしていない。しかたないからボランティアで自分が手入れをしている」と言う。此の道は小学生の通学路になっているようだ。子供達が楽しめるようにと、木の形が皆いろいろな鳥の形になっている。「お茶でも飲んで行きなさい」と言われ、座敷に招かれ、お茶をご馳走になる。芭蕉、曽良日記、近辺の史跡、町の歴史のことを良く知っている。本職は石工だというが大きな農家でもある。この周辺の道祖神600体ほど作ったという。家の周りを案内してくれ、立派な母屋の大谷石の壁は、自分で組上げたという。私が18年生まれだというと、自分の方が少し兄貴だという。芸術家タイプで、年輪を重ねた、厳しい中にも穏やかな品格のある顔付きをしている。白河の関(旗宿)に行く近道をおしえてくれ、<従ニ位の杉>と言う大きな杉があるから見て行きなさい、と教えられた。また「旗宿」は小さな村落だが、縁あって毎年大相撲の高見山の部屋(東関部屋)が巡業に来ると言う。 お世話になった家からしばらく行き、寄居本郷を右方向、山に入ってゆく。1時間半ほど歩くと旗宿の集落に着く。T字路にぶつかり右に曲がり、少し行くと白河神社がある。前に「白河の関跡」の石柱が建っている。参道を進み石段を登り社殿に参詣。社殿横から裏(奥)に行くと空堀があり其の先は少し高くなっている。そこが「関の跡」と言われる。竪穴式住居、堀立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの遺構、また土器類が発掘されたと案内板に記してある。発掘は昭和34年から5年掛けて行われた。最初ここが「関の跡」だと推定したのは、江戸時代、この白河藩主であった「松平定信」である。発掘は多くの情報に基づいて行われたのであろうが、江戸時代「松平定信」が推定した場所が正しかった、というのもすごい。鎌倉時代の1300年頃にはすでに「関」はなくなっており、定信が藩主を勤めていた1780年代まで500年近く所在が不明であったのだ。定信の考証能力の高さを示している。定信が「関の跡」としたという「古関蹟」の碑がある。 隣に「白河の関森の公園」があるが見ずに、次に歩を進める。此の「旗宿」(ハタノシュク)は名前の通り昔は奥州街道の栄えた宿場町だったようだ。今はその面影はなく宿も一軒もないという。 |
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白河市内方向に歩く。少し歩くと曽良が日記の中で書いている「庄司戻しの桜」がある。今は畑の中ではなく「旗の宿のはずれの道の際」である。小一時間ほど歩き旗宿の集落を抜けると、小さな道標があり、右「関山満願寺入り口・2km」と書いてある。芭蕉も参詣した寺院だ。2kmだったら行こうかと思ったが、雨も少し降り出したため中止。白坂方向に道を進む。 山に囲まれた田圃だけの風景の中をとめどなく歩く。途中小さな集会所でしばし休憩。道を間違えてはいないかと地図を見るが、目印がなくチェックのしようがない。自分を信じてあきらめずに歩いてゆくと、遥か前方に文明の光・信号機が見える。交差点に近づくと、向こう側に学校らしき建物が見える。交差点に「白坂」と書いてある。よし間違いない、今朝、芦野で歩いたR294だ。交差点の角にあったJAの倉庫の前で休み水分の補給をする。 軽トラックでやって来た、中年の女性に、「境の明神」を訊ねると2km程栃木県よりに行ったところだと教えてくれる。 福島県側と栃木県側それぞれに明神がある。両方とも「境の明神」である。文庫本には栃木県側が住吉神社、福島県側が玉津島神社と書いてある。しかし、この栃木県側には境の明神(玉津島神社)と書いてある柱が立っている。文庫本の誤植か?。 福島県側の明神の社の軒先で小休止。雨も上がり日差しが出てきている。周りの緑がすがすがしい。木々を通してくる輝いた緑の光の中を、モンシロチョウがひらひらと舞ってゆく。疲れがいっぺんに体から引いてゆく。何もかも忘れさせる情景だ。 しばらく休んだ後、R294を北上してゆくと、「金売吉次」の墓がある。三人兄弟だったらしく墓が三つ並んでいる。金売吉次と言うと、牛若丸(義経)を京の鞍馬山から奥州平泉の藤原氏に連れ出した人物である。また奥州で取れた砂金を京にもって行き、京の物資、文化を奥州にもたらす交易をした人である。そのような交易の途中、この地で盗賊に襲われ亡くなったと記されている。その墓である。奥州から京までの街道筋では、人々を助けたりした人望の厚い人であったという。 夏の太陽が照り付けてくる。1時間ほど歩くと下り坂になる。1kmほど坂を下ると視界が開け町が見えてくる。R289にぶつかる。左方向、新白河方面である。巨大なショッピングセンターが国道の両側に出現する。東京を出て以来の大都市の風景だ。 ショッピングセンターの建物の入り口のベンチで休んでいると、初老の男の人が来て話しかけてくる。私が歩いて旅をしていると話すと、その人は3年前まで大阪で30年ほどサラリーマンをやっており退職をきっかけに故郷の白河に戻ってきたという。定年後の話、旅行の話、海外勤務の話など、1時間ほど話し、お互いの健康を祈りながら分かれる。 pm4:00新幹線新白河駅前のホテルにチェックインをする。夕方食事に出た帰りに100円ショップで、蛍光ペン、サインペンを買ってくる。 今日は、久しぶりに「人」と話をした。それも朝と晩、2回もである。この10日程は、太陽のエネルギー、大気からのエネルギー、草木からのエネルギーを感じながらただ黙々と歩いてきた。今日、二人の人と会い話をした後、心身、頭脳とも爽快になっている。人間やはり「人」と接触をし、知的、心、感情等の交流をはかるのが心身の健康に良いと感じる。 |
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おくの細道 | |
心もとなき日数 重るまゝに 白河の関にかゝりて 旅心定りぬ いかて みやこへと 便もとめしも 断リなり 中にも此関は 三関の一にして 風騒の人 こゝろをとゝむ 秋風を耳に残し もみちを俤にして 青葉の梢 猶あはれ也 卯の花の白妙に 茨の花の咲そひて 雪にも こゆるこゝちそする 古人 冠をたゝし衣装を改し事なと 清輔の筆にもとゝめ 置れしとそ 卯の花を かさしに関の 晴着哉 曽良 |
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曽良日記 | |
芦野ヨリ一里半余過テ ヨリ居村あり。是ヨリ ハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間二十間計有。両方ノ門前ニ茶や有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町の入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。二十日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中 古土器有。寄妙ニ拝。) 二十一日 霧雨降ル、辰上剋止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関の明神故ニ ニ所ノ席ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。 |
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よりみち | |
白河の関 福島県の太平洋側、茨城県との県境に近くにある「勿来の関」、山形県の日本海側、新潟県との県境にある「念珠の関」とともに奥州三古関の一つ。蝦夷の勢力の南下を防ぐための砦としての役目を担っていたと思われる。5世紀から12世紀頃まで存在し機能していたようだ。 久しく不明で在った所在が、江戸中期、当時、白河藩主であった「松平定信」の考証により、この地が「白河の関」の地であると推定、寛政12年(1,800年)「古関蹟」碑が建てられる。 従ニ位の杉 鎌倉時代初期の歌人・藤原家隆が手植えし奉納したと伝えられる、杉の老木。樹齢800年・周囲およそ5mの巨木。 庄司戻しの桜 1180年源頼朝が鎌倉で挙兵をした際、義経は兄頼朝を応援すべく奥州平泉から軍を引き連れ鎌倉に馳せ参じた。当時福島の豪族であった佐藤庄司基冶は、継信・忠信二人の息子の軍を、義経軍に合流させる為、二人をこの旗宿まで送って来た。そして別れの酒宴を開き、持っていた桜の杖を地面に突き刺し、二人を激励し、義経軍を見送り戻っていった、と言う場所である。今は桜の木に囲まれて碑が立っている。 境の明神 旧陸羽街道現在のR294の福島県と栃木県の県境にそれぞれある。両明神の距離はおよそ30mほど。間が県境である。福島県側の明神はちょうど峠の頂、栃木県側は少し坂を下ったところにある。どちら側から見るかにより明神の名前が変わる。内を守る女神の玉津島明神と外を守る男神の住吉明神である。福島県側から見ると、内側を守るのは女神であるから、福島県側の明神が玉津島明神、栃木県側は外側になり、男神の住吉明神となる。栃木県側から見ると反対になる。 これで、文庫本の記述が誤植でないことがわかった。 |
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お休み処 | |
芭蕉が「白河の関」を訪れた時、「白河の関」は、この陸奥街道また奥州街道の関東から白河藩に入ったところにあった、ということしかわかっていない。定信が「白河の関」を定めたのは、芭蕉から100年以上後になってからである。ただ曽良は日記の中で「古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行」と書いているから、「白河の関」を目指して、旗宿まで行っていることは確かである。白坂から旗宿までは、私の歩いて来た道を反対に歩いている。しかし旗宿に泊まった翌日「町ヨリ西ノ方ニ・住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。」とあり、宿の主人に古関の所在を尋ねたところ、「境の明神」が「古関」と教えられ、また白坂に戻って、明神を参詣したのである。その足で「関山満願寺」に参詣するため、再度、旗宿まで戻ったのである。7〜8kmの道を行ったり来たりしたのである。今でこそ田圃と山しかない風景とはいえ、道路は整備されている。芭蕉はどんな気持ちで同じ道を何度も歩いたのだろう。 金売吉次 奥州平泉の発展に力を尽くした人物であり、義経の生涯に大きく貢献した人物でもある。私は昔読んだ物語のイメージから、金売り(かねうり)と言う言葉から、ずるがしこい人間のイメージを持っていた。しかし実際は、奥州で採掘した砂金をもって京との交易を行い(金商人・かねあきんど)、奥州の繁栄に貢献している。、平泉から京までの街道筋で吉次と縁ある地では、人望があったと、記されている。 義経を京の鞍馬山から奥州の藤原氏まで連れてゆく様は、吉川英治の「新・平家物語」みちのくの巻に 語られている。 |
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俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドッドコム | |
雨上がり 若葉に染まる 紋白蝶 みちのくと 下野分ける 白河の関 (遊 旅人) |